セレブラム 第八話
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うまくいかない話ばかりをきかされて、いい加減にあきあきしている、と思う。
でも、もう少し。失敗が続いている。この新薬開発の話につきあってほしい。
戸波は、その日。恋人の女性に会う約束をして。
待ちあわせ場所にしている、いつもの喫茶店にやってきていた。
ひさしぶりの楽しいデートになるはずだった。でも、二人の様子を見るかぎり、とてもそんな雰囲気ではない。
まずは戸波だが。店にきてからずっと、ムッツリした顔で、考えごとにふけっている。
女性のほうも、戸波に呼びだされてやってきたのに。その戸波が、さっきからずっとこの調子なので。テーブルのむかいの席で、飲み物を飲みながら、スマホの画面をいじってヒマをつぶしている。
二人ともずっと、テーブルをはさんで、押し黙ったままでいる。
二杯目の飲み物も飲み終えたところで、女性はため息をつくと、ウンザリした顔で立ち去ろうとする。
そこでようやく、戸波は女性に声をかける。次のように質問をする。
「ねえ、君。脳の萎縮はどうして、脳内の決まったルートに従ってひろがっていく、のだと思うね?」
「人を呼びとめるつもりなら、もっと気がきいた……。は? なんですって? なにを言っているの?」
突然に場違いな質問をされて、女性はビックリした顔で、足をとめる。
(でもそういう態度をとりながら、女性は、戸波にはわからないように、ようやくその質問がきたか、とその表情に笑みを浮かべる)
でもふりかえったときには、そんな様子をおくびにもださず、女性はいつもと変わらない態度で、戸波にかえす。
「あなたねえ。相手があなたでなければ、そんなこと知るもんか、と怒鳴りつけて。帰ってしまうところよ?」
「いや。ぼくがききたいいのは、そういうことじゃなくてね……」
戸波は抗議しようとするが、考え直して。かわりに、女性の顔を見て、こう続ける。
「じつはね。君に、どうしてもきいてもらいたい話があるんだ。それについて、いっしょに、考えてもらいたいんだ」
「それなら、今日、最初に顔をあわせたときに、そう言えばいいじゃない! ああもう、しかたがないわね。それじゃ、あなたがなにを悩んでいるのか。それを、この私に話してよ!」
前髪に隠れて表情はわからないが、どうやら怒っている様子の女性に。
戸波は、あいかわらず、心はここにあらず、といった態度で。
自分が抱えることになった新たな疑問について、一部始終を語る。
女性は、再び席につくと。追加で飲み物を注文して。あらためて戸波に、このように言いきかせる。
「なるほどね。わかったわ。それは、あれよ。以前にあなたが話してくれた、細胞と細胞のあいだの情報伝達機構のせいよ。それが原因で起きるのよ。
だって、そうじゃない。あなたの説明によれば。脳の内側の海馬がある場所と、脳の外側の側頭葉がある場所は、同じ領域内の近い場所にあるのでしょう? だから、細胞同士が、連絡用につくるタンパク質で情報をやりとりする仕組みで。海馬での細胞死が、側頭葉の細胞へと伝わっていくのよ。きっとそうよ」
「なるほど。言われてみれば、たしかにそうかも知れないな……」
スマホの検索機能の助けを借りて。このあたりを、もう少しくわしく調べると、次のことがわかる。
細胞死の際に放出されるタンパク質というものは、本当にあって。これはほかの細胞へ指示を伝える、サイトカインというタンパク質になる。
細胞死には、大きくわけて、二種類がある。まずは、寿命がきて壊れて死ぬのを、アポトーシスといい。
炎症や病気が原因で、ほかの細胞から放出されたサイトカインなどのタンパク質で死ぬのを、ネクローシスという。
つまりは、細胞が。本来であれば、細胞死するような状態になくとも。ほかの細胞からそれをうながす物質が放出されて。それが別の細胞に受容されると、そうでない細胞も死んでしまう。そういうことが起きるのである。
どや顔で自分を見ている女性に、だが戸波は、やんわりと、このように反論する。
「うん。なかなかいい線をいっている、と思うよ。
でもそれじゃ、どうして。側頭葉の次は、側頭葉のすぐそばの細胞じゃなくて。側頭葉とは距離をおいた前頭葉で、細胞死と萎縮が起きるんだね? 細胞間の伝達の機構のせいで、細胞死がひろがっていくのなら。始まったところを中心に、その周辺に。さらにその周辺にと。そういう順序で、細胞死は、まわりにひろがっていくはずだろう?
それから、もうひとつある。なぜ海馬から始まるのか、それがわからないよね? サイトカインが原因なら、認知症になった患者ごとに、病気が発症する場所や、細胞の脱落が生じるルートが異なるはずだ。なのに実際は、皆同じになる。そうなる理由は、なんだね?」
「それはね。ええと……」
問われた女性は、戸波に応じようとするが。答えがわからずに、くちごもってしまう。
女性の困惑した表情を黙って見ていた戸波は、ややあって、こうきりだす。
「でも本当に、いい線をいっているんだよ。この件の説明として、伝播腫、という有力な仮説があるんだ。いったい、それがどんなものか、というとね……」
伝播とは、伝わりひろがっていく、ことをいう。認知症でいうところの伝播性とは。脳のどこがで生じたことが。脳のほかの場所へと伝わっていって。それがくりかえされたのちに、脳ぜんたいにひろがることをさす。
もっとハッキリといえば。異常タンパク質の蓄積によって生じた脳内の萎縮が、蓄積が生じていないほかの場所にまでひろがっていくことをいう。
ちなみにこれは、仮説ではない。これが実際に起きるのを証明する実験に。アルツハイマー病になった実験動物の脳から異常タンパク質を分離して。それをほかの実験動物の脳に注射すると。病気が生じていなかった動物もまた、アルツハイマー病を発症する、というのがある。
つまりは、脳内に異常タンパク質がたまっていなくても。脳のどこかで異常タンパク質が増えてそれが大量に蓄積してしまうと。なにかが脳内を伝わっていって。異常タンパク質がたまっていなかった脳細胞でも、たまっている脳細胞と同じことが起きてしまうのだ。
ここで注目するべきは。異常タンパク質による脳の萎縮は。ある決まった出発点から始まって。特定のルートをたどって。脳内にひろがっていくことだ。これを、アルツハイマー病の伝播性、という。
(引き写しになってしまうが。これについては、次の説明文を読むのがわかりやすい、と思う。
伝播とは。脳の細胞と細胞をつなぐ回路や連絡路を介して。異常タンパク質が、自分自身を鋳型にして。自己複製をしながら、がん細胞のように、細胞から細胞へと、広がっていくことを言う)
戸波は、自分が言ったことが相手にちゃんと伝わったのをたしかめてから。今回の謎について、それをもう一度、相手に説明する。
女性がとなえた説の疑問点と、問題点を告げる。
「脳萎縮が、病気の原因であるのは間違いない。ところが、これが。どういう仕組みで。どうして海馬から始まって。側頭葉、前頭葉へとひろがっていくのか。それがわからない。
この謎を解くことができれば、認知症についての理解も大きく前進するだろうし。それがきっと、治療薬をつくろうとしているぼくたちにもかえってくるはずだ。ぼくはそう思うんだよ」
アルツハイマー病の伝播性について、同僚から教えてもらったことを、エラそうにそのまま語ったわけだが。それでもその説明をきいた女性は、ずいぶんと感心してくれた。
女性は、なるほどね、それはビックリだわ、と戸波の説明に、何度も感心をする。
それから、思い悩んでいる戸波を前にして。なにか手伝ってやれることはないか、と思案をめぐらせたすえに、女性は、このように言いきかせる。
「それじゃあ。こういうのはどうかしら? つまりは、こういうことなんじゃないかしら?
脳って。私たちヒトにとっては、かけがえのない、最も重要な器官のはずよね? それなのに、高齢者になると、萎縮をして。脳のほかの場所にまで、その萎縮がひろがっていく。そんなの、どう考えても、致命的な欠点だわ。
でもね。この病気にかかった患者が皆、そうなるのなら。この仕組みは、もともと皆の脳にそなわっているものなのよ。
だって、認知症にならなくても、高齢者になると、健常者でも脳の萎縮が始まってしまうのよ。
肉体が老化して、ある年齢を超えると。脳が萎縮して、認知機能を失う。ヒトは、そういうふうにできているんだわ。この仕組みは、病気じゃないのよ。もともと、そういうものなのよ」
女性がなにを言っているのか理解できなくて、戸波はとまどいながら、次のようにたずねる。
「どういうことだね? 認知症は病気じゃない、と。君はそう言いたいのかい?」
「もしかすると、だけどね。きっと、大脳というものが、新しくできたばかりのものだから、仕組みとしてまだちゃんと働いていない。だから、こういうことが起きるんじゃないかしらね?」
「君は、いったい、なにを言っているんだい?」
戸波が、ますます困惑した表情になるのを見て。彼の恋人である女性は、しかたなく、次のように説明の補足をする。
「地球上に誕生した動物の歴史からみると。からだのサイズにくらべて、ここまで大脳が大きく発達した動物は、ほ乳類と、鳥類だけなのよ。そしてどちらも地球の動物の歴史からみれば、ごく最近に誕生した、新しい種なのよ。
そして認知症は、ヒトだけじゃなくて。ヒト以外のほかのほ乳類でも発症するのがわかっている。飼い犬や、飼い猫が認知症になるのは、有名なハナシよね? サルもそうだし。ゾウやクジラみたいな大きなほ乳類から、ネズミみたいな小さなほ乳類まで、ほ乳類は皆が認知症になるのがわかっている。
となれば。もしかするとだけど。この病気は、ほ乳類に特有なものだって。そうも考えられるんじゃないかしら?
さっきも言ったように。ほ乳類は、魚類や両生類や爬虫類といった、ほかの種とくらべると。彼らよりもあとに生まれた種になる。
そして私たちは、ほかの種類の動物たちよりも、ずっと大きな脳をつくりだす、そういう仕組みを、ほ乳類として、そなえて生まれてきた。でも、それと同時に。大きな脳をつくりだす過程で、どうしてもまだうまくいっていないところがあって。
老化がすすむのにあわせて、この大きく発達した脳を萎縮させる、なんらかの不具合もかかえこんでしまった。そういうことなんじゃないかしらね?
だって、ほ乳類以外の動物たちは、トリも、サカナも、カエルも、トカゲも、ほかの動物たちは、みんな認知症にならないのよ? たしかトリでは、脳に老人班ができるのはみつかったけれど。トリの脳で、萎縮は生じないはずよ?」
「いや、待ってくれよ。それは、早合点だよ。ほ乳類以外で、認知症の動物がみつからないのは、もっとほかの理由があるはずだ。そうだよ。いまいった動物たちは、ヒトよりも寿命が短いから、認知症が始まる前に寿命がきてしまうんだよ。
そうでなければ、脳萎縮した個体は、そのせいでほかの個体よりも能力が劣るから。ほかの個体よりも容易に捕食されてしまい。認知症になった個体はみつからない、とかさ」
戸波はそのように女性に反論するが。反論している途中で、自分の主張の間違いに気付いて、くちごもる。
鳥類のなかでも、オウムやヨウムといった種類は、飼育された環境では、七十年から八十年も生きる。高齢化した個体は、老化したせいでおとろえるが、それでもオウムが認知症になった、という話はきかない。
それだけではない。百年以上と、ヒトよりも長生きする爬虫類であるカメもまた、認知症になったという話はない。となると、いまの主張や発言も、あながち間違いではない、ということになる。
「なるほどね。興味ぶかい話だ。だとしてもだ。ぼくが知りたいのは、そういうことじゃない。
ぼくが求めているのは。君がいうところの、ほ乳類に特有の脳の不具合を直すにはどうしたらいいのか。その方法をみつけることなんだ。それを知りたいんだ。なにしろ、治療薬をつくるのには、それを知ることが必要になんだからね」
戸波が口調に力を込めて、ぜひともその答えをきかせてくれ、と期待を込めて訴えると。女性は、すまなそうな表情と態度で、次のようにかえす。
「残念だけど。そちらは、私にもわからないわ。だからそれについては、あなたに頑張ってもらうよりないわね」
女性は、それ以上はなにも知らない、といった態度で。そっぽをむいて、戸波にとぼけてみせる。
思い返せばそれは。デート中にかわされた、笑いとばして、帰る頃には忘れている。その程度のやりとりだった。
それでも、なぜか。相手の女性が言ったことは。デートを終えて、ウチに帰ったあとも。戸波の記憶に残り続けた。
それから一晩が経過して。翌日には、戸波は会社に出社したけれど。女性が言ったことが、彼の記憶に残り続けていた。
気になって仕事にならないので。しかたなく戸波は、開発室に出向くと。やってきた同僚に、それを話してみる。
同僚は、戸波のように、女性が言ったことに同調をしなかった。
腕組みして考え込んでから、あきらかに疑っている、とわかる表情と態度で、同僚は戸波に忠告する。
「戸波さん、あなたは。その人に、かつがれていますよ。
その人の主張はおかしい。戸波さん、あなたは。ほ乳類以外の。ほかの動物たちの脳が、どれくらいのサイズなのかを知っていますか?
トリの脳の大きさは? サカナの脳の大きさは? カエルやカメやトカゲの脳の大きさは? あなたはそれがどれくらいなのかを知っていますか?
知っていれば。なぜ、ほ乳類以外の動物で認知症がみつからないのか。その理由について、思いあたったはずです。その女性の主張が間違っていると、きっと気付いたはずです」
「いわれてみれば、たしかに知らないな。認知症の研究をする際に、ヒトの脳については、ある程度は学んだけれど。ほかの動物の脳については、サッパリだったよ。
ほかの動物の脳のサイズが、ヒトの脳よりも小さいのはわかるよ。けれども、ほかのいろんな動物たちの脳のサイズや。動物ごとの脳の仕組みの違いを気にしたことはなかったな」
戸波は、自分の知識を反芻しながら、そうかえす。
同僚は、そうでしょう、そうでしょう、とうなずいて。それからこう続ける。
「魚類の脳のサイズは。サカナの種類ごとに違いはありますが。ヒトのからだのサイズと同等に考えるとすると。サカナの脳は、ヒトの脳の十分の一から、二十分の一程度の小さなものになるんですよ。
魚類から派生して誕生した、カエルなどの両生類では。それよりも、もう少し大きくなります。両生類から派生した、トカゲやカメなどの爬虫類では、さらにもう少し大きく、と。少しずつ大きくなっているのです。
そして、私たちほ乳類や鳥類ですが。ここで突然に規格外の大きな脳になる。ヒトをふくめた、ほ乳類全般の動物は、ほかの脊椎動物にはない、大きな脳を持っているのです。
私が言いたいのはですね。私たちは、ヒトの脳に起きるアルツハイマー病という病気の治療薬の開発をしているわけで。ヒトの脳とはサイズも仕組みも違う。ほかの動物の脳に生じた進化の仕組みを解明するのは。生物学者にまかせるべきだ、ということです。そう思いませんか?」
「言われてみれば、そうだな。納得は行かないが、君が言うとおりかも知れないな」
戸波が、しぶしぶといった態度で、同意をすると。同僚は、こう続ける。
同僚は。これだけは伝えたくなかった。教えたくなかった。そういう複雑そうな表情と態度で、次のように告げる。
「といってもですね。その着眼点は間違っていないかも知れないんですよ。
じつをいいますとね。サイズの違いや、パーツごとの差異といった。動物の種類ごとの特徴こそありますが。サカナも、カエルも、ワニも、ヒトも。脳の基本的な構造は、皆、同じなんですよ。
なぜか、といえばですね。
これは、脊椎動物の進化の歴史からみれば。どの動物も、同一の祖先から、派生して生まれてきたものであって。派生前の動物の身体の構造をひきついでいるからです。
だから、種類ごとの違いはあっても。基本的な部分で、脊椎動物の脳の構造が一致しているのは。そうあって当然のことなんです」
サカナの脳と、ヒトの脳は、まったく違うものに思える。ところが、にわかには信じがたいことだが。脊椎動物の進化の歴史をみるかぎり。このふたつは、基本的な部分では、どちらも同じ構造をしているものになるのだ。
脊椎動物たちは、海で暮らしていたものたちが。川で暮らすものたちを生みだし。水辺で暮らすものたちを生みだし。そこから陸上で暮らすものたちを生みだした。
海や川で暮らすサカナたちから。水中や水辺で暮らす、手足をそなえた、カエルやイモリのようなものたちが生まれて。そこからさらに、陸上でも暮らせるように。手足だけでなくて、肺をそなえた、トカゲたちが生まれてきた。
手足と肺をそなえたものたちは、外敵がいない陸上で数を増やして、どんどんと増えていくと。そのなかから、やがてはほ乳類が生まれたきた。
こういうわけだから、脊椎動物たちの脳の構造は、どれもよく似ている。脊椎から続く脳幹と、その次にある小脳と、そして大脳の。この三つでワンセットになったものになっている。
脊椎動物の脳は。脳幹、小脳、大脳が。基本のセットになる。
この基本のセットから。脳のどの部位が発達したのか。脳のどこに、どんな新しいパーツが追加されたか。その動物の脳ごとに異なる変化が、それぞれの動物の脳に生じている。
魚類、両生類、爬虫類の脳のセットでは。本能をつかさどる脳幹の部分が、脳のセットの大部分を占めている。大脳は小さい。小脳も小さい。
ところが、鳥類や、哺乳類になると。脳幹よりも、小脳と大脳のが大きくなる。
鳥類は、空を飛ぶためだろう。運動能力をつかさどる、小脳が大きく発達している。
ほ乳類は、小脳よりも。ほかの動物ではありえないくらいに、大脳が大きく発達している。
そして、ほ乳類のなかの、霊長類のヒトは。ほ乳類のなかでも、きわだって大脳が大きい。
ヒトの、大きく発達した大脳のなかでも。大脳の表層にあたる新皮質のパーツの部分が。大脳の九十パーセントを占めるほどにも大きいのである。
大脳の新皮質は、脊椎動物の歴史では、新しくできたパーツになる。この新皮質の部分には、たくさんの神経細胞が集まっている。
新皮質は、とても重要な部分になる。私たちヒトの、八十年間にもおよぶ記憶の蓄積をはじめ。その大容量の記憶の蓄積に基づいた、思考や感情の発露や。精神面の発達といった。ヒトの知覚能力全般を、この大脳皮質がつかさどっているからだ。
ヒトが、ほかの動物にはできないことを思い付いたり。ほかの動物にはない複雑な内面性を持っているのは。大脳の表層にある新皮質の部分が、ほかの動物よりもずっと大きく発達しているからだ、といってもいい。
「大脳皮質は、百四十億個からの神経細胞が集まってできています。これは、神経細胞が集まってシート状になって。大脳の表面にシートをかさねるようにできあがっていった、と考えられています。
霊長類のなかでも、ヒトは最も大脳が大きいんですが。これはサルから派生したときに、サルの大脳の上にさらに、これが幾重にもかさなって大きくなっていったからなんでしょうね。この新皮質の部分がたくさんあるから。ほ乳類は、ほかの動物には思いつかないことを考えたり、その考えを実行できるのだ、とされています」
「ひとつ、疑問なんだがね。大脳皮質は、大脳の表層部分をさすわけだろう? それなのにどうして、大脳の九十パーセントが大脳皮質だ、ということになるんだね?」
私たちが、脳、ときいてイメージするのは。楕円型をした、シワだらけの、白っぽいかたまりになる。
大脳皮質は、脳の表層部分になる、ときくと。そのかたまりの表面だけをいっているようにとらえてしまう。でもそうではないのだ。
「じつは、ヒトの大脳は。右脳と、左脳のように。それそれのパーツごとにわけたものを、いくつも組みあわせて。脳の下側の中心部のところで、つなげた構造になっています。だからこの、組みあわせてある脳のパーツをひとつずつ個別に広げていくと。楕円形を単純に広げたかたちにはならない。もっと大きな表面積がある、複雑なかたちになる。
こういうわけで、大脳の九十パーセントが皮質の部分だ、ということになるわけです」
「なるほど、理解したよ。それから、さっきの説明をきいて思い付いたんだがね。さっきの話だがね。
脊椎動物の脳は、サカナから分岐して、新種の動物が誕生するのにあわせて、少しずつ大きくなっていったんだろう?
だったらもしかすると、私たちヒトの脳にも、まだ解明されていないだけで、脳を大きくする仕組みがそなわっているんじゃないかね?」
「それはわかりませんが、最近の研究で。たしかにサカナの脳は、小さく原始的ですが。ヒトの脳とくらべると。ダメージを負っても、損傷の回復が早く。環境の変化に応じて、柔軟に変化していく潜在能力が高いことがわかってきたんです」
同僚は戸波に、開発室にあるノートパソコンを操作して、検索した記事をみせる。
記事には、こうある。たとえば、養殖場から逃げだしたニジマスは、七か月後には、脳の大きさが十五パーセントも大きくなっているのがわかった。
野生生活を送ったニジマスは、養殖のニジマスにくらべて、大脳をはじめ、脳の各パーツのサイズが大きくなっていた。特に脳表面の灰白質の部分の増加が最も著しかった。
さらに驚くべきは、エサを探す必要がなくなると。脳のサイズが縮小して、もとのサイズにもどったのだ。
ニジマスは、環境変化に応じて、自分の脳のサイズを変化させることができるわけだ。
これは、生命維持のためにどうしても大きなエネルギーが必要になる脳という器官を、必要に応じて変化させることで。エネルギーの節約をするのと同時に。自身の生存能力を高めるためだ、と考えられる。
(大きくなるのはたぶん、新しい環境で生存競争に勝ち抜くには、大脳の記憶量を増やさなくてはならないからだろう)
もちろん、こんなことはヒトには不可能だ。でもサカナにはできる。脳細胞を増やしたり減らせることで。サカナは、過酷な環境を有利に生き抜けるようになっているわけだ。サカナは、脳の容量の変化ができるのだ。
同僚のその話をきいて、戸波の表情が一変する。
研究も開発もうまくいかず、なにか新しい発見もなく。やることなすこと、失敗につぐ失敗で。すっかり意気消沈していた戸波は、面をあげる。
背筋がしゃんと伸びると。なにごとかに気付いたのだろう。大きく眼をみひらいた表情に、活力がもどっている。
同僚に向き直ると、戸波は同僚の肩をつかんで、こう言いきかせる。
「もしかしたら。もしかすると、だけどね……。いまのそれはつまり。ぼくたちがさがし求めていた、ずっと解けずにいた疑問の解答につながることなんじゃないかい?」
「いったい、どうしたんです? ずいぶんと大げさなことを言いだしましたが。いまの話で、なにがわかったんです?」
「つまりだね。サカナの脳が、環境の変化にともなう、外部からの刺激をうけることで。それによって、脳の容量を増やすのなら。
魚類を祖先として、原始的なサカナから生まれてきた。同じ脊椎動物の一種となる、ぼくたちヒトが。こんなに大きな脳を持つに至った経緯や仕組みも、そのあたりにある、と考えることができるんじゃないかね?
そして、その脳を大きくする仕組みが。いまもぼくたち脳にそなわっているのなら。その仕組みが、脳を萎縮させることだってあるんじゃないだろうか。
もしかすると、その萎縮させる仕組みが。認知症という病気を生みだしているんじゃないかね? つまりは、その仕組みを解明して、ふせぐ方法をみつければ。それが、認知症の治療方法や、さがし求めている治療薬につながるんじゃないかね?」
戸波は、自分がたどりついたその説を。同僚にむかって、興奮した様子で熱心に語り始める。
ここでようやく、この話も、新たな展開をみせる。でもそれは、戸波が予想していたような。ずっとそうなることを望んでいた。そういう展開ではなかった。
次の会社の休日に。戸波はいつものように、恋人の女性を呼びだすと。いつもの喫茶店で。彼女と待ち合わせをした。
女性は、喫茶店に、先にやってきていた。席について、スマホをとりだすと、それをいじり始めて。戸波がくるまでのヒマな時間をつぶしている。
ところが、店にやってきた今日の戸波は、いつもとは違う行動にでた。
店に入ると、店内を横切って、女性がいるテーブルにまで、まっすぐにやってくる。
それから戸波は、すわっている女性の両手をとると。驚いている女性にむかって、次のように熱烈に語りだす。
「だれよりも、まず真っ先に、君に伝えようと思って。急いでとんできたんだよ。大変なことになった。
前回の君がぼくにしてくれたアドバイスがね。あれが、新薬開発に取り入れられたんだよ!」
「!」
戸波の、突然の報告をきいて、女性はすっかり、めんくらう。
気を取り直すと、女性はその意味を問おうとするが。戸波はそれを許さずに、一方的に喋りまくる。
「とにかく、まずはきいてくれ! 開発室ではいま、君のアドバイスを参考にした、新しい試みに取り組んでいる。もしも、これがうまくいけば。認知症という病気の解明につながるだけじゃない。
この発見を踏まえて。認知症の新たな治療方法への展開や。これまでにない認知症の治療薬の開発へと、ステップアップさせることができるかもしれない!」
女性の顔は、いつものように。なかば、前髪に隠れていたが。前髪のあいだから見える目が、大きく見開かれる。びっくりした表情になる。
なにか言おうとして、いったんそれを飲みこんでから。おそるおそる、といった様子で、女性は戸波にたずねる。
「ねぇ、とりあえずは、落ち着いてよ。それから、事態を把握させて、ちょうだい……。私のアドバイスで、まさかそんなことになっているの……? あのとき、私はなにを言ったっけ? えーと、思い出してみるわね……」
「いやだなぁ。まさか、忘れたわけじゃないだろ? 君が自分で言ったことじゃないか? まさか、サカナの脳で生じる、脳量の増減を研究することが。ヒトの脳で起きる、脳細胞の減少をときあかすことにつながるとは、考えもしなかった。本当に、ただ驚くよりない。そんなこと、ぼくは思い付きもしなかったよ」
「いや。その。べつに、私は。そういうつもりで言ったんじゃないのよ。そうじゃなくてね。なんて言ったらいいのかしら。あなたを驚かそうと思って。からかうつもりで、言ってみたのよ……」
戸波が、称賛と感嘆に満ちた感想を述べるのに対して。女性は、きまり悪そうに、そう弁解する。
「ねぇ、それって。本当のハナシなの?」、
女性が、あらためて、そうたずねると。戸波は、笑顔になる。
笑顔のままで、本題をきりだす。
つまりは、こういうことだ。どうやら、ぼくたち、ヒトの脳には。特に、この大脳には。脳量の増減にかかわる、まだあきらかにされていない、仕組みが隠されているらしい。
この仕組みは、認知症だけじゃない。地球上に、これまであらわれた、脊椎動物たちの脳を変化させるのにも関係している。
どうやら。脳が変化することで。脊椎動物たちは。いま私たちが目にしている、多種多様な種類の動物に分化をとげた。そういうことらしいんだ。
そんな顔をしないでおくれよ。わかった。それじゃ、もう少し、かみくだいて。わかりやすく、説明する。
脊椎動物のなかから、新種が誕生するときは。最初の変化は、脳から始まる。脳量の変化にともない、記憶できることが増える。いろいろなことを考えられるようになる。記憶量が増えることで。もとのからだにはない、気まぐれに訪れるランダムな変化を。脳が、ほかの仲間たちとは違った使いかたができる、と。絶好のチャンスとして利用できるようになる。そのおかげで、その個体の数が増えて、新種が誕生するわけだ。
ただし、からだに新しい変化が生じても、その有効な利用方法がわからなければ、その個体は増えることができない。
重要なのは、もとのからだにはない、気まぐれに起きる奇形と変わらないランダムな変化を。(たとえば、肺や、手足や、横隔膜といった、もとのからだにはない変化を)脳が。それまで生きてきた、その個体が得てきた記憶をもとにして。生きるうえで有利に利用できるかどうか、という点だ。
もしかすると、これをぼくらは。脊椎動物の進化、と呼んでいるのかも知れないんだ。
「脳量の増加は、新しい環境にでていって。より多くの記憶量を必要とする際に生じる。経験を記憶として、より多く蓄積する必要が生じることが、脳が大きくなる条件なのだろう。
でもね。ここからが、重要なんだけど。大脳の量を増やすことばかりに注目して、その逆があるのを忘れがちだ。環境が過酷になると、サカナは、じつは必要に応じて、脳量を減らすこともできる。サカナは、大脳の量を減らして、生活するうえで必要となる、エネルギーの無駄使いを避けることができる。
だとしたら、私たちがいまたずさわっている、認知症、と名付けられた、大脳の萎縮は。これもそういう観点から再考するべきだ。そうしなければ、正しい治療方法をみつけることができない。
開発室で、ぼくは。いま言ったことを、皆に伝えた。反響は大きかった。おかげで、その結果として。皆で、この新しい観点から、認知症が発症する仕組みを再考している最中なんだよ。まさしく、君がしてくれたアドバイスが、認知症の新薬開発のターニングポイントになった、といってもいい!」
戸波がしたり顔で語る。とても信じられない、もっともらしい主張を。女性は目をまるくして、きいていた。
ようやく事態が、なんだかよくわからないが、とんでもない方向に動きだしているのを察して。女性は、まだしゃべり続けようとする戸波の腕をつかむと。動揺を隠しきれない様子で、次のように抗議する。
女性は、真剣な顔で、戸波の顔を見すえて、このように言いきかせる。
「えっ? えっ? えええぇっ! ちょっと、待ってよ。なんで、そういうことになるのよっ! いくらなんでも、それはおかしいわ。私のアドバイスをたたき台にして、新薬の開発がすすむだなんて、そんなことがあるわけない。そんなはずがない。そうなるわけがない。絶対におかしい。ねぇ、戸波さんも、そう思うでしょ?」
戸波が、とんでもないことを言いだしたせいで。相手をしていた女性は、いつもの冷静さを失ってしまう。
そんな様子の女性にむかって、戸波は不思議そうにたずねる。
「なんで、そんなことを言うんだい? こうしてうまくいっているんだから、喜んでおくれよ? それとも君は、認知症の治療薬の開発が、うまくいかないほうがよかった、と。そう言いたいのかい?」
戸波から、まじめな顔で、そう問われて。女性は、さらにうろたえる。視線を足もとにさまよわせてから、戸波の意見に、弱々しく同意をしてみせる。
「なにをいっているの。そんなわけがないじゃないの。ただ、その。ずっと進展がなくて、あんなに苦労していたのに。それが突然にうまくいったものだから。それで、ビックリしてしまって。だから、その」
女性はそう言って、ぎこちない笑顔を浮かべると、動揺している自分をごまかそうとする。それから、どこかわざとらしい態度で、戸波の成功をしらじらしく喜んでみせる。
戸波は、女性のその反応を、どこかさめた目で、腕組みをして観察していたが。ややあって、女性に、こう言いきかせる。
「いまのはウソだよ。君をひっかけたんだ。だましたんだよ。そうすればきっと、怒った君が本当のことを言う、と思ってね」
女性は、大きく息をのんでから、あわてていいわけを始めようとする。だがそのセリフが続かなくなってしまい、うつむいて、そのまま黙ってしまう。
戸波は、そんな女性の反応をうかがう。女性がうつむいて、なにも言わないままなので、戸波はさらにこう続ける。
「ねえ、君。もうこれ以上は、そんなことをしなくてもいいよ。これまでのことは、君の演技なんだろう? そうじゃないのかい?」
戸波が、そう言いきかせると。肩を落として、うなだれた格好でいた女性は、その格好のままで、低い声でたずねる。
「いつから、気付いていたの?」
戸波は、視線をそらして、このようにかえす。
「前回に。君がいままで、一度も話したことがない知識を、ぼくに披露したときだよ。あのときに、おかしい、と感じたんだ。
あの日まで。まさか君が、そんなにいろいろな動物について博識だとは思っていなかったよ。いままでそんなこと、おくびにもださなかったのに。もしかして、ずっとぼくに隠していたのかい。きっと、そうなんだろうね。
だから、そのわけを考えたんだ。あのとき、君は。なぜあんなアドバイスをしたのか。その理由を考え続けた。それとあわせて、君がしてくれた、さまざまなことを思い出してみた。
こんなに君のことを考えたのは、もしかすると、はじめてかもしれないね。それくらい必死に、君のことを考え続けたよ」
「それって、言いかえれば。いままで私のことを、ちゃんと考えてくれていなかった、って。そう言っているのと同じよね? そういうことじゃない?」
女性はそうやって、戸波を挑発する。そうすることによって、戸波が語ろうとすることを、ほかの話題にすりかえようとする。
だが戸波は、女性の妨害にはかまわず。次のように、女性に告げる。
「それだけじゃない。いや、それよりもだ。よくよく、思い返してみれば。ぼくは、君の苗字を知らない。君の名前を知らない。こうして、ずいぶんと長いこと、いっしょにやってきた、っていうのに。それなのに、君の名前を知らないんだ。
いくらなんでも、これはおかしい。ぼくの知らない。なにか得体が知れないことが仕組まれている。
だからぼくは、今日。君をここに呼びだして。なにが目的で、こんなことをしているのか。キッチリと、説明してもらうつもりなんだよ」
戸波はそこで、いったん言葉をくぎると。せいいっぱいの勇気をふりしぼって、女性に呼びかける。
「ねえ。どうか答えてくれないか? 君はいったい、なにが目的で。こんなことをやっているんだい? 君が答えないつもりでも。時間をかけてでも、ぼくは君にその理由を答えてもらうからね?」
戸波から、そう呼びかけられても。問われた女性は、喫茶店のむかいの席で、うつむいたままでいる。
しかたがないので戸波は、目の前にいる女性に。
もしかすると、恋人の女性どころか。まったくの見知らぬ他人かも知れない相手に。声に力を込めて。強い口調で呼びかける。
「ダンマリはやめてくれ! 君は何者だ? 目的はなんだ? さあ、答えてくれ!」
こちらを見すえて。ひきさがるつもりはない、と。断固とした態度で答えを要求する戸波に、女性は沈黙で応じていた。
うつむいていた、前髪でなかば隠れたその顔に、笑みが浮かぶ。その笑いは、いままで戸波が、この女性を相手にしてきて、一度も見たことがない。そんな笑いだった。
自分の失敗をごまかすために浮かべる笑いではない。これはそういうものではない。
この笑いは、あれだ。すべてを知っている立場にいる者が。自分の立場を理解せずにいる、わがままを言いだした子供を前に。あわれみの感情や、あきれかえった気持ちをこめてむける。そんなたぐいの笑いだった。
女性は、戸波とは目をあわせずに。笑みを浮かべたままで、次のように問う。
「本当に、知りたいですか? 知ったら二度と、いままでのような、平穏な日常生活を送れなくなるかもしれませんよ? この世界を愛せなくなるかもしれませんよ?
そして、きっと。こんなことなら、知るんじゃなかった、と。なにも知らないままでいればよかった、と。あとで後悔することになるのではないですか? あなたは、それでも、知りたいんですか?」
「そう言われちゃ、なおのこと、ひきさがれないね。君に言われた文句を、そっくりそのままかえさせてもらう。後悔なんてしないさ。ぼくは、そんな脅しに屈するつもりはない。脅してひきさがらせるつもりなら、相手を間違えている」
「おどし? おどし、ですって? あなたは私が、あなたをおどすつもりで。だますつもりで。そんなことを言っている、と思っているんですか? 私はあなたの身を心配しているんですよ?
あなたが幸福でいられるのは、あなたがなにも知らないでいるからです。あなたが自分の立場を理解していないからです。だからあなたは、強気な態度で。私に、真実を話せ、と命じられるんです。
いいでしょう。そこまで言うのなら、教えてあげましょう。あなたが望んだのだから。私はあなたの要求に応じたまでです。あとのことまで責任を負うつもりもないですし……」
正体不明の女性は、そこまで話して一息つくと、あらためて次のように語りだす。
「戸波さん。あなたは開発室で、新薬の実験用に持ち込まれた、脳モデルを見たはずです。あれを見て、あなたはあれが、ほかのことにも利用できるのに気付きませんでしたか?
あれがもっと有用なことに使えるのを、賢明で、観察力に優れた戸波さんなら、いつか察するんじゃないかと思って。私はずっとヒヤヒヤしていたんですよ?」
「そうかね。それじゃ、もったいぶらずに、さっさと話してくれよ! あの脳モデルが、ほかにどんなことに利用できる、っていうんだい?」
「たとえば、ですね。脳モデルに。自分は、認知症の治療薬を開発している製薬会社の社員だ、と思い込ませるんですよ。そして脳モデルに、新薬開発のシミュレーションをさせるんです。
時間と手間をかけて、目的である、つくろうとしている治療薬にかかわる、さまざまな情報を、脳モデルに学習させる。記憶としてあたえるわけです。そうやって脳モデルを成長させながら。こちらが求めている答えが得られるまで、脳モデルに考えさせるんです。
といっても。そうしろと、指示しただけでは、そうなるはずもない。だから脳モデルに、錯覚をさせる。脳モデルの精神を安定させるために。自分は製薬会社の優秀な社員であって、毎日毎日を頑張っている、と錯覚させる。恋人の女性との、つつましくも幸福な生活を送っている、と錯覚させる。
そうすることによって、いつしか脳モデルは。自分が、からだをそなえている一人の人間だ、と錯覚するようになる。脳モデル自身が、新薬開発という目的のために、自分から努力を始めるようになる。
そうすることで、脳モデルの耐久性能の限界がくるまで、これを有効に利用できるようになるわけです。そんなこともできるんじゃないでしょうか? どうですかね、戸波さん?」
「いや。待ってくれないか。ぼくが君をだましたことへの、仕返しのつもりなんだろうけど。そんなわけがないじゃないか。そんなことが、できるわけないじゃないか。ウソはやめてくれ。まるで面白くない。さすがに笑えないよ?」
「なぜです。どうして、そんなことはできない。うそだ、と断言できるんですか?
脳モデルには。それが現実の出来事なのか。それとも現実を模した、にせの情報なのか。それを区別することはできない。
脳という器官は、その構造上、脳の外から入ってくる情報を。すべての情報を、現実としてうけとめるよりないんです。
だから、あなただって。いままここで起きている、目の前のこのすべてのことを。これは現実なんだ、と信じて。脳がおさめてある、頭蓋骨の外でも。からだの外でも。これと同じことが実際に起きている、と信じて。
明日も、明後日も、この現実を続けるしかない。製薬会社で治療薬の開発を日々を。それが現実だ、と信じて。続けるしかない。そうやって、生きていくよりない。
もしかすると。実際は、そうではないのかも知れませんよ? 本当は。栄養と酸素をまぜた循環液に満たされたクリアケースのなかに沈みつつ浮かんでいる、認知症患者から提供された患者の脳細胞を培養してつくりだした、脳を模した神経細胞のかたまりなのかもしれない。
そのかたまりにつながった神経を通じて、にせの視覚情報やほかの感覚情報を送られて、それを現実だ、と信じこまされているだけかもしれない。ねえ。そうは思いませんか、戸波さん?」
自分の前にすわっている、ほんのさっきまでは、よく知っていたはずの女性は。意地悪い笑みを浮かべて、こちらに、そう語りかけてくる。
けっきょく、気圧されて黙りこんでしまったのは、戸波のほうだった。
戸波は 目の前の女性が言うことを否定しようとした。
そんはずがない。そんなことが、できるわけない。そう否定しようとした。だけど。なぜだか、それができない。
戸波は、女性の言うことを、否定もできずに、黙ってきいているよりない。
まさか、そんな答えをきかされるとは思っていなかったので、気圧されていた。あるいは、指摘されたくなかった事実を言いあてられたから、それで言いかえせなかったのかもしれない。
自分の指摘に対して、戸波が全力で反論してくると思っていたのに。いつまでたってもそれが始まらないので。女性は戸波の顔を見る。
血の気が失せた、冷汗を浮かべた顔で。うつむいて。こちらと目をあわせようともしない。うちのめされた様子でいる戸波を前に、女性はため息でかえす。
女性は席を立つと。レシートを戸波の方に押しやってから、喫茶店を立ち去ることにする。
「戸波さん、それじゃ、私は帰ります。できれば、今日、私が言ったことを。少しでいいから、真面目にうけとめてくださいね?」
「待ってくれ。ぼくは知りたいたのは、そういうことじゃなんだ。つまりは、その……」
戸波は女性をひきとめようとするが。その後姿を見送るだけで、かける言葉がどうしてもでてこない。
まだなにか、ぶつぶつと言っている戸波を一人残して、女性は彼の前から立ち去る。