セレブラム 第四話
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「タウ仮説とは。アルツハイマー型の認知症は、タウがもたらす神経原線維変化が原因だ、という説だ。
ぼくたちは、その説を支持している。タウ仮説に従うなら。タウが脳内に不要に蓄積するのをふせぐ。そういう効果を持つクスリをつくれば。それが認知症の予防薬、治療薬になるはずだ。分類としては、それは、タウ凝集阻害薬、になるのだろうね」
製薬会社の勤務が終わって、会社をでた戸波は。いつもの喫茶店で、恋人の女性と、いつものように、二人で会っていた。
恋人の女性から、いつものように今日あった出来事を問われた戸波が。開発中の自分たちの治療薬について語ったのが、いまのセリフになる。
戸波の説明をきいても、恋人の女性は、納得がいかない様子だった。腕組みをして、考え込んでいる。
しかたがないので、戸波は一人でしゃべり続ける。
「アルツハイマー博士が発見した、脳萎縮をもたらす、神経原線維変化というもの。
認知症という病気は、この神経原線維変化のせいで起きる。そして神経原線維変化は、タウが原因で起きる。となれば、神経原線維変化を生じさせないように、原因であるタウを脳内に蓄積させない、そういうクスリをつくればいい。神経原線維変化をおさえこむことが。その方法をみつけることが。その効果をもたらす薬をつくることが。認知症の治療薬の開発になる。そういうことになる」
戸波の主張を、女性は黙ってきいていた。そこまできいてもやはり、納得できなかったのだろう。女性は、戸波にたずねる。
「それじゃ、あなたが前に言っていた。アミロイドベータは認知症の原因物質だ、っていう。あの主張は間違っていた、ってことになるの? アミロイドベータが脳内に蓄積しないようにする薬をつくっている、ほかの製薬会社の治療薬は。間違った薬をつくっている。効果がない薬をつくっている、ってことなの?」
「いや、そうじゃないんだ。じつは、アミロイドベータも原因物質のひとつなんだ。ちゃんと認知症の原因なんだ。そのあたりを、いったいどう説明したらいいんだろうか……」
戸波は、目の前にいる女性に。自分が前回に、どう説明したのかを思い出そうとする。けっきょく、あきらめて、こう続ける。
「君も、きいたことがあるんじゃないかな。高齢者になると、脳にシミのようなものができる。これを老人班という。老人斑は、高齢者になるとできる。高齢になるほど、老人斑は、脳にたくさんできる。
だから、もしかすると、この老人班が、脳を萎縮させているんじゃないか。認知症を発症させる原因なんじゃないか。そう考えられるようになった。
それならば、老人班を生みだす原因であるアミロイドベータをどうにかしよう、となったのが。現在行われている、認知症の治療薬の開発のながれになる。それをアミロイドベータ仮説という」
「うん。そうね。たしか、そんなような話だったわね」
「この仮説は、次のような理屈に基づいている。
まず脳内に、アミロイドベータが蓄積する。するとこれが、脳の神経細胞を変質させて、老人班をつくる」
「うんうん」
「老人班ができると、それによってタウタンパク質のリン酸化が起こり、タウが凝集する。それによって神経原線維変化が起きる」
「うんうん……って。え。なにそれ? どういうこと?」
「そして、神経原線維変化が、神経細胞の細胞死をもたらし、脳が萎縮して、アルツハイマー型の認知症になる。これが一九九二年に提唱された、アミロイドベータ仮説だ」
「ちょっ。ちょっと、待ってよ。なによ、それは。いままでの話の流れから、てっきり。アミロイドベータと、タウタンパク質は。老人班と、神経原線維変化って、それぞれ別の違う症状を引き起こすから。二つの原因物質がある、ってことだと思っていたのに。じつはそうじゃないの?」
「うん。そうなんだ。アルツハイマー博士は、患者の脳に、老人班と神経原線維変化という二つの特徴的な症状をみつけた。でも、そもそも。神経原線維変化は、老人班によってもたらされていたんだ。
それがわかったのが、二〇〇〇年以降のことになる。だから、アミロイドベータを脳内に蓄積しないようにする薬をつくろう。それがきっと認知症に効果ある治療薬になる。世界中の研究者たちがそう考えた」
「なんだ。それじゃあ、やっぱり。アミロイドベータをどうにかするべきなんじゃないの! そのための薬をつくるべきなんじゃないの?」
「ところがね。この説の発表以来。この説に従い、アミロイドベータを蓄積しないようにする薬をつくろう、と世界中の製薬会社が苦労してきたが。今日にいたるまで、どこも思ったような結果をだせていないんだ。
というよりも、そういう効果がある薬をつくっても、認知症の進行をとめられない、っていうべきかな?」
「ええぇっ! それって、どういうことなの? それじゃ、アミロイドベータは原因物質じゃない、ってこと? だったら、あなたがつくっているその薬も効果がない、ってことになるわよね?」
「そうじゃないんだ。そうじゃないんだよ。認知症になる原因物質と、それによって起きる反応との因果関係が。つまりは病気になる仕組みが、まだハッキリしていないんだ。完全には解明されていないんだ。
神経原線維変化が、神経細胞の死滅を。脳萎縮を。認知症を引き起こしているのは間違いない。
でもその原因物質がなんであるのか。その原因物質がなにをすることで、どうして神経細胞が死ぬのか。神経細胞が死ぬと、どうして認知症になるのか。そのあたりがわからないんだ。
アルツハイマー型の認知症が発症するまでには、まだなにか謎があるんだ。ぼくたちが気付いていない、なにかがそこに隠されているんだ。それをつきとめないと、原因物質をとりのぞいただけでは、病気は治らないかもしれないんだ」
「なんだか、アタマがこんがらがってきたわ……」
「だからぼくたちは、アミロイドベータを対象にするよるよりも、神経原線維変化を生じさせるタウを標的とした薬をつくるべきだ、と考えて、今日までそれをやってきた」
「うーん。理屈としては間違っていない、と思うけど。いまの話をきいたかぎりじゃ、不安になってくるわ。本当に、それでうまくいくの?」
「もちろんだとも。試薬を用いた動物実験の結果はきわめて良好だ。あとはあの脳モデルを使ったテストがうまくいけば、ぼくたちの治療薬が正しかった、とハッキリするはずだ!」
戸波は、そう主張するが、それはどことなくカラ元気で言っているようなところがあった。
恋人の女性は、いつも通りに、そうね、その通りね、と同意してかえすが。こちらもどこか、そらぞらしい。
ここで、二つの仮説と、神経原線維変化について、これまででた部分だけでも、まとめておくべきかもしれない。
ヒトの体細胞は、十万種類からある、種類が異なるタンパク質をつくりだして、それを細胞の活動に利用している。そのひとつに、アミロイド前駆体タンパク質、というものがある。
これは神経の成長と修復に欠かせないタンパク質で、神経細胞だけでなく、からだのいろいろな器官の細胞でつくられていて、主に細胞の表面にある。
このアミロイド前駆体タンパク質が、酵素によって分解されて切断されると、タンパク質の断片ができる。このタンパク質の断片が、アミロイドベータになる。
ただし、この呼び名が長いタンパク質が酵素に分離されることも。分離された断片が、アミロイドベータになることも。体内では、ごくふつうに起きていることになる。だからアミロイドベータができても、ふだんならば不必要なものとして排出されて、それで終わり、になる。そのはずなのだ。
ところがなんらかの作用によって、アミロイドベータが排出されずに残ると。それが集まってくっついて、排出がむずかしい凝集体になる。これがこれまででてきた、認知症の原因となる、異常タンパク質なのだ。
アミロイドベータが集まってくっついたもの、つまりは異常タンパク質が、細胞の外側に沈着すると、斑点ができる。これを老人班という。
老人班は、高齢者になるほど、増える。これは、アミロイドベータが集まったものが、新たにドンドンとできてしまい、次々と脳の細胞の表面に沈着するからだ。このせいで、脳の神経細胞の機能は低下する。
さらにだ。老人班が増えると。今度は、神経細胞の内側にある微小管タンパク質である、タウタンパク質がリン酸化する。
でも、タウタンパク質がリン酸化するのは、こちらも体内でふつうに起きていることになる。ただしこれが、高いリン酸化を。異常なリン酸化をすると、マズイことになる。
リン酸化したタウは、こちらも細胞内で集まってくっついて、凝集体をつくる。ちなみに、こちらも異常タンパク質と呼ばれる。これがさらに神経細胞を機能低下させる。
このように神経細胞は、アミロイドベータやタウタンパク質が集まってできたものによって、細胞の活動をジャマされて弱っていく。
そしてついに、細胞死する。
これが連続して起きると、脳の神経細胞が細胞死していく、神経原線維変化と呼ばれる状態になる。
アルツハイマー型の認知症は、脳の神経細胞が、老化による減少よりも早く、急激に大量に細胞死して脱落することで起きる。この状態が続くと、認知症が発症するわけだ。
ここまでの理屈で。アミロイドベータの蓄積によって認知症が始まる、とするのを、アミロイドベータ仮説という。
いやそうではない。タウのリン酸化、あるいはタウの蓄積によって認知症が始まる、とするのを、タウ仮説という。
アミロイドベータが、アルツハイマー病の原因だ、というアミロイドベータ仮説が、世間で大きくとりあげられるようになったのが、二〇〇〇年代の初頭になる。
現在、製薬会社各社で行われている認知症の治療薬の開発は、アミロイドベータ仮説に基づいて行われている。そして、戸波も言っていたように、これがうまくいっていない。
各国の製薬会社の研究者たちは、この仮説に基づいて、認知症の治療薬を開発しようとした。ところが、その試みが、今日まで失敗続きなのだ。
こう記すと、なんだ脳のアミロイドベータの蓄積を減らす薬はつくれなかったのか、と思うかもしれない。
そうじゃないのだ。世界の名だたる、大手の製薬会社は、あの手この手で、脳内のアミロイドベータの蓄積を阻止する。その効果を発揮する、有望な試薬をつくってきた。
ところが、そうした効果を発揮する試薬をつくって、臨床試験で患者に実際に使用してみると、患者の認知症の進行をくいとめられない。期待した治療の効果があらわれないのだ。
有望だと思われた試薬の失敗が続いたせいで。多額の費用と人材を投入してきた製薬会社は。もしかすると、アミロイドベータは原因ではないのではないか、と考えるようになった。
しかし、アミロイドベータ仮説を支持して、研究を続けてきた研究者たちの多くは、そうではない、と主張している。
こうなったのは、アミロイドベータが認知症を発症させるまでの仕組みのどこかに。私たちがみつけていない見落としがあるからだ。それをあきらかにして、もっと効果的な治療薬をつくれば、きっとアルツハイマー病の治療薬はつくれる。うまくいく。そう主張している。
また研究者たちは、試薬を使い始めるのが遅すぎるからだ、とも主張している。認知症が発症してからでは遅い。老人斑が出るまで、アミロイドベータの蓄積は十年以上にわたって続いていて。神経原線維変化が始まって、病気があらわれるまでに、さらに十年間からかかる。だから治療薬を飲むのは、蓄積を減らす前、病気が始まる前でなくては効果がない。そういう主張だ。
このように、アミロイドベータ仮説が、主流であるながれのなかにあって。戸波たち研究室の開発スタッフは、もう一方の、タウ仮説を支持して。それとは異なる独自のやりかたで、認知症の治療薬の開発をしようとしているのだった。