6話 強さの座標
6話 強さの座標
インターホンが、軽く鳴る。
「忙しいんだ…後にしてくれ。」
もう一度、鳴る。
「うるさいなぁ。」
出ればいいんだろ、と戸を開く。
「お待たせしました!●●運輸です!」
「──あ、ノートパソコン。」
「はい!サインの方お願いします!」
やけに明るい青年だった。
僕は言われるがままに彼から手渡されたペンでサインを記し、感謝を述べる。
「ありがとうございましたー!」
少しだけ、気が軽くなった。
彼の元気を噛み締める。
「すいません、少しだけ、少しだけあなたの明るさを借ります───名前も知らないお兄さん。」
時刻は20時。
奴の告げた木更津公園までここから電車で20分、徒歩で30分。
ざっくりと所要時間をまとめれば1時間というところだ。
奴は23時に朽梨が仮面と出逢うと言った。
なら少なくともそれより前にはいないといけない。
僕に出来ることは彼女を止めることだけだから。
準備を重ねたリュックを背負って、気持ちを入れ直す。
死ぬかもしれない、でも、関係ない。
そして僕は靴を履いた。
ゆっくり、一歩一歩、地面に足跡がはっきり残るように歩いた。
己が意気を損なわないように。
駅までの徒歩5分がやけに長くて、脚が泣く。
いや、或いは恐怖に啼いているだけかもしれないが。
ああ、戻れない。
この先は、戻れない。
ICカードを握る手は細かく震えて。
電車を待つ3分、指を噛んだ。
孤独に、恐怖に、絶望に、向き合うのを遅らせるために。
指からは血が出た。
しかし、その方が落ち着いた。
がた、んごと、ん。
揺れて揺れて、今。
持ってきた水を喉に通す。
通す、通す。
気付けばペットボトルの中身は無くなっていた。
「───」
それでも声が出ない。
究極と言えるほどに乾ききったその喉。
水分500mlを摂取してなお砂漠化を止めぬ喉。
生唾さえ、塊になって流れ落ちていく気がする。
死地に赴くとは、こういうことか。
──安心して、私がいるわ。
その言葉が、どれほど重いものであったか。
「今度は、今度は」
君を護る?君を救う?
僕にそんなに大口はないけれど。
これだけは、言おう
「君の所へ行くよ」
予定通り、21:00。
木更津公園に着いた。
ここでも、ゆっくり地に足がつくように、僕という存在が浮かないように、歩いて回った。
灯がぼんやりと照らす中、一周した。
結論からいえば何も無い。
これから間もなくまたあの〝理解不能〟が訪れることも。
奴の言葉を呑むならば、彼女が終を迎えることも。
何もかも信じられないくらい、ただの静寂の闇だった。
道中で買い足したお茶とおにぎりをリュックから取り出す。
何となく落ち着ける、烏龍茶と鮭おにぎりだ。
ペットボトルの蓋を捻る。
カチカチッカチ。
小気味良い音が、誰も何もいない空間に響き渡る。
一回限りの音。
僕はもう一度その感触が欲しくて、蓋を閉めて捻ったけれど、その音はもう鳴らなかった。
その事が、下らない事が今の僕には堪らなくて。
おにぎりのフィルムを勢いよく開いた。
微かに囁く音。
おにぎりを齧る時の海苔が割れる音。
自分の咀嚼音。
ペットボトルを持ち上げる時の擦れる音。
自分の嚥下音。
その僅かな音達が僕を唯一慰めるもので。
「──怖い。」
食べ終えた時、つい零れた。
「何が怖いの?」
ベンチに座って俯いていた僕の正面。
顔をあげればそこに彼女がいた。
「なぜ泣いているの?」
僕の答えを待たず矢継ぎ早に彼女は問う。
泣いてなんかいない、そう言おうとしたが。
僕の頬は確かに濡れていた。
「君こそ──こんな所で何してるのさ。」
誤魔化し。
「……1時間後、ここにあの時のペルソナが出現する。」
今は21:30。
つまり、なるほど。
22:30に奴が現れ、戦闘が開始される。
そして23:00──辻褄は合う。
本当は、あんな言葉は妄言で良かった。
僕のこの時間はただの徒労でよかった。
でも、きっとそうじゃない。
きっと仮面はここに現れるし、そして彼女の結末も。
「座標がここで確認された。出現は間違いないわ。」
「あなたは逃げなさい。前みたいなの、見たくないんでしょ。」
彼女はそう言い、僕の横を通り過ぎようとする。
くちなし。
そう呼びかけるだけ。
声が掠れる。
でも、
今日は、
「──朽梨。」
そうはいかないんだ。
「──なに?」
君に、僕は、消えて欲しくないんだ。
だから、
「逃げ───」
よう。
あと、2文字だった。
時間にすれば、1秒にも満たないだろう。
しかし、その刹那が僕には足りなかった。
「……後で聞くわ、逃げなさい。」
公園の中央。
滑り台の影。
そこに突如として舞散った黒い霧。
紅い電光が迸るその霧は、きっと、そうなのだろうと予感した。
僕は何をしにしたんだろう。
弱い僕は、無力で。
果てには彼女に逃げなさい、なんて言わせて。
僕は、僕は。
──僕は、結局、弱かった。