苦い薬
幼いころから、ミンシアは修行をしてきた。山に篭り絶食して、体内の気と山の精気のみで生き抜いたりもした。すべては老師タオゼンからの指導で、今年二十歳を迎えるミンシアはおかげで気功治療法の第一人者となることができた。
老師から免許皆伝を得たミンシアは、旅に出た。ミンシアの修行していた高山の村は人口も少なく、修行場という場所柄病人もいなかった。山を下りて人を救いたい、というミンシアの熱意にほだされて、老師はミンシアの旅を許してくれた。
山を下りたミンシアを待っていたのは、都会の洗礼だった。不健康そうな人がたくさんいる、と思いミンシアが訪れたのは、都の繁華街だった。
「気功術師さんか、ちょうどいい。あんたにしかできない仕事があるよ」
初めに出会った壮年の男性を癒したとき、そう言われた。力強くうなずいたミンシアは、男に言われるまま白く布面積の少ない衣装を着て治療術を施していった。山の修行では薄絹一枚で座禅を組むこともあったので、ミンシアは抵抗なくそれを受け入れたのだ。
気功によって健康体を保ち続けているミンシアは、美しかった。白い衣装は、彼女の肢体を余すところなく強調する。ほどよい肉付きの腰の張りなどを目当てにした男たちで、彼女の診療所には早速行列ができたものだ。
そして都会生活三日目に、ミンシアは司法当局の手入れを受けて、都会を追われることとなった。
『気功の力で快楽と健康を』
という看板が、著しく風俗規定に抵触している、とのことだった。ミンシアは仕事を紹介してくれた男のところへ行ってみたが、すでに男は行方をくらましていた。
罪に問われたミンシアにはそれを贖うカネなどなく、追放を受け入れるしかなかった。看板は紹介者の男が書いたものだ、といくら言っても役人は聞く耳を持ってはくれなかったのだ。
都会を出たミンシアは、無一文になっていた。このまま旅を続けることは、できない。だが、旅を始めたばかりで山に戻ることは、もっとできない相談だった。路銀は山の老人たちが一生懸命にかき集めてくれたもので、こんな顛末で失ったと知れば、きっと気落ちされてしまうことだろう。老師の悲しむ顔は、見たくなかった。
仕方なく、ミンシアは身ひとつで旅を続けることにした。大きな町を避けて、小さな村で気功術と引き換えにわずかな銭を得る。都会は、もうこりごりだった。
あてのない旅を続けること、三か月。野山を越え砂漠を越え険しい山を越え、ミンシアは歩き続けていた。村もないどころか一軒の家もなく、自然の精気を得られる場所もない。いつしか深い森に踏み込んでいたミンシアは、力尽きてついには前のめりに倒れていた。
「大地の……精気が、わずかに、すう、はあ……」
湿った木の葉にうずもれながら、ミンシアは浅く呼吸を繰り返す。立って動けるようになるまでには、まだ時間がかかりそうだった。
地面につけたミンシアの頬に、振動が伝わってくる。人間よりも重いものが、近づいてくる振動だった。衰弱しきった今のミンシアでは、熊などに襲われてはひとたまりもない。身を起こそうとしても、全身に力が入らなかった。
「このまま……ここで……?」
絶望感とともに、ミンシアの脳裏に走馬燈が映った。山の頂上で座禅を組んでいる。木の根を一緒に煮込んだ重湯は、月一回のごちそうだった。精気に満ち溢れたあの山で、老師とともに過ごした日々。切なさに、ミンシアの頬を涙が伝う。ずしん、ずしんと近づいてくる振動。ミンシアは、そのまま意識を失った。
眩しい光を感じて、ミンシアは目を開ける。うっすらと漂ってくる香りは、草花の濃い香りだ。ぼやけた視界に、木でできた天井が見えた。
「気がついたみたいだね」
こちらを覗き込んでくる影が言った。人間にしては耳が長い。
「もう、大丈夫だよ」
幼い感じのする声だったが、ミンシアはその言葉を信じることができた。害意ある気の流れは、どこにも感じられない。優しい、穏やかな気に見守られている。
「ここ、は……?」
「ここは、森の診療所。ずっと昔にやってきた人間のお医者さんが、建てたものだよ。ほら、これ飲める?」
少年の声とともに、口に木のさじがやってきた。ぬるく冷ました液体の中に、凝縮された森の精気を感じた。うなずいて、ミンシアはさじの中身をすすった。とたんに、口の中に刺激と苦味が走り抜けていった。
「う、に、苦い……」
「お薬だからね。我慢して全部飲みなよ」
少年の声に導かれるままに、ミンシアは液体を口の中へと入れていった。苦味で顔をしかめたくなるが、飲み込んだあとは爽やかな森の風が体内を吹き抜けていくようだ。
「もうないよ。……薬湯を、こんな勢いで飲む人間は初めてだよ」
呆れたような、少年の声。体内に森の精気を巡らせたミンシアの視界に、色が戻ってきた。温もりのある木の室内に、金髪で耳の長い少年が立っているのが見えた。
「……助けてくれて、ありがとう」
身を起こして礼を言うミンシアに、少年は顔を背けながら布を投げてよこした。
「まだ寝てたほうがいいよ。さっきまで、死にかけていたんだから。それに、何か着たほうがいいんじゃない? それとも、恥じらいってものを知らない人間なの?」
言われて、ミンシアは自分の身体を見下ろした。都会でもらった服は旅の間にほつれ、ほとんどぼろ布と化している。もはや着るというより、引っかかっているといったほうがいいかもしれない。
「薄着には、慣れているの。でも、ありがとう」
言いながら、ミンシアは少年のくれた服に袖を通した。それは古びた白衣で、ミンシアには少し小さいようだった。
「さっきのお湯で、森の精気をかなり取り込めたから、もう大丈夫よ」
立ち上がり、ミンシアが言った。裾の短い白衣からのぞく太股には、すでに肌の艶が戻っている。白衣の合わせ目から、魅力的な谷間も見え隠れしていた。
「うん。早く、着るものを用意したほうがいいね」
顔を真っ赤にした少年が、ちらりとミンシアを見て言った。
「そうなのかしら? それより、さっき、ここは診療所って言っていたわね。ここには、大人の人はいるの?」
「僕も一応、大人なんだけどね……ここには、今は僕しかいない。前まで、賑やかだったんだけど」
少年の瞳に、寂しげないろが過ぎった。端正な顔立ちの少年が浮かべた表情に、ミンシアの胸はきゅんと締め付けられるような痛みを覚えた。それは、都会や旅の中でも、そして山での生活でも感じたことのない、痛みだった。
「……どうしたの?」
深呼吸で気を整えるミンシアに、少年が声をかける。どくん、と心臓が、高い音をたてた。乱れかける気をなんとか抑え、ミンシアは笑顔で首を横へ振る。
「なんでもない。それより、その……」
「なあに?」
少年が、無邪気な顔を向けてくる。それだけで、言葉が詰まってしまう。気の流れが、激しくなるのを抑えきれなくなりそうだった。
「え、えと、あの、ええと……」
言いよどむミンシアの額へ、椅子に乗った少年の小さな手が触れた。
「ふうぇええ?」
「どうしたのさ、奇声あげて……うん、熱もないみたいだね。確かに、大丈夫みたいだ」
少年の触れた部分が、まるで自分の皮膚ではないように脈打っている。
「でも、顔が真っ赤だよ。もう少し、寝ていたほうがいいのかも」
「あ、はぃ……」
すとん、とミンシアの腰が寝台に落ちた。身体がぐにゃぐにゃの軟体動物になってしまったようで、力が入らない。そんなミンシアの手を、少年の手が包み込む。
「寝付くまで、こうしておいてあげるよ。それから、栄養のあるものを作ってきてあげる。薬湯だけじゃ、力が入らないでしょ?」
手を伝って、少年の鼓動、そして気の流れが入り込んでくる。やさしさと、そして深みのある気だった。まるで樹齢を経た木にも似た少年の気は、ミンシアの心をますます落ち着かなくさせる。
「あなたは、不思議ね」
「僕にとっては、人間のほうがよっぽど不思議だよ。荷物も食料も持たずに、森へ来るんだもの」
ミンシアは、首を横に振って目を閉じた。手のひらから伝わる感覚に、集中するためだ。
「あなたは、あなたの気は、長い年月を過ごしたものを感じさせるわ。でも、あなたの身体の流れをみると、気の流れに歪んだものを感じる……どこか、自然でないような……」
少年の握る手の力が、強くなった。とくん、とミンシアの心臓が、切ない鼓動を伝える。
「解るの? 僕の身体のこと」
「ええ。気脈の一部に、滞りを作っている場所があるの……」
「じゃあ、それを治せば、僕は……」
「歪みを治せば、気の流れは正常になる。あなたの身体は、時の流れを取り戻すことになる……それが、あなたにとって幸せかどうかは、わからないけれど」
「きみにそれができるなら、治してほしい。僕にできることなら、何でもするから……!」
少年の懇願の声が、ミンシアの耳を打った。握るてのひらから、痛いほどの切望の気が感じられる。
「容易いことだわ。私は、気功術師だもの。そのかわり……」
ミンシアは言葉を切って、目を開いた。少年の瞳を見返して、息を吸う。ミンシアの激しい心臓の鼓動は、握った手を伝って少年に届いてしまっていることだろう。気恥ずかしさで、手に汗が浮かんだ。
「そのかわり……?」
促すように、少年が問いかける。必死にこちらを覗き込む瞳に、ミンシアの胸はますます高鳴った。
「ここに、私を置いてほしい。あなたと、一緒に暮らしていたい」
早くなり続ける鼓動にのせて、ミンシアの口から言葉が滑り出た。見つめあう少年とミンシアのあいだに、少しの沈黙の時間が流れた。
「……だめ、かな」
「……いいよ」
二人の口から、同時に声がでた。ミンシアは驚きに、目を大きく開いて少年を見つめる。
「いいよ。それくらいなら、僕にもできる。だけど、約束してくれる、名前も知らないお姉さん?」
「ミンシアよ」
「ミンシア。僕の一族はとっても長生きなんだ。だから、僕より先に死なないで、とは言わない」
少年は、ひとつ間をおいてから、言った。
「できるだけ、長く生きて」
「うん……」
少年の言葉には、諦観と願望が、同時に存在していた。それはミンシアの胸に、甘く苦く刃物のように突き立つのだった。