セレブラム 第一話 思考と意識は、どのようにして発生するのか。
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人工知能について、話をきくたびに思うことがある。
私たちヒトは、考える、ということをあたり前のようにしている。
ところが、ヒトがどういう仕組みで思考しているのか。ヒトの脳内で、どのようにして思考や意識が発生しているのか。それについては、あまり関心を持たない。周知されているとも思えない。
現代では、コンピュータを使い、コンピュータのソフトウェアのかたちで、ヒトの思考を再現する試みが。つまりは前述した人工知能を構築する実験が、さかんに行われている。
でもこれがうまくいっても、人工知能ではないものができあがる、と思う。
なぜなら、コンピュータは計算機で、ヒトは生物、動物だからだ。もともとそれぞれの、用途や生い立ちが違う。
コンピュータを利用して人工知能をつくっても、ヒトの思考を真似た計算機ができるのだろう。そういう計算機は、たしかに道具として便利だろう、と思う。これまでない、いろいろな使い道もあるはずだ。
でもそれは、私たちが空想するような。自分で考えるタイプの人工知能ではない。
本当に、自分で考えたり判断したりする人工知能をつくるつもりなら。まずは先に。ヒトの脳内で、思考が発生する仕組みを解明するべきではないだろうか。
さすがにこれは、書き出しとしては、こじつけがすぎるだろうか。
この話にも、いまいった話に似た境遇におかれた、ある人物が登場する。そしてその人物も最後に、じつは自分は××だった、と。ショッキングな経験をすることになる。
その人物だが、名前を、戸波孝二という。性別は男性だ。
この戸波という男だが。大手の製薬会社につとめている。そしてその製薬会社で、まだ若い身の上ながら、戸波は、新薬の開発部門で役職をまかされていた。
戸波の人生は、いまのところは、順風満帆だった。
戸波が開発をまかされている新薬は。うまくいけば、将来には、この大手の製薬会社の主役の商品となるはずのものだったからだ。おかげで、この新薬の開発を続けるかぎり、戸波の将来はバラ色だった。
その日もいつものように、新薬の開発にまつわる仕事をすませてから。会社をでて。戸波は、恋人と待ちあわせた喫茶店にむかった。
喫茶店に入ると、先に店にきていた女性が、戸波に手をふる。
女性と同じテーブルについた戸波は、女性の笑顔と、お仕事お疲れサマ、というねぎらいの言葉をかけられる。
女性は戸波に、次のようにたずねる。
「それで今日は、なにか進展はあったの? 新しい発見はあったの?」
戸波は、椅子にすわると、肩をすくめてかえす。
「いいや、なにも無しだ。昨日と同じだ。開発チームの仕事につきあい、テストに使っている実験動物たちの記録もこまかくチェックしたけど。発見も無い、進展も無い。君を驚かせることは、なーんにも無いね」
「そう。それは残念だわ。面白い話をきけるのを、期待していたのに」
「ぼくも同感だ。これだけやっても結果がでないんだから。ここまでくると、やっぱりこのクスリをつくるのは無理なんじゃないかって。そんな気がしてくるよ」
大げさにそうなげいてみせる戸波に、女性は笑ってかえす。
この女性は、戸波の恋人だ。いまは実家暮らしの家事手伝いをやっていて、料理教室に通うなど、本人いわく、花嫁修業をしている。
女性の外観は、だいたい次のようになる。背丈は、中背くらいで、標準体型だ。
髪は、黒髪で、長すぎず、短すぎず。いつも、適切な長さにしている。
服装は、ワンピースのスカートが基本だ。色は、あかるいものを好む。ちなみに今日の女性の服は、薄いピンクのワンピースだ。
季節が寒くなれば、女性はワンピースのうえに、なにか上着をきてあらわれる。
身につける下着は白系で、目立つものは着用しない。この点については、戸波自身がちゃんと確認したので間違いはない。
戸波がこの女性と、恋人としてつきあい始めてから、かなりの時間が経過している。そのせいで、二人がいつこのような関係になったのか、じつは戸波自身もよく思い出せなくなっていた。
これといって特徴がない。特徴がないのが特徴のような女性だが。無理にみつけるのなら、前髪をのばしているせいで、両目が隠れていることが多いのが特徴だった。
そのせいで、顔を伏せていると、どんな表情をしているのか、それがわからない。
女性は、製薬会社で今日はなにがあったのか。そして、これからどんなことをするのか。それを語る戸波のことを、(たぶん)優しそうな表情で、あいづちをうちながら見守っていた。
話すだけ話してうっぷんをはきだすと、戸波は、やれやれ、と前置きしてから、女性に告げる。
「でも本当に、グチを言いたくなるよ。ぼくがこの新薬の開発を始めてから、進展らしい進展がないんだ。努力は認めてもらっていまの役職にいるけれど、結果がでないのは、正直いってこたえる。いっそ、別の部門に移動させてもらい、簡単に結果をだせる仕事がしたくなるよ。こんなこと、上司の前ではくちがさけても言えないけどね」
戸波がそううちあけると、女性は、前髪で隠れてあいかわらずその表情はよくわからなかったが。次のように言いきかせて、戸波をはげました。
「そんなことないわ。あなたにならできるわ。きっと、うまくいくわ。だからあきらめずに、明日もお仕事をがんばってね」
恋人の女性から、念でも押すようにそう言いきかされて、戸波は一瞬驚いた顔をする。それから、わかったそうするよ、と優しい表情でうなずいてかえす。
その日のデートは、別の場所で二人で夕食をとってから。戸波は一人で、暮らしをしている安い賃貸マンションに帰った。
ここで戸波が、いったいどんな新薬を開発しているのか、それを説明する。
戸波がつくっているのは、認知症の薬になる。
認知症は、ごぞんじのとおり、世間でもよく知られた病気だ。知名度は、がんと同等か。それ以上といってもいい。
ところが、こちらはあまり知られていないことだが。認知症の治療薬というべきものは、ものすごく数が少ない。というよりも、数えるくらいしかない。
認知症の患者は、いまのところ、国内で約六0二万人もいる。日本の人口全体でみると、六人に一人程度のわりあいで、認知症の有病者がいることになる。
患者数を世界全体でみると、二〇二〇年の段階で、約五000万人にもなる。その数は今後も増える一方で、二〇三〇年には七四七〇万人に。二〇五〇年には一億三〇〇〇万人になる。そう予測されている。
ここまで患者数が多い病気なのだから、それにあわせて治療する薬もたくさんあるのだろう。さまざまな治療の方法が確立されているのだろう。そう思うかもしれないが、そうではない。
認知症の薬は、いまのところ四種類のみが認可されて利用されているだけになる。
もっとも多く使われているのは、アリセプト(ドネペジル)という薬だ。これが一般的な認知症の治療薬になる。
長いこと、認知症の治療薬はドネペジルだけだったが。五年前から新たに、レミニール(ガランタミン)、リバスチグミン(イプシロンパッチ)、メマンチン(メマリー)の三種類が追加された。
この四種類は、認知症では患者数がいちばん多い、アルツハイマー型の認知症の治療に使われている。ちなみに、イクセロンパッチとリバスチグミン(リバスパッチ)は同じもので、だしている会社が違うので名称が違うだけだ。
認知症は、アルツハイマー型のほかにも、レビー小体型の認知症などがあるが。ドネペジルは、アルツハイマー型だけでなくて、こちらのレビー型の認知症にもきく。
というわけで、認知症の治療薬は、現在のところ、アルツハイマー型に使うものが四種類と。レビー型に使うものが一種類になる。そして、四種類の薬も、名称が異なるだけで、薬の効果は重複している。
四つのうちの三つは、アセチルコリンエステラーゼ阻害薬といい、効果の面からも同じ種類に分類される薬になる。(薬の基本的な成分が同じで、同じ効果で患者を治療するわけだ)
ここで注目してもらいたいのは、認知症の治療薬が四種類しかないことだ。
たったの、四つである。
患者数がこれだけ多いメジャーな病気なら、当然だが製薬会社が次々に薬をつくって。治療薬だけでなく、さまざまな方面からの治療方法も確立しようとするはずだ。
実際に、がんの治療薬なら、名前を覚えきれないくらい、たくさんの種類の薬がある。信じられないくらいに高価だったり、生命の危険があるくらいに副作用が強かったりと、問題点もあるが。それでも薬の種類が、たくさんあるのは間違いない。
患者数が少ないから薬がつくられないわけではない。それどころか患者数は増えていて、薬の需要も高まる一方だ。だから本来は、製薬会社がしのぎをけずって、開発競争をくりひろげているはずなのだ。
ところが現実には、このように、ごくわずかな数の治療薬があるだけなのだ。
なぜ。認知症の治療薬は、少ないのか。
その理由を、話をすすめながら、説明していく。
女性とデートした、その翌日のことだ。
戸波は、彼がつとめている製薬会社の開発室にいた。
製薬会社の開発室で、戸波は、ここで働いている同僚と、今日行う予定の動物実験について打ち合わせをしていた。
てきとうなところで、戸波は同僚にたずねる。
「ところで、あれの調子は、どうだい?」
「あれ、ですか? ええ。いいですよ。あれのおかげで、実験から検査までの行程を大幅に短縮できましたからね。おかげで、これまでよりも、ずっと簡単に、ずっとスムーズに、作業をすすめられます。それだけじゃない。コストの削減まで実現したんですから。皆もびっくりですよ」
「そ、そうかい。それなら、いいんだよ。開発室のスタッフが喜んでいるのなら、あれを購入した甲斐があったよ」
戸波は、そうかえして、同僚の意見に同意する。とはいえ、正直なところをいえば、使えないからあんなものは撤去してくれ、という意見を期待していた。そうすれば、あれをやめて、いままで通りにマウスを使った実験にもどすことができたからだ。
開発室には、マウスが入ったケージある。マウスは実験動物として、ここで飼育されているものだ。開発室で実験中の新薬を、エサや飲料水にまぜてマウスにあたえて、効果や影響を調べるためだ。
じつはマウスのほかにも、先月から新たに開発室に採用された、べつのものがあった。
透明なプラスチックケースが、そこにある。サイズは大型の熱帯魚を飼えるくらいで、両手をまわして抱えられる大きさのケースだ。
透明なケースは、ドロリとした粘性がある透明な液体で満たされていて。それは、そのなかに浮いている。それは、液体の比重で沈まずに、ケースのなかで常に浮いた状態になっている。
それは、ややピンク色をした白色に灰色がまじった、なんとも形容しがたい、いびつなかたちをしたかたまりだった。
なによりだ。とても信じられないことだが、その灰色のかたまりは、ケースの液体のなかで生きていた。
ケースには、液体の循環装置が取り付けてある。装置は、適切な量の酸素と栄養素を液体に溶かしてくわえて、二四時間休みなく、常に一定量を、ケース内に送り込み続けている。
その灰色をしたいびつなかたまりは、液体といっしょに酸素と栄養素を内部にとりこんで吸収すると、二酸化炭素と老廃物をだす。
二酸化炭素と老廃物は、ケースの反対側の排出口から液体といっしょに外にでて、再び循環装置にもどる。そこでろ過されて、また酸素と栄養素をくわえて、ケースに注入される。
このようにして、灰色のかたまりは、ケースのなかで生き続けているのだ。
ケースのなかに浮かんだ、両手で持てる大きさをした灰色のかたまりは、ヒトの脳だった。
正確には、ヒトの脳細胞を培養してつくった、新薬の実験用のモデルだ。
このテスト用のモデルは、すでに死亡した認知症の患者の脳の細胞からつくられている。素性は秘匿されているが、医学の進歩に役立ててもらいたい、と当人だけでなく、家族や親類の許可を得ている、という。
これを使ったテストの方法は、マウスたちと同じだ。実験中の試薬を、循環装置の液体にくわえて、モデルが試薬を吸収後に、試薬がどんな効果をもたらしたのかを調べるわけだ。
このテスト用のモデルを使う前は、動物実験をくりかえして問題がないのをたしかめてから、ようやく人への臨床試験に移行することができた。当然だが、それは手間も費用も、なによりも時間がかかった。
でも、このテスト用のモデルがつくられて、提供されるようになってから、それは変わった。
このモデルは、開発室のスタッフがいっていたように、実験にかかる手間と時間を短縮し、さらに大幅なコストの削減を実現した。
だがそうはいっても、この透明なケースのなかに浮かんだ、脳になりきれていない、灰色のかたまりを見ていると、本当にそれでいいのだろうか、という疑問がわいてくる。
戸波が、青ざめてこわばった顔で。ケースのなかに浮かぶ、薄気味悪いそれをジッと見ているのに気づいて、同僚は次のように呼びかける。
「もしも、もしもですよ? あの脳細胞のかたまりのなかに、ほんのわずかでも意識があるとしたら。なにか思考しているのがわかったら、あなたはどうしますか?
いますぐに循環装置の動作スイッチを切って、あれを殺してやりますか?」
「……」
これは、このモデルがつくられて利用されるようになってから。大勢の技術者たちのあいだで、いままで幾度となくくりかえされてきたジョークだ。それも、たちが悪い、ブラックジョークだ。
同僚の、薄気味悪い笑みを浮かべた、意地が悪い問いかけに、戸波は、お決まりのかえしで応じようとする。
いいや、ごめんだ。そんなことをしたら、会社が購入した高価な備品の付属品Aを壊した責任をとらされて、始末書といっしょに一千万円からの損害賠償金を払わされることになる。絶対に、おことわりだ。
そうかえそうとした戸波は、そこで、ふと考える。
ヒトの思考が、どのようにして生じるのか。ヒトの意識がどうやって発生するのか。それは、まだ解明されていない。
こいつの開発にかかわった大勢の技術者や学者たちは、これに意識はない。ただの細胞のかたまりだ、と断言している。それを証明する正式な書類も発行されて、いっしょに納品されてくる。
でもだ。本当のことは、だれにもわからないのだ。
もしもこの、認知症の患者の脳細胞からつくったいびつなかたまりのなかに、意識が存在するのだとしたら。それはどのような状態にあるのだろうか。
外を決して知ることができない、からだから切り離された不完全な器官のなかで。
いまこのときも、この世のものとは思えない、おそろしい孤独と。筆舌につくしがたい恐怖に、苦しめられているはずだ。
その孤独と恐怖を想像した戸波は、思わずブルッとその身をふるわせる。顔をそむけて、腕でわが身を抱きしめる。
でもすぐに、自分の仕事のさまたげになる妄想をふりはらって、戸波はそばにいる同僚に、きびしく言いきかせる。
「君ね。つまらないことを言ってないで、ちゃんと仕事をしてくれないかね? 高価な備品を遊ばせておいたら、私の責任になる。
午後も実験の予定が入っているんだ。指示書にサインをしておくから、君が責任をもって、テストをやっておくんだ。なにかあったら、君の責任だからね?」
「はいはい、わかりましたよ。了解しましたよ。まったく、戸波さんは冗談が通じないんだから。息抜きくらい、いいじゃないですか……」
ぶつぶつ文句をいう同僚が書類をさしだすのをうけとって、戸波はそれに目を通して内容をたしかめる。
『①用意した試薬××グラムを、循環装置の溶液にくわえる。
②指定された時間が経過したのちに、テスト用モデルから試料××グラムを採取する。
方法は、指定された金属製のへらで、モデルから直接に採取する。今回は、モデルの表面部分、××と××から、すみやかに採取を行う。
必要量の細胞片がとれなかった場合は、同じ作業をくりかえす。
③採取した細胞のサンプルは、必ず指定の容器におさめる。その容器を、用意された移動用のクーラーボックスに保管してから、検査室に送る。
以下は、移動の際の注意点になる……』
やるべきことを、ことこまかく箇条書きに、イラスト付きで指示している指示書に目を通してから。戸波は、書類に署名して、同僚にわたす。