思い出の上書き1
陣さんに借りた車を唯さんのアパート前へ停めてから、メッセージを送る。昨夜、彼女がアパートの階段を上ってしまう前に連絡先をゲットしたんだけど……唇尖らせて渋々感をわざと出してた唯さんが、めちゃくちゃ可愛かった。耳は真っ赤で尖らせた口元も緩んでいた事に、本人は気付いてなかったみたいだ。
「おはようございます」
車外で待っていた俺に声掛けながら階段を降りて来た唯さんに、目が釘付けになる。いつもはジーンズばかりの唯さんが、スカートを履いている。足下は歩く事を考慮したのかスリッポンだけど、そこも高ポイントだ。白のタートルニットにダークグレーのスカート、コートは薄いグレーだけど、差し色にボルドーのマフラー。小振りのバッグは靴と色を合わせたキャメル。ガン見にならない程度に堪能して、コートを受け取り後部座席へ置いた。
「どこの海に行くんですか?」
唯さんがシートベルトしたのを確認してから車を走らせ始めた所で聞かれた。叫ぶ場所にこだわりはないって言うから、目的地は俺が決める事になっている。
「江ノ島です」
観光地だけど冬だし、浜辺に人はいないと思う。それにあんまり遠出も大変かなと思って、程良い距離のそこ。
「江ノ島、ですか」
どことなく声が沈んだ気がして横目で確認した彼女の顔は、何かに困ってる。
「もしかして、思い出の場所ですか?」
唯さんの表情から思い至り確認すると、躊躇いがちな頷きが返ってきた。
「例の彼?」
「……そうです。江ノ電に乗って、江の島を散策しました。休みの日でも忙しいからっていつもは会えなかったのに、珍しく日曜に」
「……未練、ありますか?」
「ないです」
即答だ。きっぱり言い切った事から大丈夫そうだと判断して、そのまま車を走らせる。
「思い出の上書き、しましょうか」
唐突な提案に、驚いた彼女が俺を見た。
「上書きですか?」
「俺とじゃ、嫌ですか?」
びっくりしている事しか読み取れない声音に少し弱気になって、運転に集中しているふりをして俺は前を向き続ける。
「そんな事、ないです」
小さな、だけどはっきりした返事。耳に届いた唯さんの声で、いつの間にか強張っていた俺の体から、ふっと緊張が抜けた。運転中の俺は彼女の方を向けないけれど、唯さんの視線と顔は俺の方へ向けられている。
「良かったです。では、目的地は変えません」
「はい」
耳に届いた声から想像出来た唯さんの表情は、いつもの穏やかな笑みだった。
目的地が決まった後は、道すがら流す音楽はどうしたいか聞いてみた。どうやら唯さんは音楽にこだわりはないらしい。任せると言われたので、ラジオにした。陣さんと車に乗る時は大抵決まったFM局を流しているから、平静を保てる気がしたんだ。
穏やかな女性DJの声がリスナーからのリクエストを紹介している。流行りの曲が車内を満たし、車が向かうのは高速の入口。のんびり下道でも良いけど、道が混むのが嫌で高速で行く事にした。
「今更ですけど、車酔いはしないですか?」
「大丈夫です。ドライブ、好きです」
「運転するんですか?」
「ペーパードライバーです。免許はただの身分証になっちゃってます」
あの辺住んでたら普通に生活する分には車はいらないもんなって、納得した。下手したら車よりも電車の方が便利だ。通勤も、きっと電車だったんだろうな。
「春樹さんは運転が丁寧ですね」
褒められた。
俺は安全運転を心掛けてる。無理な追い越しもしないし、スピードもそんなに出さない。過去に悪い事やり尽くしたから、今は真面目に生きるように気を付けているんだ。俺が失敗したら陣さんに迷惑が掛かる。それは嫌だ。
「そんなに焦って進んでも何も変わらないですからね」
「ですね。事故のもとです」
ラジオを聞きながらぽつぽつ会話して、穏やかな気持ちで車を走らせながらふと気が付いた。彼女といると煙草を吸いたくならない。これはやめられるチャンスかもなって、ぼんやり考えた。
*
「さっみぃ!」
「寒いですね!」
江ノ島の駐車場に車を停めて、暖かい車内から外へ出るとあまりの寒さに身が強張った。冬の海沿い、マジでやばい。唯さんは鞄からイヤーマフと手袋出して装着してる。俺も、後部座席に置いておいたマフラーを首にぐるぐる巻いて手袋嵌めた。
「叫びに行きますか」
「はい、叫びます! 春樹さんも叫んで下さいね?」
「俺もですか?」
「そうです。一人は恥ずかしいじゃないですか」
「馬鹿野郎って言えば良いんですか?」
「なんでも良いです。好きな事を叫んで下さい。でも叫ぶのは強制です。拒否権は与えません」
強気な唯さんも、良いな。
駐車場から海へ出る道を歩いて砂浜に出たけど、見事に誰もいない。釣りをしている人すらいない砂浜で唯さんと二人、寒さに震えてる。海風半端ない。寒い。凍える。
「ではいきます!」
「どうぞ」
大きく息を吸い込み、彼女は両手を拳に握って、叫ぶ。
「海の、馬鹿野郎ーっ‼」
マジに言った。大声だ。力の限りの叫びだ。満足げに笑った唯さんが俺を見る。彼女がすっきりしたって顔してるから、俺も息を吸い込んで叫んだ。
「さっみぃーッ‼」
「寒いぞー!」
「馬鹿野郎ー!」
「寒いぞ、馬鹿野郎ー!」
二人で交互に叫んで、声上げて笑った。冬の海で何してんだろって考えると笑えてくる。腹抱えて笑って、笑い過ぎてひーひー言いながら冷たい海風から逃げるように砂浜離れて物陰へ入った。
「あー、楽しかった!」
寒さで鼻の頭赤くして、テンション上がって頬を紅潮させた唯さんが、無邪気に緩んだ顔で笑ってる。
「目的達成ですか?」
「はい!」
「次は上書きですね。まず、何からですか?」
「上にのぼりました」
「じゃあ、行きましょうか」
「はい。……手も、繋ぎました」
唯さんの右手が、俺の前へ差し出された。びっくりしたけど、心臓が壊れそうな程激しく動いているけど、何でもないふりして指を絡め、繋ぐ。恋人繋ぎ。手袋外せば良かったなって、後悔した。歩き出す時こっそり窺った唯さんの顔は嬉しそうに緩んでいて、それを目にした俺の心臓が跳ね回る。彼女も俺と同じ気持ちかもしれない。だとしたらすげぇ嬉しい。でも過去に仕出かした事を話すのかって考えると、身が竦む。汚い部分をさらけ出す勇気なんて、今の俺には出せる気がしない。




