表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
セレブラム  作者: げのむ
11/11

セレブラム 第十一話

11

 

 ここで、大脳について、語ることにする。

 私たちのからだや、からだの器官は、どれも細胞でできている。脳も、それは同じだ。

 今回の話の主題であるヒトの大脳なら、神経細胞という細胞でできている。これはニューロンとよばれているものだ。

 大脳には、このほかにもグリア細胞がある。グリア細胞は、グリア細胞というくくりでまとめられてはいるけれど。じつは何種類かの細胞からなっている。とはいえ、このあたりはまだ研究中の分野だし。語り手もよくわかっていないので、今回は省略する。

 つまりは、私たちの大脳は、神経細胞と、グリア細胞で、できているわけだ。

 ニューロンだけじゃなくて、シナプスもあるじゃないか、と反論するかもしれない。ニューロンとシナプスをわけなかったわけは、このあとで説明する。

 グリア細胞だが。こちらは神経細胞とくらべると、ぐっと地味な細胞になる。なぜならグリア細胞は、大脳の主役である神経細胞に酸素や栄養を供給するためにある、裏方のような細胞だからだ。

 なので、大脳の細胞の主役は、やはりニューロンで。そして、シナプスだ、となる。とりあえず、今回はそうする。

 それじゃ、大脳の主役である、そのニューロンとシナプスは。私たちの大脳のなかで、いったいどのようなかたちをしているのだろうか? 皆さんにも、ぜひともそれを想像してもらいたい。

 ニューロンの基本的な説明は、次のようになる。

 ひとつの神経細胞は、まわりにあるほかの神経細胞にむけて。シナプスと呼ばれる筋繊維状のものを、平均して一万もの数だけ張りめぐらせている。そうすることで、大脳のなかに神経細胞のネットワークをつくりあげている。この説明は必ずでてくる。

 ほかにも。からだのほかの器官が、接触しているまわりの細胞同士でしか、細胞間の情報伝達ができないのにくらべると。

 ニューロンとシナプスの構造は。距離をおいた神経細胞同士を、シナプスを伸ばして、それで糸電話のように結びつけることで。ほかの器官にはできない、複雑で迅速な情報伝達を実現させている、とある。

 たとえば、この話でもでてきた、脳の内部を調べる、MRIのような医療機器を使った実験では。

 私たちが、なにかを決まったことを考えるたびに。大脳内にある、ある特定の位置にある神経細胞が刺激されて。その最初の神経細胞から、距離をおいた別の神経細胞へとシナプスを経由して、細胞間に電気信号が走る。その様子を観測できる。

 このように、MRIのような機械を使うことで。大脳のなかにできた神経細胞のネットワークがどんなかたちをしているのかを、細部にまでわたって、くわしく調べることができるようになった。 

 この部分だけでも、ヒトの思考や意識というものは。脳の細胞と脳の細胞とを結びつける、シナプスという糸電話みたいなもののあいだを、電気信号を走らせることで発生する、ということがわかる。

 こう断言すると、まるでヒトの思考の仕組みに一気にせまったように感じるかも知れない。でも実際のところは、まだまだサッパリわかっていない、と思ってもらったほうがいい。

 もう一度いうが、私たちの脳内にある神経細胞というものが。そこでいったいどんなかたちをとっているのか。読み手の皆さんは、ちゃんと理解できているだろうか?

 語り手は理解できていなかった。というよりも、つい先日まで間違って覚えていた。いまだって、それで正しいのかどうか、怪しいところだ。

 先ほどにでてきた、神経細胞と神経線維の説明をきいて、語り手が最初にイメージしたのは。

 大脳皮質を構成している140億個あまりの細胞一個一個から、それぞれ毛のようなものがたくさん生えていて。そのたくさんの毛が、ほかの細胞にむかって伸びてつながっている。そんなような想像図だった。

 でも、これは間違っている。

(まず、140億個あまりの細胞は、神経細胞とグリア細胞からなるので。神経細胞は、そのうちの半分くらいになる)

 じつは脳内にある神経細胞は。ひとつの細胞から、軸索という樹状突起が生えた、細長いかたちをしているのだ。

 順番に説明させてもらう。まず最初に、神経細胞からでているものは、樹状突起と、軸索になる。

 軸索は、幼弱時期以外は、グリア細胞がつくる髄鞘ミエリンで覆われている。髄鞘は脂質に富み、絶縁体として働く。

 神経細胞とは、語り手の見たままのイメージで語らせてもらえば。樹状突起という、アメーバの仮足の先が枝分かれしたようなものが全体に生えた細胞になる。

 そして、ここからが重要なのだが。軸索という、ものすごく長い突起のひとつがそこから伸びていて。その先にもまたアメーバの仮足みたいな突起が生えている。

 軸索がどれくらい長いのか、というと。神経細胞一個の大きさが数ミクロンから一〇〇ミクロン程度なのに対して。軸索は、10センチから1メートルもの長さになる。

 つまりは、わさわさと毛が生えた細胞ではなくて。細胞から生えている毛の一本である、軸索のが目立つ。ものすごく細長い細胞になるのだ。

 そして。この長く伸びた軸索の部分と、その先の部分の突起が生えたところまでをまとめて、神経繊維、シナプスと呼ぶ。つまりは、神経線維も神経細胞の一部であるし。おまけどころか、そちらのがはるかに存在感が大きいのである。

 くりかえすが。軸索も全体の一部だと考えれば。神経細胞は、ものすごく細長い細胞だ、ということになる。

 そして。私たちが考えたり、悩んだりと、脳でなんらかの活動を始めると。

 脳内で発生した電気信号が、神経細胞の樹状突起から入力されて。神経細胞の軸索を通って、軸索の先にある神経終末から出力される。電気信号は、この細長い細胞のなかを一瞬で通り抜けて。その先にある、仮足の枝でつながった、べつの細長い細胞へと行くわけだ。

 ここで忘れてはならないのが。シナプスとシナプスとのあいだに、ほんのわずかながら、すきまがあることだ。

 電気信号のかたちで送られてきた刺激は、そこで化学信号になって。次のシナプスにわたると。そこでまた、電気信号になるという、なんとも謎めいた仕組みになっている。

 どうして、樹状突起と神経終末とを結ぶ、ほかの神経線維とのあいだにわずかなすきまがあるのか。電気信号として送られてきた情報を、どうして化学信号に変換して、次の神経細胞へと伝達するのか。この疑問の理由は、まだ解明されていない。

 さらに、また別の。よくわからない仕組みがある。

 髄鞘によって絶縁化してある細長いコードみたいな、神経細胞は。グリア細胞から、充分な酸素と栄養を供給されて、軸索部分を伸ばす。そしてまた、先端部分と後端部分に生えた枝を伸ばして。脳内にあるべつの細長い細胞から出ている、ほかのたくさんある枝と連結をする。

 それだけではない。なぜなのかはわからないが。いったんつなげた仮足部分を縮めて切り離す、刈り込み、ということをやっている。脳の活動中は、これをやすみなく行っている。

 想像してもらいたい。脳のなかでは。樹状突起の枝となる部分が、なんらかの理由で、くっついたり、離れたりと。しょっちゅう、連結と切断が続いている。そういうことになっているのだ。

 語り手の勝手な想像になるが。私たちが毎日、学校で勉強したり、仕事を頑張っているときには。あるいは、趣味に熱中しているときには、突起の成長と連結が続いていて。

 だらけてなにもしなかったり。勉強や仕事をさぼっているときには、突起の縮小による切断が起きているんじゃないか、と思う。

 ともかくだ。仕組みはさっぱりわからないが。どうやら、この細長い細胞をたくさん集めてつなげたそれは、くっついたり切り離したりをくりかえしていて。そのなかに、電気信号を走らせると、私たちヒトの思考や意識が発生するようなのだ。


 特別業務が終了した翌日。必要な準備をすませると、戸波は、上司が待つ部屋へとむかった。

 戸波の上司にあたるその人物は、今回の特別業務の申請を許可してくれた相手であって。

 開発チームのリーダーとして、戸波をこれまでずっと支持してくれた人だった。

 さらにいえば、ノイローゼ気味になっていた戸波がミスを連発して、会社に損害をあたえたときも。戸波をはずさないで業務を続けさせるように会社にはたらきかけてくれた、そういう人物だった。

 そう考えると。戸波が思いつめてしまい。この世界は自分に認知症の治療薬をつくるために用意されたつくりものの世界であって。じつは自分の正体も、ケースの液中に沈んだ脳モデルなんだ、となったのも。じつはただの戸波の思い込みでしかなかった、ということになる。

 今回の一件は。つまりは、戸波の上司が、戸波を信頼していたから、会社に損害がでようとも戸波に仕事をさせた。ただそれだけの理由で、決着がついてしまう。

 この上司は、この話において。つまりは、そういう立場にいる人物だった。

 ノックしてから部屋に入ると、戸波の上司は、部屋で彼を待っていた。

 戸波がくるまで読んでいたのだろう。事前に送信されていた報告書のファイルを、プリントアウトして紙の書類の束にしたものを、デスクの上にポンと放る。

 上司はやってきた戸波を見ると、報告書の内容について、気になっているところを、さっそく告げようとする。

 だがそうするかわりに、上司は不思議そうな表情になると、戸波にたずねる。

「まず最初にきいておきたいのだが。いったいどういうわけで……。おいおい。戸波くん、もしかすると、君は、ここのところ、ウチにもどってないんじゃないかね?」

「ええ、そうですよ。でもそんなのは些細なことです。だって、ここがつくりものの世界なら、どちらだって同じことじゃないですか?」

 シャツとズボンと下着は、新しいものを昨日に購入して、今朝に着替えておいた。けれども、ボサボサに乱れた髪の毛や、無精ヒゲや、疲労が色濃くあらわれている顔のほうは隠しようもない。

 戸波のひどい様子を、上司はそれ以上は問いつめなかった。いまの返答の内容で、どうやら事情を察したらしい。

 うなずいて、いつもと変わらない態度で、こうかえす。

「ああ、そうか。そうなんだ。そういうことなら、まあしかたがないね」

 戸波と対峙することになった上司だが。こちらはどこにでもいる平凡な風貌をした、会社員の男になる。

 管理職について、もう長いのだろう。白髪がまじる頭髪を、七三わけになでしつけて。瘦せ型の体躯に、落ち着いたデザインの背広にワイシャツという。絵に描いたような、典型的な中間管理職の会社員の風貌をしている。

 上司の男は、思いつめて、疲れはてて、どうやらほかにもう解決策を無くしているらしい戸波の姿を、あらためてしみじみとながめてから。なぜそうなったのか、理由を問うかわりに。次のようにうながす。

「報告書は読ませてもらった。君が今回の特別業務中になにをやっていたのか、だいたいのところはわかった。

 でもね。報告書の最後の部分が欠けている。これはいったい、どういうことかね?」

「それは、つまりですね。ついさっきまで、ぼくが今回の特別業務に関係する調査をやっていたからなんです。それを報告書にまとめているヒマがなかったので、いまからあなたにお話ししようと思いますが。それで答えになるでしょうか?」

「ああ、そうなんだ。そういうことなら、そうしてもらおうか」

 上司は、戸波の発言にひどく驚いた様子だったが。そんな真似はやめろ、と中断させるかわりに、戸波に、次のように指示する。

「それじゃ、始めてもらおう。今日はそのために時間をとったのだしね」

「わかりました。送っておいた、ぼくの報告書を読んでもらったのなら、そこまでは省略しましょう。今日は、そのあとからやらせてもらいます。それでは始めましょうか」


「認知症の治療薬につながる新発見について報告する前に、ぜひともあなたに答えてもらいたいことがあります。私たちヒトの脳の内部は。特に大脳の内部は、どうなっている、とあなたは思いますか?」

 連日連夜、ここのところずっと、根をつめて仕事をしていたせいで、もうそんなに元気もないだろうに。それでも戸波は、目を大きく見開いて、熱がこもった口調で、にじりよると、そうたずねる。

 上司は、思わずうしろに身をひいて、あとじさると。それから平静をよそおい、こうききかえす。

「いまは世間話に興じている余裕はないのだがね。だが戸波くんの言動から察するに、今回の件に関係している質問になるのだろうね。そういうことなら、答えよう。

 私たちの大脳は、神経細胞と、グリア細胞から、できている。グリア細胞は、神経細胞に、酸素と栄養を供給している。

 神経細胞は、単独であるのではなくて。ほかの神経細胞と、神経線維でつながっている。大脳内には、このような神経細胞を繊維でつないだネットワークができあがっている。これでいいかね?」

「ええ。そうです。その通りです。ですから、記憶というものは、脳内の神経細胞のネットワークのどこかに保存されている。そういうことになる。もうひとつ重要なのは、私たちが、考える、という行為をするときには。大脳内で、電気信号が神経細胞から神経細胞へと走ることです。

 ぼくとしては、ぼくたちがそのときに抱いていた欲求や衝動の内容にあわせて、それに関係する記憶がよみがえり、それが思考や意識になるのだ、と考えています」

「そうだね。思考の仕組みとしては、それがありそうな話だね。でもいまの君の発言から察すると、それだけじゃ足りない、説明不足だ、と言いたいようだね?」

 上司がそうきいてみると、戸波は、今日のために持ってきた、プリントアウトした拡大図をガサガサとひろげて、それを上司にもよく見えるように、部屋の壁に貼りつける。

 それは戸波が、今回の特別業務中に使っていた、例の脳モデルの拡大図だった。

 正確にいえば。それを利用して新たにつくった、もう一枚の拡大図だった。

 ただしこちらには、拡大図のなかに、脳全体にひろがった大きな毛玉のかたまりのようなもの、が描き込まれている。

 言葉で表現するのはむずかしいが。それでもあえてやるなら。それは、次のようなものになる。

 球根をガラスの瓶の中で育てて、それをガラス越しに見たことがあるだろうか。太いものや細いものや、球根から生えてきたたくさんの根が瓶のなかでかたまって、瓶のかたちになっている。あれに似ている、と表現すると、わかりやすいかもしれない。

 ただし、球根から生えたたくさんの根と比較すると。大脳のかたちになったそれは、もっと細くて長くて。それよりもはるかに数が多い。だから球根の根というよりも、頭髪の毛のかたまりと言うべきかもしれない。さらにじっくりと見ていくと、どうやらこれは、根や毛よりも、もっと細いものが集まってできている、と思えてくる。

 そして、このモサモサした細くて長い毛のようなかたまりを、さらにじっくりと観察すると。全体的なかたちに、左右の対称性があるように見えてくる。ただしそれは、正確な対称形ではない。

 脳の内部全体に伸びてひろがっている、細い糸の寄り集まりだが。よくよく見れば、あちこち隙間があって。場所によってはむこう側はつまっているのに、こちら側はあいていると。左右の場所ごとに、変化があるのだ。

 手短に表現するなら。やはりそれは。脳の内部全体に広がるように不規則な左右対称のかたちをとっている、毛玉のかたまり、になるだろう。

 その拡大図をとっくりと眺めてから、上司の男は、戸波にたずねる。

「これは、なんだね? 大脳なのかね?」

「はい。これが大脳の、本当の姿なんですよ。大脳にある神経細胞は、ひとつの細胞から、平均して一万もの数の神経線維を脳内にひろげて伸ばして、ほかの神経細胞とつながることで、大脳内に神経ネットワークをつくっています。

 でもこの説明だと、神経細胞のが重要で、そこからのびている神経線維は、細胞と細胞とをつなぐだけの存在に思えてくる。一個の細胞に、数えきれないの繊維がギッシリと生えていて、それが細胞同士を糸電話のようにつないでいる。そういうものを想像してしまう。

 でもじつは、実際の脳内の神経細胞のネットワークの姿は、私たちが思い描くそういうイメージとは、大きく異なるものになります。本当に、それとはまったく違うものなんです。

 最新の医療機器を使うことで、脳内の神経細胞のネットワーク中を、電気信号がどのようなかたちに動いているのかを調べることができますよね。そのデータをたくさん集めていけば。細胞間の動きを立体図にすることで。脳内の神経細胞のネットワークがどのようなかたちをしているのか、その実像があらわれます。

 そして。ここには、前回に購入した、新型MRI装置があります。得たデータを集めて分析するための環境もととのっています。

 せっかくなので、この最新機器たちを使い。この環境を利用して。脳内の神経細胞のネットワークの活動の様子を、できるだけ細かく、正確に、撮影してみました。

 どうせ、つくりものの世界なんですから。費用のことは考えなくてもいいですしね。

 何百枚と、数えきれないくらいに撮影して。そのデータをもとに、脳内の立体図をつくりあげていって。その立体図を、脳モデルの拡大図のコピーに描き込んでみたものが、これになります」

 戸波は、続ける。

「ざっくりと説明をさせてもらいます。本当にざっくりと行きます。

 神経細胞は、細胞本体の大きさは、0.02ミリ程度ですが。細胞からでた突起のひとつが長く伸びていて、突起は1メートルもの長さになる。

 つまりは神経細胞は、検索すると出てくるイラストにあるようなものではない。実際には、1メートルもの長さがある、とてつもなく長い細い糸のような細胞なのです。

 神経細胞は、樹状突起のひとつである軸索を、1メートルも長く伸ばします。伸ばした先端と後端で、たくさんの突起を増やして、ほかの神経細胞と接続します。

 つまり大脳内には。じつは、神経細胞がぎっしりとあるんじゃなくて。長く伸びた糸のような樹状突起が。そんな神経線維がワサワサとある。そういうことになるんです。

 面倒なのは、外から見ても、大脳の内部がそんなことになっていると、まったくわからないことです。

 私たちの目には、大脳はブヨブヨした白いかたまりです。けれども実際には。グリア細胞というアブラたっぷりな細胞のなかで、神経細胞が繊維状に細く長く伸びていて。伸ばした神経線維同士で、接続されたり切断されたりを常にくりかえしている。そういうことになっているんです」

 そこまで話すと戸波は、上司にむき直り、脳モデルの拡大図の上に貼りつけた、大脳内の図をさして、こう問いかける。

「記憶というものは、いままでずっと、神経細胞に保持されている、と考えられてきました。でも、ですよ。大脳の実態が、その図にあるようなものなのだとしたら。記憶は、神経細胞じゃなくて。そこから伸びている神経線維に。ワサワサとたくさんあるシナプスのほうに保存されている、と。そう考えるべきじゃないでしょうか?」

 そうだ、と言うまで許さない。そう言わんばかりの、熱に浮かされた表情と、熱がこもった口調で、戸波がそうきいてくるので。

 上司はうしろに身をひいた格好で、同意をしてみせると、それからこうききかえす。

「君の仮説を否定するのは簡単だが……。そうだな。そう考えれば、たしかに、つじつまが合うこともある。

 以前に学習したことを忘れてしまい。再び学習すると。以前にやったよりも、早く手際よく習得できる。それはつまり。脳内で、この記憶にまつわる神経線維とほかの神経線維とのあいだで切断と接続が起きているからだ、と考えることができるね」

 上司は、そこで戸波に問いかける。

「だがそうだとしたら。シナプスに。記憶はどのように記録と保持がされていて。どのようにして、思考に変化するのかね? そのあたりは、どうなっているんだね?」

「飲みこみが早くて、助かります。

 でも、よかった……。そのあたりに興味を持ってくれますか……。この一か月間、ぼくがずっと悩んでいたのも、そこなんです。それがどうしてもわからなかった。

 いまもハッキリ解明できたわけじゃありません。それでも、ここまでわかったことから、ぼくはこのような仮説をたててみました」

 戸波は語る。ぼくたちが経験したことは(その大半は視覚情報になるんでしょうが)、感覚器から得た五感の情報として、背中にある中枢神経系を通って、大脳へと伝達されます。

 五感の情報は、脳に記憶として記録されますが。それは大脳の耳の上あたりにある海馬にいったん記録されて、短期記憶となり。その一部が大脳皮質のどこかに転写されて保持されて、いまぼくたちが問題にしている長期記憶になります。

 これはあくまでも、ぼくの仮説ですがね。背中の脊髄を通って、海馬に、大脳皮質に、記録される記憶の情報は。大脳内にある、長く伸びた神経線維のどこかに。入ってくる刺激にあわせて変化する分子なりを利用して。なんらかの分子配列のかたちで、記録されているんじゃないでしょうか?


 感覚器を通じて、脊髄から脳へと送られる、私たちが体験した記憶は。

 神経を通る際に、信号のかたちになっている。

 その信号は、海馬と大脳皮質の神経線維に送られて。

 繊維内にある、刺激の内容にあわせて変化する分子配列を利用して。なんらかの分子列として記録される。あるいは保持される。

 これが、短期記憶や長期記憶になるのではないか。

 そして。私たちが欲求を抱くのにあわせて。繊維内にある分子配列のかたちである、さまざまな記録上を、再びまた電気信号を走らせることにより、同様の内容の信号としてよみがえらせるのではないか。

 戸波は、自身の考えを、こう語る。

 ぼくたちが、なんらかの欲求を抱いたとします。

 たとえば、朝に目覚めてトイレに行きたい、と欲求すると。あるいは、空腹なので朝食をとりたい、と願うと。

 すると、大脳内にある神経線維のそれに関係する記録した部分に電気信号が走ります。いえ、走らせよう、となるのです。

 大脳内にたくさんある繊維中の、トイレの経験を記録した、特定の分子配列のところに、電気信号が走る。

 あるいは、朝食に関する経験を記録した分子配列のところに、電気信号が走る。

 磁気テープに記録してある映像や音楽を再生するみたいなものです。

 電気信号を、神経繊維内にある、分子配列上を走らせることで。発生した信号を脳側が読みとり。私たちが必要としている、一連の記憶としてよみがえらせる。

 脳はそうすることで。発生した衝動と欲求にもとづいた、どんな行動をとればいいのかを、私たちに伝える。私たちに教える。私たちに考えさせるのです。

 そして。よみがえった記憶から。私たちは欲求と衝動にもとづいたどんな行動をとればいいのかを推察して判断して、トイレに行くことができるようになる。冷蔵庫をあけて朝食をつくれるようになる。

 ただし、繊維内に必要な記憶が記録されているといっても。そこに届くまでの神経細胞の繊維の接続がされていなかった場合には。そこまで電気信号を走らせることができないために。記憶の再生はできない。だから。それ以上は、うまく考えることができなくなってしまう。

 このような仕組みではないか、と考える理由は、ほかにもあります。

 神経細胞と神経細胞のあいだですが。樹状突起と、神経終末とを結ぶ、ほかの神経細胞とのあいだには、わずかにすきまがありますよね。電気信号として細胞内を走る信号は、ここで化学信号に変換されて、次の神経細胞へと伝達される。そしてまた電気信号になる。

 さっきの仮説通りなら。繊維内にある記憶の記録用の分子は不安的で、変化しやすいものなので。なんらかの刺激や化学反応をくわえると、もとの分子配列がたやすく失われてしまう。

 神経細胞同士の接触で記録内容が変わってしまう危険があるから。一本一本をくっつけないようにすることで、繊維細胞内にある記憶の分子配列を守っているんじゃないでしょうか?

 それにまた、神経線維の細長い軸索の部分を、絶縁化したコードにしてある、ということは。そこがとても重要である。そこに、記憶が記録されている、という証明にもなるんじゃないでしょうか? 変化しやすい分子が入った繊維だから。繊維と繊維とが接触して、そこから誤情報が生じてしまわないようにしているんじゃないでしょうか?


 そして、ここからが重要なんですが。

 この絶縁化された細長いコードみたいな細胞は、まわりにあるグリア細胞から酸素と栄養を供給されて成長を続けながら。先端と後端の部分の樹状突起を伸ばしたり縮めたりして、細胞同士の新しい接続と、使わない突起を縮める刈り込みを、毎日やすみなく続けています。

「なにもせずにいると、一度学んだことでも、どんどんと忘れていきますよね? それまでふつうにできていたことも、やらずにいると、できなくなってしまう。それは、なぜだ、と思いますか?」

 脳内では、樹状突起を活動させることで生じる、細胞同士の連結と切断が、やすみなく続いています。私たちが毎日、学校で勉強したり、会社で仕事を頑張っているときには。突起の成長と、ほかの繊維との新たな連結が起きている。

 私たちがその行動をくりかえせばくりかえすだけ、記憶が入った繊維の突起である接続部分が増えていって。ほかの記憶とのネットワークが増えたぶんだけ。どんどんと便利に使えるようになっていく。

 だから、ある日、それまではできなかったことが、できるようになる。思い付かなかったことを、思い付くようになる。実行できなかったことが、実行できるようになる。

 でもその逆に、一度学習したことも。くりかえさずにさぼっていると。突起の縮小による切断が起きてしまい。つながっていたものが、どんどんと切れていく。

 せっかく、つくった接続が失われてしまい。それがどれほど重要な知識でも、利用できなくなってしまう。

「私たちの頭の良さは、基本的には、神経線維にどれだけたくさんの有意義な記憶を記録できるか、にかかっているのでしょうが。それだけじゃなくて。記録されている記憶を、有効に利用できるように。その記憶が入っている神経線維に、新たにほかの神経線維の接続をどれだけ増やすことができるのか。そちらもまた重要になるんじゃないでしょうか?

 だから、大事にしまっておくよりも、しょっちゅう思い出して。愛情をかたむけたり、けなしたり、もちあげたりと。対象に対していろんなことをするほうが、繊維の接続部分が増えて、それだけ忘れなくなるんじゃないでしょうかね? 脳の記憶のシステムが、ぼくの仮説通りなら、そういうことになりますよね?」

「いや。けなすのは、どうだろうか。まあ、君がそれがいい、というのなら。それでいい、とは思うけどね」

 上司は、戸波の意見に、どこか複雑そうな表情でそうかえすと、先をうながす。

「だが君は、肝心なことを話していないね? 

 それで、けっきょくのところ。君のその仮説に従うなら、認知症の治療薬はできるのかね? 開発することは可能なのかね?」


 認知症の治療薬をつくることはできるのか。

 そう問われて。戸波は上司に、こう答える。

「つくれる、と思います。

 ぼくの仮説が正しければ、記憶は、神経線維中にある変化しやすい分子配列だ、ということになる。

 だとすれば、アルツハイマー病を始めとする脳の病気で生じる記憶障害は、分子配列が保持されている脳の神経線維に、なにか問題が生じるせいで起きるのでしょう。

 それならば、神経繊維のなかにある、分子配列が失われないようにすればいい。

 脳萎縮への対処もしなければなりませんが。それよりも、まずは先に。繊維中にある記憶の記録を失わせないように、神経細胞の軸索の活動を維持させる。あるいは活発化させる薬をつくればいい。そうじゃないですか?」

 戸波は、続ける。

 記憶は、神経細胞の長く伸びた軸索に。神経線維に、保持されている。と仮定します。

 先ほども述べたように。神経細胞は、細胞本体の大きさは、0.02ミリ程度ですが。細胞からでた突起のひとつが長く伸びていて、突起は1メートルもの長さになる。

 そしてなんと。細胞から長く伸びた軸索の部分ですが。じつはこの部分は、細胞本体から必要な栄養素を送ってもらい。それによって、生命維持を始めとした、脳にとって必要な活動をしているのです。

(神経細胞からでた突起のひとつである、長く伸びた神経線維は、神経細胞内の輸送システムを使い、食物分子、細胞のパーツ、そのほかの重要なものを長く伸びた軸索全体に送り。また不要なものを送り返す。という仕組みをとっている)

 驚くべきことに。この長く伸びた軸索内では。タンパク質の合成は、ほとんど行われていないのです。

 軸索で必要となるタンパク質は。細胞本体で合成されて。それが細胞本体から、軸索へと。軸索のなかを輸送されるようになっているのです。

 この軸索内の物質の移動に使われるのが、微小管です。

 微小管はまた、細胞の骨組みの材料になる、細胞骨格でもあります。

 1メートルもの長さになる軸索をつくったり。ほかの神経細胞とをつなぐための突起を伸ばすのに。細胞骨格である、微小管は使われているのです。

 おぼえていますか? 神経細胞で。特に軸索内で、多くみつかるタンパク質がありましたよね。それがタウです。

 タウは、微小管結合タンパク質です。タウタンパク質は、本来は、細胞骨格である微小管同士をしっかりとくっつけて強化して、軸索の輸送システムを正常に動かす。そのためのタンパク質なのです。

 軸索があんな細長いかたちをしているのも。もしかすると、タウが細胞骨格に結びつくことで。あのようなかたちに変化させている可能性があリます。

 微小管は、軸索内の物質輸送をひきうけている。そして細胞骨格でもある。だからもしも、(正常なタウタンパク質ではなく)異常化したタンパク質が結びついて、凝集体をつくり、それが微小管をふさぐと。通り道をふさがれて。本体からの輸送に頼るしかない軸索の部分は、すぐにダメになってしまう。

 そして。微小管が細胞壁や小器官の材料となって、細胞のかたちをたもっているのですから。異常化したタンパク質が結びついて、微小管が変質すれば。本来の形状を保てなくなって、軸索はつぶれてしまう。

 そして。もしも、この細長い部分に、私たちが経験したことが記憶として分子配列のかたちで記録されているのだとしたら。細胞内の輸送システムを壊されたら。かたちがつぶれてしまったら。それは間違いなく失われてしまうでしょう。

 軸索内の微小管による輸送システムが、機能しなくなれば。たとえ細胞本体は、なんとか生きのびたとしても。線維細胞内の記憶部分は壊れてしまう。そうなれば、記憶の再生はできなくなる。思考や意識は形成できなくなってしまい。記憶障害を始めとする病気の症状が、脳の持ち主に生じるようになる。

 あくまでも、これは仮定の話ですが。もしも、いまいった通りなのだとしたら。

 軸索内の輸送システムの活動を維持することが。それが認知症を治療することになるんじゃないでしょうか? そのような効果を持つものが、認知症の治療薬になるんじゃないでしょうか?


 軸索輸送障害というのがある。

 これは、過剰リン酸化タウや、アミロイドベータオリゴマーが原因で。神経細胞の輸送システムである微小管が機能しなくなり、軸索や髄鞘がやられてしまうことをいう。

 もしも、戸波の仮説通りならば。微小管と結びつかなくなったタウタンパク質が集まって、軸索内にタウ繊維が形成されて。さらにそれが集まってタウ凝集体というかたまりになって。それが微小管をふさいでしまうと。

 軸索内にある物資の通り道をふさがれることにより。神経細胞の本体は無事でも、その軸索は死滅してしまう。

 そうなれば、神経線維内にある記憶は失われてしまい。大量の細胞死や神経原線維変化にまで症状が進行しなくても。脳の持ち主である私たちに、記憶障害や認知症が発症することになる。

 もしかすると、これが認知症の初期症状かもしれないわけだ。

 戸波は、続ける。

 だから、それをなんとかしようとするなら。まずは、微小管の正常な活動をどうにかして維持することが重要になる。

「最初は、リン酸化を阻害する薬剤をつくれないか、と考えました。でも都合よく、リン酸化したタウだけをとりのぞくことはできない。細胞骨格タンパク質であり、軸索の活動に必須な物質であるタウを、無理やりにとりのぞいたりすれば、軸索に変性をもたらしてしまう。

 そこで、そのかわりに、ぼくはこれを提案します。

 これを仮に、微小管安定薬、と名付けましょうか。これは、微小管という管状構造をしたチューブリン重合体に結びついて、微小管を補強したり強化する性質をもっています。

 タンパク質のナノチューブである微小管に、追加で新たなタンパク質を導入する方法で。微小管を、従来よりも、剛直にして、かつ安定させる。(GFP内包微小管。剛直性、安定性、運動速度が増加する)

 これは、ある特定のタンパク質を導入することで、微小管の構造や機能を変えて、人工的な微小管にする。まったく、新しい手法になるでしょう。

 神経細胞の軸索のなかを通る微小管が変化するのをふせぐために。あるいは、軸索内の輸送システムの活動を維持するために。微小管安定剤を、新しいタイプの治療薬として使うわけです。

 ぼくの仮説が正しくて。この薬に求めている効果があるのならば。これが。認知症の進行を遅らせる、認知症の症状を改善する、そうした効果を発揮する薬になるでしょう。あくまでも、ぼくの仮説が正しければですがね。

 これが今回の、特別業務の成果になります。これで、どうでしょうか?」

 戸波は、伝えるべきことをすべて伝え終わると、目の前にいる上司を見る。

 ところが、戸波の上司は、戸波を見ようとしない。そっぽをむいた格好でジッと考えている。その表情を見れば、いまの戸波のアイデアを拒絶しているのではなくて、まじめに検討しているのだ、とわかる。

 戸波が提案したものだが、これは治療薬というよりも、阻害薬と呼ばれるものになる。

 でもじつは。これまでに認可された、数少ないアルツハイマー病の治療薬は。すべて病気の進行を遅らせる阻害薬のたぐいになる。アリセプトを始めとするコリンエステラーゼ阻害薬も、戸波が提案した新薬とは効果は異なるが、阻害薬だ。

 これはもう、しかたがないことだ。アルツハイマー病が発症する仕組みも、認知症が進行する仕組みも、いまだに解明されていないのだから。

 そうなると、いまわかっている症状を緩和する方法で対抗するくらいしか、できることはないのだから。

 上司は、戸波が提案した新薬のアイデアについて、考えをめぐらせる。

 もしも、戸波がとなえる仮説が正しくて。戸波が提案したこれが、いま言ったとおりの効果を発揮するのなら。たしかにこれまでになかった、アルツハイマー病に対抗する新薬になる。それは間違いない。

 考えるまでもない。とにかく、やってみよう。可能性があるなのら、試みるべきだ。なぜなら……。

 高齢者の増加にあわせて、認知症の患者にかかる社会保障の費用は増えていく。そんな将来図を変えるためにも。

 効果的な治療薬の登場を、いまかいまかと待ちわびている、ほかの省庁のおえらがたを納得させるためにも。

 新しい認知症の治療薬のアイデアは、常に求められている。

 これならきっと、充分な効果を発揮するだろう。

 上司の男は、そのように胸のうちで算段をめぐらせると。ぐったりとした格好で、手近のあいている椅子にすわって放心している戸波の肩を、ぽんとひとつ叩いて。それから、こう告げる。

「戸波くん、ご苦労さま。よくやった。君のその仮説と新薬だがね。いま言っていたことをまとめて、報告書にしてもらいたい。どうすれば、いまのそれを、証明できるのか。実現できるのか。そのあたりを、文書にまとめて欲しいんだ。

 報告書ができたら、すぐに私から会社側に提出させてもらう。会議で承認されたら、君にはその開発チームのリーダーをやってもらいたい。まずは、とにかく。試薬をつくりあげよう。そして、テストだ。

 戸波くん、君になら、きっとできる。私は、そう信じている。私は、これからもずっと、君に期待しているよ?」

 そうやって、満面の笑顔で自分によびかけてくる上司の男の顔を、戸波は疲れた表情で見やる。

 戸波は、くびを横に振って、相手にこう告げる。

「いいえ、その指示には従えません。ぼくはもう、そちらの指示に従うつもりはない。新薬の開発なんかやるもんか。

 無理矢理に従わせようとしてもだめですよ。ぼくの正体が脳モデルだっていうのなら、そっちでさっさと循環装置のスイッチを切ったらいい。脳だけなら、痛覚もないから、なにも感じないで、死ねるはずだ。そうじゃないですか?」

「……」

「ああ、それから。どうしても、わからないことがあります。あなたの正体はなんですか? どうせなら、それを教えてくれませんか?」

 戸波の、なにがあろうと決してひきさがるつもりはない、という思いつめた表情を前にして、上司の男は、考え込む。やがて、小さくため息でかえす。

「わかった。ただし、それを教えるかわりに、新薬の開発をする、と約束してもらいたい。これは取り引きだ。どうだね?」

「それって。ずいぶんと。こちらに不利な取り引きじゃないですか? まあ、いいでしょう。教えてくれるのなら、前向きに善処させてもらいますよ。でも、いいですか」

 戸波は、もちだされた取り引きに条件を付けようとしたが。そこで。

 同じ部屋で、こちらを見ている、対峙していた人物が、いつのまにか別人になっているのに気付いて、驚いて目を大きくみひらくと、次のセリフがでなくなる。

 いま椅子にすわっているのは、自分を恋人だと戸波に錯覚させた、例の正体不明の女性だった。

 会社の仕事部屋にいると、ひどく場違いである、白のワンピース、ロングスカートを身につけた格好で。表情がわからない前髪を伸ばした面をむけて、戸波のことを見返している。

 この事態を面白がっているのか。それとも怒っているのか。あいかわらず表情がわからないので判断はできないが。

 ポカンとした顔でいる戸波に。さっきまで上司の男だった、ワンピース姿の女性は、掌をヒラヒラと前で泳がせてから、次のようにうながす。

「どうぞ。いいわよ? なにかききたいことがあるのでしょう?」

「……ちょっと待ってくれないか。なにが起きたのか、事態を把握できないんだがね?

 ニセの五感の情報をつくったり。脊髄や中枢神経を通して、それを脳モデルに送りこむ技術は、存在しないんじゃなかったのかい? こうなると、やっぱりこの世界は、つくりものの世界だったってことになるのかい?」

「いいえ。これはね。そういうのとは、また異なる、もっと単純な仕掛けなのよ。

 脳に入る視覚情報のごく一部を、機械を使って誤認させる。(視覚情報のフィルターをいじくって)ある人物を、ほかの人物だと錯覚させる。そういう技術を使っているの。

 対象がなんであれ、目と脳がある動物になら効果があるわ。ヒトにだって。頭部に装着するタイプのVRゴーグルのような装置を使えば。簡単に、いま言ったことができる」

「つまりは、ぼくが上司だと思っていた相手は、ずっと君だったと。そういうことかね?

 君が上司になりすまして、ぼくに、認知症の薬をつくるように指示していたと?」

「正確には、私が、あなたの上司と、恋人の二役を演じていた。そう言ったほうが正しいでしょうね」

「そうか。つまり、あなたの正体は、そのどちらでもない、ということか。それじゃ、ぼくが同僚だ、と信じていたあの男も、じつはあなただった、ということかい?」

「いいえ。あれはまた、別の人間が演じているの。彼の本当の素性は、あなたの会社の同僚じゃなくて。私が所属している組織の、私の部下になるのよ。まあそのあたりのことは、少々事情がこみいっているから。また後日にでも、あなたが落ち着いた頃に、私から説明させてもらいましょう。

 とにかく、まずは、戸波さんに。あなたが今日話した仮説にもとづいた、新薬の開発の約束をとりつけさせてもらう。

 同意してくれるのなら、今回の戸波さんの働きに対して、なにか臨時ボーナスをだしてもいいわよ?」

「ボーナスって……。それは金銭的なものかね? いくら大金をもらっても、もしも、ここがつくりものの世界なら、むなしいだけなんだがね?」

 疲れた表情で問いかえす戸波に、正体不明の女性は、戸波を元気付けるつもりで、戸波の耳もとで、こう言いきかせる。

「だったら、そうね。戸波さんには、この世界にとどまる権利をあたえる、っていうのは、どうかしらね?

 この世界であなたは、これからも。多忙で充実した会社員としての生活と。恋人とのささやかだが幸福な生活を、この先もずっと続けていくことができる。

 ただし、ひきかえに。認知症の治療薬の開発を、今後も続けてもらう。それでどうかしらね? なかなかいい取り引きだ、と思うわよ? 私の提案をこばんだ場合に、戸波さんが味わうことになる、なんの救いもないバッドエンドよりも、ずっといいと思うわよ?」

 女性からそう持ちかけられて、戸波はとっさに激しい怒りの感情につきうごかされて、相手につかみかかりそうになる。

 だがそれをこらえて、戸波はうつむいて、こう考える。

 いまの取り引きに応じたら、どうなるのだろうか?

 これからも、この先もずっと。自分の正体も知らないままに、いつわりの世界で生き続けていかねばならないんじゃないだろうか。

 戸波は、くびをふって、こうかえす。

「いいや、おことわりだ。報酬をもらえるのなら、この茶番を幕引かせて、私を現実にもどしてくれないか。たとえそこが、脳モデルのなかでも。そちらのが、ずっとマシだ」

「そうは言うけれどね。あなたの本当の姿は、いまのあなたにはとても耐えられないものかも知れないわよ? 味わう苦痛が大きすぎて、またもどしてくれ、となるかもしれないわよ? それでもいいの?」

 女性は、面にかかった前髪のむこうから。自分の真意をたしかめるように。表情をジッと見たままで、そうきいてくる。

 戸波は、同意してしまいそうになる自分の弱気を追い払い、勇気をふるいたたせて、こうかえす。

「どうか、そうしてくれないか。ぼくには。いえ私には、なにもわからないでいるいまのが、とても耐えられない苦しみなんだ。だから、どうか」

「そう。それがあなたの願いなのね。それなら、そうしましょう。

 それじゃあ、いまから装置のスイッチを切るから、目をつぶっていてね。いきなり、いままでいた世界のそれまで信じていた常識が変化すると。脳がそれに対応できなくて、ダメージを受けることがあるのよ。

 しばらくは暗闇のなかですごしてもらって。それから、また再び目覚めることになるでしょう。だから、そのままでジッとしていてね。ええ。それでいいわ。それじゃ、始めるわよ。さん。はい──」


 戸波は、暗やみで一人で、あてどもなく、自分の考えを思いめぐらせる。

 あの正体不明の女性には告げなかったが、自分の正体が脳モデルではないことは、じつはもうわかっている。

 それについては確証がある。ちゃんと裏づける証拠があるのだ。

 例の女性は。新型МRI装置を使ってつくった、脳内の神経細胞のネットワークを描いたあの解説図を。開発室にある脳モデルのものだ、と信じたようだが。じつは、そうじゃない。

 あれは、今回の件で購入した新型МRI装置を使い。ぼく自身が被験者になって。ぼくの脳内の神経ネットワークがどんなかたちをしているのかを撮影して。そのデータをもとにつくりあげたものだ。

 この一か月間、開発室に頻繁に通い。だれもいないあいている時間を利用して、撮影を続けて。必要になるデータを集めて、つくっていった。

 こういうことは、すべて。あの装置と。サーバマシンと。それを使える環境がそろっていなければ、できなかったろう。

 ついでに言わせてもらえば。開発室にある脳モデルのほうも撮影して、それと自分の図と比較をしてみた。

 ところがだ。そちらには、自分と同じような神経細胞のネットワークの図はできなかった。

 脳モデルの図のほうは。脳内にある神経細胞から伸びる神経線維の数が少なくて、自分の半分もなかった。そもそも、神経細胞と神経細胞とが、神経線維でつながっていないところが多かった。

 つまりは。あの脳モデル内には、神経細胞のネットワークはできていないか。あるいは、しっかりとしたネットワークがあるのかもしれないけれど。それは活動してない。だからMRIを使っても、それを撮影できないのだ。

 確証はないが、あれは意識がある、思考する脳としては活動していない。脳モデルは、脳のようには働かないのだ。

 とりあえずは、そう考えることにしよう。そう信じることにしよう。

「あれは、ヒトの脳のようには活動していない。

 根拠としては弱いが。だからぼくは、脳モデルじゃない。あの女性が言うものじゃない。

 となれば。やはり、ここは現実で。ぼくは、日常的な出来事を部分的に誤認させる、なんらかの措置をうけている。そう考えるべきだ。

 まあ。それが事実かどうかは。これからぼく自身がたしかめていけばいいさ。

 チャンスはある。イヤっていうほど、あるはずだ。

 なにしろ、時間がないから。治療薬の候補を、てっとりばやく用意したけれど。あれでうまくいくとは思えないもんな。きっとまた、次の治療薬の候補が必要になる……」

 これから自分がやらなければならない、手間ヒマと苦労を考えて、戸波はやりきれない気持ちになる。


 脳について誤解していることは多いけれど。ヒトの存在は、脳のなかにある、というのも。きっと、そのひとつだろう。

 ヒトの思考や意識は、脳のなかで生まれるのかも知れないが。それを生みだす原動力は、そこにあるわけではない。

 生物すべてが持っている衝動と欲求に、脳に保持した記憶が組み合わさることで、思考や、意識というものは、生じるのだろう。

 生物すべてが持っている、衝動と欲求というもの。これが重要なのだ。

 私たちの腸内にいる大腸菌も、カゼをひかせるウイルスも、そこらへんにいる名も知れない微生物たちも。多くの生物が、この衝動と欲求を持っている。

 彼らは、移動して、食べて、増える、という。そういう欲求と衝動に従って生きている。

 その、移動したい、食べたい、増えたい、という衝動と欲求は。単細胞生物だけではなくて、長い時間をかけて変化をくりかえして生まれてきた多細胞生物である私たちヒトにもちゃんとあって。私たちを行動させる本位的な原理として働いている。

 脳のなかで、私たちの意識や思考は生まれるのかも知れないが。あくまでも、脳はからだのなかにある器官のひとつであって。脳がヒトではないのだ。

 私たちの身体は37兆個からの細胞でできているが。その細胞一個一個から生じる衝動と欲求が、私たちの本質なのだろう。

 たとえば、がんという病気がある。

 がんは、私たちのからだのなかで、がん細胞が増えて。がん細胞が、からだのあちこちに転移する病気だ。

 がんは、私たちのからだの細胞が壊れてしまい。壊れすぎたせいで、自死することもできなくなると、起きる。

 どういうことかというと。私たちのからだの細胞は、ふだんは、きっちりとコントロールされている。(脳からの指示を受けたり、細胞同士のやりとりで。脳なり、腸なりで、細胞ごとに、自分の役目となる活動を続けている)だから、ちょっとばかり壊れてしまい、からだの維持に必要となる各々の活動ができなくなると。壊れた細胞は自死することで、からだの負担にならないようにする。

 でも、ちょっとどころでなく壊れた細胞は、それとは異なる行動を始める。

 完全に壊れてしまった細胞は、からだのコントロールから離れて、衝動と欲求のままに行動を始める。

 がん細胞は、移動して、食べて、増える、という原理に従って活動を続けて。最後には、患者を死に至らしめる。

 この、地球上に誕生した細胞でできた生物たちすべてを動かしている、原動力がどのようにして生じるのか。それを解明することが、生命の神秘を解明することにつながるのかもしれない。

 私たちを動かす、衝動と欲求を生みだしているのは、魂でも脳でもない。私たちを構成している細胞一個一個、すべてなのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ