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いつもの席で珈琲を  作者: よろず
第二章
38/63

大人で子供の俺たち5

 唯さんのアパートの部屋は玄関すぐが台所。そこから二部屋が縦に繋がってる。一人で住むには広いけど、二人で住むには少し狭い。ここにずっと、小さい時から母親と二人で住んでたんだって。


「あんまり物、無いんですね」


 殺風景って訳じゃない。生活感はちゃんとある。でも片付いてて、余分な物がほとんどない。


「母が物に執着しない人だったので、私もそれが移ったんですかね」


 優しくて、寂しそうな笑み。母親を思い出してるのかな。


「母の物は母が自分で捨ててしまって…ほとんど何も、残っていないんです」


 だからこの家は余計に広くて寂しく感じる、そう言って唯さんは笑う。

 俺は、真ん中の部屋に座って唯さんが荷物を纏める姿を眺めてる。


「どうせ治らないのなら家にいたいって、ギリギリまで普通に生活してたんです。多分とっても痛かっただろうに、普通に笑って」


 淡々と柔らかい声。

 俺は、唯さんの母親の気持ちも唯さんの気持ちも、想像する事しか出来ない。だから何も言わない。言えない。


「智則さんの事があって…でもそれは母には言いませんでした。結婚はダメになったとだけ。言えなかったです。知らずに不倫してただなんて…喜ばせるどころか幻滅させるような事、言えなかった」


 声が震えて手が止まった。

 俺は唯さんに近寄って、背中から抱き締める。

 最後の最後で隠し事と嘘。それは唯さんを打ちのめしたんだ。これまでの日常全て、捨てたくなるくらいに。


「自分で全て整えて…お金まで、残してくれてて…なのに私は何してるんだろうって、思って…」


 でも全てが億劫で、どうやって足を踏み出すのかもわからなくて、そんな時に見つけたのが"喫茶坂の上"。

 家の中も辛い。外も居場所がない。うちの店は静かで居心地が良かったって、唯さんは俺に体重預けて微笑んだ。


「お店の名前、意味深でした。周りに坂なんてないし…深い意味があるのではないかと考えたら気になって」

「単純で、すみません」

「いえ。多分あの時の私が坂を転がり落ちた場所にいたから、そう感じただけだと思います」


 さて、って呟いた唯さんは彼女の腹に回してる俺の腕をぽんと叩いた。準備を再開するから放せって意味だとはわかったけど、俺は反抗して逆に力を込める。


「…甘えん坊さんですか?」

「はい。もう少し、こうしていたらダメですか?」

「ダメじゃ、ないです」


 俺に預けられる彼女の重みが心地いい。しばらくそのまま、俺は彼女を抱き締めてた。



 荷物持って唯さんの家を出る頃には日が暮れかけてた。

 衣類が詰まったスーツケースと冷蔵庫にあった日持ちしない食材を詰めた袋を持って、アパートの階段を降りる。そのまま歩き出そうとしたら、玄関の鍵を閉めて追い付いて来た唯さんに左手の袋を奪われた。


「手が、繋げません」


 唇尖らせて赤い顔。

 するり繋がれた手に、俺の心臓が暴れ出す。不意打ちは反則だ。


「照れてますね。春樹さん、可愛い」

「そこはスルーして下さい。両手塞がってて、顔隠せません」

「見放題です」

「見ないで下さい」


 見られないように顔を逸らすと唯さんがくすくす笑う。

 ちょっと悔しい。でも、楽しい。

 手を繋いで黙って歩いて、うちに着いたら陣さんが何か作ってた。


「おかえり。歓迎会だ。ワイン開けるぞ」

「赤?」

「おぅ。春樹が飲みてぇって言うから買って来た」

「お手伝いします」

「いいよ。唯ちゃんは荷物片付けちまいな」


 食材は台所にいた陣さんに預けて、唯さんのスーツケースを彼女の部屋に運ぶ。こっちは手伝えないから、俺は陣さんを手伝おうと思って台所に行った。


「智則と遭遇は?」

「ない。ここから帰ると手紙があったらしいから仕事終わりに来てるんじゃねぇかって、唯さんが」

「相手が何処まで意気地のあるやつかわかんねぇから、念の為一人にはしない方がいいな」


 陣さんの言葉に俺も同意する。夢見がちなただのサラリーマンだとしても、力で来られたら唯さんは敵わない。


「無理矢理何かされるのも怖ぇけど、旦那泳がせてる妻ってのも十分怖い生き物だ」

「なんで?」

「金を狙ってる可能性もあるんだよ。こっちに不利な証拠、相手に与えないようにしねぇとな」

「世の中こえー」

「怖いんだよ、春樹ちゃん」


 ニッて笑う陣さんの言葉で、俺は背筋が寒くなる。

 そういえば智則の手紙、唯さんの母親の事には一言も触れて無かった。見舞いとかも行ってたくせに、それって有りか?

 母親が余命宣告されてた元カノに、このタイミングで"君がいないとダメなんだ"ってメッセージ。弱ってる所に付け入る気満々な感じがしてなんだか…腹の辺りがもやもや嫌な感じがした。

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