31───────────天使の怒り
「許せない出来事が起こったんです…」
話すユリアの顔は、般若に似ていた。
角川の背筋が凍り付いた。美しい顔立ちの人が、こんな表情になるなんて。
それは、怒りの為せる業。ぶつけどころの無い、激しい激しい、怒りの波。
「女子大生殺人事件の真犯人が、自首したんです!」ユリアが、叫ぶように吐き捨てた。
十年も経って、真犯人が自首してきた。
それを知ったユリアとタケルは、愕然とした。
同時に、怒りが沸々とこみあげてきた。
父親は、本当に無罪だったのだ。
それなのに有罪判決を受け、挙句の果てに母親ともども死んでしまった。
自分たちも、受けなくてもいい嫌がらせを沢山浴びてきた。
それらは、全て警察が犯人を間違えたせい…。
やるせない気持ちが、全身を沸き立たせる。
警察がミスしなければ、父も母も死なずに済んだのに。
今ごろ4人で、一緒に笑いあっていたかも知れないのに。
警察が、全てを奪った。
佐藤家の幸せを、すべて。
底知れない胸の痛み。
怒り。
悲しみ。
それらが頂点に達したとき、姉弟は決めた。
復讐してやる。
警察に、復讐してやる。
復讐して、自分たちの味わった苦しみを、わからせてやる…。
姉弟はたまたま、近所に警察庁長官が住んでいるのを知っていた。
そこで、ユリアは文春誘拐を企てたのだ。
愛する家族を失う苦しみを、警察関係者に知らしめてやりたい。
ただ、その一心で。
一方、弟のタケルは刑事達を壊滅させる方法を思いついた。
逃げ場の無い場所に刑事を閉じ込め、一気に爆弾で殺す作戦。
これなら、殺される刑事だけでなく、残された全ての警察関係者に衝撃を与えられる――!
2人は、早速計画を実行に移す。
タケルは、文春がいつも河川敷で野球をしているのを知っていた。
葦の影に隠れたまま、何日も川で待ち伏せし、誘拐の機会を狙った。
三日前、ついに文春がボールを探して川辺に現れる。タケルは、逃げようと必死に暴れる文春をボートに乗せ、下流の犬小屋に閉じ込めた。
あとは、憎い刑事達を誘き寄せ、一挙に殺すだけだった。
タケルは監視カメラに映らないよう、マンホールを使って街を行き来し、脅迫電話を繰り返した。
オーストラリアでのダイビングの経験が、役立ったことになる。
全ては、思い通りだった。すべてが…。
「あの女刑事が来るまでは」
ユリアが呟いた。
――桐原ヨーコ。
タケルの留守中に彼女が現れた時、ユリアの中で何かが狂った。
『不審なボートを見かけませんでしたか?』
ヨーコは、そう聞いた。
「!」
ユリアはパニックに陥った。
どうして知っているの?
私が誘拐に使ったトリックを。
まさか、全てバレてしまっているの?
心にやましい事を抱えているとき、人はちょっとしたことにも過敏に反応し、追い詰められたと勘違いしてしまうものだ。
ヨーコと出会ったときのユリアが、まさしくそれだった。
―――捕まる。
その恐怖は、ユリアを一瞬のうちに、激しく貫いた。
…捕まらないためには、どうすればいい?
パニックを起こしている頭で、ユリアは考えた。
…殺すしかない。この刑事を。
ユリアは「不審な男を見た」と嘘をつき、ヨーコ達を招き入れた。
紅茶に睡眠薬を入れ、ふらついてきたヨーコを殴る。しかし、山川に手を出すことはできなかった。
彼は睡眠薬入りダージリンを飲まなかったのだ。
覚醒している若い男を、ユリア一人で殺せる筈もなかった。
山川が館を飛び出してから少しして。
ユリアは、とどめを刺そうと、倒れたヨーコのもとに行った。
しかし、そこには既に女刑事の姿はなかった。
窓が開いているところからみると、逃げ出したらしい。
ユリアは、そこでようやくハッと理性を取り戻した。とんでもない過ちを犯したことに気付いたのだ。
これでは刑事達に、自分が犯人であることを教えてしまったようなものだ。
しかし、もうどうすることも出来なかった。
夜のニュースで、井の頭公園での一件と弟の逮捕を知った。
そして先刻、岩波達の訪問を受けたのである。
ユリアは、自分を見失っていた。
そこにあるのは、ただ、憎しみだけ。
一人でも多くの警察関係者を傷つけたい、その想いだけ。
彼女は、角川をも殺そうとした。
しかし、できなかった。
振り下ろしたナイフは、なぜか天窓から侵入してきたヨーコによって止められた…。
「あなた達警察が!」
ユリアが泣き叫んだ。
「私から全てを奪った!家族も、普通の生活も!!」
岩波と角川は、ただユリアを見つめるしかなかった。失われた幸せを憎しみに変えた、女性の姿を。
「私は、あなた達を許さない!!
これから先も、永遠に…」ユリアが、ぐったりと崩れ落ち、小さく鼻を啜った。
「恨んでください」
角川が言った。
ユリアは、泣きながら床ばかりを見ている。
角川は続けた。
「全て、私たちのせいですから。恨まれて当たり前です」
雷が、遠くで鳴った。
「…ただ。これだけは知っておいてください。
あなたに、人を傷つける権利は無い」
「…」
「佐倉長官も、奥さんを亡くしているんです」
角川の声が淡々と響いた。「唯一の家族である文春くんが誘拐された時、どんなに苦しかったか。
…あなたなら、わかるでしょう?」
「…」
ユリアは、無言だった。
収まりきれない怒りが、唇を青く染め、全身はガタガタと震えている。
「あんたには、復讐よりも果たさなきゃなんねぇことがあった筈だ」
岩波が、重い口を開いた。「世間に、冤罪の事実をもっと広く知らしめることだ。そうしたら、第二の佐藤家は生まれなかった。
それに、あの世にいるあんたの父親も救われてたんじゃねぇのか?」
「…そんなこと…」
ユリアが低い声で呟き、ゆらっと立ち上がった。
「刑事になんか、言われたくない…」
雨が、窓ガラスを打った。「父を殺したのは、あなたたち刑事なのよ…!!」
空が、泣きじゃくっている。強く、激しく、叩きつけるように。
まるで、ユリアの心のように…。