春に芽吹く2
『綾乃さんっ、そんなに乱暴にしないで頂戴!』
『勉強サボってこんな所にいたのね。遊んでばかりいたら立派な大人になれないのよ?あなたは長男なんだから』
『綾乃さんっ、やめて!綾乃さん!』
『子育てに失敗したお義母様は口出しなさらないで下さい。私の息子をここの次男みたいにしたくないんです』
悲鳴じみた声を上げてるのは婆さんだ。母さんは俺の手を掴んで引っ張ってる。
自分の家に帰る一葉を見送った俺は、自分の部屋で思い出した記憶を反芻した。言葉をはっきり思い出せる物、ぼんやりと場面だけの物もあるけどこれは、婆さんに関する記憶だ。
頭を撫でてくれた優しい手を忘れられなくて俺はこっそり婆さんに会いに行って、何回か二人で会話をした。行く度に何かしらお菓子をもらったような気がする。
『春樹ちゃんはなんだかあの子に似ているわ。こんな事を言ったら春樹ちゃんのお父様に怒られてしまうだろうけれど…』
何かを懐かしむように目を細めて、悲しそうに睫毛を伏せた。婆さんが言った"あの子"はきっと、陣さんだ。
まるでほつれた糸を引っ張ったようにぽろぽろと、忘れていたはずの記憶が溢れ出す。
なんで俺、忘れてたんだろう。
なんで今更思い出したんだろう。
嫌な記憶まで同時に溢れて来て、気分が悪い。
閉じていた目を開けて俺は立ち上がる。一人でいたくない。唯さんの温もりが無性に恋しかった。
「煙草と飴の代わりが欲しいですか?」
唯さんの部屋に行くと、にっこり笑った彼女が両手を広げてくれる。俺は迷わず近付いて、抱き付いた。
「…どうかしましたか?」
優しい手が髪を梳く。
優しい声が、耳を撫でる。
「…忘れていた事を、思い出したんです」
「悪い事?」
「良い事も。両方です」
「聞いても良いですか?」
彼女の温もりに触れて、声を聞いていたら胸に渦巻いていた不安は溶けて消えた。俺はほっと息を吐いて頷く。
「聞いてもらっても、良いですか?」
「はい。喜んで」
体を離して窺ってみた彼女の顔には笑みが浮かんでる。それに安心して俺は、口を開いた。
幼い頃の記憶が"曖昧"という言葉で片付かないくらい、無かった事。それを唐突に思い出した事。
「俺はもしかしたら、自分で記憶を封じ込めたのかもしれません」
一葉は俺が、人が変わったみたいになったって言ってた。ノイローゼみたいだったとも。
俺は確か、絶望したんだ。家族ってやつに。
「婆さんは、押し潰されそうになってた俺を助けようとしたんです。でも母さんには婆さんの言葉は届かなくて、元々嫌っていたみたいですけどきっとそれが、決定的な溝の要因になったんだ」
優しくしてくれた婆さんの事も忘れて、一葉との思い出も消して俺は、逃げた。自分を守った。あのままだと俺は壊れてしまいそうだったから。
話しながらもどんどん記憶が溢れて来る。まるでパンドラの箱の蓋を開けたみたいに。嫌な記憶、悲しい記憶がたくさんだ。俺の箱の中には最後に、何が残るんだろう。
「両親は一葉の言った通り俺らを道具としか思ってない。あんな所に一葉を残して、俺っ」
何一人で逃げてんだよ。大事な弟置き去りにして。
「春樹さん、大丈夫です。一葉くんは大丈夫」
「っ、なんで…そんな事っ」
「本人に聞きました。春樹さんが覚えていなかった、ご両親から春樹さんが受けていた仕打ちの事も。一葉くんが私に話してくれたんです」
「いつの間に…」
「実は私達、仲良しなんですよ」
ふふっと笑った唯さんは、俺の顔を覗き込む。優しい顔して、俺の頬を撫でた。
「一葉くんはご両親に殴られる事はなかったそうです。それはあなたが全部引き受けていたからだと、一葉くんは言っていました。それにあの子は強い子ですよ」
頭が、重たい。舌も唇も重たくなって、言葉が出て来ない。何を言いたいのか、何を言ったら良いのかも、浮かんで来ない。ただ喉が、焼けるよう熱い。
「一葉くんにとって、どうして春樹さんがあそこまで大切なのか。何故、一葉くんの唯一になれたのか。思い出したならわかるでしょう?あなたはちゃんと守っていたんです。守れていたんです。あなたと一葉くんはまた、会いたい時に会える。会話を出来る場所にいるんですよ」
堪える事なんて出来なくなって、俺は唯さんに縋り付いてガキみたいに泣いた。
*
『兄さんは僕の兄さんで、母さんで、父さんなんだよ』
弟が向けて来る信頼。小さな手を握り締めて、守りたいと思った。
庭を二人で探検するのが密かな楽しみ。息が詰まるような室内から抜け出して、手を繋いで広い空の下を歩いた。
『兄さん』
この笑顔を守れるなら耐えられた。頑張れた。きっと、支えられていたのは俺の方。
温もりに包まれてたお陰か、夢は穏やかな過去の記憶だった。
唯さんの部屋の布団で俺は、唯さんの胸に顔を埋めて寝てた。俺の両腕は唯さんの腰に回って、唯さんの両手は俺の頭を抱えてる。身動ぎして見上げた唯さんは、まだ眠ってるみたいだ。
微かに開いてる唯さんの唇に、俺は自分のそれを寄せる。触れるだけのキスをして、今度は俺が唯さんを抱き寄せる。胸元に彼女の頭を寄せて梳くように髪を撫でた。
「春樹さん…?」
「…起こしちゃった?」
「ううん。おはよ」
「おはよう」
額に唇を寄せると唯さんは幸せそうに笑って片手を俺の背中に回す。そのまま身を寄せて来たから俺も、腕に力を込めて抱き締めた。
「唯さん」
「んー?」
「俺、一葉と話して、それからケジメをつけに行こうと思うんです」
「ケジメ?」
「はい。ケジメつけて、調理師免許も取ってからで待たせてしまうかもしれないんですけど…プロポーズしても良いですか?」
一瞬間が空いて、唯さんがぎゅうっと抱き付いて来た。俺は彼女の髪を掻き上げて確認する。耳も首筋も真っ赤だ。
「…プロポーズの予約ですか」
「はい。ダメですか?」
「ダメな訳、ない」
「良かったです」
さらっと言ってみたけど実は緊張した。だからほっと息を吐いて、唯さんを抱き締め直す。
「あなたを愛してます」
俺は唯さんを手放せないと思う。失いたくない。誰にも取られたくない。だから、プロポーズの予約。
「やっぱり私は、春樹さんに翻弄されてしまうようです」
「あなたのような素敵な女性を翻弄出来るなんて、光栄です」
トンッと胸元に頭突きされた。
柔らかな唯さんの髪を梳きながら、温もりを感じて思う。
俺が自分で封じ込めた嫌な記憶。溢れた不安や悲しみを唯さんがそっと包んでくれて、俺の胸に残ったのはきっと、希望と愛だ。
なんて、クサくて恥ずかしくて、口に出しては絶対言えない。




