セレブラム 第二話
2
ここで、脳について、簡単な解説をする。
といっても、語り手も、じつはよくわかっていない。だから、いっしよに勉強していくつもりで、つきあってほしい。
脳は、私たちのからだで、頭部にある器官だ。
そして脳は、私たちの思考や意識を生みだしている。つまりは、ヒトがヒトであるための、とても重要な器官になる。
でも、脳がやっているのは、それだけではない。じつは、それ以上に重要なのが。脳の、からだの機能を制御する中枢としての役目になる。
呼吸や、血流や、消化吸収は、私たちがいちいち考えてやっているわけではない。私たちの意志とは関係なしに、脳が、脳の独断で制御している。
ヒトの生存に欠かせない。肺の活動や、心臓の活動や、腸の活動といった、体内のさまざまな器官のコントロールも、私たちじゃなくて、脳がやっているわけだ。
だから、脳がちゃんと正常に働かなくなったり。脳からの指示が、からだの各器官にうまく連絡されなくなると、その個体の生存にかかわる、さまざまな問題が生じるようになる。難病といわれる病気の多くは、そうやって起きる。
それじゃ、それほどに重要な器官である脳は、いったいどれくらいの数の細胞で、できているのだろうか?
ヒトのからだを構成している細胞の数は、約37兆個になる。
そのうちの約860億個あまりの細胞で、脳はできている。
脳のうちで、大脳は約160億個に。小脳は約690億個になる。
脳のなかで、私たちの思考や意識を生みだしているのは。大脳の、大脳皮質の細胞だ、といわれている。
その数はどれくらいなのか、というと。大脳の約160億個の細胞のうちで。大脳皮質の細胞は約140億個になる。
つまりは、ヒトの思考や意識を生みだして。私たち一人一人の異なる人格や個性をつくるのは。この140億個あまりの細胞になるわけだ。
意外に少ない。というよりも、少なすぎる、と感じる。
だから、もしかすると。ヒトの思考や意識をつくりだしているのは、大脳皮質の細胞だけじゃないんじゃないか。どこか別のところの細胞も使われているんじゃないか。そんなふうに考えてしまう。
だとしたら、それはどこなのだろうか? そして、それを通じて。私たちの脳のなかで、私たちの思考や意識はどのようにして生まれてくるのだろうか?
場所は、最初にでてきた喫茶店になる。
その喫茶店で、戸波と、恋人の女性は、デートの最中だった。
いまから話すことは、部外者には教えちゃいけないことだからね。絶対に秘密だからね。
そうことわってから、戸波はスマホをとりだすと、スマホのカメラで撮影した、開発室にあるテスト用の脳モデルの写真を、恋人の女性にみせる。
液晶画面には、同僚の男がおどけた仕草でピースサインをしているうしろに、ケースのなかに浮かぶ、例の灰色をしたかたまりが写っている。
その写真をとっくりとながめてから、自分が見たものに対して、恋人の女性は、次のように感想を述べる。
「私をだますつもりでしょ? こんなものが、本当にあるわけないわ。よくできた、つくりものに決まっているわ。その手にはのらないからね?」
「……まあ、そういう反応をするのがふつうだよね。ぼくも、いまだにこれを前にすると、そんな気分になるからね」
戸波は、恋人の意見に同意をする。それから恋人の女性に、あらためてこれがどういうものか、その説明を始める。
これは、認知症の治療薬の開発のために、ヒトの脳の細胞を培養してつくりだされたものであること。
自分が働いている開発室では、今後はこれを使って新薬のテストを行うこと。
戸波からそう説明をうけても、女性は納得できない様子だった。
釈然としない顔でいる恋人の女性は、不満そうな様子で、戸波に訴える。
「いままで使ってきた実験用のマウスじゃ、ダメなの? 認知症の薬の開発は、できないの?」
「ダメなわけじゃないさ。でもこれを使えば、新薬の開発作業は、いままでよりも、ずっと早くすすめられる。なによりも、いままでできなかったテストもできるようになる。コストの削減にもなる」
「そう説明されても、やっぱり私には必要性がわからないわ。だって、認知症って、記憶力がおとろえて、ボケちゃう病気なんでしょ? だったら、おとろえた記憶力を補正する薬をつくれば、それで病気に対処できるんじゃないの?
こんな、まがいものの脳みそみたいなものを使わなきゃならない理由って、なんなの?」
「うーん、そうだね。どこから説明したらいいんだろうか。認知症の薬をつくるのは、とても大変なんだけれど。その理由が。認知症という病気が、どうして起きるのか、なぜ悪化していくのか、そのあたりの仕組みがまだよくわかっていないせいなんだよ。だからぼくたちは、この病気の研究をしながら、手さぐりで新薬の開発をやっていかなくちゃならない。
今後、なにか新しい画期的な発見があれば、それまでの常識がひっくりかえってしまうだろうしね……」
そこまで話してから、戸波はあらためて女性にきいてみる。
「ねえ、君。ぼくたちヒトは、なぜ認知症になるんだと思う? いやもっと具体的に。認知症って、どういう病気で。どうして起きるのだと思うね?」
「えーっと、そうね。さっきも言ったように、いろいろなことが思い出せなくなったり、ボケちゃう病気なのよね? そのせいでうつになったり、だれかに介護してもらわなくちゃならなくなるのよね? それから、ほかには……」
よく知っているつもりでいても、あらたまって説明しようとすると、意外にできないものだ。言葉につまっている女性に、戸波は、次のように助け船をだす。
認知症は、老化によるもの忘れとは、根本的に異なる、脳の病気をいう。
老化によるもの忘れは、自分がもの忘れをしたことに気付いている。忘れたことを、あとでまた思い出したりできる。
ところが認知症の場合は、患者は体験した記憶それ自体を喪失してしまう。それを忘れた自覚さえない。あとでまた思い出すこともない。
そして認知症の症状は、段階を経て、しだいに悪化していく。
病気の初期は、ささいな記憶障害としてあらわれる。最初は、ごく最近の出来事が思い出せなくなる程度だ。それが、しだいにほかのことも思い出せなくなってしまう。
中期になると、外出するとウチに帰ってこれなくなる。性格が変わってしまい、別人のように怒りっぽくなる。夜間はせん妄に悩まされるようになる。症状がすすむと、徘徊や妄想が増えて、買い物や料理など、それまで日常的にできていたことが、できなくなってしまう。
病気の後期になると、家族の顔がわからなくなる。その頃になると、歩きまわったりできなくなって、患者は寝たきりになる。からだを起こして歩いたり、食べたり飲んだり、排せつしたり。そういった、生きるうえで基本的なことがままならなくなる。そして患者は死に至る。
おそろしい病気だが、特徴として、この病気の症状は段階を経て、しだいに進行していく。悪化していくことがあげられる。
まずは記憶障害がでる。その記憶障害が悪化していく。さらには運動能力が失われる。そして死亡する。
女性が、認知症という病気の進行の過程を思い返して、たしかにその通りだ、と納得するのを確認してから。戸波は、これまで解明された、この病気についての事実を、次のように端的に説明する。
「認知症はね。脳の細胞が減少する病気なんだよ。脳の細胞が減少するせいで、患者の身にいまいったことが起きるんだ。
でも誤解しないでもらいたいのは、脳の細胞の減少は、だれの身にも起きることだ、ということだ。歳をとれば、老化すれば、だれでも脳の細胞が減って、もの忘れをするようになる。
ところが認知症は、それとは違う。老化による脳細胞の減少よりも、急激な細胞の減少が、患者の身に起きる。ただし、一応ことわっておくと。脳細胞の急激な減少と、認知症の発症の因果関係は、ハッキリと証明されたわけじゃない。でもそれで間違いないと考えていいと思う」
戸波はそう話すのをきいて、女性はこうかえす。
「つまりは、そう主張できるだけの、なにかハッキリとした根拠があるのね?」
「そうなんだ。認知症の患者の脳を調べると、脳の状態が変化しているのがわかるんだ。
正常な高齢者の脳にくらべると、認知症の患者の脳は、あきらかに萎縮している。
さっきもいったように。ヒトはだれでも、成人後は、加齢にあわせて、脳の細胞が減っていく。若い頃にくらべると、高齢者は脳が萎縮している。でもそれは老化現象であって、だれの身にも起きることだ。
ところが認知症患者の脳は、こうした老化によるゆっくりとした萎縮以上のスピードで、脳が萎縮していく。
認知症の患者は、脳が急激に萎縮するから、記憶障害になる。温厚だった性格が怒りっぽくなる。せん妄や妄想に悩まされるようになる。
そして脳は、記憶や思考だけではなくて、からだのさまざまな器官の制御をしている。症状が進行した患者が、だんだんと動きまわらなくなるのは、そういうことなんだと思う。症状がさらにすすむと、寝たきりになって、からだの各器官を制御する能力が失われて、心臓や肺や腸の能力が低下して、患者は死に至る。
ただ、そこまでいくのに、とても長い時間がかかる。だからそうなる前に、べつの原因で死亡することが多い」
戸波はそこまで話すと、恋人の女性に、自分が言ったことがちゃんと伝わったのかどうか、相手の表情をたしかめる。
女性は、腕組みをして考え込んでいたが、戸波にこうかえす。
「つまりは、こういうことね? 認知症を治療するには。脳細胞の急激な減少をくいとめて、脳の萎縮をおさえる、そういう薬がいるわけね?」
「そうなんだ。そういうことになるんだよ」
「まだ、よくわからないわ。それならどうして、このグロテスクなかたまりが必要なの? そのあたりを、私にもわかるように、ちゃんと教えてくれない?」
そうたずねる女性に、戸波は、話していいものかどうかを迷ったすえに、こう説明する。
「このテスト用のモデルは、認知症患者の大脳皮質の細胞からつくられている。
本来は、分化を終えた脳の細胞は、それ以上は分裂して増えたりしない。だからなにか、ぼくも知らない技術を使ってつくったんだろうね。
そして、認知症患者の脳細胞からつくったから、この灰色のかたまりも、やはり認知症を発症している。いまも病気は進行していて、通常よりも早く、脳細胞が死滅している。
ぼくたちがつくっている治療薬に、認知症を治す効果があれば、このかたまりの認知症の進行をくいとめて、脳細胞の減少をくいとめることができる。
いままでみたいに、実験動物でテストして効果をたしかめてから、ようやく被験者で実際に使えるのかどうかを試すなんて、まだるっこしい手順を踏まなくてもいい。
この大変な手間を省けるだけでも、この脳モデルを使う理由は充分にある。
なにしろ、認知症を治療する薬の開発は、世界中で求められていることだからね」
「えっ。でも。認知症の薬って、もうあるじゃないの。四種類あるって、あなたに教えてもらったわよ? それを使えば、いいんじゃないの?」
反論する女性に、戸波は、しぶしぶといった様子で、言いにくそうに、説明を続ける。
「君が疑問に思うのも当然だ。でもね。じつはね……」
それから戸波は、認知症の治療薬について、世間ではあまり知られていないことを話し始める。
ここで、戸波が毎日必死になってやっている、認知症の薬の開発について、少し話すことにする。
戸波が、恋人の女性に話していたが。認知症の治療薬として現在使われているものは四種類ある。それは主に、アセチルコリンエステラーゼ阻害薬、というものになる。
名称が長いので、コリンエステラーゼ阻害薬、と略されたりもする。
これがどんな薬か、単刀直入に言うと。神経伝達物質であるアセチルコリンの薬、になる。
さっぱりわからない、と思う。じつは語り手もそうだった。なので説明を続ける。
脳をはじめとする、からだの神経系にあたる器官は、おおざっぱに言うと、神経細胞でできている。
脳から、からだの各所に指示を送ったり。その逆に、からだの各所から、脳へと情報を送るときに。神経細胞で、神経伝達物質というものがつくられる。
この神経伝達物質は、神経細胞を刺激して。次の神経細胞へと、刺激を情報として伝達する。神経伝達物質をつくることで。脳から脊椎へ。脊椎から末梢神経へと。脳からの指示が、からだの各所へと、伝わる仕組みになっている。
この神経伝達物質が、アセチルコリンなのだ。
そして、アセチルコリンエステラーゼとは。神経伝達物質であるアセチルコリンを分解する酵素になる。
神経伝達物質がつくられたままだと。神経細胞だけでなく、刺激をうけた器官や組織は、ずっと動き続ける状態になる。だから分解する酵素ができて、神経伝達物質を分解することで、それをとめることができる。
つまりは、脳からの各部への指示や、各部から脳への報告は、アセチルコリンと、アセチルコリンエステラーゼによって。伝えたり、消したり、をくりかえしている。スタートとストップ、スイッチのオンとオフ、をやっているわけだ。
認知症の患者の脳を調べると、この神経伝達物質であるアセチルコリンの量が、正常な人よりも少ないことがわかった。
(だから認知症は、アセチルコリンが正常な人よりも減っているせいで起きるのでは、と当時は考えられた。三十年前は、コリン仮説、というものが提唱されていた。認知症はアセチルコリンの減少で発症するのではないか、という説だ)
そこで、神経伝達物質であるアセチルコリンを分解させないようにする物質を、薬として患者に飲んでもらえば。神経細胞の働きを補助して、低下する記憶力をおぎない、認知症の進行を遅らせることができるはずだ。認知症の治療薬になるはずだ、と考えられた。
そうした効果を狙ってつくられたのが、アセチルコリンエステラーゼ阻害薬なのだ。
反対の反対だから賛成、みたいな名称だから混乱するが。アセチルコリンエステラーゼ阻害薬とは。神経伝達物質を分解する酵素のはたらきを阻害する薬、であるわけだ。
実際に、コリンエステラーゼ阻害薬には効果があった。発表後は、脳内のアセチルコリンの濃度をあげることで、記憶力や思考力の低下を改善できたので。当初は、それが正しい、と信じられていた。
でも、ここまでの説明で気付いた人もいるだろうが。コリンエステラーゼ阻害薬は、認知症の症状である、記憶力や思考力の補助はできるが。認知症の原因である、脳細胞の変質や減少、脳萎縮はとめられない。
その後、認知症について、研究がすすむと。発見された事実に基づく、より新しい治療薬が求められるようになる。
「つまりは、そういうことなんだよ。いまある認知症の薬は、記憶力の低下などの、症状の緩和はできる。けれども、認知症の本来の症状である、脳細胞の変質や、脳細胞の減少を、おさえることができないんだ。
新しい治療薬を開発しているぼくたちは、当然だが、それを治療する薬をつくることが求められている。ぼくたちは、その難題を解決しなければならない。いったい、どうすればいいのやら」
言いにくいことをくちにしている、といった態度で、戸波がそう語ると、女性はうなずいて納得してから、次のようにかえす。
「あなたが、憂鬱な顔でいる理由が、ようやくわかったわ。それであなたは。というよりも、認知症の薬をつくっている人たちは、その難題を解決するために、いったいどうしているの?」
「なぜ脳の萎縮が起きるのか。その仕組みと原因を調べているよ。でもそれがわからないから。萎縮を起こしている原因物質があるはずだ、という仮定のもとに。病気を生じさせる原因物質をみつけて。それを作用させない、あるいはとりのぞく治療薬をつくる方向にシフトしている。それが治療薬づくりの基本になっている。いまぼくたちがやっているのも、まさにそれだしね」
「へえ。面白そうな話だわ。もっとくわしく、教えてくれないかしら?」
テーブルのむこうから、興味津々といった様子でそうきいてくる恋人の女性の様子を見て、戸波はちょっと嬉しそうな表情になる。戸波は、セキばらいをしてから、こうかえす。
「わかったよ。それじゃまず、原因物質の初歩からやっていこう。ねぇ、君は。アミロイドベータって、きいたことがあるかい?」