episode1 1───────────事件の始まり
…どうして。
どうしてそんな事が出来るの??
私は、彼の細かく動き回る指先から目を離せずにいた。
ヘアピンの青い光。
彼の動き。
その一つ一つが扉の封印を解き放っていく。
ガチッと音がして、扉が少しだけ開いた。
「…できた」
彼はニッと笑った。 不思議な、表情だった。
「行こうか。ヨーコ」
*
コンクリートだらけの、灰色の街。春の朝の冷たい空気に、淀んだ雨が降る。
黒いレシーバーを濡らさないように気を付けながら、桐原ヨーコは傘を持ちなおした。
たまに吹き付けてくる風のせいで、卸したてのスーツからは雨の珠が滴っている。
手は寒さにかじかみ、感覚が無くなりそうだ。
ここは、吉祥寺本町署近くの大通り。朝なので人も車も、ほとんど通らない。信号だけが、赤から青へ、青から赤へと虚しく色を変える。
シャッターを下ろしたデパートの前の歩道に立つヨーコは、通りの向かい側にある電話ボックスを見つめていた。黄緑の公衆電話は、携帯電話の普及によってだんだんその姿を消しつつある。ヨーコが見つめるボックスも、利用する人が減ったせいか、何だかくたびれて見えた。
『いいか、ぬかるなよ!』
イヤホンが破裂するのではないかと思うほどの大声が響く。
『もうすぐ予告の時間だ!取り逃がしたら承知せんぞっ、いいな!!』
何の脅しよ、岩波さん…。
上司に呆れてため息をつくと、ヨーコは改めて通りの向かい側を見つめた。
ガラスにヒビが入った電話ボックス。中に誰かがいる気配はない。
「はぁ…」
ここに、被疑者が現れる可能性は殆どない。
何しろ、警察署から100メートルも離れていないのだから。
こんなこと早く終わらせて、帰りたい。
お風呂に入ってあったまって、ゆっくり熱い紅茶でも飲んで…
あ、この間課長に貰ったジンジャークッキーを食べるってのも良いな。
スパイスが効いてて、美味しかった。
そんな事をぼんやり考えながら、ヨーコは鼻をすすった。
何気なくシルバーの腕時計に目をやる。
午前5時42分。
もうすぐだ…。
ズルッ。
不意にショルダーバッグが下がった。
「はぁ…」
面倒臭そうにため息をつく。
傘を持ちながらバッグを元の位置まで戻すのは、けっこう大変だ。
ヨーコは、電話ボックスから目を離さないまま、バッグの持ち手を探して右肘の辺りをまさぐった。
『被疑者から着電!!全捜査員、公衆電話を重視!!』
イヤホンから岩波の喝が聞こえる。署内にいるであろう他の刑事達がワサワサと慌ただしく動く音も交じってヨーコに届いた。
ヨーコは、何とかバッグの持ち手を掴み、グッと引き上げた。
イヤホンの奥から、捜査員が受話器を取り上げた音がした。
『…もしもし』
ヨーコはイラついていた。いくら持ち手を引っ張っても、やけに重いカバンが、なかなか上がってこないのだ。
『…警察か?』
犯人のものらしき声。
変声機を使っているのか、異様に低い。
まだ、カバンを持ち上げられない。
スーツにでもひっかかったのだろうか?
ヨーコはキッとなってカバンに目を落とした。
警察署の一室に、刑事達が群がっている。
巨大なスピーカーから、犯人の声が響きわたった。
『身代金の件なんだけどょお。
5000万で良いってことにしてやるよ』
チャラチャラした口調だ。「ご…せんまん!?」
刑事に囲まれ、受話器を握っていた女性捜査員が驚いた声を上げた。
メモをとったりしていた周りの刑事達も、息を呑む。『うん、5000万ね。警察庁長官の息子が人質なんだから、コレくらい大丈夫っしょー?ねぇ、刑事サン』
「!!」ヨーコは動けないままでいた。
いくら引っ張っても持ち上がらなかったショルダーバッグ。
目を落としてみると、バッグに自分以外の手がかかっていたのだ。
…男の手。
その手が、驚いて硬直したヨーコから、素早くバッグを奪いとった!!
『用意できないのぉ??5000万』
犯人の声は、楽しそうに漏れてくる。
『警察って以外にビンボーなんだぁ』
「…んだとコラァ!?」
ひときわ体格のデカい刑事が、受話器を捜査員から奪いとった。
「もういっぺん言ってみろ!!」
「いっ、岩波さん、落ち着いて…!」
周りの刑事達が、慌ててなだめる。誰かが取り落としたらしい書類の山が、バラバラと床のカーペットの上に舞い広がった。
『明日の午後4時、井の頭公園内の稲荷に持って来い。じゃないと…』
岩波は黙って受話器を握り締めた。
『人質殺しちゃうかもょぉ…』
ショルダーバッグが、完全に肩から離れた。
ヨーコは唖然として、ただバッグを掴んだ男を見つめる。
黒のミリタリーコート、茶色のサングラス…
「…バッグ」
ヨーコは擦れた声を絞りだした。
「返してください」雨が傘から流れて散る。
男は、全身から水を滴らせながらバッグを抱えた。
「聞こえないんですか?」ヨーコの声が震える。
「返してください!!」
男の口元が、微かに上がった。
次の瞬間、男は猛然と走りだした。
ブツッ。
ツー、ツー、ツー…
電話が切れた。
岩波は震えながら受話器を耳から離す。
ガシャーン!!
凄まじい音と共に、受話器が電話に叩きつけられた。「岩波さん!!電話、壊れちゃいますぅ!」
女性捜査員が慌てて叫ぶ。「知るか!そんなこと」
岩波は吐き捨てるように言った。
「5千万だぁ?そんぐらい用意してやろうじゃねえか。ナメてんじゃねぇ、警察を!!」
はっきり言って、犯人よりガラが悪い。
「長官の息子を殺すだあ?百億年早いんだよっ!!」刑事たちは、どうして良いかわからない。
互いに顔を見合わせた。
「…ふみはる…」
ふいに、奥から弱々しい声がした。
刑事たちはハッとして声の主―――警察庁長官を見つめた。
椅子に力なく座り、両手に顔を埋めている。
「佐倉長官」
女性捜査員が、床に落ちた書類の山を何とか避けながら、彼に歩み寄った。
「文春くんは、私達が必ず救出します。しっかりして下さい」
「筑摩くん…ありがとう」佐倉長官は、筑摩と呼ばれた女性捜査員に、少しだけ笑いかけた。
「そうだな。私が頑張らなければ。文春の方が辛い思いをしているのだから…」「我らにお任せを」
岩波が静かに言った。
その時。
「逆探知できました!!」長髪の刑事が叫んだ。
「ナニ!?」
刑事たちは一斉にパソコンの周りに集まる。あまりに急きこんで駆け付けた刑事などは、躓いてドサアッと倒れ、他の刑事達を突いて“ドミノ倒し状態”を生み出した。
ブワッ、と書類の山が再び舞い上がり、無秩序にはらはらと床に落ちる。
「おいおい。落ち着いてくれよ?」
長髪刑事は呟くと、キーボードを軽やかに叩いた。
壁にかけられた巨大なスクリーンに、吉祥寺の街の地図が現れる。
「今回も、公衆電話からの着電でした。場所は…」
彼の指が、再度キーボード上を走る。
ピコピコッと音がして、スクリーンに映された地図がぐぐっと拡大された。
「武蔵野市吉祥寺本町…ここのすぐ近くですね」
「高橋、よくやった。そこに配置されてる捜査員は?!」
岩波が咳き込むように尋ねる。
「えぇと…」
高橋が長髪を掻き上げた。思わず苦笑いする。
「桐原ヨーコ。新人です…」




