春に芽吹く1
『春の樹木に芽吹く一枚の葉。それが、貴方達兄弟の名前』
俺にそう言ったのは誰だったか。言われた事を思い出したけど言われた状況や相手が思い出せず、俺はぼんやり考える。最近こんな事が増えた。忘れていたはずの昔の事が唐突に頭に浮かんで来て、でも詳しい事は思い出せたり思い出せなかったり。なんだかよくわからないけど、中途半端な記憶は気持ち悪い。
「なぁ一葉、お前は覚えてるか?」
なんとなく、その時一葉も一緒にいた気がしたから聞いてみた。俺が覚えていない事も、一葉は覚えてる事が多いんだ。
「それ、お祖母様じゃないかな。僕らの名前を考えたのはお祖母様だったらしいから」
「お祖母様って、陣さんと親父の母親?」
「そうだよ」
「今どうしてんの?」
「知らない。母さんと反りが合わなくて本邸から追い出されちゃったんだよ。だから滅多に会わないし」
一葉は今春休み。実家には数日だけ帰ったみたいだけど、勉強があるからって言い訳使ってこっちに戻って来てうちに入り浸ってる。監視の目を掻い潜ったり巻いたり誤魔化したり、涙ぐましい努力をしてここに通ってるんだって本人が楽しそうに話してた。俺が仕事の時には店に居て、珈琲を飲みながら勉強をする。俺が休みの日は唯さんや歩も一緒に出掛ける事もある。夕方には帰って行くけどたまに、こうしてうちで夕飯を食べて行く事もあるんだ。
「へぇ…お袋達、追い出されたのか。兄貴は嫁さんの尻に敷かれてるのか?」
一緒に夕飯を食いながら、俺と一葉の会話に陣さんが興味を引かれたみたいだ。陣さんの言葉に、一葉は顔を顰める。
「尻には敷かれてないよ。お互いに無関心。好きにしろって感じかな。親戚のおじさんおばさんは、母さんが強くてお祖母様が優しいだけだって言ってる」
「親父…お前らの爺さんはどうしてるんだ?」
「数年前に体を壊してからは寝たきりみたい。それで、お祖母様も別邸からあんまり離れられないみたいだよ」
「あの親父が寝たきりか…」
ふっと、陣さんの表情が暗く翳った。陣さんを追い出したのは爺さんだ。仲が良くなかったって聞いてる。でも何か、思う所があるんだろうな。
「お祖母様って、どんな方なんですか?」
唯さんも、陣さんの雰囲気に気が付いたみたいだ。ずっと疎遠だった自分の親の事を聞きたいけど躊躇われる、そんな雰囲気。
「お袋は…春樹と一葉の婆ちゃんは、弱い人だったな」
懐かしむみたいに目を細めて、陣さんは言葉を置くようにゆっくりと話す。
「旦那に逆らえない人でいつも、親父の顔色を窺ってた。でも、あの電話が掛かって来た時は驚いたな」
それは、俺と陣さんが会うきっかけになった電話だ。婆さんからの電話で数十年振りに陣さんは、実家の敷居を跨いだ。
「"あの子の事はきっと貴方しか理解してやれない。助けてやってくれないか"って。何の事かと思ったけど、あの時あそこでお前を見て、わかった」
陣さんの優しい瞳が俺を捉えた。
「…あそこには、爺さんも婆さんも確かいなかったよな?」
「それは母さんが拒否したからだよ。新年の挨拶だってこっちから出向くけど、数分滞在するだけですぐに帰るんだ。とっても、母さんはお祖母様が嫌いみたい」
「なんでそんなに嫌ってるか、一葉は知ってるのか?」
俺は知らない。俺の記憶の中には、爺さん婆さんの姿はあんまりないから。
「子育ての事で口出しされたのが気に食わなかったからだって、僕は聞いた」
子育てって事は、俺と一葉の育て方の事だろう。一体婆さんは、母さんに何を言ったんだろう。それに、何を思ってあの時、陣さんに電話をしたんだろう。考え込む俺の隣で、陣さんが口を開いた。
「なぁ一葉、別邸って…何処だ?」
「本邸から車で三十分くらい山に入った所にある」
「あそこか…」
「叔父さん、知ってるの?」
「あぁ、まぁな。昔親父が愛人囲ってた家だよ」
「うっわぁ…坂上の家って昔からそんなんだったんだ」
陣さんの言葉に一葉は苦笑してる。俺も、心の中で苦く笑う。俺と一葉の父親と爺さんは、よく似てるみたいだ。
愛人の話題に唯さんが困った顔になってたから、この話は自然な流れで終了になった。
「春樹さんと一葉くんの名前にはきっと、お祖母様の願いが込められているんですね」
夕飯も終わって、洗い物をする為に洗剤を付けたスポンジを泡立てながら唯さんが優しい顔してる。一葉は使った食器、俺は台拭きを持って唯さんに近付いて同時に首を傾げた。
「"春の樹木に芽吹く一枚の葉"。二人は一つってイメージです。自分の息子達は仲違いしてバラバラになってしまったけど孫達はそうはならないで欲しい。そんな願いが込められているように、私には感じました」
一葉が持って来た食器を受け取って、唯さんは洗い始める。俺は唯さんが洗った食器を受け取って泡を流す。
「そういえばお祖母様、僕と兄さんが手を繋いでるのを見るとにこにこしてたかも」
俺から受け取った食器を乾いた布で拭きながら、一葉が子供の時の事を口にした。
「確か…兄さんがおかしくなっちゃう前は一緒に本邸にいたんだよ」
「おかしくって…人を病人みたいに」
「だって本当におかしかったんだよ。別人みたいになっちゃったんだ」
「よく覚えてるなぁ、お前」
「そりゃあ僕は兄さんばかり見てたからね」
ふふんと胸を張った弟を、褒めるべきか悩む。こいつのブラコンは根が深いみたいだ。
「それでね、僕と兄さんはよく、母さん達の目を盗んで遊んでたの。その時にお祖母様に見つかちゃって、怒られるかなって思ったんだけどにこにこ手招きされてお菓子をくれたんだ」
『春樹ちゃんは良い子ね。弟をちゃぁんと、守っておやんなさい』
伸びて来た手は母さんの手よりも皺が多くて、殴られると思って身を固くした俺の頭を優しく撫でた。
唐突に湧いて来た、幼い日の記憶。
「そのお菓子ってさ、溶ける紙に包まれた飴じゃなかったか?」
「そう!柑橘系の、箱に入ってるやつ」
「あー…なんか思い出したかも」
確か俺は、何度か会いに行った。でもそれが母さんにバレてーー
「春樹さん?」
俺の手から食器が落ちて割れた。
「兄さん何してるの。危ないなぁ」
「悪い。手が滑った」
割れた食器を片付けながら俺の頭はツキツキと、痛み始めていた。




