18───────────正義の味方
「きゃ…っ!!」
ヨーコは思わず声をあげた。
窓の向こう側で、今の今までピッキングしていた人影が立ち上がったからだ。
「しーっ」
山川だった。
彼は、口元に人差し指をあてながら、窓ガラスをスライドさせ、部屋の中に入ってくる。
「声だすなよ」
小さく囁くと、フローリングに転がっているヨーコに歩み寄ってきた。
ヨーコは起き上がろうとした。
山川に上から見下ろされるのは、どうも気に食わない。
しかし、その動作はできなかった。
体に力が入らない…。
「やられたのか?」
小声で、山川が尋ねた。
こくん、とヨーコはうなずく。
それだけで、後頭部を鈍い痛みが襲った。
「動くな」
声をかけると、山川はヨーコの首と腰に手を回し、そっと抱えあげる。
「ちょっと…!」
気やすく触らないで!
驚いて彼を睨むが、山川は全く気にしていない様子だ。
「静かにしてないと、見つかっちまうぞ。ここに住んでるのは立派な犯罪者なんだからな」
「…あんたもでしょ」
「ま、な」
ヨーコをお姫様のように抱えたまま、山川はスルリとベランダに飛び出した。
「どっ…どうするの?」
困惑してヨーコが尋ねる。ここは二階。
桜の木以外に、飛び移れる場所はない。
しかも山川の腕はヨーコでふさがっている。
とても脱出は不可能だ。
花びらが散った。
「心配ご無用」
山川はニッと笑ってみせた。
「逃げ道の無いところに忍び込むようじゃ、泥棒失格だからな」
「でっ、でも…っ」
「行くぞ」
不安がるヨーコを抱いたまま、山川はベランダの柵に足をかけた。
「まさか…っ!」
ヨーコはギョッとして山川を見上げる。
「ねぇ、あんたひょっとして…」
山川は笑うだけだった。
彼の体はひょいっと柵の上に持ち上がる。
あっという間に、泥棒はベランダの細い柵の上に直立した。
「いゃっ!!」
ヨーコが金切り声をあげる。
眼下には陽にきらめく芝生、そして天使の噴水。
落ちたら、ただでは済まない…!!
「やめて!やめてっ、降ろしてぇっ!!」
「だから今降りようとしてんじゃん」
「違ううっ!飛び降りるなんて嫌ぁ!!」
「ずいぶん気の小さい刑事サンだなぁ、おい」
山川の声は完全に楽しんでいた。
「ま、失格刑事だもんなっ」
ヨーコが反論する暇もなかった。
山川の足が、ベランダの手摺りを強く蹴った。
2人の身体は完全に宙に浮き…
「いやあぁぁぁっ!!!」落ちていった。
ユリアは、落ち着いた足取りで二階への螺旋階段をあがっていた。
残念なことに、山川は取り逃がした。
しかし、女刑事は彼女の手のなかにある。
ユリアの清楚な顔に、残忍な表情が浮かんでいた。
…殺してやる…。
その感情は、強く激しく、彼女を突き上げた。
苦しくなるほどだった。
…殺してやる…。
螺旋階段を登りきり、鉄のドアに向かう。
決して、内側からは開かないドアだ。
彼女は、後ろ手に持っていた太いロープを一瞬見やった。
さっきの紅茶には、睡眠薬が入っていた。
山川は飲まなかったが、桐原ヨーコは飲み干した。
たとえ彼女が殴られたショックから回復したとしても、薬の効果はまだ持続しているはずだ。
か弱いユリアでも、たやすく絞め殺せるだろう。
ユリアは、ドアを開ける前に一つ深呼吸して、高ぶる気持ちを落ち着けた。
自分は、今から人を殺す。罪を犯す。
もし捕まってしまえば、監獄行きは免れられない。
それでも、殺さなければならない。
あの子を、守りたいから…。
ユリアは、体当たりするかのようにドアにぶつかっていった。
鉄のドアがバーンと開く。そして、
そこには、
誰もいなかった。
「ここまで来れば、もう安心だろ」
山川が言った。
プリンになってしまっている茶色い髪を風に逆立て、呑気な笑いを口元に浮かべて。
ヨーコは、ただ疲れ切って汚らしいドラム缶にもたれていた。
…ここは、川から1キロ程離れた廃材置場。
黒いどろどろの染みがあちらこちらに見える。
ひしゃげたトラックは、毛羽立った古タイヤの山に乗り上げている。
自転車のスクラップ、引っ繰り返った冷蔵庫やブラウン管テレビ。
二度と使われることのないだろう廃材たちは皆、午後の日差しを受けてキラキラと輝いていた。
「怪我は?」
山川がヨーコを見つめた。ヨーコは力なく首を横に振る。
「殴られたトコが、痛いだけ…。」
「眩暈は?吐き気とかはする?」
「大丈夫…」
答える声に、元気は無かった。
生まれて初めて、死に直面した。
ヨーコの脳裏には、ユリアのぼやけた姿が、はっきりと影を落としている。
あの目。
怖かった。
ただ、ひたすら、ヨーコは怖くてたまらなかった。
2人が宙に飛び出した、あの時。
ヨーコはあまりの恐ろしさに、ぎゅっと目をつぶった。
…落ちる!!
地面に叩きつけられる衝撃と痛みを覚悟し、一瞬のうちに身をキュッと縮める。それでも、決して山川に抱きつきはしなかった。
それだけは、わずかに残されたヨーコのプライドが許さない。
しかし、山川はふわ、と地面に着地した。
まるで、飛んでいた紋白蝶が花びらにとまったかのような、そんな軽やかさで。彼は、ヨーコを抱いたまま、天使の、いや悪魔の館の裏塀をも飛び越えた。
軽々と、風になって飛んだ。
そして、この廃材置場まで、人目を避け、裏道や細い路地を駆け抜けてやってきたのだった。
廃材に反射する光が眩しくて、ヨーコは目を閉じた。ユリアは、恐らく今回の事件に何らかの関係がある。もしかしたら、文春はあの館に閉じ込められているかも知れない。
今すぐ、岩波達に知らせなければ…と思う。
しかし、彼女は連絡できなかった。
…もし、違っていたら?
もし間違った情報を流して、身代金受け渡しに支障が出たら?
それを思うと、ヨーコは動けないのだ。
二回目のミスは、許されない。
ヨーコはそれを痛感していた。
自分の立場が危ういからではない。
文春の身を案じるからだった。
犯罪者に襲われるのがどんなに恐ろしいか、ヨーコは身をもって知った。
あの恐怖を、幼い文春に与えてはならない。
一刻も早く、彼を救わなければならない。
そのためには、もう自分勝手な振る舞いをする訳にはいかないのだ。
ヨーコはうっすら目を開け、空を仰いで立つ山川を見つめた。
彼も犯罪者だ。
けれど、彼も今こうして、文春救出の為に動いている人間だ。
本当なら、彼が関わらなくてもいい事なのに。
ヨーコのミスの一因となってしまった、それだけの理由で、危険に首を突っ込んでいる。
ユリアや被疑者に見つかるかもしれなかった。
殺されるかもしれなかった。
ヨーコに逮捕されるかもしれなかった。
それなのに、彼は、今こうしてここにいる。
ヨーコは、両手で顔を覆った。
それに比べて、私は…。
刑事としてのプライド。
自分の立場。
それが全てだった。
それしか考えられなかった。
『刑事さんになりたい!』小さい頃から憧れていた夢。
どうして、どうして刑事になりたかったの?
町を守ってる警察官が、かっこよかったからでしょう?
私も、正義の味方になりたいって、思ったからでしょう?
私は、それを叶えたはずだった。
でも、今の私は…。
全然、かっこよくなんかない。
無様だ。
山川に頼ってるからじゃない。
犯罪者と手を組んでるからじゃない。
自分の為に、事件を解決しようとしてたから。
被害者のことはお構いなしだったから…。
「かっこわるい…」
太陽が、呟いたヨーコの上に降り注いだ。
どこからか、花びらが舞った。