21───────────刑事としての正義
舞っているのは、花。
ひらひらと宙を踊る。
儚くも散っていく。
あとから、あとから、美しく…。
「綺麗…」
ぽつりとヨーコが呟いた。彼女の目に映る、花、花、花――燃え盛る炎の、火の粉。
人々の逃げ惑う海から飛び出し、自転車は静寂の中を突き進んでいる。
パチパチと木が音を立てて燃えているが、それすらも空気に染み入って、静かさを作り出した。
霧のように煙が充満している、更にその奥へと走る。赤い火柱は、空をも舐め尽くす勢いだ。
ヨーコはハンカチで鼻と口をしっかり覆っていた。
そうしていないと、この悪質な煙を吸ってしまう。
…刑事たちも犯人も、こんな火の海の中で、生きていられるだろうか?
ヨーコの頭の中を、嫌な予感が駆け抜けた。
「桐原さん」
彼女の心を読んだかのように、山川が呼び掛けた。
「何?」
不安が胸を締め付けてくる。
自転車は小さな炎を飛び越え、いよいよ稲荷に接近していた。
熱気がカッと照りつけ、呼吸が焼け付く。
強いガソリンの臭い。
「あのさ」
山川は、目でヨーコを振り返った。
「何があっても…お前のせいじゃないからな」
「…」
「お前は、刑事失格なんかじゃない…」
ヨーコは、プッと吹き出した。
「何よ、いまさら慰めてるつもりなの?」
「…ちげーよ」
山川は、真っ正面を見つめている。
「本心だよ」
「…」
「失格刑事なら、俺みたいな一般市民を巻き込んでまで事件を解決しようなんて思わねーよ…」
「…誉めてんの?けなしてんの?」
自転車が、キッと強くブレーキをかけられて止まった。
稲荷の丁度目の前に、二人は立っているのだった。
「大体あんた一般市民じゃないじゃない」
炎にチラチラと照らされながら、ヨーコは山川をにらみつける。
「あんたは泥棒でしょっ」山川がニヤッと笑った。
「そうだったな。刑事と行動する泥棒、か」
ヨーコも口元に笑みを浮かべていた。
「あんたも失格。泥棒失格ょっ」
二人は、クスクス笑い合った。
どうしてだろう、とヨーコは思った。
こんなにごうごうと立ち上る炎を目の前にして、本当は怖くてたまらない筈なのに。
どこからか、力が湧いてくるような気がする。
何故?
白かった煙は、だんだんと黒いものに姿を変えつつあった。
「行くぞヨーコ」
山川が彼女を振り向いて言った。
「気やすく言うんじゃないわよ」
頷く代わりに、ヨーコは言い返す。
山川の脚が地面を蹴り、自転車が再び滑りだした。
ヨーコはぎゅうっと山川にしがみつく。
そして。
自転車は炎の海に飛び込んでいった。
*
冷たい。
肺の奥底まで、氷で固められてしまったかのように。全身の感覚が無い。
何も見えない。
何も聞こえない。
ただ、寒い…。
凍てつく無重力の中で、岩波は1人の女性と向き合っていた。
黒いミディアムの髪、腫れぼったいけれど人の良さそうな、涙に濡れた瞳。
『岩波さん』
呼び掛ける声は、確かに彼女のものだった。
『私、これからどうすべきなんでしょうか?』
「知らねーよ」
岩波はイラつきながら答える。
「こっちは今、それどころじゃねぇんだよ!」
『岩波さん』
女性は、岩波の言葉などまるで聞こえなかったかのように続けた。
『私は、どうしたら良いんですか?』
「だから、知らねえって!」
『どうして教えてくれないんですか?私に戻ってくるなって言ったのはあなたなのに』
「麗奈も言っただろう?その位自分で考えろ!」
『どうして』
女性が岩波に詰め寄った。『どうして教えてくれないんですか?』
「いい加減にしろ―――」『私は、ひったくり犯を捕まえようとして、持ち場を離れました。確かに、それは貴方の命令に背く行動だったかも知れません。
けれど、私はもう少しで1人の犯罪者を捕まえることができたんです』
「…」
『ひったくり犯を捕まえることは、どうでもいい事なんですか?
誘拐事件の犯人が捕まれば、ひったくり犯は野放しでも良かったんですか?』
「俺は、そんなこと一言も―――」
『誘拐事件の犯人も、ひったくりの犯人も、同じ。犯罪者です。誰かを傷つけたのは同じ』
「…」
『私は、犯罪者のうちの1人を追ったんです。
結果的には、誘拐犯に逃げられてしまったけれど、私は、刑事として“犯人を捕まえる”という仕事をしていたんです。
事件の重さに関わらず、犯人は捕まえる。
…それが、刑事の正義ではないのですか?』
「それは…」
『答えてください。岩波さん』
「…」
『この世の中の刑事に、正義が無いというなら…』
女性の姿がぼやけた。
岩波は瞬きする。
彼女の姿が、うまく捕らえられない。
女性のぼんやりした、幻のような影は、どこからか銀色に光るナイフを取り出した。
柄を岩波に向けて握る。
…まさか。
「やめろ桐原っ!早まるな!!」
岩波は叫んだ。
必死に彼女の方へ駆け寄ろうとするが、見えない壁に阻まれ、近づけない。
女性は彼に悲しそうな目を向けると、一気にナイフを自分の胸に突き立てた。
「桐原あっ!!!」
血で、目の前が真っ赤に染まる。
まるで、“あの日”のように…。
「岩波さん!」
耳元で大声がした。
寒い。
けれど、妙に熱い。
「岩波さんっ!」
「…角川…?」
岩波は、瞬きした。
ぼやけた女性の像は溶けるように消え去り、現実の光景がゆっくりと岩波の視界に入り込んでくる。
燃える木々、漂う煙。
その中で角川が、自分を覗き込んでいる。
「岩波さん!」
部下が、嬉しそうに岩波を呼んだ。
「よかった。気が付きましたね!」
岩波はもう一度瞬きし、辺りを見回した。
「俺達は…池に落ちたんじゃ…」
「落ちました」
角川が支えてくれたので、岩波はゆっくりと身を起こした。
角川がしゃべり続けた。
「気が付いたら、僕たち桜の枝に引っ掛かって浮いてたんです。なんとか岸まで泳いで、岩波さんを引き上げたんです」
「そ、そうか…」
そういえば、二人ともぐしょ濡れだ。
髪からは雫が滴っている。角川のズボンには、藻がついていた。
「とにかく、無事でよかった」
角川は安心したように笑った。
「心配したんですよ?岩波さん、引き上げてからずっとうわごと言ってたんですから」
「うわごと!?」
「えぇ。どんな夢みてたんですか?最後なんて叫んでましたよ」
岩波はショックでまた気絶しそうになった。
まさか、角川の前でそんな失態をするとは。
「…なんて言ってたか、聞いたんだな?」
脅すように角川をにらみつける。
部下の顔から笑顔が消えた。
「とっ、とんでもない!一言め聞き取れませんでしたよ!」
「本当だろうな?」
ズイッと岩波が詰め寄る。「本当ですってば!」
ビクッと角川がひいた。
岩波はため息をつき、立ち上がった。
あの爆発。
恐らく、誘拐事件の被疑者が引き起こしたものなのだろう。
しかし、あの燃え方。
犯人自身も、危険に曝されていた筈だ。
ましてや、身代金など守り切れるだろうか?
見上げると、高く立ち上る黒煙が見えた。