セレブラム 第五話
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戸波が、会社から連絡を受けたのは。勤務を終えた、帰宅後のことだった。
連絡をしてきたのは、会社の上司ではなかった。開発室で働いている例の同僚だった。
大変なことがわかりました。すぐにきてください。そんな、せっぱつまった同僚の訴えを、スマホ越しに戸波はきかされて。大急ぎでまた着替えると、タクシーを呼んで、マンションから会社にむかう。
開発室には、戸波を呼びだした同僚だけではなく。今回の新薬の開発において、責任ある役目をまかされているスタッフの面々がすでに集まっていた。
彼らの表情をみれば、なにかマズイことがあったのは、あきらかだった。
戸波は、それをたずねるのを躊躇したが。こんな遅くまで仕事をさせてすまない、と彼らをねぎらってから、意を決して呼びだした理由を問う。
「それで、どうしたんだね? 実験中の試薬になにかあったのかね? まさか、タウの凝集体の除去ができなくなったのかね?」
「いえ、そうじゃないんですよ。その、なんと言いますか。私たちにもよくわからないんですが。ええと、じつはですね……」
同僚は、持ってきた自分の仕事用のノートパソコンを操作して。開発室の備品である大型液晶モニターに、開発中の新薬に関するテストの内容の一部を表示する。
同僚は、戸波に、次のように説明を始める。
試薬の開発は順調です。テストの結果も、この通りに良好でして。こちらが意図した通りに、試薬の効果は強められています。
問題は、脳モデルのテストのほうです。
こちらが、試薬の投薬後に、脳モデルから採取した組織片を調べた、テストの結果です。
みてください。こちらの狙い通りに、脳の細胞内で、タウ凝集体の量が増加しなくなりました。それどころか、凝集体の量が、ハッキリと減少を始めています。
このテストの結果だけをみても、私たちは目的の阻害薬をほぼ完成させた、といっていいでしょう。ところがです。ところがですよ。
同僚は続けて、液晶画面に表示されたテストの内容をきりかえる。それを見て、戸波は表情をこわばらせる。
「これは、なんだ?」
ここで、いまのやりとりについて、補足の説明をしておく。
同僚が話していたように。開発室ではいま、実験中の試薬を投与した脳モデルから、試料となる組織を採取して。そこにふくまれているタウの凝集体の量を調べる、という検査を行っている。
それと同時に。試薬をあたえた脳モデルにどんな変化が生じたのかをたしかめて記録しておくために。エックス線で撮影ができる医療機器をよそから持ってきて。その医療機器で、脳の内部の写真をとることを始めていた。
なんでこんなことをしているのか、というと。試薬を投与することで、脳モデルに、こちらが求める変化が起きているのかどうか、それを知るためだった。
たとえば、認知症かどうかを知るのに。つまりは脳の萎縮の程度を調べるのに。CTやМRIを使った画像による診断が、すでに用いられている。
でも開発室のスタッフが求めているような、ごく短い期間内での脳の萎縮の進行の具合を調べることは、じつはとてもむずかしい。
なぜなら、認知症はゆっくりと進行する病気なので。脳の断面図をみても、短期間でどのような変化が生じたのかをつきとめるのは、よっぽどの専門家でもないと無理だからだ。
そこで開発室のスタッフは、脳モデルの内部の様子を。つまりは脳萎縮が起きている脳の部分を。脳の内部を撮影できる医療機器で撮影してから。撮影したものを、コンピュータで補正して。拡大して。その拡大写真を、時間の経過にあわせて比較する方法で。脳モデルにどのような変化が生じているのかをたしかめる方法をあみだした。
いろいろと自由に実験できる脳モデルと。
脳の内部の様子を細胞レベルで調べることができる医療機器と。
このふたつを使い、開発チームのスタッフは、試薬の投入後に、アルツハイマー病の脳の細胞がどんな変化をするのか、それをダイレクトに研究できるようになったのだ。
そして戸波が思わず、これは、なんだ、と言ったのが。いま言った、その医療機器で撮影した拡大写真だった。
その写真に映っているのは、萎縮が起きている、脳内の1ミリ平方メートルの範囲を拡大した脳内の様子だった。
神経細胞と、ほかの神経細胞とをつないた、シナプスが写っている。といっても専門家ではない戸波には、それがなんだかわからなかったが。
戸波が見ているものを、どう表現したらいいのだろうか。たくさんの透明な植物の種が発芽して、透明な根をのばしてひろがっている。そのひろがった根と根がからみあって、ゴチャゴチャしたかたまりをつくっている。そんなものだ。
写真を見ても、そこでなにが起きているのか、それを読みとれずにいる戸波に気付いて、同僚がノートパソコンを操作する。
それにより、この写真のどこに神経細胞があって。それぞれの神経細胞からシナプスがどのように伸びて展開しているのかを。ひとつずつ色分けして、わかりやすく処理した写真にきりかわる。
同僚はさらに、この二週間のあいだに、神経細胞とシナプスが、いったいどのように変化していったのかを。コンピュータ処理した写真を比較させる方法で、戸波に伝えようとする。
優秀な医療ソフトなのだろう。拡大写真内にうつっている神経細胞の数をカウントして、数の変化を画面内にいっしょに表示してくれる。
戸波は、自分が見ているものが信じられなかった。驚きの気持ちをそのまま、くちにだして訴える。
「神経細胞の数が減少している。細胞が少なくなっている」
「そうなんです。重要なのは、これが今回の試薬の投薬実験中に起きていることです」
同僚が自分になにを伝えたいのか、戸波はくみとったが。相手がそれを言う前に、戸波は急いでそれを否定する。
「そんなわけがないだろう。そんなことはありえない。試薬はちゃんと効果を発揮して、脳内のタウの凝集体の量は増えなくなっていた。いいや、それどころか。細胞死を起こす原因物質は減っていた。それなら、これまでのような脳細胞の大量死は起きないはずだ。脳細胞は死なないはずだ。これはどういうことなんだ。理屈にあわない。おかしいじゃないか」
戸波は、感情的になってしまい、声を荒げて理由を求めるが。戸波の問いに答えられる者は、その場にいない。
しかたがないので、同僚が、開発室の面々の気持ちを代表して、こうかえす。
「ハッキリとは断言できませんが。もしかしたら」
「もしかしたら?」
「あくまでも可能性ですが、次のように考えられます。試薬は効果を発揮した。ですが、タウの凝集体の蓄積は、すでにその前にされていた。そして凝集体の蓄積量がある程度に達すると、細胞死は始まってしまい、もうとめられなくなった。試薬で蓄積量を減少させても、すでに指示はだされたのと同じで、神経原線維変化、神経細胞の細胞死はおさえられなかった。そういうことじゃないでしょうか?」
「つまりは、試薬はキチンと効果を発揮したが。神経原線維変化を、認知症の進行をとめるには遅すぎた。君はそう言いたいのかね?」
「そうです。そして、そうなのだとしたら、タウの凝集体の蓄積が始まる以前に、この試薬を使わなければ、認知症をおさえられないことになる」
「待ってくれ。それじゃ。君が言っているのは、つまり……」
戸波は、セリフのその先を続けられなくなる。
それは、アミロイドベータ仮説にもとづいて認知症の治療薬をつくっている研究者たちが。アミロイドベータの凝集体の量を減らす薬がうまくいかなかったときに持ちだしたのと、同じいいわけじゃないか。
ぼくたちはそれをみて、自分たちは同じ失敗はしないと、タウを対象にした薬を開発しようとしたっていうのに。
戸波はそう訴えようとしたが、必死の表情で自分を見ている、同僚や開発室のスタッフたちの表情を見て、彼らの心中を察して、思いとどまった。
彼らのここまでの努力を、自分の発言でないがしろにするわけにはいかない。
そこで、そのかわりに、戸波はこうかえす。
「たしかに、そうかもしれないな。その可能性も検討するべきだ」
戸波の返答をきいて、その場にいる全員が、ホッと胸をなでおろす。彼らにむかって、戸波は、こう言いきかせる。
「わかった。いまの意見も、可能性として検討しよう。
それにだ。脳モデルを使ったテストを始めて、まだ二週間たらずだ。試薬の効果があらわれて、神経細胞の細胞死がゆるやかに減少するのは、もしかすると、これからかもしれない。
今回のテストの結果で、すべてがあきらかにされたわけではない。なにかの決着がついたわけでもない。だからこのまま、試薬のテストを続けてくれ。そして、脳モデルへの試薬の影響を私に報告してもらいたい。あきらめずに、試薬の開発を続けよう。さあ、かかってくれ」
戸波の指示をきいて、思いつめた表情でいた開発室のスタッフたちは、息をふきかえしたように各々の仕事を始める。
戸波は、彼らの仕事ぶりをたしかめてから、その場を離れる。でも戸波の顔は、にが虫をかみつぶしたようにシブい表情になっている。
戸波は、苦しい立場に立たされた。
これまでだって、目的である認知症の治療薬をつくれていないのだから、苦しい立場なのに変わりはなかった。でも今回のは、特にきびしく、つらいものだった。
今度こそ成功させる、という気持ちで望んだ、タウ凝集阻害薬の開発がうまくいっていない。試薬を使っても期待した効果があらわれない。
失敗したわけじゃない。その逆だ。うまくいった。狙い通りに、神経細胞中のタウの凝集体を減らすことに成功した。
ところがだ。細胞中のタウの凝集体が減ることでおさまるはずだった、脳の神経細胞の大量死がとまらない。投与した薬は効果を発揮して凝集体を減らしているのに、認知症の症状そのものは進行している。
それはつまり、認知症の治療薬として、開発中の新薬は効果がない。そういうことになる。
この結果のせいで。戸波は、これまで続けてきた、新薬開発の方針を転換せざるを得なくなった。
事態は深刻だった。なぜならば。これからどうすればいいのかを、新たにまた、考えなければならなくなったからだ。
戸波は、製薬会社の社内に用意された。せまい自分の仕事部屋のなかで。椅子にすわって、両腕で自分の頭をかかえた格好で、机につっぷしていた。
その格好で、戸波は、朝からずっと、自問自答をくりかえしていた。
「どうしたらいいんだ? これからいったい、どうしたらいいんだ?」
会社が求めているのは、ちゃんと効果がある、認知症の薬だ。それをつくりあげるのに、途方もない額の大金をつぎこんで。優秀な人材と、高価な器材を酷使してきた。自分もその期待に応えるために、今日まで頑張ってきた。
ところがここにきて、治療薬をつくるうえでの根幹だった、タウ仮説というものが揺らいでいる。その仮説に従って治療薬をつくるべきかどうか、あやしくなっている。
戸波は、机にうっぷした格好のままで、自分に問う。
「もしも、本当にそうだ、としたら? タウ仮説が間違っていたら、どうする? そんなことになるとは考えたくもないが。またイチから、べつの原因物質をさがして。新しい治療薬を開発しなくちゃならなくなるのか?
かんべんしてくれ。そんなことになったら、いったい、どれだけのカネと時間と手間がかかる、と思っているんだよ? だいたい、いままでかかった開発費用だって。すでにもうかなりの額になる。それなのに……」
治療薬の開発にかかった今日までの費用は、合算の報告書として、定期的に戸波のノートパソコンに送信されている。だが今日は、戸波は報告書のファイルをひらけなかった。ひらくのが、おそろしかった。
以前にもいったが、新薬をつくるのには、とにかく大金がかかるのだ。
どれだけの費用をかけるのかは、製薬会社ごとに異なるので、これだけかかる、と断言はできない。
それでも製薬関連の関係者の意見として。新薬の開発にかかる費用は、十億ドル以上、一千億円以上。
開発期間は、承認されるまでに、10年から15年はかかる、といわれている。
そしてなによりも、つくりださなければならないのは、難題中の難題である、アルツハイマー病の治療薬だ。費用がどれくらいかかるのかなんて、だれにも見当がつかない。
最初のあたりで述べたように。アルツハイマー病の治療薬として承認された薬は、一九九八年から、現在までで、まだ四つしかない。その四つも、病気の悪化を遅らせる薬で、認知症を治療する薬ではない。
認知症の治療薬が求められていないわけじゃない。世界的にすすむ高齢化のせいで、認知症の患者は増える一方で、治療薬は常に必要とされている。各国の製薬会社は、必要とされている治療薬を、急いでつくりだそうとしている。でもそのつくりだそうとする試みは、ことごとく失敗に終わっている。
現在までに、開発に失敗した認知症の治療薬の数は、一四六にもなる。
投じられた開発費用は、累計で六十兆円以上になる、と試算されている。
「そして、このままだと。ぼくたちがつくっている、このタウ凝集阻害薬も、失敗した新薬の仲間入りをしてしまうかもしれないわけか……」
自分の心配が、ただの取り越し苦労で終わればいいが。昨日の脳モデルを使ったテストの結果をみるかぎり、その可能性はない、とはいえない。むしろ、充分にある、といっていい。
それならできるだけ早く、方向転換を決めて。次のもっと可能性がある治療薬に、資金と人力をふりかえなければならない。そして、それを決めるのは、ほかでもない、自分なのだ。それが自分の役目なのだから。
「……でも本当に、それでいいのか?」
そうなのだ。同僚や、開発室のスタッフたちが主張したように。タウ仮説が間違っている、となったわけじゃない。ハッキリと、そうだ、と決まったわけじゃない。
やはりタウの凝集体が認知症の原因であって。まだ私たちが見付けていない、なにかの仕組みが。神経細胞の死を。アルツハイマー型の認知症をもたらしているのかもしれないのだ。
もしも、そうだとすれば。ここで方向転換をして、新しい治療薬の開発にとりかかるのは間違いだ、ということになる。
このまま、タウ仮説に基づいた新薬の開発を続けるのが、会社や上司が求めている治療薬にたどりつく、正しい選択になる。
「タウ仮説を信じて、ここまで頑張ってきた、開発室の皆も。その意見に賛成してくれるだろう。だけど、もしも。もしも、そうでなかった。そのときは……」
タウ仮説は間違いだった。タウ凝集阻害薬では、認知症の治療はできない。そうなってしまったら。効果がない、とわかっていた治療薬の開発をさせたことになる。そして、その責任をとるのも、やはり自分だ。
テストの内容を知っていたのに。なのにそれでも方向転換をしなかった責任を。会社に大きな損害をあたえてしまった責任を。自分はとらなければならなくなる。
「なんてこった。いっそ、テストの結果なんて知らなかった、で通そうか? いや、それは無理だ。居合わせた人たちが多すぎる。それは許されない。それにそこでかじをきるのが、自分の役目なんだしな」
どうすればいいのか、わからなくなってしまい。追いつめられた戸波は、冷静になるように、自身に言いきかせる。
戸波は、どちらが正しい判断なのか。それを見定めようとする。
それを決めるのに際して。戸波は、ここまでわかったことで、なにか見落としがないか。それをひと通り、ふりかえってみる。
まずは、大前提として。アルツハイマー型の認知症は。神経原線維変化が原因で起きる。そして神経原線維変化は、脳の神経細胞が、なにかが原因で大量に死ぬことで起きる。
老化現象で、少しずつ脳の細胞死が進行するよりも。頻繁に大量に細胞死が生じると、認知症になる。ここまではいい。
脳の神経細胞の大量死は。細胞に、アミロイドベータの凝集体が生じる。タウの凝集体が生じる。これらの異常タンパク質が、大量に蓄積することによって生じる。
ただし、アミロイドベータやタウの凝集体がたまるからといって、細胞はすぐに死んでしまうわけではない。蓄積が始まってから、10年、20年と。長い時間が経過してから、細胞死は始まる。
長い時間をかけて凝集体が蓄積していって。細胞の機能が低下していって。ついに大量死が始まるのだ。
自分は学者ではないし、研究者でもない。
それでも、ここまでのことからわかるのは。脳の細胞の死は。神経細胞の外側や内側に、タンパク質の凝集体が増えると起きる、ということだ。
ただし、アミロイドもタウも、どちらも神経細胞が、細胞の活動のためにつくっているタンパク質になる。
それじゃ、もしかすると。ある特定のタンパク質じゃなくて、変化したタンパク質が集まってできたものがたまると。神経細胞は、認知症を発症させる。早すぎる細胞死をむかえる、ということなんだろうか。
「まさかそんな、単純な仕組みなわけがないよな? 細胞死が起きるのには、なにかもっと別の理由があるはずだよな?」
戸波は、自身にそう言いきかせるが、いったんめばえた疑念は消えない。それどころか、その疑念が事実かどうかをたしかめたい、という衝動がわきあがってくるのをおさえられない。
胸中にわいた消えない疑問を解消するには、仕事を中断して手もとのパソコンやスマホで検索して解答をさがすか。こういうことに、自分よりもくわしい相手にきいてみるよりなかった。
悩んだすえに、戸波は後者を選択することにする。戸波は席を立つと、開発室にむかう。
神経細胞が死ぬのは、異常タンパク質の凝集体ができるからだ。
ならばその、タンパク質の凝集体とは、なにか? 細胞がつくる、ほかのタンパク質と、どのように違うのか?
もうひとつ、わからないことがある。神経細胞の細胞死が、凝集体が細胞の内外に集まったせいならば。もしかすると、タンパク質の種類にかかわらず、それは起きるのではないだろうか?
思いつめた表情で、そう質問をする戸波に。開発室にいた同僚は、どう答えたものか、悩んでいる様子だった。
同僚は腕組みして考えこんでいたが。質問そのものよりも、なぜこんなことをきかれるのか。そちらのが気になったのだろう。ややあって、戸波に問いかえす。
「いまの、あなたの質問ですがね。今回の、開発中にあるタウ凝集阻害薬がうまくいってない件と、どんな関係があるんでしょうか? もしかすると、こちらの返答の内容しだいで、今後の新薬開発の成り行きが変わるんじゃないですか? もしもそうなら、開発室のスタッフとしては、発言に慎重にならざるを得ないんですがね?」
同僚の、自分を疑っている、真意をさぐっている、とわかる表情をみて。戸波は、わざとらしく肩をすくめてみせると、こう言いきかせる。
「いやいや、そういうことじゃないんだよ。これは、なんというのか、もっと個人的な問題なんだよ。
とにかくまずは、この疑問を解決しないと。次になにをやるべきなのか。ぼくはそれがわからない気がするんだよ。
それに、もともと、ぼくの仕事は。会社の利益になる、正しい選択をすることだ。いまのぼくの質問にしても。これは会社のために必要なことになる。それを踏まえて。正直に答えてもらえないか?」
「と、いわれましてもねぇ。開発室の一員としては、タウ凝集阻害薬以外の選択をさせるような返答を、したくはないんですがねぇ。
あー。はいはい。そんな顔をしないでくださいよ。わかりましたよ。まずは会社の利益を優先ですよね? それじゃ、あなたがなにを知りたいのか。それを、もう少し、具体的に話してもらえませんか?」
同僚から、嫌々といった態度でうながされて。戸波は、まずはタンパク質というものについて教えてもらいたい、ときりだす。
戸波の話をひと通りきくと、今度はそれに対して、同僚が説明を始める。
あなたがなにを知りたがっているのか、それはわかりませんがね。
タンパク質ってのは、それぞれに正しいかたちがあって。ちゃんとそのかたちになっていないと。私たちのカラダが必要としている、正しい細胞の活動ができなくなるんです。
認知症の原因物質であるアミロイドベータも、タウタンパク質も、本来のかたちではなくて、凝集体というかたちになってしまうから。だから、神経細胞の活動をジャマして。あげくに細胞死させてしまうんですよね。
分解されずに細胞内にとどまるから、細胞がつくりだすほかのタンパク質とくっついて、そのジャマをする。それで、神経細胞は機能不全になってしまうんです。
同僚が語る説明を、戸波は、理解できない、という顔できいていた。
その様子をみて。同僚は、開発室にある自分のノートパソコンをとってくると。起動させて。タンパク質の構造体のイラストや、タンパク質のはたらきをわかりやすく解説した動画を表示させる。それから戸波に、もう一度説明を始める。
ここでまた、補足の説明をさせてもらう。
私たちのカラダは、約37兆個からある細胞でできている。
その約37兆個の細胞は、細胞がつくりだす、さまざまな種類のタンパク質によってコントロールされている。
私たちのカラダの約37兆個の細胞は、10万種類以上ある、多種多様なタンパク質をつくりだす。
10万種類以上からあるタンパク質は。私たちのカラダの細胞をつくったり、ほかにも細胞同士の連絡に使われている。
細胞同士の連絡に使われるタンパク質は、ごく微量でも作用して、私たちのカラダの細胞に、特定の行動をとらせる。そしてその必要がなくなると、指示をだすタンパク質は分解されて、細胞がやっていた特定の行動も終わる。
私たちの生命活動は。カラダを構成している個々の細胞で。そのときに必要となるタンパク質がちゃんとつくられて。そのタンパク質を細胞側がちゃんと読みとって。細胞が正しい活動をすることで維持されている。
だから、なにかのきっかけで。必要がないタンパク質がつくられてしまい。
その必要がないタンパク質が、細胞にずっと残ると。細胞の活動に支障が生じるようになる。
どういうことか、というと。必要な活動が終われば、細胞でつくられるタンパク質は、細胞側がどうにかして分解して、アミノ酸にもどして、細胞内から消そうとする。そういう仕組みになっているのだ。
そして、このタンパク質は。細胞でつくられるタンパク質は。私たちがイメージするような、四角とか三角とか、それぞれのタンパク質の区別が容易につけられる、そういうわかりやすいかたちをしていない。
タンパク質は、20種類のアミノ酸からつくられる。一列になったアミノ酸が、折りたたまれて、修飾をうけて、かたちがそれぞれ異なる、個別の立体構造をとる。
言葉では伝えにくいが。ビーズ玉をつないだ長い糸でつくった、いろいろなかたちをしたオブジェのようなもの。かたまりみたいなもの。そういうものだ、と思ってもらえばいい。
この不思議なかたちのオブジェは。私たちの細胞で。DNAとよばれているタンパク質の作製コードの集まりをもとにして。RNAを転写することで、つくられる。そして、私たちの生命活動の基本となる、細胞の活動に使われるのだが。今回の話の趣旨でいうと、いろんな病気を発症させる原因にもなってしまうのだ。
どういうことか、というとだ。前述したように、細胞はほかの細胞への伝達や指示に、多種多様なタンパク質を使っている。
だから、次はこういう活動をしろ、という指示は。その都度に、それぞれ決まったかたちのタンパク質をつくることで、ほかの細胞へと伝わる仕組みになっている。
ビーズ玉の列でつくった、妙なかたちをしたかたまりは。その都度に、必要とされるかたちにならないと。からだの各所の細胞に指示を伝えて、必要な活動をさせられない。
ところが、なにかのミスで。たとえばDNAの異常などで。タンパク質がつくられても、求められている必要なかたちにならないと。そのせいで、細胞間の連絡がきちんと伝わらなくなる。
世間でいう難病の多くは、タンパク質の構造体が、求められているかたちにならずに、細胞に必要な指示を伝えられないせいで起きる。
細胞間の情報伝達がうまくいかないから、神経や筋肉や特定の器官がちゃんとはたらかない。まっすぐに歩けない。舌がうまく動かずにしゃべれない。ふるえや痙攣がとまらない。そういうことになる。
その治療として。必要な指示をだすタンパク質をみつけてつくりだし。それをクスリのかたちにして、ちゃんと動いていない細胞に送る。そういうことが必要になる。難病の新薬は、このようにしてつくられたりする。
「今回のような神経変性疾患はですね。タンパク質のかたちが変わって、異常タンパク質になってしまい。そのせいで、神経細胞の活動がジャマされて、いろいろな脳の病気としてあらわれるものになります」
「なるほど、そういうことか。それじゃ、ぼくたちが問題にしている、認知症の原因である異常タンパク質は。つまりは、アミロイドベータの凝集体や、タウの凝集体は。いったいどんなもので。どんなかたちをしているんだい?」
「最新の研究によれば。老人班や、神経原線維変化は、異常タンパク質が高密度に線維化したせいで起きる、と言われています」
「タンパク質が線維化するって。どういうことだよ、それは?」
ききなれない文句をきかされて、戸波はとまどう。それに同僚は、こうかえす。
「つまりですね。アミロイドベータの凝集体、タウの凝集体、と言ってはいますがね。じつはどちらも、線維化したタンパク質が集まってできたものなんですよ」
線維化タンパク質、という。あからさまにあやしげな。間違いなく、病気にかかわっていそうな単語をきかされて。戸波は大急ぎで、同僚に次のようにきいてみる。
「ぼくは、異常タンパク質が神経細胞を殺してしまう原因物質だ、と思っていたが。もしかすると、その線維化タンパク質とやらが、それをやっているんじゃないかい?」
「断言するのは避けますが。その可能性はありますね。でもそうじゃないかもしれない。なにが言いたいのかというとですね。このあたりについては、まだわかっていないことばかりなんですよ」
同僚の、サッパリ要領を得ない説明をきいて、戸波は、なんだよそれは、とかえす。
ここでもう少し、タンパク質のかたちの変化、について語るべきだろう。
前述したように。私たちのカラダの細胞は。細胞の活動のために、さまざまなタンパク質をつくっては。活動が終わってそれが不要になると。それを分解してアミノ酸にもどしている。
そうやって、たくさんのタンパク質をつくっては分解していると。なにかがきっかけや原因になって、もとのタンパク質から変化してしまうものがあらわれる。
本来は、水に溶ける性質だったものが、水に溶けない性質になってしまう。
指示を伝えるために、正しいかたちにつくったのに。折りたたまれていたのがほどけて、かたちが変わったり。ちぎれて、かたちが変わってしまう。
ほかのタンパク質と反応して、本来の性質よりも高リン酸化をしたりする。
さらには、ちぎれたパーツがほかのタンパク質にくっついて、ほかのタンパク質のかたちを変えてしまったりする。そのせいで、アミノ酸に分解できなくなってしまう。
そうやって、かたちや性質が大きく変わると、細胞への指示が伝わらなくなる。指示が伝わらないので、細胞の活動がうまくいかなくなる。
このような、やっかいな変化のひとつに、タンパク質の線維化、というのがある。
(ちなみに、繊維化タンパク質、というのもあるが。こちらは細胞骨格の材料になるなど、正しい状態のタンパク質なので、まぎらわしい)
脳の神経細胞で、不溶性の線維化タンパク質ができると。溶けないし、分解されないものだから。残ったこれが、だんだんと増えていく。
増えた線維化タンパク質は、神経細胞の活動のジャマを始める。
神経細胞の中や外に、線維化タンパク質がたくさん集まって蓄積すると。神経細胞は、生きてはいても、本来の細胞の活動ができない状態になってしまう。
これが、凝集体の蓄積による神経細胞の機能不全、の状態にあたるのではないか、と考えられている。
そして、それ以上に、大量の線維化タンパク質が増えて蓄積されると。脳の神経細胞は、機能不全どころか、細胞死してしまう。
これが、神経原線維変化や、神経細胞の大量死、にあたるのではないか、と考えられている。
同僚の説明を黙ってきいていた戸波は、そこであることに気付く。ある疑問をいだく。
戸波は、同僚に、きいてみる。
「凝集体、って言っているけど。それってつまりは、線維化タンパク質のことなのかい?
それじゃ、もしかすると。ほかの神経細胞の病気も。つまりは神経変性疾患も。その、線維化タンパク質、ってのが原因で起きるんじゃないかい?」
「そうですね。そういうものもありますね。たとえば。パーキンソン病は。アルファ、シヌクレインというタンパク質が線維化して。それが蓄積するせいで起きるのではないか、と考えられています。
このほかにも、いくつかの神経系の難病は。神経細胞の内外で、原因となる特定のタンパク質が線維化してしまい。それが神経細胞に蓄積することで、細胞の活動をジャマして機能不全にする。そのせいで発症するんじゃないか、と考えられていますね。といっても、どれも仮説であって、証明されたわけじゃありませんけどね」
同僚が、熱の入らない態度で語る解説をきいて。戸波はあっけらとられる。戸波は頭をかかえる。
戸波は、目の前で自分の反応をながめている同僚にむかって。自分よりもこの分野にくわしい見識がある専門家にむかって。信じられない、といった驚きをあらわにした態度と声で、こう訴える。
「なんで? そこまでわかっているのなら。それなら、いっそ、その線維化タンパク質がつくられないようにするクスリを。つまりは、タンパク質の線維化阻害薬をつくればいいじゃないか!
線維化阻害薬なら、もしかすると、認知症の治療薬になるかもしれない。いいや、認知症の治療薬だけじゃない。それ以外の神経系の疾患にもきくかもしれない。うまくすれば、神経変性疾患の特効薬になるかもしれないじゃないかっ!」
戸波としては、相手の度肝を抜くような、とても素晴らしい革新的なアイデアを述べたつもりでいた。
ところが、戸波が語る主張をきいても、同僚はべつに驚いたりしなかった。
戸波にむかって、戸波がやったように、同僚は肩をすくめてかえす。それから同僚は、さめた口調で、こうかえす。
「可能性はあります。そう主張する研究者もいます。もしかすると、本当に、あなたが言うことが正しいのかもしれない。
でもタンパク質が、私たちの細胞にどのような挙動をもたらすのか、それについてはまだわからないことのが多い。
なによりも、数が多すぎます。20種類のアミノ酸をつなげてつくったものなのに。組み合わせた種類のバリエーションは、とんでもなく多い。ヒトの細胞がつくりだすタンパク質だけでも、10万種類以上あるんです。それをつきとめるだけでも、大変な苦労です。
けっきょく、この分野はまだわからないことのが多すぎる。
新しい原因物質と、新しい理屈に基づいた治療薬をまつりあげて、それを行きづまっている現状を打破する画期的な解決策になるはずだ、と夢想するのは、危険じゃないでしょうか?
いま原因物質として可能性が高いのは、タウタンパク質です。タウタンパク質の凝集体が、神経細胞を細胞死させる、という理屈です。
だったら、まずはタウを中心にすえた、治療薬の開発を続けるべきです。安易に新しいことを始めても、失敗するだけです。
ここはまず、これまですすめてきた、タウ凝集阻害薬の効果の検証をやって。問題点を改善することから始めましょうよ。
新しい可能性にとびつくのもけっこうですが。そのせいで、よけいな混乱をまねいてしまい。求めている治療薬から遠ざかったらしかたがないですよ。
タウ凝集阻害薬の開発はきっと、神経細胞の大量死の原因や仕組みを解明することにつながるはずです。だからここは、これまで通りに、タウ凝集阻害薬でいくべきですよ。私はそう思いますよ?」
いつになく真剣な態度で訴える同僚の、きわめて現実的で、具体的な意見に、戸波は反論のしようもなかった。
戸波は、腕組みをして、ひとしきり悩んだあとで、たしかにその通りだ、とうなづく。
ホッと安堵する同僚に、戸波は次のように伝える。
「だがね。それでもやはり、ひとつの可能性として。線維化阻害薬についても検討をしてもらいたいんだよ。
開発室のスタッフの、この方面にくわしい者に報告書を書かせて、研究と開発には、どのような計画が必要になるかをまとめてもらい、それを私のところに送ってもらいたい。いいね?」
同僚は戸波の指示に、不服そうではあったが、それでも、わかりました、とかえす。