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葉蔵と僕【人間失格】

作者: なつ

この後に展開せられる文章は、僕と主人公である葉蔵との共通点についてが主だ。僕に個人的な体験の述懐も含まれ、とても真面目とは程遠い文章である。それでも良いと思はれた、一寸奇を衒つた文をお好みの諸君は、だうぞそのまま…

「人間失格」といふ作品の著名さは、太宰治の作品の中で随一と言つて良い。


これは人を信ずることのできない悲しい男の半生だ。まず、幼年時代つまり「第一の手記」から始まる。何故三回飯を食ふのか、わからないと葉蔵は言ふ。僕もさう思つたことはある。しかし、それは大抵、空腹かそうでないかが分岐点であつて、その他のことは検討に入らないことが殆どだと思はれる。だが、彼は空腹を感じられたことはないと断定するのだ。可笑しな話だ。それよりも彼の中では重要視し得るものがあつたといふことになる。それは、食事の風景そのものであつた。彼の家は田舎の大家であり、特に珍しいものも出ず、ただ黙黙と一家全員で食べるのだつた。これには共感がある。僕の家も一家四人でただ淡淡と食べ、BSのニュース番組が虚ろに響くだけだ。生命を維持するだけ。そんな感じだ。しかし、それでも彼の空腹を感ずることのできない理由はまだ納得が行かない。確かに、前述した選択肢のうち、NOと判定することも多多ある。例えば、作品にもある学校帰りであつたり、昼食の時間、夕飯時など、三回のうち必ず一回は、「今は欲していないな」といふ日のはうが多い。


しかし、そんな僕でも身体の奥底から、食物を欲することがあつた。僕はネグレクトを受けたことがあつた。つまり食物を一時与えられなかつた。機掛は些細なことであつた。細かいこと過ぎて、覚えてなんかいやしない。僕の中には辛い記憶だけが残る。末には、ベランダに放り出されたこともあつた。玄関の外に何時間か冷たい風に晒されたこともあつた。空腹との戦いの末、父親に詰め寄られ、裸足で土間に立たされ、罵詈雑言を浴び、自分の体がぐらりと傾いたのを覚えてゐる。三文芝居だと罵られた。結果僕は床が汚れるからと言はれて四つん這いといふ屈辱的な格好で風呂場に連れて行かれ、何日か振りの御飯にありつけたのだ。如何なる理由があらうと、許されることではない。


葉蔵は何日か振りの食事にやつとのことでありつけた経験はあるのだらうか。


僕は皆無であると思ふ。何故なら、彼の家はとても裕福で、(だからと言つて僕の家が困窮していたといふ訳ではない)いくら末弟であつたとしても、毎日の食事は用意されてゐたはずだ。彼は「そんな馬鹿な意味ではなく」と否定してはゐるが。食物を与えられるか否かに関わらず、空腹を感じ得なかつたとすれば、それは羨ましい限りである。僕の様な経験をせずに済むのだから。


その一方で、葉蔵はどの様な虐待を受けたかと言へば、性的虐待だ。


その頃、既に自分は、女中や下男から、哀しい事を教えられ、犯されていました。幼少の者に対して、そのような事を行うのは、人間の行い得る犯罪の中で最も醜悪で下等で、残酷な犯罪だと、自分はいまでは思っています。


『人間失格』

僕や葉蔵の様に幼少期に何らかの虐待を受けた者は、後年、人格に異常が出て来る場合が多いそうだ。僕の場合、前に挙げた虐待に加へ、馬乗りになつて殴られたり、蹴られたりといふ様な身体的虐待もあつた。(愛故の暴力であつた) それらが僕の少年期に少なからぬ影響を齎した。葉蔵も又、同様だつた。


人間への不信がこの作品の大きなテエマの一つだ。僕だつて家族や友人を、心の裏まで信じ切つてゐるかと言へば、そうではない。殊に両親の言つてゐることは到底理解し難い。僕が他人に汚い言葉を吐いた時、彼らに、〝あなたはそんな子じゃなかつた〟とまで言はれてしまつた。誰のせいであらうか!僕は発狂しそうになつた。人格の変革が、起き始めてゐるかも知れない。僕はもつと明るく、心優しく、笑顔の絶えない、そして人を笑はすことのできる少年であつたらしい。


それは、「道化」に相違なかつた。


僕は小学校の頃、「道化」に走つてゐた。それが自分の中での最大かつ最強の保身術であつたからに過ぎない。唯、にこにこして相手の言ふことを聞いてさへゐれば、僕は救はれるのだから。「万世一系の人間の『真理』」だと捉へてゐた。さう考へても何ら不思議ではない程、僕は従順だつた。


おもしろいことがあれば、ケタケタと笑ひ、滑稽なことを思い附いたときには、それを透かさず友人や家族に言つて、笑はせてきた。当時は本当におもしろくて言つてゐたのかも知れない。しかし、今振り返れば、空虚なものでしかない。そんな自分は、もうここにはゐなかつた。


学校では、僕は所謂「できる」生徒だつた。「優等生」になることに奮闘し、演じてゐた。小学校の筆記テストでは勿論、百点を取るように例の両親から告げられてゐたし、〝後藤君は、勉強ができるから〟と担任の先生からも一目置かれる存在となつてしまつた。そこには洩れなく「尊敬」といふものが附いて回る。僕はそれが嫌だつた。辛くて堪らなかつた。〝あなただつたら余裕よね〟といふ様な態度で接せられた。僕は〝普通の生徒〟になりたかつた。この頃から、「〝普通〟とは何だらう」とか、「〝幸せ〟とは何だらう」と考へる様になつた。しかし、僕は尚お道化た。得意気になつてゐるふりをした。鼻高高に両親に報告したこともあつた。そんなことが重なりすぎて、どちらが本当の自分だかわからなくなつてしまつてゐた。


葉蔵も又、学校では「尊敬され」てゐたらしい。長い間の家での療養の後、病み上がりの体で学年末試験を受けた結果、クラスで一番だつたのだから驚きだ。その尊敬は、葉蔵を怯えさせるものでもあつた。彼には他人を騙してゐる意識があつた。そして、「或るひとりの全知全能の者に見破られ、(略)死ぬる以上の赤恥をかかせられる」と吐露する。「全知全能の者」と聞くとキリストを思い浮かべる方もをられるのだらうが、実は、太宰氏の作品には、聖書に関する記述が多いことで知られてゐる。又、「人間失格」の構造そのものが聖書と酷似してゐると指摘する識者もゐて、興味深い。この様に或る種の「原罪」から逃避する為の方術としての「道化」も考へ得るのかも知れない。


葉蔵はだうお道化てゐたのだらう。授業中に漫画等を描いて、休み時間にクラスメエトに説明して笑はせたり、作文には滑稽な話ばかりを書いて先生たちを笑はせてゐた。その内容も又シユールで、電車内の痰壺に小水をわざとしてしまうといふものだ。それも子供の無邪気さを計算済で、自分がだう見られ、だう表現すれば一番笑はせられるのかを年少のうちから心得てゐたとは感服せられる。何故彼はこの様な行動に出るのか。かう作中にある。


それは、自分の、人間に対する最後の求愛でした。自分は、人間を極度に恐れていながら、それでいて、人間を、どうしても思い切れなかったらしいのです。そうして自分は、この道化の一線でわずかに人間につながる事が出来たのでした。


『人間失格』

何でもいいから、笑わせておればいいのだ、そうすると、人間たちは、自分が彼等の所謂『生活』の外にいても、あまりそれを気にしないのではないかしら、とにかく、彼等人間たちの目障りになってはいけない、自分は無だ、風だ、空だ、というような思いばかりが募り、自分はお道化に依って家族を笑わせ、また、家族よりも、もっと不可解でおそろしい下男や下女にまで、必死のお道化のサーヴィスをしたのです。


『人間失格』

自分が他者との決定的な違いに愕然としても、彼等との繫がりは切り離せなかつた。自分のもつ〝禍い〟を封印し、無にした上で演ずる。さうすることで何とか生き残らうとしたことが窺へる。


僕も葉蔵の様にお茶目に見られる努力をした。気の合ふ仲間で徒党を組み、十歳の頃、当時仲間内で流行つてゐた「ランランルー」といふ呪文をクラス中で触れ込み回るといふ行動に出た。変人である。しかし、この作戦は大成功であつた。僕は「剽軽者」といふ烙印を押された。だが、葉蔵の様にクラス全員からさう認定された訳ではなかつた。当然だ。変人であるのだから、嫌われることもあつた。寧ろそちらのはうが何処か心地良かつたのかも知れない。


普通であることとは?幸せとは?当たり前とは?彼等は易易と此れ等の言葉を使いこなす。僕にはわからない。中学生になり、思春期に突入し、考へ始めた。葉蔵の言ふ様に、「自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっている」のではないかとさへ思ふ様になつた。両親の言ふことをさへ聞いてゐれば、僕は幸せなのか?幸せになれるのか?現に彼等は幸せになれると言ふ。丸きり宗教である。それをするだけで、欲しいものを買つてやると彼等は言ふ。僕の欲しいものは金でどうこう出来得るものではない。〝幸福〟を金で買ふことはできない。〝信頼〟も又然り。


僕の演じてゐる役がもう一つあつたことを思い出した。それは「半可通」である。何でも彼んでも知つた様な口を利いてしまう。ここらで「第二の手記」に入るのだらう。先程の「道化」は誰かに見破られたり、真相を突き止められることはなかつた(と信じたい)。それは真に楽しんでゐただけかも知れないし、「仮面」が顔と一体と化したのかも知れない。しかし、今度は事情が異なつた。「嘘つき」呼ばはりされないか。気が気でなかつた。或る人は自分を「物知り」と評してくれるが、何時それが百八十度変わつてしまうのか、内心怯えながら、〝知識〟を披露してゐた。これは若しかすると自分の自信の無さかも知れない。しかし、怖い。詳らかになりかけたことがある。相手の不要の気遣いからか、明言はされなかつた。その時の動悸と脂汗と言つたら!僕は不安と恐怖に押し潰されさうになつた。


葉蔵も同じ様な体験をしてゐる。竹一との出会だ。彼の道化の皮が剥がされたのだ。「世界が一瞬にして地獄の業火に包まれ」たさうだ。彼の「道化」と僕の「半可通」は何処か同じ一つの場所で収斂してゐる気がしてならない。兎に角、この大庭葉蔵と僕の思考は如何やら似通つた所が多いらしい。幼い頃の深い傷を抱えながら、世の中の不条理や葛藤、人間への不信と闘つてゐる葉蔵にはとても感銘を受けた。ここでは敢えて触れなかつたが、他にも人間の醜さや綺麗な心をもつ女性、それ故の災難等、この小説にはあらゆる人間の姿と社会問題が在り〳〵と刻印せられてゐる。


僕は今迄自身のことを何度も〝人間失格〟だと思い込んできた。それは時期尚早だつた。脳病院に収容されるその時迄、取つて置かうと思ふ。

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