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セレブラム  作者: げのむ
6/11

セレブラム 第六話


 線維化タンパク質は、正常なタンパク質とは違い、アミノ酸に分解できない。

 だから、線維化タンパク質は、脳の細胞にたまる。

 分解できないものが大量にたまるから。そのせいで、脳の細胞は活動できなくなってしまい。細胞死してしまう。

 脳の神経細胞が大量に脱落するのは、線維化タンパク質のせいだ。

 これが、アルツハイマー病になる。つまりは認知症が発症するまでの、基本的な仕組みではないだろうか。

 たしかにこの通りだ、とハッキリと証明されたわけじゃない。とはいえ、それでもようやく。病気を発症させている、原因物質だと思われるものをみつけて、そこにたどりついたのだ。

 だったら、その次は、どうにかして。その線維化タンパク質ができないようにする。あるいは、神経細胞に線維化タンパク質がたまらないようにする。そういう作用がある物質をつくりだして。その物質を治療薬にすればいい。

 それでようやく、この問題も解決にむかうだろう。

 だれだって、そう考えるし。それでうまくいく、と納得すると思う。できるだけ急いで、その治療薬を開発するように、ものごとを運ぶだろう。

 だけども、そんなふうに事態は、とんとん拍子には運ばなかった。

 戸波は、次の治療薬の候補として、線維化阻害薬の開発を、会社側に提案した。

 その頃には、会社側はすでに。テスト中だったタウ凝集阻害薬が、脳モデルの神経細胞が大量死するのをおさえられない、と把握していた。

 戸波はまず、開発室の同僚がまとめた、線維化阻害薬に関する報告書をうけとって。その内容を充分に吟味してから、上司にそれを提出した。

 会社側は、線維化阻害薬の計画書を、会議にかけたのちに。戸波をはじめとする開発室のスタッフたちに、次のように通達した。

 内容は、次のようになる。

 線維化阻害薬の企画は通す。予算もつける。だがあくまでも、現在行われている、タウ凝集阻害薬の開発の一環として開発を検討する、というものだった。

 なぜそうなったのか、といえば。線維化阻害薬の効果の真偽がわからないのと。

 線維化阻害薬もまた、タウ凝集阻害薬のひとつにふくめる、となったからだ。

 

 タウ凝集体とは。つまりは、線維化したタウタンパク質だ。

 だったら、タウが線維化する仕組みを調べたり、線維化するのをふせぐ方法をみつけるのは。これまで続けてきた。凝集化をふせぐ薬をつくるのと、いっしょではないか

 そういう理由で。線維化阻害薬の開発、という戸波のアイデアは。タウ凝集阻害薬の開発の一環として。そこにふくまれるものとして、検討されることになったのだった。

 こうして言葉で説明をすると。たしかに、同じことをやっているように錯覚するかもしれない。

 けれども、認知症の治療薬をつくるうえで。このふたつの開発は、まったく異なる内容のアプローチが必要になる。

 その後、戸波は開発室に集まったスタッフたちを前にして。会社側から発表された新しい方針について、彼なりの意見を、次のように述べた。

「今日から、新しい方針になりましたが。けっきょく、私たちがやることは、これまでと同じです。なぜ脳の細胞が大量死をしてしまうのか、そのわけをあきらかにすることと。それを阻止するための薬をつくりだすことです。

 ですが。それをなすためには、わかっていないことが多すぎる。あきらかにするべきことがたくさんある。

 けっきょく、認知症の治療薬をつくる、ということは。そのわかっていないことを、ひとつずつ解明していって。ひとつずつ問題を解決していくことにほかなりません。

 それをするのは、私ではない。治療薬の開発をしている、君たちです。君たちが頼りです。今回に決まった新しい方針のもとで、君たちがやることは増えることになる。それでもどうか、道なかばであきらめないでください」

 戸波の話をきいて、その場に集まったスタッフ一同は、その意見に同意したが、戸波の主張を支持はしなかった。あたり前だ。ただでさえ大変なのに、さらに仕事が増えるのだから、それを喜ぶ者はいない。

 特にそれ以上の意見や反論もなかったので、集まっていたスタッフたちはそれぞれの仕事にもどる。

 同僚が、スタッフたちから離れて、戸波のもとにやってくる。

 前回とは一転して、同僚は意外なことに、笑顔で、さらに好意的な態度で、戸波にこう呼びかけてくる。

「いいんじゃないか? 君を、ちょっとは見直したよ。線維化阻害薬に、安易にきりかえなかったのは賢明だったな」

「君ねぇ。仮にも、君の上司にむかって、そんなクチをきくべきじゃない、と思うんだけどねぇ?」

 嬉しそうな笑顔の同僚とは対照的に、戸波はむっつりした顔で、口調も重く、そうかえす。

 戸波から注意されても、同僚は、態度をあらためない。

 戸波のとなりにならんで、肩まで組んでくると、さらにこう続ける。

「そうでもないさ。たいしたものだよ。もう一度いうが、戸波さん、あなたは賢明だ。

 研究者ってのは。新しい原因物質と、それを用いた新しい治療薬や治療方法を見付けると。それがこの問題を解決する画期的な決め手になる、と思い込んでしまい。いままでのことを放りだして、そちらに熱中してしまう。その結果、これまでの大勢の研究者たちと同じ失敗をくりかえす。なかには、例外もあるけどね。(史実はその逆で、新しい発見の方にかじをきった人が成功したんだよな)

 認知症の歴史を学んだのなら、あなたも知っているだろう。認知症は、いまよりも少し前は、脳の血流の病気だ、と医者や製薬会社の人たちは考えていた。だから、脳の血流を改善する薬を、治療薬として必死に開発していた。

 いまじゃ笑い話だが、八〇年代はそれが正しかったんだ。脳の血流が悪くなるせいで、脳の細胞が死んで、認知症になる、と信じられていた。

 ところがそれが、二〇〇〇年以降は変わる。脳細胞が死ぬのは、異常タンパク質が蓄積するからだ、となる。新薬の開発も、そのあとはずっと、異常タンパク質ができないようにする、たまらないようにする。それをめざしてきた。

 だから、ここ二十年間あまりは、その理屈に基づいてやっている。でもこれだって、やっぱり間違っていた、となる可能性はある」

「なにが言いたいんだい? もしかすると、いまぼくたちがつくっている認知症の治療薬も。次のなにか画期的な新しい発見があれば、血流をよくする治療薬のように価値が無くなってしまう。だからぼくたちのいまの努力や苦労も、けっきょくは徒労に終わる。そう言いたいのかね?」

「そういうわけじゃないさ。そうじゃなくてね。私たちが求めている認知症の治療薬にたどりつくには、あやしげでありもしない霊感あらたかななにかじゃなくて。いま発見されている事実に基づいて、やらなきゃダメだ、と言いたいんだ。

 なぜタウの凝集阻害薬が効かなかったのか、まずはその理由を解明しなくちゃダメだ。それをしないと、線維化阻害薬でもきっと同じ失敗をすると思う。

 原因となる異常タンパク質を中心にすえた研究を続けなければ、次の新しい発見はない。めざしている治療薬や、効果ある治療方法にはたどりつけない。そう言いたかったんだよ」

「忠告してもらって、すまないが。君がなにをいいたいのか、ぼくにはサッパリなんだがね?」

 なれなれしいのはいつものことだが。同僚の意味不明の主張をきかされて、戸波はそれ以上はその話につきあいきれなくなる。

 話題を変えたくなって、戸波は開発室を見まわす。となると必然的に。戸波の視線は、透明なケース中の液体に浮かんでいる、脳モデルへとむく。

 戸波がケースの脳モデルを見ているのに気付いて。同僚もそれにつられてそちらに視線をむける。

 ケースに満たした液体中に浮かんでいる神経細胞のかたまりにむかって。発症したアルツハイマー病で刻一刻と死んでいくそれにむかって。戸波は次のように問いかける。

「これだけ、いろんなことを試している、ってのに。ぼくたちは、どうして、正しい解答にたどりつけないんだ? いったい、ぼくたちは、なにを見落としているんだ?」

 戸波は、ケースのむこうにいる存在にむかって、そう問いかけずにはいられない。

 そんな戸波に、脳モデルのかわりに、同僚がこうかえす。

「戸波さん、そいつは脳モデルだ。考えることもできないし、しゃべることもできない。仮にそれができたとしても。きっとそいつは、それはお前たちでみつけろ、とか。それよりも、さっさと自分の認知症を治せ、とか。一方的に要求してくるだけに決まっている」

 自分の切実な願いをジョークでかえされて。戸波は、ムッとした表情になると。やりきれない気持ちで、ケースのなかのそれをもう一度、ジッと見やる。


 ここで戸波の同僚が言っていた、脳の血流を改善する薬について、簡単に解説をする。ウソみたいだが、過去にはこうした血流の改善薬が、認知症の治療薬として国内で販売されて、売り上げを大きく伸ばしていた。

 ホパテは、昭和五三年一月に承認された薬で、老人ボケの防止薬として、年間で三百億円からの売り上げをだしていた。

 このほかにも、ホパテのヒットを追うように、アバンなどの同じ効果を狙った認知症の治療薬が発売された。

 こうした薬は、脳の血液循環を改善して、脳の働きをよくする、脳循環代謝改善剤、として国内で売り上げを伸ばして。当時は、その売上高は一兆円を超えていた。

 しかし、事故が相次いだのと、薬の効果そのものを疑問視されて。厚生省が再評価試験を行い、一九八九年に劇薬指定されて、認可は取り消された。

 製薬会社にダマされた、と一言でかたづけるのは簡単だ。でも認知症の治療薬がほかにない以上は、効果はないかもしれない、危険かもしれない、と医者から念を押されても、それに頼るしかないのが実情だったのだ。


 新しい方針に基づいた研究計画が開始されると、開発室のスタッフからすぐに。この問題はウチだけじゃあつかいきれない。専門の研究機関や、大学の研究室といったところに協力を依頼するべきだ、と不平不満がでるようになった。

 戸波を始めとする、製薬会社の管理職の連中は、彼らの不平不満をきいては、なんとかなだめすかして、彼らに仕事を続けるようにとりはからった。

 新しい治療薬のアイデアをだした立場上、戸波はそのことに責任を感じて、こうなったらどんなことをしても、線維化タンパク質がアルツハイマー病の原因であることを証明しよう、と考えるようになった。

 そのためにはどんなテストをやるべきか、その内容について必死に頭をひねった。

 やがてある方法を思い付いたが。それを実行するのは、気持ちのうえで抵抗があった。

 だがしかし、こうなればもう、とにかくやってみるしかなかった。

 なんでもいいから、うまくいきそうな方法を試してみるよりなかった。

 その日、戸波は、待ちあわせ場所にしている、いつもの喫茶店で、恋人の女性と会っていた。

 戸波は、女性に、これから自分がしようとしていることを、話してきかせる。

「この線維化阻害薬だけどね。認知症の治療薬になるかどうかわからないんだよ。

 だからぼくはまず、病気の原因は線維化タンパク質だ、とハッキリさせようと思う。そうすれば。開発室の皆の気持ちも前向きになるし。やる気をとりもどすはずだよ。

 じつはそのために、計画しているテストがあるんだ。それがどんなものか、というとね。いや、やっぱりまだ話すべきじゃないな。どうなるのか、わからないんだし………」

「なによ。もったいをつけないで教えてよ。なんだか、面白そうじゃない。あなたのグチをきかされるよりかは、そちらの話題のが、ずっといいわ。ぜひとも、その試み、ってのをきかせてちょうだいよ。ねえ、それはどういうものなの?」

「君ねぇ。もうちょっと、恋人をいたわってくれよ。この通り、連日の激務のせいで、すっかりくたびれちまって。君にグチを言う元気くらいしか残ってないんだからね。

 まあ、いいさ。つまりは、こういうことだ。君に、以前に。スマホのカメラで撮影した。ウチの会社で購入した、脳モデルをみせたのをおぼえているかい?」

 戸波は、女性がうなずくのをたしかめてから、次のように続ける。

「あれは、アルツハイマー病にかかっている脳の細胞からつくった、医療実験に使うツールみたいなものだ。だからあれも同じ病気にかかっているし、それがゆっくりと進行している状態にある。

 そこでぼくは、脳モデルがかかっているアルツハイマー病を。つまりは認知症を。人為的に早く進行させることを、思い付いたんだ。なにを言っているのかわからない、って顔をしているね。

 つまりだね。脳モデルの細胞中で、線維化タンパク質が急激に増えて。神経原線維変化をもたらせば。原因物質は、線維化タンパク質だ、とあきらかになる。それだけじゃない。うまくいけばその際に、どんなものを阻害薬として使えば、細胞中の線維化タンパク質の増殖をふせげるのか。それをつきとめることができるかもしれない。そうじゃないかね?」

 熱心に話をきかせている女性が、なぜだかわからないが、ずっと黙っているので。しかたなく戸波は、さらにこう続ける。

「脳の組織の変異をはじめとして、脳という器官に生じる変化を調べるには、レントゲン撮影や、CTやМRIを使うのは、もう話したと思う。でもそれにだって限界がある。脳の細胞一個一個で実際には起きている変化まではわからない。

 それをたしかめるには、患者の頭蓋骨をあけて、脳の状態を観察したり、病気になっている脳細胞を患者から定期的にとって調べなければならない。

 でも、それは無理な話だ。だいたい、そんなことしたら患者が死んでしまう。

 でもあの脳モデルを使えば、認知症にかかった脳の細胞でどんな変化が生じているのか。それを研究できる。細胞の変化が、どのように組織の変化となって、脳の器官の変化としてあらわれるのか。それを知ることができる。だからこの機会に、ぼくはそれを実行しよう、と思うんだ。

 もちろん、いまの計画は、ぼくが独断でやるわけじゃない。会社側には、すでに必要な許可をとってある。予算や計画に必要となる機材も準備をした。あとはぼくが実行サインをだして、とりかかるだけだ」

 なにをするつもりなのか。戸波がそれを熱心に語るのを。恋人の女性は、なにもいわずにジッときいていた。

 そのアイデアにどんな感想を抱いているのか、前髪で顔が隠れているせいで、表情はわからない。どうやらテーブルにおいた、自分の両手を見ている様子だ。

 あいかわらず、なにを考えているのかわからなかったが。ややあって、女性は戸波にたずねる。

「強制的に、アルツハイマー病を進行させる、そんな方法があるの?」

「そんなの無理だ、と思うだろう? でもじつは、ちゃんとあるんだよ。認知症は、異常タンパク質の蓄積が病気の原因なんだから。それが発生しやすくなる、そういう効果を持つ化学物質を。循環液にまぜて、あの脳モデルにあたえるんだ。

 うまくいけば、その方法で。こちらがさがし求めている原因物質の特定と、病気の発生の仕組みを、あきらかにできるかもしれない」

 ひさしぶりにみせる自信たっぷりな態度と、説明するのが楽しくてたまらないといった戸波の様子を、テーブルのむこうにいる恋人の女性は、隠れた前髪のむこうからジッと見ていた。

 ややあって女性は、こうかえす。

「あなたが、そうしたいなら、私はとめないわ。それが、あなたが自分でやるべきことだ、と思っているのならね。私に、あなたがやろうとしていることをとめる権利なんてないしね。それであなたが納得するのなら、やってみたらいいんじゃないかしら? だってあなたは、そうしたいんでしょう?」

「ええ。なんだよ? ぼくは君に、なにか怒らせることを言ったかい? いま話した実験の計画に、君が機嫌をそこねる要素があったかい? それとも、僕が気付いていない、なにかマズイ見落としがある、ってことかい?」

 自信満々で語った自分の計画に対して、なんだか否定的な態度と反応でかえす恋人の女性に、戸波はとまどい、困った顔をする。

 ところが理由を問われても、女性はそれ以上は語らず。それっきり、なにも言わなくなってしまう。

 戸波は、押し黙っている相手の機嫌をとろうと、あの手この手で、いろいろと呼びかけてみることになった。


 戸波が話した通りではないが、これに似たことは、実際に行われている。

 これは、線維化タウの凝集核シードを細胞に導入することで、細胞内のタウタンパク質の凝集をひきおこす、という反応になる。

 しかも、これはすでに、認知症の研究に使われる細胞をつくりだす技術として確立されていて、細胞のほうも商品としてキットで販売されているのだ。

 しかも、けっこう求めやすい価格に設定されている。


 脳モデルの細胞中に、線維化タンパク質を増やしてみよう。

 線維化タンパク質が増え続けて、脳の細胞が細胞死を始めれば。それが神経細胞の大量脱落につながれば。

 これは神経原線維変化であって。ヒトの脳の認知機能が障害される、アルツハイマー病、認知症だ、ということになる。

 そうだ。きっと、こういうことなのだ。

 戸波は、病気の発生の過程を、このように仮定すると。循環液中にタンパク質の線維化をうながす化学物質を添加することで。それを脳モデルに吸収させて。いまの過程が脳モデルに起きるのを、テストで再現しようとした。これによって、仮説を証明できるはずだ、と考えた。

 これが成功すれば、認知症の原因物質を特定したことになる。さらにだ。原因物質である線維化タンパク質を、線維化させるのをふせぐ効果を持つ物質をみつければ。それを薬として使えるようになる。求めていた認知症の治療薬をみつけたことになる。ついにそれをつくりだしたことになる。最後のは少々、気が早すぎると語り手は思うが。

 ともかく、戸波はそう考えて、この研究計画を、スタートさせた。

 あるいは、この研究計画の内容を、もっと細部にいたるまで、くわしく説明するべきなのかもしれない。でもこれ以上は、かえって読む側を混乱させるだけなので割愛する。

 今回のテストで重要なことは、線維化タンパク質の増加と蓄積によって、脳の神経細胞で、なにが起きるのかをつきとめることだった。どんな変化が細胞にあらわれるのかを調べることだった。

 となると、それをするのに、どうしても必要になるのが。脳モデル内で生じる変化を、細胞単位で観察して、それを記録することができる、高性能な医療用の機材になる。

 テストの準備として。脳モデルが入ったケースのまわりに、新しい器材が運びこまれると、セッティングされていった。

 機材のなかには、新型のMRI装置があった。MRIは、磁石と電波で写真を撮る、医療用の検査機器になる。

 この装置は、アルツハイマー病をはじめ。てんかん、のような精神疾患といった、脳で生じる病気を調べるのにも使われている。

 この新型MRI装置は、脳内の構造情報にくわえて。脳の機能活動の情報を画像でみることができるようになっていた。

 この医療機器を使って、投薬後の脳モデルの断層写真や、脳内の動画を撮って。得た記録の分析を行う。

 記録と分析に際しては、認知症の検査に用いられる専用な医療支援用のソフトウェアが用いるが。今回のテストを実施するのにあわせて、ソフトの内容を大きく変更したものが用意された。

 もうひとつは、細胞内のタンパク質の量や、その変化を調べるために使う、電子顕微鏡とその設備に。顕微鏡を動かすための専用のソフトウェアと。それらの記録用として使う新たなサーバーマシンだった。

 細胞というのは、ごく小さなものだが。今回は、その小さな細胞のなかにつくられる、さらに小さなタンパク質というものをみつけて。その変化を追跡しなければならない。

 それが、どのように変化して。変化したそれが集まって、どのようにかたちを変えて。細胞内にある、いろいろな器官にくっついて。細胞を、どんなふうに機能不良にするのか。そして、機能不良になった細胞がどうなるのか。

 細胞内に生じる特定のタンパク質の蓄積。タンパク質の蓄積による細胞小器官の変化。こういった、ごく詳細な細胞内の変化までをもとらえて、できるかぎり、すべてを記録する必要がある。

 検査室には、すでに別の電子顕微鏡がある。でも今回のために、特定のタンパク質をみつけて、そのタンパク質を追跡できるようにする。専用のソフトウェアをのせた、コンピュータ制御された電子顕微鏡が新たに購入されて設置された。

 さらに、専用のサーバーマシンを使うことで。これらの機材を使って得られる、ぼう大な量になる観察記録を、一連のものとしてまとめて。いったいなにが起きたのか。それがどのように変化したのか。その変化によって、さらになにがもたらされたのか。そうしたすべてを、解析しやすいかたちにする。そういう環境がととのえられた。

 戸波は、集まっている開発室のスタッフたちに、用意した器材を、どのように使うのか。これを使って、なにを調べなければならないのか。それをひと通り、話してきかせた。

 説明が終わると、戸波は質問を受けつける。スタッフのうちで手をあげたのは同僚だった。同僚は次のように、戸波にたずねる。

「これだけの機材を購入するのに。いったいどれくらいの費用がかかりましたか? あ、いや。やっぱり、きかないでおきます。

 テストを始める前に、たしかめておきたいんですがね。これだけの機材と人力を投入して。もしも、さがしているものがみつからなかったら、そのときはどうしますか? やっぱりダメでした。わかりませんでした。そういうわけにはいきませんよね? それとも、成功につながる貴重なデータが得られた、ってことで納得してもらえますか?」

「テストを始める前から、不吉なことをいわないでもらえるかな? ぼくとしては、今回のテストを通じて、なにがなんでも、病気の発症の謎の解明につながる。なにか重大な発見をしてもらうつもりだよ。きっとできるはずだ、うまくいくはずだ、と信じている。そうでなくちゃ、この研究計画をやる意味がない」

「それはつまり、君たちならできるはずだ、っていう信頼じゃなくて。なんとかしろ、って命令ですよね? そういうことですよね?」

 まだ煮え切らない態度でいる開発室のスタッフたちを前に、戸波はあらためて、次のように言いきかせる。

「こうなったら、なんとしても、認知症の薬をつくりあげるんだ。それがすべてに優先される。君たちも、それを自身に言いきかせてもらいたい。いや、言いきかせるだけじゃダメだ。なんとかして、成し遂げるんだ。君たちもわかってくれるはずだ。そうだよね?」

「……」

 そのように力説する戸波に、だがしかし、スタッフから返事はかえってこない。

 戸波の説明をきいて、同僚をはじめとする開発室のスタッフたちは、皆がげっそりとした表情で黙っている。

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