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セレブラム  作者: げのむ
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セレブラム 第十話

まだ修整するべきだったかも。

10


 認知症の治療薬を開発するチームを指揮する、その仕事からいったん離れると。

 戸波は、本人の希望により。単独で、それとは別の、独自の研究を行うようになった。

 毎日、会社にやってきては。会社に用意してある自分用の仕事部屋にこもって。そのあとはずっと、退社時間がくるまで、一人きりで作業を行う。そんなことをくりかえすようになった。

 なにをやるべきか、戸波にはわかっていた。少なくとも当人は、わかっているつもりでいた。

 これまでずっと自分は。ヒトとしての思考力や判断能力が失われてしまう、アルツハイマー病を相手に。その治療薬をつくりだそうと、苦労をかさねてきた。

 脳萎縮をもたらす原因をさがしたり。脳細胞の脱落をふせぐ方法をさがしたり。脳細胞が急激に減少する仕組みを解き明かそうとしてきた。

 だけれども。病気のせいでそこなわれてしまう。私たちの意識や思考力については、理解ができていなかった。

 そもそも。どのような過程を経て。思考や、意識というものが、脳という器官のなかで、生みだされて。

 病気が進行すると、どのような過程を経て、私たちの意識や思考はそこなわれてしまうのか。それがわかっていない。

 疑問は、ほかにもある。脳モデルには、ヒトと同等の思考力や意識はない、と同僚は言っていた。でも。なぜ脳モデルにはなくて、自分にはあるのか。両者の違いは、なんなのか。それがわかってない。

 そうだ。あんなにも、認知症の治療薬を開発しようと必死になってきたくせに。そもそもぼくは、認知症によって失われる、思考や意識というものについて、ちゃんと考えてみたことがなかった。

 ぼくたちの存在に直接にかかわる大切なことなのに、思考や意識が発生する仕組みについて、疑問を持ったことがなかった。

 これじゃあ、うまくいくはずがない。仮に、脳の神経細胞の変性をふせぐ薬をつくれたとしても。それを使ってみた患者の意識や思考力が失われてしまうのなら。それじゃ、なんにもならない。治療薬にはならない。

 それなら、まずは、思考や意識が発生する仕組みを解明するべきだ。そこから始めよう。

 ヒトの思考や意識とは、いったいなんなのか? それは、どのようにして生みだされるのか? そして、ぼくたちヒトと、思考や意識を持たない動物との差は、どうして生じるのか? それを調べてみよう。

 戸波が、こうした疑問を持ったのには、じつはほかにも理由があった。

 こちらは治療薬の開発とは関係ない、あくまでも個人的な事情からだが。

 もしも、脳だけでは思考することができずに、意識も生まれないのなら。例の女性の主張は間違いだった、ことになる。認知症の治療薬を開発するシミュレーション用の道具として、脳モデルは使えないことになる。

 それをキチンと証明できれば。そうだとなれば。自分の正体が脳モデルである可能性はなくなる。

 そう思い至った戸波は、この疑問の解明に取り組むことにしたのだった。


 戸波は、たしかに自暴自棄になっていたが。それでも彼なりに、問題に必死に取り組んでいた。なんとかして、自分の手にあまるこの難問を解決しようとしていた。(毎日毎日、まるでハリのムシロのうえで仕事をしている気分でいたが)

 でも戸波がやっていることを外から見るかぎりは、うまくいっているようには見えなかった。というよりも、なにをやっているのやら、サッパリわからなかった。

 戸波は、毎日毎日、会社にやってきては。仕事部屋にこもって。会社のノートパソコンで、朝から晩まで調べものをしたり。調べたことをノートに書きつけたり。考えごとにふけったり。そういうことをくりかえした。

 退社時間をすぎても、帰宅をせずに、いつまでも会社に残るようになった。

 スタッフがいなくなった頃をみはからい、開発室に出かけると、ケースに入った脳モデルをジッと注視している。そんなことをやっていた。

 戸波としては、自身の存在の解明にかかわる重大な疑問を解決しようと必死になっていたのだが。客観的にみれば、これほどに、意味不明であって、これほどに地味な苦闘のドラマもなかった。

 そんなことをくりかえすうちに、戸波は。例の女性と、喫茶店でかわした。脊椎動物の進化についての、たわいない話を、思い出すようになった。

 魚類から、両生類が生まれて。そこからさらに爬虫類が、ほ乳類が生まれてきた、というあれだ。

 それから、もうひとつ。脊椎動物の進化の歴史では。従来の種から、新しい種が誕生すると。(魚類、両生類、爬虫類、鳥類、ほ乳類の、脳の比較をするかぎり)新しい動物のが、もとの動物よりも、脳が少し大きくなっている、というあれだ。

 戸波は、海から水辺へとあがった、トビハゼやムツゴロウという、サカナのことを考える。

 水辺で暮らすサカナたちが、どのように生まれてきたのか。その過程を想像してみる。

 海中で暮らしていた、その小さなサカナたちは。陸にあがれば窒息してしまう、とわかっているのに。それでも海から水辺へとあがってきた。

 サカナは陸にあがると、くちにふくんだ海水で、自分のエラを濡らして、陸上でも呼吸をしようとした。

 またこのサカナは、水中を泳ぐためのからだしか持っていなかったのに。陸上にあがると、からだを伸縮させてとびはねたり。胸ビレと尾ビレを前後や左右に動かすことで水辺を動きまわって。エサがあるところまで移動するようになった。

 こうしたムチャクチャな方法で、水辺で生きのびると。仲間をみつけて交尾をして、増えるようになった。

 どう考えても、水生であるサカナのからだで。水辺でのたうち、這いずって生きる。そんな生きかたを選ぶのは、自死するよりもツラくて、きついことだろう。それでもそのサカナは、わざわざ、そんな生きかたを選んだ。

(あとから調べて知ったが、この種のサカナは、ほかのサカナとは異なり、皮膚呼吸とエラ呼吸の両方ができた。敵のサカナからのがれるために、陸に一時的に避難して、それからまた水中にもどる、という生態であったわけだ)

 でもだ。たとえ、どれだけ息苦しくて、ツラかったとしても。生活場所を、水生から陸生へと変化させて、敵がいない水辺で生きることにした、その選択は正しかった。

 サカナの試みは成功すると。数を増やしたそのサカナは、それまでのサカナたちとは異なる、新種になった。

 やがて、水辺にあがったサカナたちのなかから、手足をそなえた両生類が生まれてくる。

「つまりは。水生の脊椎動物のなかから、水辺という陸上を新たな生活場所にしようとする脊椎動物があらわれたおかげで、いまのぼくたちヒトがいるわけだ。変りものの魚たちが水からあがってくれなかったら。ぼくたちは、いまでもエラで呼吸をする、水生の動物のままだったかもしれない。

 もうひとつ、重要なことは。水生から陸生に生活環境を変えたことで生じた、脳量の変化だ。

 脳の増大は、サカナの場合を例にすれば、新しい環境にでていって、より多くの記憶量を必要とする際に生じる、と考えられる。もしかして、経験を記憶としてより多く蓄積する必要が生じると、そのせいで脳は大きくなるんじゃないだろうか?

 泥地にすむムツゴロウは。からだは、水性のサカナとしての構造をしているくせに。胸ビレを前後に動かしたり、ジャンプしたりして。そうやって泥地を移動する。

 これは、肺も手足もないのに、陸上でも生活できるように脳が変化したからだ、と考えることができる。

 ただし泥地から水中にもどすと、ムツゴロウは溺れて死ぬ。脳がもう陸生に変化してしまったからだ。

 このように 脊椎動物は。まずは、脳から変化するんじゃないだろうか? 変化した個体が生まれて増えることで、新種が誕生するんじゃないだろうか? こうやって、脊椎動物たちの進化は続いてきたんじゃないだろうか? 例の女性とのやりとりのときには、思わず勢いで言ってしまったけれど。本当に、そういうことなんじゃないだろうか?

 それじゃあ、この魚たちの脳に生じた変化が意味することはなんだ?

 今回のことにからめて、ぼくのこの脳を使って、考えてみるんだ」

 退社時間を、とっくにすぎている仕事部屋で。戸波は一人で、そんな自問自答をくりかえす。

 同僚は、戸波からまかせた仕事にかかりっきりで、自分の相手しているヒマはないだろう。

 自分の疑問に答えてくれる相手を、戸波は天井を見上げて、ジッと考える。

 時刻をたしかめて、この時間なら、ほかにだれもいないだろう、と考えて。戸波は席を立つと、仕事部屋を出て、開発室にむかう。


 戸波は、何度となく、自身に問い続けた。

 脳とはなんなのだろうか? 思考とはなんなのだろうか? 意識とはなんなのだろか?

 この問いに答えるためには。脳について、もっと学ぶしかなかった。脳の仕組みについて、もっとくわしくなるよりなかった。

 開発室には、訪れた戸波以外は、ほかにはだれもいない。

 機械類や、装置のたぐいだけが、やすみなく稼働している。

 戸波は、ケースにおさまった脳モデルの前に立つと、考えごとにふけりながら、相手に呼びかける。

「やあ、また来たよ。まだ途中だけれど、ぼくの話をきいてもらえるかな?

 ここまででわかったことを、もう一度、たしかめておきたいんだ。

 とりあえず、まずは。サカナの脳についての話なんだけどね。

 前にも話したかもしれないが。サカナの脳には、その個体が生活する環境にあわせて変化をする。そういう機能がそなわっている。もともと小さな脳ではあるけれど、脳のパーツの大きさや、脳の容量が、状況に応じて変わるんだよ。

 養殖の魚を、生存競争が激しい自然環境に移すと。きびしい環境で生きなければならないために、記憶量を増やそうと、大脳の脳量が増える。(場合によっては、三か月程度で、大脳の容量が十五パーセントも増えるという)

 ところがその逆に、必要がなくなると、サカナの脳は脳量が減る。

 サカナが自分の意志でやっているのかどうかはわからないが。環境の変化に応じて、個体ごとに、脳量の増減ができる仕組みが、サカナにはそなわっているわけだ。

 私たちヒトには、そんなことはできない、と思いがちだが。じつはヒトの脳でも、脳量の増減は起きている。

 人類の祖先にあたるホモ属は、約六百万年前に、それまでいた霊長類から分岐するかたちで誕生した。

 ホモ属は、もとの猿人から、原人、旧人、新人と、分岐していって、現生人類になった。いまの現生人類が誕生するまでに、私たちヒトは、絶滅した種をあわせて、全部で二十種類くらいいた、と考えられている。

 脳の容量は、六百万年前にいた人類たちと、私たちとを比較すると、どんどんと大きくなっている。

 最初は、350㏄ほどだった脳の容量は。旧人や新人では1500㏄と、約四倍もの大きさになっている。

 環境の変化に対応するためなのか。それともほかに理由があるのか、それはわからない。でも間違いなく、脳の容量は、祖先たちよりも、増えているんだ。

 脳が大きくなって、かしこくなる一方ならば、それでいいじゃないか。と思うかもしれない。でもじつは、その逆もまた起きている。私たちの脳は、ある年代までいくと、今度はほかの人類たちとくらべて、小さくなっているんだ。

 アメリカの大学の研究チームが、化石人類と、現生人類の頭蓋骨の比較を行ったみたところ。じつは、ヒトの脳のサイズは、約三千年前よりも縮小していることがわかった。ただし、今後新たな化石標本がみつかれば、発表された年代は動くかもしれない。

 重要なのでくりかえすが、化石標本が残っている、約三千年前の人類の祖先と比較すると。私たちの脳のほうが、テニスボール一個分ほどの量だが、わずかに小さいんだ。

 つまりは、ヒトという種も、脳量が一定しているわけじゃない。理由はわからないが、増えたり減ったりと、サカナの脳と同じことが起きている。

 だとしたら、認知症と呼ばれる脳が萎縮する病気も、(あるいは高齢による脳萎縮という現象もまた)この仕組みと関係があるんじゃないのか、と疑ってしまう。

 もしかすると、脳量の変化の原因は、脳そのものにあるんじゃなくて。サカナであった頃から続いている、脊椎動物に共通した、脳と脊髄からなる、中枢神経あたりにあるんじゃないだろうか。

 たとえば、ヒトが高齢者になると、脊髄側から、なんらかの指示がくるんじゃないだろうか。肉体が老化したから、体内の器官のなかでも、大量に酸素と栄養を消費する脳を小さくしろ、と中枢神経系から指示がくるとかね。あくまでも、仮説だけれどね。

 そのあたりは、ぼくよりも、むしろ君のほうが、くわしいんじゃないかい? 君ならば、なにか知っているんじゃないかい?」

 そのように戸波は、ケースのガラスむこうにいる脳モデルにきいてみる。

 でも循環液中に沈んだ、不格好で、くすんだ白色のかたまりは、戸波からの問いかけを無視したように、ジッと沈黙したままでいる。

 そこで戸波は、自分たちがつくったタウ凝集阻害薬が、ちゃんと効果を発揮したのに、大脳の神経細胞の脱落をとめられなかったことを思い出す。

 あれもやはり、脳が大きくなったり小さくなったりする、まだ解明されていない仕組みが関係しているのかも知れない。できれば早急に解決したい疑問ではあったけれど。いまは、ほかに優先してやらなければならないことがある。

 そちらを先にかたづけよう。

 

 戸波が、いかにももっともらしく、魚の脳と、ヒトの脳について語っていたが。

 あらためてことわっておくが。戸波が言っていたことは、べつにきちんと証明がされたことではない。あくまでも、戸波の仮説だ。

 魚には、考える能力はない、とずっと信じられてきた。そのわけは、魚の脳が人よりも小さくて。本当にちっぽけな大脳しかないからだ。

(魚の脳は。運動能力をひきうける小脳や。視覚の機能をひきうける中脳のが、大脳よりもずっと大きい。

 魚類の脳の特徴として。ヒトの脳では、巨大な大脳におおわれて、下に隠れてしまっている脳のパーツが。つまりは、脳幹の部分のほうが、魚類はずっと大きい)

 魚の脳は、ヒトの脳とくらべると、考えるためにある大脳が、とても小さい。

 こんな小さな大脳では、なにか記憶をしたり、考えたりは、できないはずだ。そう長いこと信じられていた。

 ところが最近の研究で、魚の原始的で小さな大脳には、ちゃんと記憶を保持する能力があるだけでなく。それ以外にも、ヒトにはない、すぐれた能力がそなわっていることがわかってきた。

 戸波がいっていた、脳量の増減(もともと小さいので、増えてもちょっぴりだが)や。ほかにも、脳に損傷をうけても自己修復できるといった、高い適応能力や回復能力がそなわっている。当然だがヒトの脳には、こんな便利な能力はない。

 なんでこんなことができるのか、というと。これはじつは、魚の脳に広く分布している神経前駆細胞、神経幹細胞という未分化細胞のおかげなのだ。

 魚が、新しい環境に移されたり、脳にダメージを受けた場合は。そのアクシデントに応じたさまざまな対応を、魚の脳はとることができるようになっている。

 ヒトの脳にも、この神経前駆細胞は、胎児の状態ではそなわっている。でもヒトの脳では、脳ができあがると、この未分化細胞は機能しなくなってしまう。

 なのに。ヒトの脳よりもずっと小さく、原始的な構造である魚の脳では、これがずっと働き続けているらしいのだ。

 ヒトの脳にはない、こうした優れた機能が、魚の脳にはそなわっているのである。

 魚の脳を調べて、魚の脳に隠されている謎を解明するためにも、今後の研究に期待したいところだ。


 戸波はそれからも。会社の仕事部屋で一人、自分の考えをつきつめていった。

 ヒトの思考や意識が、脳のなかでどのようにして生まれるのか、それを解明しようとした。

 ほどなくして、戸波は、彼なりの結論をだした。ひとつの仮説にたどりついた。

 脳とは、なによりもまず、記憶を保持するためにある器官だ。

 そして、私たちの思考や意識は、脳の記憶を保持する能力をもとにつくりだされる。

 認知症とは。脳内に保持された記憶が失われていくために。思考力や判断力が失われてしまい。患者が日常生活を送れないまでに自身の能力を低下させる病気なのだ。

 記憶。これが重要なのだ。

 なんだか、ごくあたり前のことを言っているように思える。それでも、戸波がそう考えるようになった理由を、これから語ることにしよう。それでは始める。

 戸波は、仕事部屋においてあったホワイトボードに。会社のプリンターでうちだした、大きく拡大した図面を貼りつける。そして、その大きく拡大した図面の前に立つ。

 それは、購入した脳モデルのマニュアルに付属してきた、脳モデルの解説図の一枚になる。

 脳モデルは、ヒトの脳を模してつくられた、実験用の道具であり。その構造は、ヒトの脳と同一でもある。だからこれで、代用できるだろう。

 必要なら。もっとくわしく解説した資料を用意することもできる。でもそういうものだと、細部にとらわれて、本来の目的を見失ってしまう。今回の目的に利用するのなら、簡略化してある、このくらいの図のほうが都合がいい。

 戸波は、目の前にある図面を見ながら、いまだに解決できていない、自身の疑問をくちにする。

「それじゃ、さっそく……。ヒトの思考や意識は、脳のなかで、いったいどのようにして生まれるのか、だが。

 その問いの答えは、この図面に描かれた、脳の構造と、各部の仕組みを知ることで、わかるんじゃないだろうか?」

 まず最初に、脳がどんなかたちをしているのか。そこから始めよう。

 ヒトの脳は、大脳、小脳、脳幹の三つの部分からなっていて。そのしたに脊髄が伸びている。そういうかたちになる。

 大脳は、だれもがよく知っている、あれだ。脳という器官の大半を占める巨大なかたまりで、重さは800グラムほどある。大脳の構造や、各部分の機能については、省略する。今回の主題は、それとは別にあるからだ。

 戸波は自身に言いきかせる。

 ふつうに考えるなら、この800グラムのかたまりのどこかで、思考や意識は生まれる。そう考えるべきだろう。だから、このどこかに、記憶は保持されているわけだ。

 小脳は、大脳の下にある、それよりもずっと小さなかたまりになる。重さは130グラムほどで、大脳の10分の1以下しかない。

 大脳が考えるためにある部分だとすれば、小脳はからだを動かすためにある部分になる。つまりは、私たちがからだを動かすときには、小脳がその制御をやってくれているのだ。

 私たちはふだん、そんなことを意識したこともないが。

 からだの各所の筋肉に指示をだして、個々の複雑な制御をすることで。私たちは、歩いたり走ったりできる。行きたい場所に行って、やりたいことができる。小脳は、そういうことをひきうけて、やってくれている。

 そして脳の三つの部分のなかで、じつは神経細胞がもっとも集まっているのも小脳になる。つまりは、神経細胞の数で考えるなら、小脳は大脳よりも記憶量が多い、ということになる。

 最後に、脳幹だが。脳幹は、小脳のとなりにある部分で、重さは220グラムほど。太さは親指程度で、8センチくらいの大きさになる。ここにはなんと、中脳、橋、間脳、延髄といった、サカナの脳では主力になっていた、脳のほかの重要なパーツがおさまっている。

 そして、こんな小さなところなのに。脳幹は、呼吸や心臓の動きや血流など、私たちの生命維持に直接にかかわる制御をひきうけている。私たちはふだん、気にしたこともないが。私たちのからだの内にある内臓の各器官は、脳幹が動かしてくれているのだ。

 それぞれの機能を、できるだけ手短にまとめると。

 小脳は、平衡感覚と筋肉運動の中枢を。

 脳幹は、生命維持の中枢を。それぞれ、ひきうけている。そういうことになる。

「さて、それじゃ。記憶は、このうちのどこにあるんだ?」

 戸波は、自身にそう問いかけてから、この三つの部分の構成をみていく。

 

 この三つのうちで、どこが重要なのか、といえば。じつは三つの部分のどれも重要で。どこが欠けても、私たちは深刻な事態におちいる。

 それでもあえて、どれが重要なのかを競うのなら。心臓を動かして血液をからだ全体に送ったり、横隔膜を動かして肺をふくらませたり、肝臓を動かして血液をろ過したり。そういうことを、私たちの意志に関係なく、やすみなく続けている、脳幹が最も重要になる。なぜなら脳幹が働かなくなると、私たちは即刻、生命維持にかかわる危険な事態になるからだ。

 大脳が機能を低下させても、思考力や意識を失うだけだが。脳幹が機能低下すると、それよりもマズイことになる。

 もしも、脳幹に障害が生じたり、脳幹が大脳のように萎縮してしまうと。心臓や肺がちゃんと動かせなくなって、そのまま個体の死につながることになる。

 それでは、小脳が働かなくなると、その場合はどうなるのか?

 小脳は、からだ全体の筋肉の制御をやっているので、小脳に障害が生じたり萎縮してしまうと、自分のからだをうまくあつかえなくなる。ヒトの運動機能に関係する難病は、タンパク質の伝達不良が原因で起きるが。小脳になにか問題が起きても、同種の病気が発症するのがわかっている。

「脳幹のあたりを、簡略化して、わかりやすく脚色しているが。おおむね、これでいいはずだよな。それじゃ、このうちで、記憶がどこにあるのかを、もう一度考えてみよう。

 ぼくたちは記憶というものは、すべてが大脳のなかに記憶されている。だから大脳イコール記憶だと信じているが。じつは大脳だけじゃなくて、たぶん小脳や脳幹にも、それぞれ記憶が保持されている。それがどんなものかといえば、筋肉を動かしたり、心臓や肺を動かすための記憶だろう。そして小脳については、すでにその通りだと証明されている」

 私たちがふだん、記憶といっているものは、大脳に記憶される陳述的記憶、というものになる。

 小脳に記憶される、からだを動かすための記憶を、手続き記憶という。手続き記憶の特徴は、からだを動かす過程をともなうものになる。

「小脳は、からだの各部の筋肉を動かしているが。筋肉をスムーズに使えるようになるまで、何度となく失敗をくりかえして、練習をかさねる必要がある。赤子がひっくりかえったり転んだりをくりかえしたすえに、ようやく、立ちあがって歩けるようになるのもそうだし。運動選手がすぐれたプレイができるようになるまで練習をかさねるのにも、小脳がかかわってくる。

 運動でいえば、練習をかさねればかさねるほど。どうしたら適切でスムーズでバランスよく、からだを動かせるのか。

 そのために必要となる記憶が、小脳にだんだんと記録されていく。からだで覚える、というけれど。実際にからだを動かすことで、小脳は、円滑に動作を行うための記憶を小脳に蓄積していくんだ。

 そして、ここからはぼくの考えだけれど。脳幹にも、内臓を制御するためのいろいろな記憶が保持されているんじゃないだろうか? 筋肉の使いかたを小脳が練習をかさねて記憶していくように、内臓の上手な動かしかたを脳幹が記録することで、その記憶をもとに内臓を動かしているのだと思う。

 ぼくたちは脳のうちで、記憶が保持されていて、記憶が失われるとまずいことになるのは大脳だけだ、と思い込んでいるけれど。

 ふだんは意識していないだけで、小脳や脳幹にも筋肉や内臓を動かすための記憶が、それぞれ記録されていて。いちいち大脳で考えないでも、小脳や脳幹がそこにある記録を頼りに、ぼくたちのからだを動かしている。

 そういう仕組みなんじゃないだろうか?

 そう考えると、ヒトの脳が三つの部分にわかれているのは、じつに理にかなっている。

 だって、内臓の活動をとめるわけにはいかないから、呼吸や血流といった活動については、脳幹がずっとそれをひきうけてやらなくちゃならない。内臓を動かしている状態で、仕事をしようとすれば。今度は小脳が、手や指の動きや目の動きといった制御をひきうけて、必要なことをやらなくちゃならない。会社のノートパソコンを使ってどんな書類をつくるのか、といった内容については、大脳がそれをひきうける。大脳が考えた文章をつくるために、指や目の動きに必要となる指示を、大脳を通じて小脳から、からだにださなくちゃならない。

 こんなこと、とても脳の一か所だけでは無理だ。指示をだすところを、三か所からつくって、担当することを分担させないと、混乱が生じてしまう。

 だから、脳の三つの部分は連携をしながら、個々に必要なことをやって、ヒトの行動を成立させているんだ。そしてその三つの部分を動かすために必要になるのが、大脳、小脳、脳幹に保持されている記憶なんだろう。それぞれの部分は、それぞれに保持されている記憶を通じて、その記憶を用いて、そういうことをやっているんだ……」

 それならば、その肝心の、記憶は。脳内のどこに、どのように保持されているのだろうか。

 それさえわかれば。記憶が保持されている脳のそこの部分を、変質しないようにすれば。その部分の機能を喪失させないようにすれば。それがこの病気を治療することになるんじゃないだろうか。

 記憶が失われてしまうこと。それがこの病気の症状や特徴なのだ。

 記憶が失われるのをふせげば、認知症の進行はおさえられるし。患者は自力でやっていけるようになるはずだ。

 それが、この病気を治療することにつながるはずだ。

 きっとそれが、認知症の治療薬になるはずだ。


 戸波は、自分の考えを補足するために、ホワイトボードに貼った脳モデルの拡大図のとなりに、ほかの動物の脳の拡大図を貼りつける。

 それは、サカナの脳の拡大図と、昆虫の脳の拡大図だった。

 前にも述べたが、私たちの脳には、耳の上あたりに海馬という器官がある。

 私たちが経験したことは、海馬にいったん記憶として記録される。でも海馬に入った記憶は、短時間で消えてしまう。私たちが経験したことの大部分が、記憶に残らずに忘れられてしまうのは、こういうわけだ。

 そして、海馬に保持された記憶のうちで。覚えていたいと強く欲求した記憶や、自身の生命の危機にかかわるような強烈な記憶は。海馬から側頭葉へ、大脳皮質へと、もう一度、記録し直される。これが私たちかふだんから、記憶ととらえているものになる。これを「記憶固定化の標準モデル」という。

(ただし、この大脳皮質に記録された記憶にしても。じつは、なにもせずに放っておくと、やがては思い出せなくなる)

 記憶を生みだす仕組みと、記録される記憶そのものは、私たちの海馬と大脳の皮質にあるわけだ。

 この海馬という器官は、サカナの脳にもあるし、じつは昆虫の脳にもある。

 昆虫にも、ごく小さな脳があって。私たちの脳と同じように、記憶の記録や、学習を行っている。昆虫の脳は、ヒトの脳と比較すれば、たしかに小さいけれど。ヒトの脳と同じ仕組みで、記憶の保持がされるのだ。

 昆虫にも小さな脳があって、ちゃんと記憶と学習の能力がある、といわれても、にわかには信じられないかもしれない。でも、たとえば。ある種のメスの個体は、自分が産んだタマゴを、わが身を危険にさらしても守るが。タマゴから子が生まれて、ちょっとでもその子との距離が離れると、親はその子をつかまえて食べてしまう。

 昆虫は残酷だ、冷酷だ、と私たちはそれを見て考えるが。じつはそうじゃないのだ。

 その昆虫の脳にも、自分が産んだタマゴは、守るべきもの、として記憶されている。でも守り抜いてそこからワラワラとたくさん生まれてきた子たちは、昆虫の小さな脳では記憶できない。だから、ちょっとでも距離をおくと、わが子も、もう目の前を動きまわるエサにしか見えなくなってしまう。

 昆虫の小さな脳が保持できる記憶の量は、私たちの脳にくらべれば、ごくわずかだ。でも昆虫は、その程度の記憶量でやっていける。そのやりかたで大昔からずっとやってきた。

 恐竜やマンモスが滅んでも、虫たちはちゃんと生きのびて、変化していく環境に適応できる新種を生みだし続けている。昆虫は、いまだに新種が毎年みつかっている。種類も百万種類からいて、ほかの動物種をはるかに凌駕している。

 それだけじゃない。実際のところ、私たちが、昆虫の脳の記憶量の小ささを笑うことはできない。

 私たちの大脳だって、たとえ八十年生きてきたからといって、八十年間分の記憶を、そこにすべて記憶しているわけではない。たしかに昆虫よりも多くを記憶できる脳を持ってはいるけれど。私たちだって、長い生涯のうちの、ところどころの部分的な記憶を持っているだけなのだ。

 むしろ、いろいろなことを経験しても、記憶できずに忘れてしまうことのが多い。そもそも、大脳とはそういう器官だし。大脳に保持される記憶とは、そういうものなのだ。

 記憶として大脳に保持できる経験は、全体のごく一部分でしかない。大脳は記憶を記録させるための器官だが、そのほとんどは記録されないで、私たちは忘れてしまう。

 むしろ、動物はすべて、経験したことの、ごく一部分だけを覚えている。そしてヒトのほうが、覚えていることが、虫よりも多い、というべきなのだ。

 そうなのだ。人間の脳は、ほかの動物にはできないくらいに大量の、一生涯におよぶ記憶を保持している、と誤解しているけれど。必要がなさそうな、どうでもいいことは。すべてを、きれいサッパリと忘れてしまうのだ。

 ヒトの大脳は。あるいは大脳皮質は。記憶できることを増やすために。記憶量を増やすために。そのために、ここまで巨大になったのかもしれないが。

 記憶する、という行為は、いちぶのすきもなく、正確に細部にいたるまで記憶するのではなくて、かなりいいかげんなものであって。経験したことも、覚えておこう、と努力しないと。しばらくすると忘れてしまうのである。

 そのあたりに、脳に記録される記憶の仕組みの、なにか重要なカギがあるように、戸波は感じる。

 脳の仕組みを解明するうえで、それがものすごく重要なことである気がして。戸波は、忘れる、ということについて、記憶にとどめておくことにする。


 会社から許可をもらって得た、自由に使っていい日数は、みるみると減っていく。

 残りの日数は、予定されている半分になってしまい。三分の一になってしまい。気付けば、あと数日分しか残っていない。

 それでも戸波は、毎日毎日。ただただ、せきたてられるような想いで、脳について学び続けた。その仕組みを、なんとかして解明しようとした。

 肝心の認知症の治療薬の方は、いまだに五里霧中の状態だった。そんな状況ではあったけれど。それでも戸波は、求めているものに、自分が間違いなく近づいているのを感じていた。

 あともう少しで、自分が求めていたものがわかる。それがどんなものかを知ることができる。そこまで自分は来ている。戸波はそんなふうに感じていた。

 戸波は、幾度となく、自身にむけて問い続けた。

 いったいぜんたい、私たちヒトの思考や意識は、脳のなかで、どうやって形成されるのだろうか。どのようにして生みだされるのだろうか。そのためには、なにが必要なのだろうか。

 今日までのつみかさねで、戸波は、その問いの答えに、たどりついていた。

 言うまでもない。記憶なのだ。私たちが、脳に記録して蓄積する、この記憶というものが、思考や意識の形成には、どうしても必要になる。

 戸波は、もうこれで今日、何度目になるかもしれないが。会社の仕事部屋に運び込んだホワイトボードに貼りつけた、脳モデルの拡大図の前に立つ。

 疲れた表情で、ホワイトボードの脳モデルに、視線をむける。

 見れば、脳モデルの拡大図には。いまでは、もとの図が見えないくらいに、走り書きのメモが、びっしりと貼りつけられている。

 最初の手書きのメモの上に、また違うメモが貼りつけられて。さらにその上にメモが貼りつけられて。そうやって拡大図は、たくさんのメモで埋まってしまっている。

 問題解決のヒントになりそうだ、と感じたことを、かたっぱしから紙に書きつけて。それをメモとして貼りつけていったせいだ。

 そんなことになるんじゃないか、と危惧はしていたが。案の定、そのせいで問題は解決するどころか、よけいにこんがらがってしまい、よけいにわからなくなっている。

 貼りつけたメモには、次のようにある。

「記憶は、脳のどこにある? 脳のどこでつくられる?」

「記憶は、海馬と、大脳がつくりだす。それはわかっている」

「ヒトなら、海馬と、大脳皮質になる」

「経験したことは、まず海馬に記憶される。最初は海馬で、そこから一部が大脳皮質に転写されて、長期記憶になる」

「海馬に記憶されたことは、しばらくすると消えてしまう」

「大脳皮質に転写された長期記憶も、そこにおいたままでは思い出せなくなる。それはなぜか?」

「ヒトの記憶は、海馬と、大脳皮質でつくられる。では海馬と大脳皮質のどこに、どのようにして保持されるのか?」

「記憶はどこにある?」

「大脳はなんでできている?」

「大脳は神経細胞でできている。それなら記憶は、脳の神経細胞に記録されていることになる」

「だったら脳の神経細胞を調べればいい。そうすれば、さがしている記憶がきっと見付かるはずだ」

「でも本当にそうか? 大脳は、ほかにどんなものでできている?」

「もっとよく考えてみたほうがいい。記憶が神経細胞にあるのなら、ほかのだれかが見付けているはずだ」

「それならば、記憶は、大脳のどこにある?」

 メモは、とてもすべてに目を通せないくらい、まだたくさんある。

 戸波は、今回の特別業務が始まっていて以来、毎日せっせと続けてきたことを。つまりは目の前にできあがったそのメモの大群を、いまいましそうににらみつける。

 たくさんの、とりとめもなく集められた、雑然とした知識の数々を前にして、戸波は自身に言いきかせる。

 べつに見たわけじゃないが、脳のなかも、きっとこんなふうになっているのだ。

 記憶という、これまで体験してきた。あるいは学習してきた、さまざまな知識の断片が。

 そういうものが、数知れず、大脳や小脳や脳幹のなかに記録されていて。こんなふうに、ごちゃごちゃとひしめいているのだ。


 あくまでも、これは自分の考えだが。思考の形成とは。つまりは、こういうことではないだろうか。

 脳は。外の世界の様子を、目、耳、鼻、皮膚、舌といった感覚器を通じて。五感の刺激の情報のかたちで受けとることで。その刺激をもとに、からだの外の世界の様子を把握している。

 たとえば、からだに太陽の光があたると。皮膚にうけた刺激が脳に送られて。長期記憶のなかから、これは朝の光だ、と脳は判断をする。

 外の世界には、朝がきたらしい。目覚めよう、と脳は欲求して、からだを覚醒させる。あなたがそう欲求することで。脳からの指示に従い、まぶたをあけたり、からだにいろいろな行動をとらせる。

 目をあけて、室内を見まわせば、目からの視覚情報が送られてくる。長期記憶のなかから必要な記憶がよびだされて。ここはどうやら、旅先のホテルの部屋らしい、と脳が推測をする。

 それから、脳が。昨日にあったことを、脳の長期記憶のなかからあたっていく。そうすることで。そこが出張先のホテルの部屋だ。昨日に宿泊したのだった、と思い出す。

 部屋を出て、食堂で朝食を食べたい、とあなたが欲求をすれば。その欲求や衝動にあわせて。関連した記憶が、脳の長期記憶から連続して呼びだされて。それにともない、次にとるべき行動を、脳が次々に考えていく。そしてその行動を、脳がからだに指示して、からだが動きだす。

 部屋から出て。食堂に行って。料金を支払い、食事を食べるときも。目、耳、鼻、舌、皮膚、を通じて、脳に入ってくる情報にともない。そのときにいだいた欲求や衝動に準じた、関連した記憶が、長期記憶から次々に呼びだされて。それが欲求や衝動とむすびついて、あなたの思考になっていく。

 だからもしも、脳に、それを行うのに必要な記憶が保存されていないと。欲求や衝動が生じても、それを思考にしたり、からだに実行させることができなくなる。

 ホテルの部屋のドアをあけることもできないし。ホテルのどこかに食堂があることも想像できないし。そこで食事を注文できることもわからない。

 だから、なにも知らない小さな子供は、空腹で泣くばかりなのだ。

 ところが、なにも知らない小さな子供でも。両親といっしょに行動して、親の行動を見て学んで、それを記憶すれば。次回からは、稚拙ながらも同じことができるようになる。空腹のときに、どうすればいいのか、わかるようになる。

 つまりは、脳があって。そこに欲求や衝動が発生しても。脳のなかに必要な記憶がなければ、脳は適切な行動がとれない。もしも記憶そのものがなければ、そもそも思考というものは生じないことになる。

 たぶん、こういう仕組みなのだろう。ここまでは、あっているはずだ。


 脳には、それぞれの個体が経験してきたことが、たくさんの記憶として。記憶のかたちの知識として、おさめられている。

 マンガ家の脳なら。その人物が読んだり描いたりした、たくさんのマンガの記憶が、知識として入っている。

 学者の脳なら。彼が長年続けてきた、勉強を通じて得た、自分の専門分野の知識という名称の記憶が、そこに入っている。

 主婦なら。主婦としてやってきた、毎日の主婦の生活で得た、経験という知識が、記憶としてそこに入っている。

 そして、彼らが。よし面白いマンガを描こう。なにか新しい発見がしたい。家族に喜ばれる料理をつくりましょう。とそのように欲求すると。

 脳内に雑然と保持されていた記憶と記憶とが、脳のなかで次々に連続してよみがえって。それが、考える、というものになっていく。

 たとえばその主婦が、以前に、家族においしい料理をふるまったことがあれば。つくったときの記憶をよみがえらせて、そのときの方法を再現することで、またその料理をつくることができる。

 さらに、その記憶と関連がある、ほかの記憶をよみがえらせて結びつけることで。料理を必要な人数分にしたり。食べる人の嗜好に合わせて、長期記憶の格納庫からよみがえらせたほかの記憶をもとに、求められているかたちに料理をアレンジすることもできる。

 学者なら、なにか新しい発見をしたい、と欲求することで。

 これまで自分が学んできた、あの知識の記憶と、この知識の記憶とを結びつけてみて。そこに、これまで発見されていなかった、なにか新しい規則性や法則性をみつけだそうとする。

 または、その逆に。ふたつの知識に、なぜに違いが生じるのだろう、と理由を考えて。関連ありそうな、ほかの知識の記憶をよみがえらせて、生じた疑問に結びつけてみる。

 マンガ家なら、次のこの場面をどうしても盛りあげたい。それで読者を楽しませたい、と欲求すると。

 自分が読んだ、いろんなマンガの記憶を知識として次々によみがえらせて。それらを関連させていくことで。その方法をさがすことができる。

 それでもダメなら、自身が経験したことの記憶をよみがえらせて。それを描こうとしているマンガの場面の予想図と関連させることで、どうにかして求めているかたちへと仕上げようとする。

(さらに、それを実際に行動に移すとなると。つまりは、料理をつくる。紙の上に絵として描くためには。小脳に記憶されている、手や指や目の動きをはじめとするからだの筋肉の適切な動作の記憶が必要になる。そこで、大脳と小脳が協力して、あなたがいだいた欲求に応じた、求められている一連の行動を行うために、必要な記憶をよみがえらせるわけだ。そこは省略する)

 こんなこと、当然だが、一度ではうまくいかない。最初は失敗する。でもこの、欲求に応じて、関連する記憶をよみがえらせて、それを実際の行動に移す、という過程を何度も何度もくりかえすうちに。どうすれば、うまくこなせるのか、それがしだいにわかってくる。

 一連の過程をくりかえすたびに、その記憶が、大脳、小脳、脳幹に蓄積されていって、少しずつ上達していく。これが学習する、ということなのだ。

 そして、この過程が。つまりは脳内で、関連しあう記憶を連続的によみがえらせて、ひとつの思考のかたちにしていくスピードが、一秒の何百分の一と、とてつもなく速いので。私たちは脳内で、記憶が連続してよみがえっていることに気付かないでいる。

「よく。人は生まれ持った才能で左右される、というけれど。あれはウソだ。脳の持ち主となる各人が、これまで脳にどんなことを記憶させたのか。記憶したことを有効に活用できるように、どんな学習をくりかえしてきたのか。それによって、各人の能力に差が生じるんだ。

 だから、なにも学習せずにいれば。脳内に記憶がなにも保持されていないから。たとえどんなに大きな脳を持っていても。ぼくたちは衝動的な行動しかとれなくなってしまう。

 その衝動とは、ほかの動物たちも持っているような。きっと、ものすごく、単純なものだろう。

 たとえば魚類や昆虫は、食べる、休む、逃げる隠れる、繁殖する。そういった動物の本能的な欲求に従って生きている。

 そこから考えれば、それはきっと、移動して、食べて、増える、そういう衝動や欲求になると思う。

 考えてみれば、人間だって同じじゃないか。小さな子供のように。記憶量が少ない脳は。自身がそなえている衝動や欲求のままに行動している。

 でも大人になって、記憶量を増やした脳は、気持ちとは異なることができるようになる。好きなものを嫌いといったり、食べたいのに食べたくない、という行動をとれるようになる。つまりは、ひねくれた行動がとれるようになる。だから……」

 また脱線しかけていることに気付いて、戸波はあわてて、本来の自分がやるべきことに集中しようとする。

「それじゃ、そのとても重要な、記憶というものは、脳のどこに、いったいどのようなかたちで保存されているのだろう?」


 人工知能のことを、話の冒頭で語ったのを、覚えているだろうか。

 語り手は。そこで。人工知能は考えることができないのではないか、と述べたが。そのわけは、次のようになる。

 人工知能は、あらかじめ設定されていることなら、どんな複雑な計算でも、指示されたままに、それをこなすことができる。でも自主的になにかを行うことはできない。なぜなら、よくできた計算機ではあっても、生物ではないからだ。

 生物は。それが単細胞生物のような、細胞一個からなるものであっても。生きるうえで必要になる活動を、みずからすすんで、自主的に行うことができる。

 たとえば、動物プランクトンのような単細胞生物を思い浮かべてほしい。

 いまいる環境が適していなければ、動物プランクトンは、自分が生存するのに。自分が活動するのに適切である場所へと、みずから移動をして。

 栄養になるものをみつけて、つかんで自分の細胞内にとりこんで。それをもとに、自分が活動するのに必要となるものを、細胞内につくりだす。

 そして、分裂することで。自分と同じ生物を、可能なかぎり、環境が許すかぎり、どんどんと増やしていく。

 単細胞生物は、だれかに指示されたわけでも、命令されたわけでもない。それなのに、こうした行動を、環境にあわせて選択しながら、自主的に行うことができる。自分から、そういうことができるわけだ。

 でも、単細胞生物は、考えたり、回想したりすることはできない。情動や感情を発揮することもない。単細胞生物には、そのために必要となる、記憶を保持する器官がないからだ。脳を持っていないからだ。

 私たちヒトにそれができるのは。記憶を保持できる脳という器官をそなえているからだ。

 生物がそなえている、よりよいところに移動したり、栄養をとりこんだり、増えたりする、その衝動や欲求を。脳という器官を通じて、思考や感情や情動に変化させることができるからだ。

 ところが、電子計算機というか、人工知能は。記憶装置をつなげて、大量の記憶を保持することはできても。前述したような、生物がそなえている基本的な衝動や欲求を持っていない。だから、考えることはできない、わけなのだ。

 私たちは、ほかの動物と、ヒトとを比較して。思考や感情や情動は。ヒトのような高等生物だけが行うことができる、なにか特別なことだ、と思い込んでいる。そのように、かん違いしている。

 たしかに私たちヒトは、いろいろあって、いまでは37兆個の細胞からなる多細胞生物になったけれど。それでも単細胞生物たちと、やっていることはたいして変わらないように思う。

 よくよく思い出してもらいたい。私たちの祖先である猿人や原人たちを動かした衝動はなんだろうか。それは、移動したい、食べたい、増えたい、に集約されるんじゃないだろうか。

 私たちは、けっきょく、脳という器官を通じて。単細胞生物でもそなえている衝動や欲求といった行動原理を発揮しているだけなんじゃないか、と語り手は思うわけだ。

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