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1952年、サンフランシスコ条約締結と共に琉球独立準備政府が現地住民の反対を押し切るような形で設立される。これに反発していた住民は現在の琉球王国まで続く琉球大衆党を設立(当初は共産党と同じ地下組織)し、日本復帰を求め続けることとなる。
1957年の独立を目指していた琉球共和国であったが、その実情は実質的な米国の傀儡国家、つまり指導者が若干マシな南ベトナムといっても過言ではなかった。しかしアメリカもその傀儡という批判をかわすために努力はしていた。当時燃え上がっていた島ぐるみ闘争の終結であったり、いくつかの地下政党の合法化や不要な基地用地の返還等である。拡大していた琉球共産党(徳田は結局琉球の独立を見ることなく53年の死を迎えることとなる)や大衆党を真っ向から潰すには彼等の勢力は少し大きすぎた。無理矢理それを実行しようとすれば流血は避けられず、それは決定的な住民との対立、基地機能の不全化を招きかねないからだ。それをガス抜きとしてアメリカの後ろ盾の元に琉球独立論を唱える共和党が成立し、この政党を介して琉球共和国をコントロールすべく選挙への秘密裏の介入も行われる事となる。
つまり当時の琉球には大半の米軍基地が残り、主要な産業育成は遅れ(日本が積極的に投資を行い始めるのは更に後である)、独立反対派等に代表される住民とアメリカとの対立や介入等、多くの問題がそのままにされたまま独立を迎えることとなったのだ。この歪みはすぐに決定的な決裂をもたらすこととなったのは、もはや言うまでもない。
第一次琉球内戦。それこそがアメリカが行ってきた占領政策の結果である。
1957年に行われた琉球共和国の国会議員選挙(共和国、その後の王国共に国会は一院制を採用している)では、アメリカの介入もあって共和党が第一党となり、大衆党、共産党がそれに続いた。元々アメリカとのつながりが深い富裕層を支持基盤とするこの政党の政策は、琉球共和国の当時の現状とあまり合致しているとは言い難かった。
また、日本への統合や社会主義化を図ろうとするのは国家への反逆であるとして大衆党、共産党などの弾圧を開始したのはアメリカの想定外だった。共和党はアメリカの威を借りて自分たちの実質的な独裁体制を築こうとしたのである。
アメリカのやる事成す事は殆ど裏目に出た上に、現地政府は碌に対応する能力も意志もない。更には米兵による暴行事件もあって、住民の怒りが爆発して暴動が至る所で発生するのに独立から8年かかった(その年は議会の改選が行われ、毎度のことながら選挙介入が発覚していた)のはむしろ良く持ったというべきだろう。そしてまさか自分たちが出てきてこれをどうにかするわけにもいかない。それは琉球が独立などしていないことを全世界に示してしまうことに他ならないからだ。アメリカは願った。次いでに助言もした。どうか共和党がまともな対応をしてくれますように。どうなったかは言うまでもない。
1965年6月23日。奇しくも沖縄戦が終結した日だった。共和党政権の命令による琉球共和国軍の出動、暴動の武力鎮圧を以って、この内戦は本格的に幕を開けることとなる。
さて、ここまで第一次琉球内戦の始まりまでは軽く解説したが、ここでもう一度周辺国の動向を把握する必要がある。まずは中国である。なんとか軍閥を纏め上げるまでに至った共産党だが、彼等は実際中国に存在する軍閥の中で一番強い、と言う物に過ぎなかった。末端まで共産党の支配が浸透していなかったのである。これに焦ったのは毛沢東である。彼は共産党、つまり自分に権力を集中させるために大躍進政策という大凡実情とかけ離れた政策を行い、案の定大失敗することとなる。当然あまり強くなかった共産党の中国における覇権は揺らぎを見せる。劉少奇や周恩来、また頭角を現し始めた鄧小平が彼の後を引き継ぎ国内の安定化に尽力するがソ連との悪化した関係を完全に修復するには至らず、市場経済の導入は毛沢東派による権力奪回の動き、文化大革命を招くに至る。さて考えてほしいのは、共産党の支配が完全に行き届かない状況でこの破滅的な権力闘争が起こった時、中国はどうなるのかという事である。反革命分子とされた軍閥にも一定の力が残存していたのである。この反革命分子が一つや二つ程度なら確かに鎮圧のしようもあっただろう。しかしそれは極めて多数であった、そういう事である。国内でいくつもの軍閥勢力が蜂起し、更に大陸反攻を掲げ未だどうにか生き残っていた海南島の国民党政府がこの機に乗じて侵攻し、国境地帯の安定化と不凍港の入手を狙い、中国に対する遠慮を中ソ対立の結果無くしていたソ連が満州地方に介入するに至った結果共産党の支配は大きく後退し、現在まで1949年10月1日の状態にまで戻ったことはない。
日本はサンフランシスコ講和会議後独立を回復し、高度経済成長を果たし戦前を上回る勢いで発展を遂げていき、1964年の東京オリンピック開催でそれは一つの頂点を迎える事となるが、ここに一つの足かせが生まれていた。1960年の日米安保条約更新の際に要求された、憲法9条の実質的な破棄と、アメリカ主導で結成された東太平洋条約機構(EPTO)への加入である。
そしてその要求に対して否と言えない事情があった。旧沖縄県における共産党勢力の拡大。更には内戦がいつ起きてもおかしく無い様な琉球共和国政権の腐敗。もし内戦の結果琉球共和国が社会主義化し、ソ連の進出があればどうなるか。それは太平洋においてソ連が一大拠点を持つという事に他ならない。日本にとっては南北を社会主義勢力に囲まれる、という事に他ならない、つまり国防の危機であったのだ。当時は文化大革命が起きる前であり、清朝の後継国家を自称する中共は台湾の領有権を主張していた。戦後独立した台湾共和国が、国防に対する危機感を持つことになったのも不思議ではない。彼等を併合したいと考えていたのは海南島に引きこもっていた国民党政府も同じだったのだから。それに加えて極度の反日派で在った李承晩を引きずり降した一方、朝鮮戦争の再開を懸念する韓国。更にはソ連の干渉によって成立した満州社会主義共和国連邦は大連にソ連艦隊を駐留させており、この悪化する状況下でアメリカは度々議論されてきた太平洋集団防衛構想をどうにか結実させて、機能不全化が心配される在琉球米軍基地の代わりを加盟国が果たすことを期待したのだ。
これに対し日本の返答はお茶を濁すこととなる。改憲した上で一気に軍事同盟に加盟するとなれば当時起こっていた安保闘争はますます勢力を増し、それこそ自衛隊の出動すら必要になる事が容易に予想できたからだ。下手をすれば革命である。アメリカも現状を理解せざるを得なかった。大統領すら来られないような状態でそれを強行すればどうなるかなど彼等にも分かったからだ。そんな事をすればデモではなく後楽園球場に来ていた野球の観戦客や、毎日殺人的な乗車率に耐えながら通勤する商社マンといったサイレントマジョリティまでデモ行進の輪に加わると考えたのだ。その代りアメリカは先送りは許しても拒否を許さなかった。こうしてEPTOが結成され、日本も実質的に重い腰を上げて軍事力の整備を行わざるを得なくなる。池田勇人政権後に首相となった佐藤栄作の、現代まで数えても一番長い総理大臣の任期において最も窮地にさらされたのは政権末期の憲法改定とEPTO加盟に関する議決であった事は言うまでもないが、それを何とか成立させて後継に政権を譲った点も彼が極めて評価される点であろう。
そして彼は「沖縄が返還されない限り、日本の戦後は終らない」という言葉に代表されるように沖縄返還への執念を燃やし続けた。しかしそれが叶う事はなかったのである。




