紙魚と怠惰
「こら、寝るな。何度私に起こされているんだ、君は」
「……ん。あ、すんません、また寝てましたか」
「またも何も、もう三度目だぞ」
呆れたような私の視線を眠たげな顔で流した後輩は、額に付いたカウンターの跡を擦りながら大欠伸をした。居眠りで付いた寝癖を手ぐしで直す姿には、全くと言っていいほど反省の様子が無い。その様子に、私の中のフラストレーションがまたもや爆発までのカウンタを一つ早めたが、彼はそれを感じ取るどころか、またもや瞼を下ろしかけている。
「……君、本当に図書委員なんだろうな?」
「ん?あ、はい。そうっすね」
「なら何故、毎度毎度仕事時間に寝ようとするんだ?」
「いやぁ……暇だから、とかですかね」
適当な敬語。二つ上の先輩である私に対して全くもって敬いの足りない態度。そのどれもが全くもって気にくわない。仕事もまともにこなせない後輩と同じ仕事の時間割のくじを引いてしまった過去の自分を詰ってやりたいものだ。
そんなこちらの気持ちを知りもせず、ぬけぬけと後輩は自分の居眠りの理由を語り始める。
「図書室って、あんま人来ないじゃぁないすか。来てもセンパイが相手してくれますし、俺、要らないんじゃないんすか?」
「確かに利用者が少ないのは大きな課題だが、それは君の睡眠を正当化する理由にはならないぞ」
今の時刻は午後5時半。もうすぐ閉室を迎えるこの図書室には、私と後輩以外の気配が無い。カーテンの隙間から差す斜陽が、寂しげに揺らめく埃を浮き立たせている。私の言葉に後輩は目を瞬かせて、不満の言葉を述べた。
「え、ダメなんすか。……実際俺、暇なんすけど」
「……あのなぁ、ここは図書室なんだぞ?蔵書の一つでも手にとってみれば、君の暇など一瞬で消えるだろうに」
私の回答が不服だとでも言いたげな後輩は、また一つ欠伸をして言った。
「俺、本嫌いなんすよ」
「……君、なんで図書委員になったんだ?」
「よく寝れそうじゃないすか。ほら、今も良く寝れるあったかい空気が……」
私は無言で部屋の暖房を切った。冬休み前の冷たい空気は体に毒だが、この後輩からすれば暖房の空気は布団にも等しいらしい。
「せ、センパイ……鬼っすね」
「鬼も何もあるか。……君は、何故本が嫌いなんだ?」
私の純粋な疑問に、後輩は私の手元にある推理小説をちらりと見て、私から目を逸らしながら言った。
「俺はセンパイみたいに本の虫じゃないんすよ。本なんて中学の頃に嫌々読書感想文で読んだきりで、今じゃ読んだら寝ちまいますって」
……本当に、何でこいつは図書委員になったのだろう。ああ、寝る為だったか。……そんな馬鹿げた理由でここにいる?言語道断だ。一応私は図書委員長なのだぞ?その真隣で寝るだけに留まらず、本が嫌いと宣うとは、呆れた性根だ。
「全く君は……君、今から私の言う情景を想像してみろ」
「はい?どうしたんすか、センパイ。いきなり」
「いいから、黙って想像しろ。『林檎の実が木から落ちて丘を転がった』」
「……はい。で、これがどうかしたんすか?」
つまらなそうにこちらを見る後輩に苛立ちが増すが、まあいい。こいつにせめて本が読めるぐらいになってもらわなければ、図書委員長という私の肩書きが泣くだろう。
「今君が想像した林檎の木はどのくらいの大きさだった?丘はどのくらいの高さだ?空は晴れていたか?」
「えーと……」
「どうだ。言葉一つでも、これほどの奥行きがある。これが本のおもしろさであり、文の奥深さでもあるんだ」
「なるほど……めんどくさいっすね。あとダルいっす」
「なん……だと」
本を読む上で最も重要な部分を面倒くさい、怠い、の一言で破壊されてしまった。衝撃で固まる私を尻目に、時計を見た後輩はそそくさと帰りの準備をし始めた。なんてことだ。こいつに本を読ませることは出来ないのか?絶望する私の前に、小さな紙切れがふわりと落ちた。拾って字を読むと、コンビニのチキンの割引クーポンのようだ。
「あ、すんません。鞄から出ちゃいました」
「ああ、そうか――はっ!」
「ん?どうしたんすか」
自然な流れでクーポンを手渡す私の脳のシナプスに、電流が走った。
「……一冊で一つだ」
「……え?なんすか?」
「君が一冊本を読むごとに私がこのチキンを奢ってやろう」
「まじすか?……どーしよ、読もっかな」
チキンの単価は一つ三百円……た、高いな。だが、この高額さが後輩に本へのきっかけを与えようとしている。……私の熱弁より、チキンの方が強いことに悲しみが湧くが、この際別に良い。こいつに、絶対に「本が好き」と言わせてやろう。
私のプライドにかけて、な。