プロローグ
【キャンプ場 A―1ログハウス】
目覚めた部屋の中は吐き気を催すほどの生臭い悪臭と木の良い香りで満ちていた。
遅れて視覚が働く。
目を開けると、赤黒く染まった木目がこちらを覗いていた。
「‥‥しまった。眠ってしまったか‥‥」
どうやら『作業』中に寝てしまったようだ。最近ずっと寝てなかったせいで思いのほか熟睡してしまったらしい。
体もだいぶ凝っていたらしく、起こした体を伸ばすとポキポキと骨が鳴った。
「どれくらいが経ったんだ?」
時間を確認するために腕時計を見たが、部屋が暗すぎるせいで何も見えない。携帯でも確認しようと思ったが、充電が切れることを思い出すとポケットへ伸ばした手が止まった。
リュックサックから懐中電灯を出すよりも外を見た方が早いかもしれないな‥‥。
その考えの通りに窓際にダウンジャケットがだらしなくかかっている窓を覗くと、雲一つない夜空が輝いている。
俺は自分が寝入った時間を思い出すためにぼやけた頭に思考という名の刺激を与えた。
確か、俺が寝る前も夜だったはずだ。ということはあまり時間は経っていないのか?
曖昧な答えを肯定しようとするが、目覚めた脳内がそれを強く否定している。何か忘れていることはないかと再び外の景色を見ると明らかに寝る前に見た景色とは違うと思い出した。
「雨が降っていない。雲もないな」
あの時は確かにうるさいくらいの雨音が響いていた。見た景色も、土砂降りの雨と空を覆い隠すほどの雨雲があったはずなのに。
「もしかして、丸一日寝てた?」
思わず間抜けな声を上げてしまった。しかし今はそんなことをいちいち気にしている暇はない。
急いでリュックサックから懐中電灯を出して『作業』台のある方へと光を照らす。
‥‥‥どうやら間に合わなかったようだ。
『作業』台へと向けられた光が、無情にもそれの姿を照らし出す。
それは人というにはあまりにも小さかった。本来の大きさなら俺と同じ背丈だったのだろうが、それにはあるべき部位が欠落していたせいで小学生ほどの大きさしかなかったのだ。
達磨。
俺が持っている語彙の中でそれがもっともこの肉の塊にふさわしい言葉だ。
それに刺さった複数のナイフの傷口から溢れて出る血は、もともと多くの『作業』で赤く染まった台をさらに紅く染めあげ、中央に置かれたそれの血の気の引いた青白さと合わさって対照的な美しさを感じさせた。
しかし俺の感性からすればミロのヴィーナスのような芸術的彫刻とは言いがたく、良くて精肉処理された出来の良いハムかベーコンといったところだ。そもそもの目的からして、この物体には芸術的価値も邪神崇拝の意味もない。
物体に近づいて状態を確認する。
皮膚は見ての通り失血の影響もあり蒼白化が見られ、血漿量が少ないためか死斑の発現は弱い。体表は乾燥しており、死後硬直が見られた。
この失血量で生きているのもどうかと思うが、人間というのは意外に生命力が高くしぶとい。無論、限度はあるが、もし生きていたら生死以前にゾンビの類であっただろう。しかし現実世界にゾンビという摩訶不思議な存在するわけもなく、医学や解剖学の知識のない素人から見ても、それは正しく死体であった。
――完全に死んでいるな。
大抵の人間がこんな現場を見れば悲鳴を上げるか卒倒するのだろうが、俺は司法解剖医のように冷静な所見を出していた。それは俺が死体を見慣れていた事。そして、俺がこの状況を引き起こした犯人であったからだろう。
しかし異常犯というわけでもない。自分でやっておいていうのもなんだが、気持ち悪いものを見れば嫌悪感は抱く。人を殺めてしまった事への罪悪感だってある。
感性や価値観が麻痺しているわけではない。理性で抑えているだけだ。
ふと、死体と目が合った。
死体の顔は死んだ人間とは思えないほど清々しい。皮肉にも、死んだ事で『作業』から解放されたのがよほどうれしかったのだろが、それは嫌悪感を増幅させるだけだ。
「……」
意味もなく死体の脇腹を強く蹴り上げる。
骨の折れる乾いた音と共にそれは半回転し、床へ顔から着地したまま動かなかった。たまたま目線も隠れたので嫌悪感は幾らか引いた。
天井を見上げながら計画を思い返す。
本来ならば、肉体状態と精神状態から見ても、あと一か月は持つはずだった。
その間にもっと多くのことができただろう。話もできたかもしれない。しかし治療もせずに寝てしまったことで死なさせてしまった。
予定外というほどでもない。いつかは殺すはずだったのだから、死んだのが遅いか早いかの違いだ。
そう、予定が早まっただけだ。死んでしまったのだからもうどうしようもない。
「しん……だ?」
何気なく呟いた言葉が完全に意識を現実に引き込んでいく。現実の重さと体の倦怠感がドッと伸し掛かる。
急に体から力が抜け、さっきまで寝ていた場所へとまた体が倒れた。
横向になりながら見える血の渇いた水平線。B級のスプラッターホラー映画の撮影現場が殺人現場に様変わりした気分だ。
「そうか‥‥死んだのか。ははっ」
人を死なせたのに俺の声音は弾んでいた。
いい加減この状況から解放されたいと無意識の内に思っていたのかもしれない。
そんなことを言える立場にないことは自分が一番理解しているのに。
「――これで最後だ」
その言葉を原動力に、最後の『作業』へ取り掛かる。
◇ ◆ ◇
死体を埋めるのはそれほど時間はかからなかった。
初日の内に床板は外しておいたし、穴も結構深く掘ってあったから死体を入れた麻袋と『作業』台を穴に放り込んで土をかぶせるだけの楽な『作業』だった。
一番苦労したのは部屋の掃除だ。いつもは『作業』のあとしっかり掃除をしていたのだが、昨日うっかり寝てしまったせいで台から大量にあふれ出た血が床にまで垂れていた。おかげで床を自分が映るくらいピカピカに磨くはめになった。
俺は部屋の掃除を済ませ、床板と家具の位置を元に戻してログハウスを出る。
「空気がうまいな」
外を出た第一声がそれだった。
本当は寒いだとか、湿っぽいとか、月明かりがきれいだとか、いろいろなことを考えていたが、反射的にそれがこぼれた。
最近ここにこもりっぱなしだったせいか何度も吸っていたはずの外の空気がとても新鮮に感じる。
澄んだ空気を杯一杯に入れ、ゆっくりと吐き出した。
「こうなる前にもう一度あいつと来たかったな‥‥」
そんな言葉を呟きながら合鍵でログハウスの閉める。その言葉がどんなに意味のないものかと感じながら、静かに、ゆっくりと。
――これで、こことも永遠にお別れか。
悲しいとか寂しいとかの感情は一切なかったが、何だか残念に思えた。
元々ここは子供頃から何度も来た馴染み深い場所だった。
貧しかった家庭の中で唯一豊さを感じられた、近所同士で行われたキャンプ。肉を腹一杯食べられ、満腹感を感じたのを今でも覚えている。
それとは別に行きたい観光名所もあった。その場所へ行くためにキャンプに来たと言ってもいい。
カギをポケットに入れて数段しかない階段を重く踏みしめ、ぬかるんだ土へと降りていく。足が完全に地面へ触れると数歩進んでログハウスへ振り返り、
「お世話になりました!」
そう言って、頭を深々と下げた。
感謝や礼儀でしたものではない。最後をここに選んだことからへの申し訳なさや自分への戒めのためだった。
ログハウスの返事を待つわけでもないが、1分くらいはそのままでいた。
その時間が永遠のように長く、刹那のように短い。そんな矛盾を感じながら頭を上げ、俺は軽い口調で簡単にその言葉を吐く。
「――さて、じゃあ死にますか」