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セレブラム  作者: げのむ
9/11

セレブラム 第九話


 戸波は、帰る道すがら、恋人の女性に言われたことを、ずっと考え続けた。

 賃貸マンションの自室に帰ってからも、夕食もとらずに布団に入って、女性に告げられたことを、ずっと考え続けた。

 これまでいっぺんも覚えたことがない。得体が知れない恐怖と不安が、胸中でぐるぐるとめぐっている。 

 そのせいで、疲れきっているのに、寝入ることができない。

 だから、翌日は。疲労困憊して、睡眠不足という。ひどい状態で、出社することになった。

 からだが重い。アタマが痛い。目の前が、チカチカと明滅している。

 戸波は、会社にやってくると、いつものように、社内に用意された、仕事部屋にこもる。

 そして、部屋に運んである紙の書類や、ノートパソコンに送信された報告書のファイルなどの。認知症の新薬開発にかかわるさまざまな書類に目を通す作業にとりかかる。

 ところが、いつもやっていることなのに、それがこなせない。なにを読んでも、内容がアタマに入ってこない。

 モニターにならぶ文字列も、紙の書類に印字された文字列も、意味をくみとれない。

 仕事に集中しようとするたびに。自分はなにか、得体が知れない目的に利用されているんじゃないか。これもすべて、仕組まれたことなんじゃないか。

 そんな疑惑が、胸中にムクムクとわきあがってくる。その疑惑が、仕事に没頭するのをさまたげる。

 戸波の頭脳は。昨日に女性から告げられたことばかりを考えてしまう。

 我慢ができなくなって、立ちあがると。戸波は、仕事部屋から逃げだすように。この疑問に答えてくれる相手がいる、その場所へとむかう。


 行ってみると、開発室では。認知症の治療薬の開発にたずさわるスタッフたちが、いつもとかわらずに、いそがしく働いている。

 ところがだ。ふだんから通っている、見なれて親しんだ場所なのに。まるで見知らぬ場所にやってきたように。なぜだか、居心地が悪い。どうもおちつかない。

 特にだ。開発室に来ると、どうしても目に入る。実験用の脳モデルが収納されたケースから、目を離せない。

 ちょうど、いまも。投薬後の試薬の効果を調べるために。試料にするための細胞片を、脳モデルから採取しているところだった。

 職員が、柄が長いスプーンのような道具を手にもって。ドロリとした粘性がある循環液に沈んでいる、グロテスクなかたちをした灰白色の物体の表面を、その道具で、こそいで、削っている。

 昨日までは、なんてことない光景だった。ところが、今日は。その場面に遭遇して、作業の様子を目撃したとたんに。戸波の咽喉もとにまで、すっぱいものがこみあげてくる。

 戸波は、思わず顔をそむけてしまい、吐き気をこらえる。

 そこにちょうど、同僚が、いつものようにやってくる。

 同僚は、脳モデルを見ないようにしている、青い顔をした戸波の様子に気付くと。

 ふりかえって、脳モデルを見てから。戸波の様子を再確認して。それから、不思議そうにたずねる。

「いったい、どうしました? 脳モデルの投薬実験を見て、気分を悪くするなんて、いままでなかったのに。なにか、あったんですか?」

 同僚からそう問われて。戸波は思わず、昨日に恋人の女性から言われたことを、ついつい語りだす。

「君にきいてもらいたいことがあるんだ。といっても、どのように話したらいいのか、サッパリわからないんだよ。じつはね……」

 本心を言えば。戸波は、同僚に。そんなバカなことがあるわけないじゃないですか、と笑いとばして欲しかった。

 昨日から胸中にいすわっている、得体が知れない不安を。そんなことがあるわけないじゃないですか、と否定して欲しかった。

 同僚は。戸波の話をきくと。それが、あたり前の反応だが。あきれたような、困ったような、そんな顔になる。

 それでも、戸波の気持ちをくみとったのだろう。自分の返答を待っている戸波に、同僚は次のようにかえす。

「戸波さんのプライベートに、私がよけいなくちをはさむべきじゃない、とは思いますけどね。私に言わせてもらえば。その人は、戸波さんをダマそうとしている、と思いますよ?

 いいですか。よく考えてみてください。そんな、とんでもない技術が。私たちがいる、この世界の。いったいどこにある、っていうんですか?

 おびえる前に。まずは戸波さんがきかされた、その事実が。本当に実現できるものかどうか。それを冷静に検証してみてください。

 たとえば、ですよ。脳モデルに、外部からニセの情報を送り込むなんて、どうやるんですか?

 ニセの五感の情報をつくる、というのも、そうです。それを、脳幹につながる中枢神経から、大脳に送り込むなんて。そんな技術は、世界中をさがしたって、どこにもありません。

 その人が、なにを目的に、戸波さんに、そんな話をしたのかは、わかりませんが。私から言わせてもらえば、その話は。内容を衝撃的にするために。現実感に欠けていて。信憑性がありません。

 その人が、そんな話をした目的は。きっと、戸波さんを不安にさせて。こわがらせるためです。そうして、戸波さんをダマそうとしたんでしょう。私としては。相手をダマすのなら。語るべき内容を、もう少し吟味するべきだった、と思いますけどね」

「それじゃ、君は。昨日に、ぼくがきかされた話は、つくりごとだった、と。そういうのかい?」

 戸波が、すがるような表情で、そうきいてくるのに。同僚はため息でかえすと、あらためて、このように問う。

「もう一度、同じ質問をしますよ。そんな、現実離れした超技術が。私たちがいる、この世界の。どこにある、っていうんですか?

 その人が言っていた。脳モデルに、ニセの情報をあたえて。なにかのシミュレーターに使う、ってやつも、そうです。本当に、そんなことができる、と思いますか?」

 そう問われて、戸波は、同僚に、弱々しくかえす。

「いつもなら、できない、と即答していたはずだ。でもね。正直にいうと、よくわからなくなっているんだよ。もしかしたら、と考えてしまうんだよ」

 戸波の、不安に満ちた表情をまのあたりにして、これは重症だ、と察したのだろう。同僚は、さらに次のように、追加の説明を始める。

「私も、うろ覚えなんですが。脳モデルは、アルツハイマー病患者の、大脳の神経細胞を増殖して、つくりだした、実験用のツールだったはずです。見ての通り、いちおうはヒトの脳のかたちをとっていますが。あのなかでは、ヒトの脳と同じ活動は行われていない。

 感情や情動の発露は生じていないし。思考や記憶の回想といったものも行われていない。だから、そんな目的には使えるわけがないんですよ」

「でも大脳は、思考するための器官なのだし。万が一という可能性も、あるんじゃないのかい? その可能性が絶対にない、とは。言いきれないんじゃないかい?」

 戸波がそう言ってくいさがると。同僚は、もう一度、ため息をついてから。肩をすくめて、こうかえす。

「脳モデルは、大きくわけて、大脳、小脳、脳幹のパーツからなっていて。そのうちの、大脳皮質の部分は、百四十億個あまりの細胞でできています。

 その内部では、神経細胞と神経細胞とのあいだに、神経線維という糸のようなものが。地中で植物が縦横無尽に根をはりめぐらせるように、大脳ぜんたいにのびてひろがっている。大量の神経線維が、密集をして、からまりあっている。これはヒトの脳内でも同じです。脳モデルの内部にも、神経細胞同士を結びつける、ぼう大な数の神経線維のネットワークが生まれている」

「だったら。そこでヒトの脳内と同じことが起きていても、おかしくはないんじゃないかい?」

「ですがね。脳モデルにできた神経細胞には、なにも記憶されていない。なにも書きこまれていないんですよ。

 たしかに、脳モデル内の細胞は、生きて活動はしています。細胞の活動にあわせて、神経細胞のネットワークで、なんらかの活動が生じていることでしょう。でもヒトの大脳内で起きているのと同じことは、そこでは起きていない。

 脳があっても、そこにはなにも記録されていなんですから、なにも考えることはできない。原始的な欲求や衝動は生まれても、そこでおしまいです。

 そして、あの脳モデルを見てください。見ればわかりますが。あれも生きてはいますが。外からなにも記憶を得ることができないので、それ以上の活動はできないでいる。

 もしかすると、あのなかにできた神経ネットワークのなかで。ヒトの脳内の活動に似た、なんらかの脳の活動は起きているのかもしれない。でもそれは、私たちが考えているような。思考や、感情や情動といったものではない。そういうものに発展するものではない。

 あそこで起きているのは。もっと原始的な、たくさんの細胞が集まって生じる、ごく単純な細胞の生命活動といったものです。

 けっきょく、あれは。ケースに満たした液内に浮遊している。ただ生きているだけの植物プランクトンや。単細胞生物のかたまりみたいなものなんですよ。だから、シュミレーターのような、考える道具には使えない。使えるはずがない」

 同僚から、そんなふうにさとされてしまい。戸波は思いつめた表情で、それに同意してかえすよりなくなる。

「たしかに、その通りだね。そんなワケがない。あのなかで、ヒトの脳内と同じ活動が起きているはずがない。さっき言ったことは、ぼくの恐怖心が生んだ、誇大妄想だ」

「そうなんです。そういうことなんですよ。そして、あなたが感じているような誇大妄想にしても。なにも記憶が記録されていない、あの脳モデルのなかでそれが生じることは決してない。脳モデル内で、なんらかの活動はあっても。それは個々の細胞の生命活動であって、それ以上のものではないんです」

「つまり、すべては。ぼくの取り越し苦労でしかなかったと。よけいな心配だったと。君は、そう言いたいんだね?」

 まだ納得できていない、という顔でいる戸波から、そう同意を求められると。

 同僚は嬉しそうに。笑顔で。そうですよ。その通りですよ、と。かさねて同意をしてみせる。

 そこまでしっかりと念を押されてしまうと、戸波としては。それ以上は、こわがるわけにはいかなかった。同僚の忠告に同意するよりなかった。同僚の意見に納得するよりなかった。

 戸波は、同僚の前で、大げさな身ぶりで、胸をなでおろしてみせる。それから、自分も笑顔を無理やりに浮かべて、同僚にこう告げる。

「やれやれ。そういうことなら、しかたがないね。反省して、自分の仕事にもどることにするよ」

 それをきいて、同僚は、笑顔で、次のように言いきかせる。

「ええ、それがいいですよ。心配するだけ、気にやむだけ。それだけ、ムダですからね。それなら、それに使った時間とエネルギーを、治療薬の開発についやしたほうが、ずっといい。

 ですから。だからこそ。いま求められている、認知症の治療薬の開発を優先しましょう。よけいなことに気をとられずに。その目的を成就するために、いっしょに頑張りましょう」

 同僚はそう告げて、戸波を開発室から、外に送りだす。

 開発室から廊下にでた戸波は、笑顔から一転して、真顔になる。表情は暗い。

 廊下を行く、戸波の心中には、新たな疑問がめばえていた。

 昨日に、例の女性とやりとりしたときと、同じだ。

 同僚のことは信頼している。この製薬会社に勤務するようになってから。これまでずっと、いっしょにやってきた仲間なのだから。

 だけれども。それなのに。同僚という人物の。この男の氏名が、思い出せない。この男が、どんな名前なのかがわからない。

 何度、考えても。何度、思い返してみても。この世界では、その必要が生じなかったから名前がつけられなかったキャラのように。同僚の男の氏名が思い出せないのだ。

 それはつまり、忘れてしまったのではなくて。もともと、そなわっていなかったから。彼に名前がないから、ではないだろうか。

 いや、そんなはずがない。いくらなんでも。そんなことは、ありえない。社会の常識として、名前がない人間が、会社につとめたり、社会保障をうけたり、社会に存在できるはずがない。

 もしも、そんなことが通用するとしたら。それはつまりは、自分のまわりに存在しているこの世界は。なにかの目的をもってつくられた、現実の理屈が通用しない、そういう世界だから、ということになる。

「いや、それはない。それこそ、ありえない妄想だ。そんなことを信じるようになったら、それこそ、脳の病気だ……。でも。それでも、この疑問に理由をこじつけるとしたら。それしか、ないんじゃないか? 

 この世界は。なにかの都合で、なにかの目的で、つくられた世界で。皆がそれぞれの役目をあたえられて存在しているから。ある者には氏名がつけられなかった。そういうことじゃないか? それ以外に、なにか納得できる説明や理由があるか?」

 戸波は、そう自身に問いかけるが。睡眠不足と疲労のせいで、朦朧となっている頭脳では、その問いに、ふさわしい解答を導きだせない。

 いまの戸波にできることは。仕事部屋にもどって。会社の仕事をこなすことだけだった。

 それが、戸波という人物にあたえられた役割であって。彼に求められている、存在理由だったからだ。


 もしも。いま自分がいるのが、現実の世界ではなくて。なにかの目的のためにつくられた世界で。

 さらに。自分が経験してきたことはすべて、なにかの目的のために用意されたつくりごとであって。

 しかも。この世界で暮らす自分という存在は。一人の人間ではなくて。ケースのなかに押しこまれた、脳だけの存在だとしたら。

 自分の現実が、実際には、そんなことになっていたとしたら。あるいは、そんな疑惑にとりつかれてしまったら。その人物は、どうなってしまうのだろうか? あるいは、その人は、それからどうするのだろうか?

 そして。いままさに。戸波は、そんな突拍子もない疑惑にとりつかれていた。

 だけども戸波は、そんな突拍子もない疑惑にとりつかれても、それを信じないようにした。信じないようにして、それまでの生活を続けようとした。

 いくら本当らしく思えても、そういうことを信じてはいけない。なぜなら。当人にとって、いくらそれが事実や真実だったとしても。そういうことをくちにだして、まわりに伝えたり。自分はいま、こういう境遇にいるから、どうすればいいのか、と周囲に助けを求めたりすれば。

 まわりの人は、その通りだ、と同意をして。その人に協力してくれる、なんてことにはならない。

 そのかわりに。病院に行くよう、うながしたり。専門の医師に診てもらうように、忠告するようになる。きっと、そうなってしまう。

 ともかく、戸波は。まだそこまで思慮を欠くほど、精神的にも、社会的にも、追いつめられていなかった。実際に妄想にとりつかれていたとしても、戸波の症状は、初期症状で、悪化していなかったわけだ。

 それにだ。こういうことを本気で信じるようになると。きっと、会社に出社しなくなって。賃貸マンションの自室にこもって。スマホやネットにつないだパソコンを使い。自分の妄想が事実であるのを裏付ける証拠をさがす。そんな世捨て人のような生活を送るようになってしまう。

 戸波は、そんなことにはなりたくなかった。なにかもっと有効な対策をとれるはずだ、と信じていた。

 なので。意地でも会社に出社を続けて。新薬開発の仕事を続けながら。自分を悩ませている疑惑の答えをみつけだそうとした。この問題を解決する方法を、独力でさがそうとした。

 でも、そんな。心労がかさんで、大きなストレスをかかえた生活を、いつまでも続けることはできない。なにしろ、大きな不安を心中に抱えているせいで、会社の仕事に身が入らなくなっているのだから。

 出社して仕事にとりかかっても、仕事の能率はあがらないから、いままでのような成果をだせなくなる。

 これがフィクションの世界の主人公なら、きっと。同じ疑惑にとりつかれたら。おれが世界の謎の核心にせまるんだ、とか言いながら。なにか、もっと大胆で。ヒロイックな行動にうってでたろう。

 でも戸波は、そんなタイプではなかった。前述したように。それよりも、なにかもっとよい方法があるはずだ、と自身に言いきかせて、現状維持を続けるほうを選んだ。

 そういうわけで。それから一か月後には。戸波の外観は、ひどいことになっていた。

 ワイシャツに、背広の上下という、会社勤めの会社員の外観はかろうじてたもっていたが。どちらもくたびれて、ヨレヨレになっている。

 なによりも、戸波の顔を見れば、起きた変化は一目瞭然だった。

 追いつめられて、疲れはてた様子の戸波の表情は、いまでは、うつろで生気がない。一か月前とは別人のように、げっそりと焦燥した顔になっている。

 変化したのは服装や表情だけではない。いまでは戸波は。本人は必死に仕事をしているつもりでも、書類に目を通しているだけで、なにもしていない。そんなありさまになってしまっていた。

 そんな状態でも、戸波は。それでも頑張って、新薬開発のプロジェクトを指揮する仕事を続けていた。

 だが戸波がだす指示に、ミスが多くなっていた。そしてそれが、ハッキリと業務の内容にあらわれていた。

 この一か月間は、新薬開発のプロジェクトの業務に、停滞と混乱が生じていた。

 こうなってしまうと、指示をだしている戸波は、業務からはずされてしまい。いまから病院に行って診察してもらい。仕事ができないようであれば、きちんと治療してから職場に復帰しろ。そのようにいいわたされることになる。

 そして、戸波としては、そうなって欲しかった。なぜならば。そうなれば。

 この世界は、なにかの目的をもってつくられた世界であって。自分はその世界で役目をあたえられたコマで。いままで、それに気付いていなかったのだ。という自分の妄想がくつがえされるからだ。

 だがしかし、戸波をさらに不安におとしいれて。恐怖心をかきたてたことに。

 そんな状態になっても、戸波は、これまで通りに。新薬開発の業務を続けることができた。

 それはつまり。自分を悩ませている妄想じみたことが。ただの妄想ではなくて、やはり事実なのだ。という証明につながる証拠でもあった。


 追いつめられて、どうすればよいのかわからなくなった、戸波が、次にやったことは。

 会社の上司のところにでむいて。治療薬の開発チームに指示を出していた自分を、その役目からはずしてもらうことだった。

 そして戸波は。自分のかわりに、開発室の同僚を、その指揮役にあててもらい。

 戸波自身は、期限を決めて、自由に勉強させてもらえないか、と上司に願い出た。

「治療薬の開発をやめるわけじゃありません。これもすべて、求めている新薬をつくりだすためです。製薬に必要なアイデアを得るためなんです。

 必要だ、と思うことを得たら。すぐにまた、職務に復帰しますから。どうか、お願いします」

 戸波は、不機嫌そうな顔でいる上司を相手にそう訴えたが。心のどこかで、次のようにも考えていた。

 ここが本当に現実世界で。自分がいる会社も本物だ、というのなら。唐突にそんなことを願い出たところで、そんなむちゃくちゃな要求が通るはずがない。会社が受け入れるはずがない。

 それでも、もしも。自分の要求が通るとしたら。それは、つまりは……。

 まさか、そんなことはあるまい。でも、もしかしたら。と落ち着かない気持ちでいた戸波は。後日、正式に。会社からの通達で。いったん開発チームを抜けて。新薬開発にかかわる別作業を、期限をもうけて行うことにする、と伝えられた。

 どういうことか、というと。これまで通りに、会社に出社して。そのあとは。

 それが必要だ、と思えば。これまで通りに、認知症関連の重要な書類を読んだりと、新薬開発にかかわる会社の情報を知ることもできるが。

 戸波が、いままでやっていた、多忙な業務はほかのだれかにまかせて。好きなことをやっていい。そういうことだった。

 会社から、新しい業務の指示を受けて、それを開始した、その日。戸波は、いつも通りに出社をして。仕事部屋に行って、ノートパソコンに届いたメールの内容をたしかめて。自分の要望が、間違いなく実施されたのを知って、笑うよりなかった。

「どうしてまた、ぼくのムチャな要求が通るんだ? いつからぼくは、この会社の重役になったんだ? ぼくが昨日までずっと続けていた、あの社畜生活は、いったいなんだったんだ? 意味がわからなくて、笑えてくるよな」

 そう言って戸波は笑うが、その笑い声に楽しそうなところはない。表情も、無理やりに笑っているものだ。

 すぐに真顔になると。戸波は、自身に言いきかせる。

「さあ、どうしたものかな? 期限付きの自由を手に入れたからと言って。期限が終わるまでになにか結果をださないと。今度こそぼくは、不用品のごみとして破棄されるんじゃないかな? だとしたら、ぼくは。このチャンスを利用して、なにをするべきなんだ?」

 特になにも思い付かなかったので。とりあえず戸波は、いつもやっていたことを行うことにする。

 仕事を始めるにあたって。戸波は、仕事部屋にこもると。とりあえず、まずは。認知症の治療に関する、最新の記事や医薬日の情報を検索して、なにか目新しい発見や報告はないか、とさがしてみる。

 いつもやっていることなので、大丈夫だろう、と思っていたが。それなのに、どうもうまくいかなかった。

 目は、画面上の文字列を追っているのに。脳は、ほかのことを考えている。いつのまにか戸波は、脳モデルのことを考えていた。


 なんだかどうにも集中できない作業を続けながら、戸波は、自身に言いきかせる。

「ぼくの正体が、脳モデルで。脳に入ってくるニセ情報を現実だ、と錯覚しているだけなら。もしも、それが本当ならば。あくまで、そうかもしれない、と仮定するとしてだが。

 いまぼくがやっている、この手もとの作業も、そうだし。モニターの画面上に次々と表示される、この大量の情報も。本当はぼくがやっているんじゃなくて。脳モデルにつないだケーブルを通じて、外から送られてくる、つくられた情報だ、ってことになる。いま入力をミスったのも、だれかがつくったニセ情報だ、ということになる。

 そんなことが、あり得るだろうか? そんなことが、可能だろうか? いいや、あり得ない。不可能だ。できるわけがない。笑っちゃうよな……」

 戸波は、そう自身に言いきかせるが。くちではそう言いながらも、手もとの作業は、インターネットの検索機能を使い、いつのまにか脳モデルについて調べ始めている。


 戸波は、仕事をしているつもりでいたが。手もとの作業は、インターネットの検索機能を使い、いつのまにか脳モデルについて調べ始めている。

 まずは、脳モデルを製作している会社について。会社の規模や、会社の所在地や、従業員数をたしかめる。そのほかにも、会社からこれまで提供された脳モデルの販売数や。それがどこで、どのように利用されたのかを。ひとつひとつ、できるかぎりくわしく、丹念に調べていく。

 でもそれをやっている最中に、あることに気付く。

 さっきの仮説に従うなら。いま自分がやっているこの作業も、本当はだれかがつくったニセの情報であって。

 自分の意識が入った脳モデルを用意した、どこかの研究所か。秘密の施設で。大勢の開発者や、専門の技術者たちが、せっせとそれを作製しては。時間にあわせて、タイミングよく、自分に見せている。そういことになる。

 戸波は、その場面を想像してみて。そういうことをまじめに考えること自体が、なんだかものすごく馬鹿馬鹿しく思えてきた。

 戸波は、いったんそこで作業を中断すると。今日一日、検索作業をかさねて調べだした、脳モデルの会社に関する、さまざまないっさいがっさいを。不要、とつけたファイルにすべて放りこんで。仕事部屋で一人、ため息をついて、自身に言いきかせる。

「こういうときは、なんて言ったらいいんだ? ぼくにみせるために、つくりものの日常の情報をこしらえてくれて。今日もごくろうサマ、というべきなのかな?」

 その日は、そうやって夜まで一人で作業を続けたが。けっきょく、なにか役立つような、有効な発見は得られなかった。自分の疑問の解決に役立つような、なんの情報も得られなかった。

 退社時間が近づく頃には、戸波は、いつもとは違う意味で、すっかりくたびれていた。

 こんな経験は、いままでも何度もくりかえしてきたが。それでもやはり、こんな気持ちで会社から帰るのは、とてもつらかった。

 戸波は、胸中に抱えた、やりきれない気持ちをまぎらわせるつもりで、開発室に行ってみることにする。


 開発室に入室をしてみると、驚いたことに。

 いつもなら、だれかが必ず開発室に常駐していて、なにか作業をやっているのに。今日にかぎって、だれもいない。

 そのせいで戸波は。ほかにだれもいない開発室で。ここに設置してある脳モデルと。たった一人で対峙することになる。

 例の女性から衝撃的な告白をされて以来。戸波は、開発室に足を運ぶたびに、おそろしい想像をするようになってしまい。そのせいで、あれからずっと、こうして脳モデルと、まともにむきあっていなかった。

 だがそれも、さっきまでの話だ。いまは、こみあげてくる恐怖と不安をおさえこんで。ケースの前に立つと。戸波は、疲れた頭と、疲れた目で。ケース内に満ちた液体中に沈んでいる、その物体をながめる。

 戸波は、この物体のなかで、いったいなにが起きているのだろうか、と考える。それを想像してみよう、とする。

 自分以外にはだれもいない、無人で、しんとした開発室で。作動中の循環装置のケースのなかに浮かんだ、くすんだ白色をした、グロテスクなかたちをした、細胞のかたまりを。戸波はジッと見つめる。

 私たちが知っている脳は、薄いピンク色をしているが。あれは栄養と酸素を運ぶ血液の色になる。

 人工的に製造された循環液は無色透明のせいで。脳モデルは。こんな灰白色というか。白っぽい色になる。

 なんだかホルマリン液につけた標本のようにも見えるけれど。この物体は。この細胞のかたまりは。循環液中にとけこんだ栄養と酸素をとりこんで、いまもちゃんと生命活動を続けている。

 それは、脳モデルをおさめたケースの装置にある、計測器を見れば、知ることができる。

 ほかにどうすることもできず。戸波は、脳モデルをケース越しにじっと見ながら、自問自答を始める。

「とても信じられないけれど。これとよく似たものが、ぼくたちの頭の骨の中に入っていて。それが、八十年間にもおよぶ記憶を保持したり。愛情や憎悪といった複雑な感情を生みだしたり。法律をつくったり守ったりすることで、社会を維持したりと。そういう複雑怪奇で、摩訶不思議なことをやっているんだ。

 でも。ぼくたちが住む世界をつくりだし、それをささえている。とても重要な器官なのに。いったいどういう仕組みで動いているのか。なぜそういうことができるのか。それがわからない。

 なぜ、この物体の中に記憶が保持されるのか。そして、保持された記憶が失われてしまうのか。それが、急激に進行することで、どうして認知症のような病気になってしまうのか。まるっきり、サッパリわからない。いったい、この物体の中で、なにが起きているんだ?」

 脳モデルを前に、わきあがる恐怖の感情に耐えて、その答えを求めて思いめぐらせていた戸波は。だがそこで、自分が考え違いをしていたのに気付いた。

「いや、そうじゃなかった。これはあくまでも、脳に似せてつくったもので。脳と同じ働きをしているわけじゃない。このなかで、脳と同じことが起きているとはかぎらないんだ。製造会社は、そんなことは絶対にない、って言っているしな。

 でも、あの女性は。これに、ニセの情報を送りこめば、シミュレーターにできる、と言っていた。ぼくの正体が、このグロテスクなかたまりだ、とも言った。

 どちらが正しいのかはわからないが。もしも、そうなら。ぼくが見ている、いまここにあるすべては、つくりものだ、ということになるわけだ。そして……」

 戸波はそう自身に言いきかせて。先ほど、しりぞけたはずの疑問を。またぶりかえしそうになる。

 そこで戸波は、また別の、新たな疑問にとりつかれる。

 戸波は、目の前にいる、ケースに入った、もの言わぬ細胞のかたまりを、にらみつける。それから、ほかにだれもいない開発室で。その疑問を声にだして、自身にむかってなげかける。

「でもそれは、この脳モデルだけじゃなくて。脳を持っている、ぼくたちすべてにあてはまるんじゃないか? あの女性も言っていたじゃないか。

 脳、ってのは。脳それ自体が、なにかを感じとる機能をそなえているわけじゃない。脳へと送られてくる、からだの感覚器からの反応をもとにして。こういう反応があったから、からだの外ではこういうことが起きているはずだ、と。脳側で、勝手に判断したり、想像しているにすぎない。そういうことじゃないのか?

 蓄積された記憶を頼りに。脳側が、からだの外ではそういうことが起きている、と。勝手にイメージしているわけだ。

 だから、ヒトのからだにある感覚器が変われば。それだけで、世界の姿や、周囲にある物の認識は、いまとは変わってしまうはずだ。

 そう仮定すればだ。もしかすると、事態はもっと深刻なことになっているかも知れない。

 ぼくの正体は脳モデルなんかじゃなくて。ぼくという存在も、この世界も。ケースの中に沈んでいる、この脳モデルが夢想していてる架空の存在だ、って可能性もあるんじゃないか? なんだか、そんなふうに考えると、少しだけ気持ちが休まるな。肩の荷をおろした気分にもなる。

 本当の世界は、じつはこうじゃないんだよ。この世界も。このぼくも。じつは、だれかの脳がつくりだした、架空の産物だ、って可能性も……。いや、さすがに。それは飛躍がすぎるか。そんなわけがないよな……」

 戸波は、そんなふうに自問自答を行うことで、なんとかして自身の苦痛をやわらげようとする。

 ほかにやるべきことがあるのに。追いつめられた、苦しい現状で、そういう妄想に逃避しようとする。

 よくみれば。彼の表情にも、声にも。疲労がハッキリとにじんでいる。その表情も、声も。ひたすらに暗くて、重くて、そして低い。

 さらにだ。今度は、戸波の表情には、隠しきれない怒りの感情があらわれている。

 あの女性から、衝撃的な事実を告げられて以来。ケースのなかの脳モデルは、戸波にとって恐怖の対象になっていた。近づくのもおそろしい存在と化していた。

 もしかしたら、自分の正体は、これなのかも知れない。戸波は、それについて悩んで。恐怖をおぼえて。ノイローゼになりかけていた。

 だがいまは、戸波は、ケースのなかにいる、これに対して。どうしようもない、怒りの感情をおぼえていた。こいつを消し去りたい、と感じていた。

 だれにでも経験があるだろう。ずっと精神的に追いつめられていると。ある時点で、それが恐怖心から怒りの感情に変化する、転換してしまうのだ。まさしく戸波も、そうなっていた。

 さっきまでは、まったくそういうつもりはなかったのに。戸波は室内を見まわして、机の上にあった職員用に用意されたノートパソコンをみつけると。近づいて、それを手にとる。

 電源コードをはずして、それを両手に持つと。それを循環装置のケースにたたきつけて、ケースを破壊しようとする。

 いま戸波は、目の前にいる脳モデルを破壊したい、という衝動にとりつかれていた。

 割れたケースから外にでたそれを、靴底で踏みにじって。細胞の一個一個にいたるまで、完膚なきまでに絶命させてしまいたかった。

 戸波は、だがそこで、自身に言いきかせる。

「ダメだ。それをやったら、本当にお前の負けだ。きっと。まだ、なにか手があるはずだ。お前には脳があるんだから、それを有効に使うんだ。脳は、そのためにあるんだぞ?」

 さらに、こう続ける。

「そうだ。たとえば、ヒトの思考力や意識とはなんだ? それは脳のなかで、どのようにして発生するんだ? それを解明して、脳モデルではそんなことは起きない、と証明できれば。そうすれば、こんな悩みから解放されるんじゃないか?」

 まるで、ケースのむこうから自分をジッとうかがっているようにさえ思える、得体が知れない相手を。戸波はにらみつける。

 開発室のなかに、ほかにだれもいないのをたしかめてから。戸波は次のように、脳モデルに告げる。

「お前なんかに、負けるものか。必ずお前を屈服させてやる。そうするためのなにかを、つかんでやるからな!」

 もちろん、脳モデルが、できるならそうしてみろ、と返事をしたり、戸波をあざわらったりと、なにか反応するはずもなかったが。それでも戸波は、開発室を出るまで、背後になにかの気配を感じていた。気配を感じるのを否定できなかった。

 戸波は、仕事部屋にもどると、仕事を続けることにする。

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