0 Distel
──なあ、なんでお前さ、そんな勉強すんの?
すぐ隣の席から不意に声をかけられる。
目をやればスマホに齧り付いてタップを繰り返す友人の姿が映る──アクションRPGだろうか、その画面では格好の良い主人公が無数の敵を相手に無双を繰り広げている。
彼はテツ、阿蘇 鉄。お調子者で軽い僕の一番の友人だ。
続いて彼の前の机を見やる──が、その上には閉じたままのノートと教科書。
筆箱は彼の鞄の中に雑に仕舞われている。
なるほど、勉強をする気にならない中隣で黙々と集中する僕を見てからかってやろうとでも思ったわけか。
──そもそもここで勉強しようと誘ったのは彼だったはずだが。
「後で苦い思いをするのは嫌だからな。」
ノートに視線を戻しながら一言、そう答える。
しかしそのお粗末な回答では彼の納得を得ることは叶わなかったらしい、一瞬だけ彼の視点がスマホの画面から離れるのを感じた。
「今が楽しい方がいいじゃん。」
端的、彼の生き方が表れ突き詰められた言葉。
別に僕は否定も肯定もしない、彼の生き方は彼の生き方だ。
返す僕の言葉もひとこと、そうか。とだけ。
何度も繰り返したこのやり取り。
そろそろ5年目になる付き合いだ、意見が根本から食い違っていることも分かっている。
僕は僕で先の苦痛を回避しているだけだし彼は彼で今の苦痛を回避しているだけなことを理解しているからすり合わせようとなんて互いに思っちゃいない。
この話題は退屈になった時に彼が振ってくるお決まりの話題な訳だ。
目の前の紅茶が鼻腔をくすぐる。
彼も口を閉じ再度画面の中の世界に没頭している、閑話はおわりだ。
僕はティーカップの持ち手に指を掛け静かに持ち上げる。
波紋を立て、同時に香りが揺らぐその深めの苦味を持つ茶葉から出したレモンティーはずっと変わらぬ僕のお気に入りだ。
変わらない、そう、僕がこの店に通い始めた3年前から。
ウェイデン──ドイツ語で放牧場、そう名付けられたこの喫茶店は昔からこの街にあるそうだ。
自由と育みを表す放牧場の名に相応しいゆったりとした空気、香ばしく温かい紅茶。
何より勉強に限らず自分の時間を気兼ねなく過ごせる優しい雰囲気が初めて来店したその日から僕の心を包み込んだ。
「もう一杯いかがですか?」
ティーカップに半分ほど残っていたアップルティーを味わいながら飲み干し、音を立てないように静かに置こうとしたところ、不意に声を掛けられる。
声の主は─この店、ウェイデンの店主であるエレミアさん。
歳は聞けないが推し量るところ25辺り、若くて綺麗な女店主さんだ。
ニコリの微笑むその手には湯気を吹くティーポット。
エレミアさんが客席を回り注ぐ紅茶は日によって変わり、サービスということになっている。
ありがたい話だが──正直この店の経営状況が心配でもある。
お世辞にも客足が多いとは言えないし、その上にこんなサービスまでしてる。
ひとりで切り盛りしているから出来ることではあるのだろうが、如何せん何が彼女をそうさせるのか不思議ではある。
新しい紅茶を注いで貰いながらそんなことを考える。
ひとくち。
今日の紅茶は少し甘め、ストレートが良さそうな素直な美味しさだ。
会釈をしてエレミアさんが他の客席に移った頃、テツが
「この店、先代も先々代もそうだったらしいぜ。婆ちゃんが言ってた。」
なんて、言う。
突然どうしたのかと思ったが、思い当たる。
ああなるほど、まだ顔に先程の疑問が残っていたわけか。
彼女は親やそれ以前の代から続く優しさの伝統を継いでいた、ということでいいのだろう。すっきりと謎が解ける。
「──ただし、こいつはエレミアさんからだけどな。」
と、そこで続けてテツが言う。
彼が人差し指と中指で挟んでひらひらと揺らしているものは紙、ただの小さいメモ用紙だ。
ただしそこには文字が綴られている。
「ああ、今日は何だろうな。」
そう、この店ではサービスの紅茶と共に不思議なメモが客に渡される。
そこに書いてある内容は毎回異なり、一貫性はない。
ただし、毎回考えさせられる、何かを投げかける形での内容になっているのだ。
例えば"あなたは何の為に生きますか?" だったり"あなたは愛に殉じることができますか?"だったり。
この店に昔から通うテツ曰く、このメモは今代からの取り組みらしい。趣味みたいなものだろうか。
自分の手元にそっと伏せられたメモに手を伸ばす
"あなたは何を求めるのか"
──これに関しては、答えが自分の中である。
自分の平穏、周りの人々も含めて自分の平穏だ。
ありきたり、当たり障りない、そんな答えだ。
今日のは答えやすいものだったな、テツはどうだろうか。
そう思った瞬間、テツが倒れた。
額を机にぶつける鈍い音と食器が床に飛び散る派手な音が混ざる。
「─テツ?」
僕の思考が状況を理解する前に、周囲の空気が混雑し始める。
ざわ、ざわ。
静寂が刹那を数えた後に始まるざわめき。
そこでようやく我に返りテツを揺さぶる。
──呼吸音が、微かに聞こえる。
「すみません、手当しますのでどいていただけますか」
後ろからパタパタと、濡れたハンカチと救護セットを持ったエレミアさんがやって来た。
僕の返事を待たずテツの横に立った彼女は初めてとは思えない手際でテツの手当をしていく。
打ち付けて出血している所を優しく拭き終わったころ、僕に声がかけられる
「意識を失っているようです、私が車でそこの病院まで送りますので少しお店の留守を頼みます」
また、僕の返事を待たず彼女はテツを抱えて動き出す。
確かに病院は車で走れば5分ほど、救急車を呼ぶより断然早いだろう。
しかし、客に店を頼むというのは──
雑多な思考が脳内を駆け巡る中、強い音がした。
ドアが閉められる音だった。
その硬い音がハサミとなり、ごちゃごちゃした思考の筋を断ち切る。
──何も、出来なかった。
残ったのは、ひとつ。
後悔。
また、大切な人を助けられなかった。
「──逃げて、木留…!」
こめかみに声が響く。
痛い、痛い──懐かしい声は僕の心の爪傷を抉る。
違う。違う。テツは死んでない。
ただ頭を打っただけだ。
でも、僕は何もしてやれてない。
「なんで、大事な時に体って動かないんだろう。」
口から言葉が零れる。
「そんなもんさ、誰でもよ。」
ポンと肩を叩かれそっちを見るとよく見る顔のおじさん。
少し顎髭があって眼光の厳しい人だ。
「ほら、代金だ。エレミアさんによろしくな。」
そう言って千円札をポンと渡される。
怖い人だと思っていたが…そうでもないのかもしれない。
他のお客さん(といっても3人しかいなかったが)からも声を掛けてもらった。
「仕方ない」
「普通咄嗟に判断出来ない」
優しい言葉ばかりだった。
そんなに僕は顔に出ていたかと思ったと同時に
「僕は弱いな」
カウンター席で空を見上げながら、呟く。
仕方なくはない、分かってる。
でも過ぎたことだ、テツは生きてる。
死んでいたら?動けたのだろうか。
ぐるぐると誰もいない店で自責と自衛を繰り返す。
白い雲が流れていくのは見えていた。
──夢を見た。
普通の家屋に住む普通の家庭、笑顔の日常がそこにはあった。
父と母、そして子供が1人。現代を象徴する核家族だ。
子供が嬉しそうに笑って椅子に座っている、何かを待っているようだ。
もう少しだから待っててね、と声が聞こえる。
更に肉の焼ける香ばしい匂いが食卓まで届く。
母が盛り付けの準備の為に皿を取り出し始めた時、不意にインターホンが鳴る。
父がドアへ向かう。
ドアノブを掴む。
子供はその後姿を見てはいなかった。
「ダメだ──ダメだ父さん…!」
幻影の中の幽である僕の声は届かない。
ガチャリ──ドアが開く音がする。
と、同時。
子供が異変を感じ振り向く。
玄関から漂うのは台所から香るものとは違う吐き気を催す血の臭い。
足音がする。
分かる、父親の足音とは違う。
──そこからの事は覚えていない。
何が起きたのか、理解が追いつかなかったのだろう。
幼い子供の前に突きつけられたのは全てが終わった後の光景のみ。
僕を庇ったのだろうか、母は僕の前で倒れてた。
血の海──そんな表現があるが、正にその風景である。
母の体から染み出した血液によってリビングは真っ赤に染まった。
ただ、ただ。
僕が弱い、夢だった。
陽の光が目を刺す。
瞼の裏まで伝わってくるその温度はじんわりと視界の微睡みを解く。
紅い光に染まる雲が流れているのが見える。
──何度見た夢か。
遠い昔の話だ。
しかし、心に残った傷は消えないし、恐らくずっと消えることは無い。
僕は一生呪いを背負って生きていく。
「あら、お目覚めですか。」
後から声。
カウンターに突っ伏して寝ていたせいで節々が痛む体を捻ってそちらを向く。
「…エレミアさん、帰ってたんですか。」
「帰ってたんですか、じゃないですよ。時計を見てください時計を。」
言われた通り壁にかけられたお洒落な時計を見やる。
時針が指すのは6、分針が指すのは4だった。
6時20分──空を見るに朝じゃない。
つまり
「ほぼ丸1日眠ってましたね、お疲れなのでしょうか」
ということだ。
店のカウンターなどという悪条件の中そこまで睡眠に振り切れる自分に少し驚いた。
控えめに椅子に座るの音がした。
すぐ隣、いつの間にかエレミアさんがここまで移動していた。
彼女の美しい琥珀色の瞳がこちらを向く。
「ふたりっきり…ですね」
突然エレミアさんがそんなことを言う。
「話したいことがあるんです。」
唾が喉の奥で鳴る。
男なら──いや、人ならば誰もが感じうる雰囲気というものがある。
甘ったるいような、それでいて張り詰めているような。
馬鹿な期待をするなと理性が叫ぶが本能は従わず、夢を見る。
故に、独走。
言葉が口を突く。
「エレミアさん──」
実は、僕も
と続けるつもりだった。
その想いは事実だし、伝えるならば今しかないと感じた。
ずっと前から湧き上がっていたものの心の奥に潜めていた、伝えてはならぬと思っていたこの気持ち。
僕はこの時勝機を見、幸福を確信したはずだった。
しかし、僕の言葉を遮ったのは
「鉄さん──昨日亡くなりました」
との、言葉。
キュルキュル、言い表せない複雑な反応が身体中に起こる。
目眩、動悸、吐き気──自分が回転しているかのような感覚。
「な──んで──」
必死に思考を結び、ようやく三文字を紡ぐ。
最早何に対しての疑問かも自分で分からない。
揺れ揺れる視界の中にぼんやりと彼女の姿が映る。
彼女はその瞳に涙をためていた。
紅い陽を受け涙に濡れるその琥珀の目は黄金のように輝く。
「よく聴いてください、木留さん」
彼女の目から涙がこぼれ落ちる。
刹那──彼女は笑った。
「──私が殺しました。」
バツン、身体中を駆け巡る感情の束が纏めて切られた気がする。
唐突に白紙に戻った脳がひとつだけ僕に教えてくれた。
琥珀色の瞳はアーバンと呼ばれる。
その所以は狼の瞳と同じ色をするからである。
残酷で、冷徹なその色は今度はこちらを見ていた。
──夢、の定義とは何だろうか。
眠っているあいだに見るもの?脳の錯覚?
違う、そんなもので夢を括れはしない。
目覚めてから見る幻想もあれば実体験の追憶の場合もある。
では全て夢に通ずるものは何か。
答えは、自分のためのものであるということ。
己の事を理解し切れない理性の為に本能が教えるサイン。
危険を伝える為、記憶を整理させる為、同じ過ちを犯さないため。
悪夢だろうが例外はない。
が、それ故に起こる現象がある。
妄想ではなく追憶の形での夢を見た時に起こる記憶の欠落である。
それはその部分が当人に対して悪影響を及ぼすものとして本能により記憶の奥底に封印されている為に起こる。
しかし、その身に命の危険が迫った時、本能はその封印を解く。
その身に宿る記憶の全てをこじ開けることで何とかその危機に対応出来ないかと模索するからである。
ここに、こじ開けられた引き出しがあった。
──夢の、実像か。
いつも夢は足音のシーンから血の海のシーンまでの間がカットされていた。
気付いていた、そのカットされたフィルムは僕を狂わせると。
何故って──そりゃあ実の親を殺した相手、殺したくなる。
平穏な生活を守る為、今まで隠しておいてくれたんだろう。
自分の防衛本能とやらに感謝する。
だが、開かれてしまった。
足音が迫り来る。
ここまで思い出した僕に湧き上がる想いはひとつ。
──殺してやる。
足音が更に近づき、その影が廊下とリビングを隔つドアの桟を跨ぐ。
幼い僕がゆっくりとそちらを振り向く。
台所で激しい物音がする。
母が異変に気付き持っていた皿を放り包丁を手に取った音だ。
そしてリビングにゆっくりと入ってきた人影に向けて包丁を持つ手を大きく振りかぶる。
母さんは、強かったんだな。
僕を守るため、躊躇いもなく人へ包丁を突き立てた。
誰かを守ろうとする強さが母にはあったのだ。
しかし、誰かを躊躇いなく殺す暴力的な強さには敵わなかった。
想いの強さは所詮筋力の強さには勝てないのだとばかりに、母の振り下ろした包丁は止められた。
瞬き、100ミリ秒ほどで行われる動作である。
真の意味で刹那と言っても差し支えないその間、生物は視界を閉ざす。
無論、それによって何かを見逃すことはほぼ有り得ないから許される行為である。
しかし、違った。
瞼が上がりきり、再度視界が開けた時。
その時母は既に床に組み伏していた。
幼い僕は恐れのあまりか声すら出さない。
しかし、その眼は決してその者から離れない。
焼き付ける、焼き付ける。
風貌、特徴、服装、足音、臭い。
持てる感性の全てを以てこの者の姿を記憶する。
後ろで長く括られた黒髪、その髪と同じく漆黒に塗られたコート、対して荒みなどと縁遠い美しく白い肌。
軽くて薄い歩行音と柔らかな香り。
一見して朗らかで優しささえ感じてしまうその容姿。
しかし、その眼は恐ろしく冷たかった。
その色はアーバン、狼と同じ瞳の色。
「お前は──やはり。」
黒づくめが声を発する。
その容姿から性別が判断出来なかったが、声を聞いて男だと分かった。
深淵を感じさせる絶望の色、深い声だった。
「私達のための……礎となれ。」
男が背を向ける。
その背中に母の包丁を刺してやりたい。
幼い僕も同じことを考えているのは分かっている。
しかし、彼は動かない。
否、動けない。
恐怖と絶望に呑まれているのだ。
至極当然のことである。
彼は強くなかった。
幼く、護られた。
親を殺した相手に立ち向かうことも出来なかった。
──しかし、彼は弱くもなかった。
「……殺してやる」
必死に震えを堪えて口先を動かす。
男の背に向けて、呪詛を唱える。
この言葉を思い出した時、自分を弱いと思い込む自分が記憶の鍵を壊した時この呪いが再び自分を蝕むように。
「僕は──お前を殺してやる」
平穏な生活はここで打ち切り。
何としても奴を殺す。
思い出した、使命。
「お前は──人殺しだ」
瞼が重い。
まるで開くことを拒んでいるように。
ヌルッ
手が何かに滑った。
と、同時に異臭を感じ取る。
静寂、しかし、触覚と嗅覚が確実に伝える異常。
そんな時人は状況の判断として視覚を頼らざるを得ない。
拒む瞼を無理矢理に開く。
…思えば、こんな臭いはかつて嗅いだことがあった。
錆びた鉄に似たような、腐ったような、そんな臭い。
目の前に広がっていたのは血の海だった。
床に伏しているのは─エレミア…さん。
彼女の全身は抉り取られたように夥しく傷付き、これでもかと血を流している。
──僕が、やったのか。
テツを殺したと言った。
確かに言った。
でも、しかし、
──奴を殺す
その呪いは、点ではない。
あの時の僕が抱いた呪いはあくまで点であったが、今の僕がもつ点と繋ぎ合わせた時、それは線となる。
線とは無数の点の集合体。
その一次元の世界は空間に有らずして無限の意味を内包する。
あの時の殺すという明確な想い、それが原点であるのに変わりはない。
しかし、ここで記憶の補完より二点が出現、結合される。
されば、それは単なる殺意に有らず。
「僕が、殺したのか─?」
それは、奴と同じにならないという結論を弾き出す。
奴だけを殺す、それ以外に殺人は犯さない。
それは奴と同じになってはならないから。
「それじゃあ、僕は───」
呪いが何故呪いであるか。
それは人を何より縛る網であるから。
もがけばもがくほど、食い込む網。
殺すとは命を奪うことだけではない。
その者の存在、価値、人格、理念を全て否定し排除することだ。
自分がその者と同じに染まらず、否定できてこその抹殺なのだ。
──奴と同じ人殺しにはならない。
殺す使命を真の意味で達成する為に背負った殺さない呪い。
それが、彼を蝕む。
───僕は、人殺しだ。