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いつもの席で珈琲を  作者: よろず
第一章
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縮まる距離3

 彼女がドリアを食べ終わっても陣さんが戻って来ない。もうとっくに戻っていても良い時間だ。これはおかしいし、とても怪しい。嫌な予感がしたから居住スペース兼休憩室代わりの二階へ続くドアへと静かに近付いて、音を立てないように開けてみたらそこにいた。階段に座っていた陣さんと目が合って、俺は眉をちょっと上げて呆れの表情を作る。ちょうど境目のそこは、暖房の熱も行き届かなくて寒かったはずだ。


「サボりか」

「バレたか。マスターの気遣いだよ」

「どんな気遣いだ」

「雪で客足が途絶えてるだろう? まぁそういう事だ」


 どういう事だってツッコミ入れるのはやめておいた。妙な気を使って、俺と彼女を二人きりにしたんだ。陣さんがサボるのは構わない。むしろゆっくりしてくれたら嬉しい。だけどそういう変な気遣いは、なんだか居た堪れない。


「お嬢さん、雪が好きなんだって?」


 サボるのをやめた陣さんが彼女に近付いて話し掛けた。彼女は笑顔で頷く。


「はい。好きです。でも転んで濡れてしまいました。ずぶ濡れでお店に来てしまって本当にごめんなさい」


 しょんぼり落ち込んで、彼女は空になったマグカップの淵を指先で撫でた。


「お嬢さんが大きな怪我してないならそんなのは気にしないで。それより、新雪を踏みたいなら良い場所があるよ。雪だるまもそこで作ると良い」


 幼い子供がするようにこてんと首を傾げた彼女から俺へと視線を移した陣さんが浮かべたのは、からかいの笑みに近い、でもそれよりも少しだけ優しさが滲んだ表情。その意味を理解出来ず眉間に皺を寄せた俺の肩へ、陣さんは右手を置いた。


「庭。今日はもうお客さんも来ないだろうし、お前には彼女の安全を監視する役目を与える。心してかかれ」


 とことん俺に甘い陣さん。照れ臭さから失敗した笑みを誤魔化すように顔を逸らして、俺は頷いた。


「コート、取って来ます。ちょっと待ってて下さい」

「俺の部屋にスキー用の手袋があるから持って来いよ」

「あいよ」


 一人だけ何もわかっていない彼女を置いて、俺は二階へ上がる。手袋は雪掻きに必要だろうと出していたのを見たから場所はわかる。エプロンを外した喫茶店の制服の上にダウンジャケットを羽織り、手袋を持って一階に戻った。二階から戻ると彼女は陣さんに言われたんだろう、コートを着てフードも被って準備万端だった。どこに向かうのかがわからない所為で首を傾げながらも、期待で瞳を輝かせている。


「じゃあ雪だるま制作、行ってくる」

「おう! でっかいの作れよ」

「こっちです」


 陣さんに見送られながら彼女を促して、裏口から庭へ出た。雪はまだ降っている。


「まっさらです! すごい! 踏んで良いですか?」

「どうぞ。転ばないで下さいね」

「はい!」


 長靴をザクザク雪に埋めて、彼女は無邪気な顔で笑ってる。


「店員さん! 雪ウサギを作りましょう!」


 存分に踏みしめたのか、彼女は庭の端に屈んで雪を集め始めた。


「待って。これ、して下さい」


 彼女に近付いて、俺は手袋を差し出す。雪で濡れた手を眺めて困った表情を浮かべた彼女の側へしゃがんで、濡れた手を俺のズボンで拭ってから手袋を無理矢理嵌めさせた。


「店員さんは面倒見が良いですね。洋服、濡らしちゃいました。すみません」


 困ったように眉根を寄せて俺を見上げてくる彼女を、可愛いと思った。


「どうせ雪で濡れます。あと春樹(はるき)です。春の樹木って書いて、春樹」

「へ?」

「俺の名前。お客さんは?」

「……(ゆい)です。ただって書いて、(ゆい)

「唯さん。雪ウサギ作ったらでっかい雪だるまも作りましょう。店の飾りです」

「はい! ……春樹、さん」


 はにかんだ彼女の笑みを間近で目にした俺の心臓が、きゅうっと音を立てて縮こまった。名前を呼ばれた事をこんなに嬉しく感じるなんて、初めてだ。

 雪を掻き集めながら、溢れる笑いが止められない。隠せない。俺は彼女が好きだ。無邪気な笑顔で雪遊びをしている年上の唯さん。名前と歳しか知らない人だけど、ハマりそうな自分を予感した。


 *


「ココア代が入っていません」


 暗くなるまで存分に雪遊びして、支払いをしようとした唯さんが浮かべているのは不満顔。


「あれは俺が勝手に作ったので、俺が払います」

「ダメです。お金の事はきっちりしないとダメですよ。マスターも言ってあげて下さい」

「あー。その辺は春樹に任せてるからなぁ」


 助け船を得られなくても唯さんは諦めず、頬を膨らませて俺を睨んでる。


「マスターがそう言っても、やっぱりダメです。この前は珈琲を奢ってもらっていますし、そういうの、ダメです」


 意外と強情な唯さん。怒った顔も可愛くて、俺の頬は勝手に緩む。


「それならココア代は頂きます。代わりに家まで送らせて下さい。また転んで怪我でもされたら困ります」

「意味がわかりません! 結局私に得しかないです!」

「得だと、思ってくれるんですか?」


 ゆるゆるに締まりのない表情で首を傾げて見せたら、唯さんの顔が真っ赤に染まった。


「な……なんですか! 年上をからかうものではありません! 女たらしです! 春樹さんは、女たらしなんですか!?」

「まぁまぁ唯ちゃん。毎日来てくれる常連サービスって事で。明日もまた来てよ」


 一人パニックに陥り出した唯さんの頭を撫でて、陣さんが話を纏めてくれる。未だ不満げに唇尖らせてるけど埒が明かないと判断したらしい唯さんは、ココア込みの会計を済ませた。


「んじゃ、ちょっと行って来る」

「あいよー。ちゃんと送り届けろよ」

「マスター、ご馳走様でした。雪遊びも楽しかったです」

「いえいえ。またお待ちしています」


 陣さんに見送られて俺達は店を出た。あれだけ降っていた雪はやんでしまっていて、積もった雪の上を恐々と進む唯さんの隣を俺も足元に気を付けながら歩く。


「家、どの辺ですか?」

「すぐそこです。近いんです」


 いつもは座ってるからわからなかったけど、立ってると唯さんの顔は意外に近い。寒さで赤くなってる耳に触れたくなるような近さだ。


「そんなに恐々進まないとダメですか?」

「だって、転んだの痛かったです」

「帰ったら膝も消毒して下さいね」

「はい。ちゃんとします。お風呂染みそうですよね」

「そうですね、染みそうです」

「…………春樹さん」

「なんですか?」

「あそこ、良いお店です」

「……俺も、そう思います」


 俺の顔を見上げて、唯さんは白く柔らかな雪のように無垢な表情で笑った。他愛のない会話をしながら辿り着いたのは、店からすぐ近くの木造アパート。二階の一室で、一人で暮らしているらしい。セキュリティなんて無さそうだし、女の人の一人暮らしって大丈夫なのか心配になってしまう。


「唯さん。困った事があったら坂の上を頼って下さい」

「……ありがとうございます。また、明日」

「お待ちしてます。おやすみなさい」

「おやすみなさい。春樹さんも、気を付けて帰って下さいね」

「はい。気を付けます」


 小さく手を振って、唯さんはアパートの階段を上って行く。彼女の背中が見えなくなるまで見送って、俺は店への道を引き返した。

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