ツインドール・ダブルゴッド<作者:曼珠沙華>
秋、私は初めて彼女に会った。初対面は彼女のテリトリー、山麓の川のほとりでのこと。
その日、私は気まぐれで家を飛びだし、気の向くままにこの地へ散歩に来ていた。赤、朱、紅、たまに流れる黄金色、それらが次から次へと上流から私の足元を訪れ、一刻も留まらずに下流へ去っていく。澄んだ川を色とりどりの木の葉が流れるというその光景は、そもそも川と言う物を殆ど見た事がない私には他の何より新鮮に映った。こんなことを言ったら人は私を世間知らずと笑うだろうが、仕方がないことだと割り切ってもらいたい。私はこの春まで自分の故郷、名もなきすずらん畑から出た事のない身なのだから。結局のところ世間知らずであることに変わりはないが。
……それにしても。
先ほどからどうにも気になって仕方がないことがある。それにしても、これらの木の葉はどこから流れてくるのだろうか。上流にいる誰かが木から木の葉を千切りとり、色を染め、1枚1枚流しているのだろうか。もしそうだとしたら、一体全体どこのどいつがそんな気の遠くなるような所業に勤しんでいるのだろうか。
「暇人め」
どこの誰とも知らない黒幕に語りかける。川に写った私の顔は、我ながら爽やかな嘲笑が浮かんでいたが、流れてきた朱色のモミジがその上を横切っていった。すると、どこからともなく、くすくすと笑う声。
誰だ、失礼な奴め。
私を笑ったのはどこのどいつだと辺りを見渡すと、対岸のもう少し上流の方で、私を見る1人の少女の姿があった。これが彼女と私のファーストコンタクトとなったのだから、私にとって彼女の第一印象が最悪に近い物となった。その白い素足を川に浸し、少し苔の生した岩の上に腰かけながらこちらを向いている彼女は、同じ女性である私の目から見ても、そこそこ綺麗ではあった。だが長い緑色の髪を顎の下で結んだ、フリルとリボンまみれの彼女は、正直なところ明らかなセンス欠乏症患者としか思えなく、それもまた私にとっては大きな減点要素だった。これなら同じシーンを私がやった方がはるかに絵になるに違いない。
「……今私を笑ったのは貴女?」
ジッと彼女を睨んでやると、彼女は腰をあげ、ゆっくりと私の方に飛んできた。近場で見ると、なるほど、やっぱり服のセンスはおかしい。第一、何故このような足場の安定しない山場でなぜか裸足。とんだ世間知らずもいたものである、などと私が怒りも忘れて呆れかえっていると
「あらまあ、お嬢ちゃん、迷子かしら?」
彼女が私にそう問いかけてきた。反射的に私はムッと顔をしかめる。初対面で迷子扱いとはなんだ。第一、その台詞は私の問いかけに対する答えになっていないではないか。人の問いを無視した挙句に迷子扱いされるなど、生まれてこの方味わったことのない屈辱だ。どうせ大して生きていないのは事実だが。
「ちょっと、質問に答えなさいよ」
「質問って?」
「さっき私を笑ったのは貴女かって聞いてるの」
「まあ、貴女ったら被害妄想の気があるのね。病院に行かれることをお勧めするわ」
チッ、と私は舌打ちをした。なんだこいつは。まるで話がかみ合わない。何よりけたけたと笑うこいつの態度も気にいらない。結局笑っているじゃないか。
「やっぱり笑ってるじゃない」
「あらごめんなさい、だって貴女が可笑しなことを言うんだもの」
「別に笑われることを言った覚えはないわ! そもそもさっきだって……」
そこまでまくし立てておきながら、急に口ごもる私。さっきのはあくまで独り言であり、誰かに向けてもう1度言わなければいけないというのはいやに恥ずかしい。ましてその相手がこんな礼儀知らずだなんて、そんなの癪だ。とても癪だ。
「さっきだって?」
だが彼女はこのチャンスを逃さなかった。ちゃっかりした奴だ。何故私はここまで追い詰められているのだろうと自問してみたい。
そんな私の反応を楽しむように彼女はこっちを見ている。
こういう奴を相手に、下手に黙るとつけこまれるに決まっている。確証はないが確信はある。仕方がない、こうなればどうにでもなれ、だ。
「……さっきだって、私が『暇人め』って独り言を言ったら貴女くすくす笑っていたでしょう!?」
思いっきり声を荒らげてやると、やっぱり彼女はけたけた笑った。どうせ笑われるのなら思って開き直ってやったが、やはり笑われると腹が立つ。まったくもってけしからん奴だ。友だちなど1人もいないに違いない。いてたまるか。
「それはきっと私じゃないわ。だってそんな小さな声じゃ対岸の私の所まで届くはずないじゃない」
そんなんじゃ山彦にも笑われるわよ、と彼女は可笑しくて仕方がないと言った具合で答えた。その態度は兎も角、なるほど、言っていることは筋が通っていないこともない。独り言がそんな広範囲に聞こえてしまったら世も末だ。すると私はさっきから独り相撲をしていたことになるのか。そう思うと、顔が急に熱くなった。
ついでに言わせてもらえれば、山彦なんてただ山肌にぶつかった音が跳ね返ってくるだけの迷信に過ぎないのだから、誰が私を笑うだろうか。笑うとしたらこいつだけだろう。
「どうしたの? 顔が真っ赤よ、まるで楓の葉っぱみたい」
「う、うるさいやい! じゃあ誰が私を笑ったっていうのよ!? あんたみたいな意地悪が何人もいてたまるもんですか!」
そう怒鳴ると、彼女は笑うまいと自分の口を抑えながら、私の背後を指差した。反射的に振り返ると、そこには大きな名も知らぬ木が色とりどりに染まった葉を纏い私の前にそびえ立っていた。そしてそのてっぺんが、そよ風が吹くたびにくすくす、くすくすと笑うではないか。どうやらそれは他の木も同じようで、秋特有の肌に刺さるような微風が山を降りると、くすっ、くすくすっ、と声をあげる。つまるところ、私は木の葉の擦れ会う音を笑い声と聞き違え、1人憤慨していたにすぎなかった。
もう1度彼女の方に目を向けると、その綺麗な緑に染まった長めの髪が風で乱れるというのに、彼女は口元から手を離そうとしない。どうやら相当可笑しくて溜まらないらしい。
ああ恥ずかしい。被害妄想の気があると笑われ腹を立てていたが、これを被害妄想と言わず何と言う。いつぞやに会った赤と青の医師や付き添いの兎が揃って手招きしている姿が一瞬頭をよぎったが、慌てて振り払った。
ちくしょう。病院などに行くもんか。そうだ、どうしてもと言うのなら病院が来い。話はそれからだ。
「ふふっ、貴女みたいに面白い感性の持ち主は初めて見たわ」
「……笑うなら笑え、どうせこちとら世間知らずですよ」
ヤケクソになりながら答える私。恐らくだが、その時の私は相当酷い顔をしていたに違いない。せっかくの綺麗な面が台無しである。
すると、私を見る彼女の目が変わった。笑みが消え、きょとんと居直った姿は、まるで人形のようである。人形の私が言うのも変な話だが。
「貴女、今まで木を見たことないの?」
「こんな近くで見たことはなかったわ。周りはみんなスーさんだけだったから」
「スーさん?」
「鈴蘭のこと。私の育ての親」
「そう。なんだか、本当に貴女は面白い子ね。お名前、なんて言うの?」
その覗きこむような彼女の目に、私は強い反発を覚えた。
何故こうも根掘り葉掘り聞かれなければいけないのだろうか。それも、こんなどこの馬の骨とも知らない奴に。こんな無性に気に食わない所ばかりの奴に。
「あんたは?」
「私?」
思わぬ反撃にびっくりしたように、彼女は面食らっていた。良い気味だ、と調子づいた私は、その勢いに乗って反撃の火ぶたを切り落とした。
「そう、あんたよ。さっきから私の事を何だかんだと言ってくる割に、あんたはいったい何者なのかちっとも教えてくれないじゃない! 不審者!」
「不審者なんかじゃないわ。私は列記とした神様なんだから」
唐突に飛びだした神様というフレーズは、どう見ても彼女に似合う物ではなかった。こんな奴が神を名乗ろうものなら幻想郷が終わる。世界が終わっても無理はない。
「そうかそうか、あんたが病院に行け」
「いや本当なんだって」
「知り合いに腕の良い医者がいるから、手術を受けることをお勧めするわ。頭の」
「いや本当なんだって」
だが頑なに彼女は自分が神であると主張する。これは本格的な末期だ。百歩譲って貧乏神か疫病神か、その辺りならまだ頷いてやらない事もないが。もし創造神とか名乗り出したらいっそこの場で毒殺してやろう、自分が誰かも分からないまま彷徨うくらいならそちらの方が彼女も幸せだろうし。
「じゃあ百歩譲って神様ってことにしてやるけどさ、何の神なのよ」
「厄神よ。みんなの厄をくるくるくるーっと絡め取るだけの簡単なお仕事」
「ふうん」
いまいち飲みこめないが、疫病神と語呂が似ている事から察するに近い種族なのかもしれない。
仕方ない、毒殺は許してやるか。少し残念だが。
「これで私の自己紹介はおしまいね。じゃあ、次は貴女の番よ」
「まだ。名前を聞いてない」
「鍵山雛。これで満足?」
そして彼女、雛は屈託のない笑顔を私に見せつけた。どうも面食らわすことができたのは最初の一撃だけだったようで、名前を聞いても何ら戸惑う様子もなかった。どうせこの後色々聞いたところで、彼女は淡々としゃべり続けるだろうと私は思った。
質問を続けるのは無駄だと自分に言い聞かせてはみたものの、それでもしかし、無性に悔しいのはなぜだろう。
「じゃあ今度こそバトンタッチ。貴女はだあれ?」
「メディスン・メランコリー。人形解放戦線を率いる隊長的存在よ」
「人形解放戦線? 何それ」
雛が首をかしげるのを見て、少しばかり落胆の色が我が心に染みわたった。狭い幻想郷の中ですら私の活動は未だ知られていない所もあるようで、やっぱり悔しい。
「何よ、知らないの? 人形の歴史は常に人間に弾圧される形で展開されてきたの。だから、人形は人間の手から解放されるべきなのよ!」
「あっはっは、貴女ったら愉快な子ね」
私の熱弁を聞くや否や、雛は声にあげて笑い出してしまった。何かと笑われることが多い日だ。
恐らく今日は厄日に違いない。そういえばこいつも厄神なんだっけ。
「ちょっと、何がおかしいのよ!」
「人形は人間に弾圧なんてされてないわ、持ちつ持たれつ共存関係を築いてきたのよ」
「そんなことあるもんですか! 第一、あんたなんかに人形の何が分かるって言うのよ! 知ったかぶりしないで!」
「ふふふ、残念ながら知ったかぶりじゃないわ。貴女、世間知らずみたいだから1つだけ良いこと教えてあげる」
私の怒りをあざ笑うかのように、彼女はいけしゃあしゃあと陽気にふるまう。それに伴い、周りの木もくすっと笑う。どうも周りの全てが私の敵になってしまったようにすら思えた。後で毒をまいて枯らしてやろうか。
「何よ、良いことって」
「貴女、流し雛って知ってる?」
「なにそれ」
「残念、教えてあげない。誰か教養のあるお友達に聞くことね。それじゃ」
やっぱりけたけた笑いながら、彼女は私の所から飛び去っていってしまった。
それにしても、なんだ、流し雛って。あいつの名前が雛だから、何か関係がありそうなことは分かるけど。たぶんあいつが何かを流すのだろう。
なんだ、最後は自分の自慢話か何かで締めたかったのか。そのうえ、結局私の問いに答えず去ってしまうとは、礼儀知らずもいいところだ。あんな顔、二度と見たくない。絶対、二度と会うもんか。心に深く誓う事にしよう。
「余計なお世話よ、このおたんこなす!」
彼女の背中めがけて、腹の底から叫んでやった。でも、これを聞いたら雛はまた笑うのだろう。
不愉快だ。やはり故郷のすずらん畑の外に、何か面白い物はあるかと散歩に来た私が馬鹿だった。これ以上、散策をする気力がおきない。
どうにも腹立たしいので、まっすぐ帰ることにした。いつの日か人形解放戦線を今の何倍も大きな規模に発展させ、雛を驚かすと同時に痛めつけてやる。新たな目標が増えた。
それにしても、驚く彼女の顔、痛めつけられて泣きだす彼女の顔を思い浮かべようと頭を捻ってみても、思い浮かぶのはそのけたけた笑う顔だけで、結局のところ私は酷い苛立ちを抱えながら1人すずらん畑に帰ることになってしまった。
それから季節が移り変わるまで、私はすずらん畑で過ごした。もう外に出る気は起きず、ただスーさん相手に雛の悪口を唱え続けた。
外に出ること自体が馬鹿らしく思えてきた、あれもこれも雛のせいに違いない。
あんなつまらない奴のことなど忘れてしまおうとも思ったが、その度に頭の中に召喚された彼女が私をけたけた笑う物だから、もう忘れようと努力するのはもう辞めた。つまり開き直りだ。
時に季節は冬。咲き頃を迎えたスーさんはその可憐な美しさを前面に押し出しながらも、何も言わずに私の話を聞いてくれる。育ての親にして生涯の友だ。
だが、たまに思うことがある。育ての親がスーさんであるというのなら、産みの親は誰だろう。少なくとも私はそいつの顔を見た事がない。そもそも私の誕生をいつと定義するかが難しいところだ。この体が作られた日か、それともこの体に私と言う自我が宿った日か。メディスン・メランコリーの誕生日と言われたら間違いなく後者だろうが、私の誕生日はいつと聞かれたら少々困る。もっとも、誰にも聞かれた事は無いが。
じゃあ私はメディスンではないかと問われれば、決してそういうわけではない。しかし、私がメディスンになった日より前には、メディスンではなかった私がいたこともまた事実。
メディスンでなかった私をメディスンにしてくれたのは、紛れもなくスーさんの尽力のおかげだ。
しかし、はたしてどこの誰とも知らぬ産みの親は、何故私を作りだしたのだろう。すずらん畑に放置されていたことを考えると、私は捨てられるために作られたのだろうか。いいや、作った人形をそのまま捨てるような馬鹿は流石にいないだろう、人間もそこまで馬鹿ではないと信じたい。
私は産みの親の手から別の人間の手に渡り、そいつが私を捨てたのだ。人間が考えることは分からない。飽きた、とか、もういらなくなった、とかそんなどうしようもない理由で私たち人形を殺せるのだから何とも残酷な種族だ。
それにしても、私が生まれた意味は一体何だったのだろうか。
「ねぇ、スーさん。私はなんで生まれたんだと思う?」
スーさんは返事してくれない。こういうのは、こういう時、ちょっとばかり寂しい。
そんなある日、原っぱ一面に積もった雪を踏みしめながら、かつて見た懐かしい顔がやってきた。
「久しぶりね」
竹藪の奥で医者をやっている奴だ。略して藪医者。今日は御供の兎はいないらしい。
「あら、いつかの藪医者じゃない」
「生憎藪医者じゃないわ」
「いいのよ、藪医者で」
どうせ私は病気にかかることはないと思うので、医者に喧嘩を売っても何ら困らない。
むしろ薬の材料を分けてあげるのだから、釈迦菩薩もびっくりの超善人だろう。
「で、何か用?」
「薬の材料をもらいに来たんだけれど、良いかしら」
そら見ろ、私の言った通りだ。
薬の材料としてスーさんの力を分ける事に、悪い気はしない。スーさんの力が必要とされるということは、なんだか娘の私まで誇らしく思える。
それに代価として私には足りていない物、ここでは決して手に入らない物を得ることもできる。つまり、外の情報だ。
「別に良いけど」
「そう、助かるわ」
そう言うと藪医者はスーさんから薬の材料を採取しはじめた。この辺の作業は素人の私には理解しがたい物なので、遠目に眺めるにとどめておくことにしている。
問題はそんなことより、どんな外の話を聞こうかということである。
最近の人間の動きはどう? とか人形の勢力はどう? など色々聞きたいことは多いが、そういうことを聞いてもこの藪医者は「いつも通りよ」とか「この前とあまり変わってないわ」とかつまらない返事しかしない。
流石の私も学習したので、今日はもうそういったことを聞くのも億劫だ。何かないかと頭を捻っていると、わずらわしいことに思い浮かんだのは雛の言葉だった。
あの時の「残念、教えてあげない。誰か教養のあるお友達に聞くことね」という台詞が嫌に耳に残って消えない。肝心な何を教えてもらえというのはあやふやになりつつあるが。
確か流し雛だか流され雛だか、そんな感じだった気がする。
「ねえ、ちょっと。貴女、流され雛って知ってる?」
「流され雛? 流し雛なら聞くけれど」
「じゃあそっちで良いや。なんのことか教えてよ」
残念だ。流され雛だったらどんなに愉快だったことだろう。
あんな憎たらしい奴は、流す側になるより流される側になってほしかったのに。
「貴女とは浅からぬ因縁のありそうな行事ね」
「どういう意味?」
藪医者の答えに、私は首をかしげた。いつもそうだが、この藪医者は答え言うまでやたら引っ張る癖がある。お伴の兎の方がよほど話しやすい。
できれば短気な私が苛立ちを覚える前に答えてほしいのだが。
「流し雛っていうのは、桃の節句に雛人形を川に流す、そういった風習よ」
「……は?」
驚いた。思わず耳を疑ってしまった。流し雛と言っておきながら、やっぱり雛は流される方だったらしい。
あいつが流される分には何の不満もないどころか万々歳だが、人形まで流されると聞いては聞き捨てならない。
「ちょっと待ってよ、なんで人形を川に流しちゃうわけ?」
「起縁は諸説あるわ。持ち主の穢れを人形に移して身を清める、災厄を人形に移して無病息災を願う、など色々ね」
「どれもこれも人形側が可哀想じゃない!」
「うーん、流石に私も人形側に立って考えたことはないわね」
淡々と作業を続ける藪医者の背中を余所目に、私は酷く憤慨した。
藪医者が離した起縁は、どれもこれも人間が人形に自分の不都合な部分を押しつけた末に川へ投棄するという残忍な物だった。こんな悪習が世に広まっていたとは思いもしなかった。
こんな意地の悪いことを思いつきそうな奴など私には1人しか思いつかない。雛だ。あいつが全ての元締めで、人形に罪を着せるよう人間に広めているに違いない。
あんな奴に神様が務まるはずがないと思っていたが、まさか邪神の類だったとは。これは全人形代表として放っておけない。
「藪医者、私でかけてくるから後は適当にやってていいわよ!」
わき目もふらず私はすずらん畑を飛びだした。目指すのはあの日、雛に会った山麓の川辺だ。
そこに奴がいる保証はないが、他に奴がいそうな場所の心当たりがないので、直行するより他はない。
会ったらまず前歯をへし折ろう、それから何故このような暴挙に出たのか理由を聞き届け、奥歯もへし折ってやろう。
冬の寒さに当てられたのか、秋は色とりどりだった山の木々も寂しい姿を晒している。どいつもこいつもだらしない、スーさんを見習うべきだ。
川の水も凍りつき、上を歩けるほどぶ厚い氷が張っていたので、その上を歩いて山麓からどんどん登っていく私。
さて、邪神の前歯はどこだと辺りを見渡し続けていると
「あらあら、久しぶりね」
懐かしくも忌々しき声が右耳に飛びこんできた。
即座に振り向くと、雪化粧した真っ白の木の枝に乗った雛がこちらを見ている。
ただそれだけだというのに、あのけたけたとした煩わしい笑い声が空耳として聞こえてくるので、私はいっそううんざりした。
「出たな、鬼畜悪代官め」
「悪代官? 私が?」
「とぼけたって無駄よ、あんたの悪行の数々は最早衆知の事実なんだから! 罪なき人形を不幸に追いやる悪党め!」
「ねえ、貴女は一体なんの話をしているの?」
この後に及んで雛はまだとぼけ続ける。呆れるほどに往生際の悪い奴だ。
いっそはっきりさせて、言い逃れできないようにしてやろう。
「あくまでしらを切るか。ならば言ってやる、流し雛などという悪しき習慣を取り仕切ってるのは貴女ね!」
「悪しき習慣ですって?」
「そうよ。幼き罪なき穢れなき人形に、人間の不都合な部分全部なすりつけた挙句、川に流すとは言語道断!」
決まった、これで言い逃れはできまい。
「あっはは、相変わらず面白い物の見方をするのね、貴女は」
しかし雛は、やっぱり私を笑った。
とうとう開き直ったか。それともこれはしらばっくれ方の1つなのか。
「面白い物の味方じゃない、人形の味方よ」
「人形だってそんな見方はしていないわ」
なんか言っていることがずれている気もするが、どうせ相手は頭のいかれた邪神だ。
気にすることもあるまい。
「つまり貴女は、流されちゃう雛人形が可哀想で仕方ないのね?」
「そうよ、分かったら黒幕としてとっととお縄につきやがれ」
「でも残念。本当に可哀想なのは流されない雛人形、そして同じくらい可哀想なのは──」
雛はそう述べながら、私の方へ氷の上を歩み寄って来た。こつこつとブーツが氷を叩く音が、静かな雪山に響き渡る。
そして、私のすぐ目の前まで来た彼女は、私の顎にそっと指を触れ、
「──その意味を理解できない貴女」
等とのたまいやがった!
「なんですって!?」
勿論私は怒った。これで怒らない奴の顔が見てみたい。
「飾られるだけが人形ではない、遊ばれるだけが人形ではない。流されてこそ我ら雛人形。流されることを嫌がる雛人形など1人もいない。何故なら、私たち雛人形は流されるために作られたのだから」
「そんなの──」
「ならば問おう、孤毒な独人形メディスン・メランコリー。貴女は何のために作られた。何のために捨てられた。私の目には、貴女の一連の行動も、糸を失い崩れ落ちる操り人形としか映らない」
「……っ」
「人形解放戦線とは誠に名ばかり、それを率いる貴女自身が自分を縛る糸から解放されていない。貴女は未だ、巨大な因果の操り人形に過ぎないわ」
その一言一言は、今まで浴びたことのあるどの弾幕よりも鋭く私の中に突き刺さった。
インチキ神としか思っていなかった雛は、まるで私の中の全てを見透かしたように、全てを淡々と語った。
何も返す言葉などない、完敗だ。
「何故私は作られた、何故私は捨てられた」その問いの答えを見いだせていない私が、捨てられる事に誇りすらを抱いている彼女達に到底敵うはずがない。
威圧感溢れる笑みを浮かべる雛が、初めて神の名を語るだけの事はある存在に見えた。
「……っ、帰るっ」
やっと言えたのはその一言だけだった。それ以上言葉を述べようものなら、嗚咽交じりの嫌な声になりそうだった。
こんな奴に涙なんか見せてやるもんかと、私はすぐさま振り返り、山を下って歩き出した。
「メディスン」
そんな私の名を、雛が呼んだ。しかし、それは本当に私の名だったのだろうか。
「もし雪が解ける季節になってもまだ分からないようなら、桃の節句にこの山へいらっしゃい」
「誰が、誰が来るもんか!」
少し嗚咽交じりになってしまっただろうが、かまわなかった。そう言ってやらねば気が済まなかった。
動転した気を鎮めることもできないまま、私は山を駆け下りた。
彼女は、厄から人を守るために作られ、厄から人を守るために捨てられた雛人形。
私は、何のために作られ、何のために捨てられたのかも分からぬ毒人形。
私が今、彼女に会いたくないのは、間違いなく彼女の何かが悪いからではない。
ただ、どうしようもない劣等感を抱く自分が嫌で嫌で仕方ないのだ。
冬は、あっという間に過ぎていった。私が答えを出すには短すぎるくらいに。
気がつくと灰色の雲は去り、気がつくと雪の下から大地が姿を現し始め、
気がつくとスーさんも咲き頃を終え、気がつくとスーさんは花弁を落とし寝てしまって、
気がつくとこの丘には私1人となり、
「──貴女らしくないわね」
気がつくと、あの藪医者が来ていた。
「……なんだ、来てたんだ」
「ええ、ちょっとね」
「スーさんの季節じゃないわよ」
「今日、相手をしたかったのは鈴蘭じゃないわ。貴女よ」
「私?」
「そう、永琳先生の問診の時間」
そう言ってくれた藪医者だが、生憎どこも悪いところはない。妖怪だし、人形だし、どこも悪くなりようがない。
「別に病気じゃないわよ」
「本当に?」
「しつこいなぁ。用がないなら帰ってよ」
ぶっきらぼうに言う私。
用が無いのに来るなんて、藪医者の方がおかしくなったんじゃないだろうか。
「そう、分かったわ。どこも悪いところがないなら、今日のところは帰ろうかしら」
そう言い残し、藪医者は私に背を向けた。やっぱり何をしに来たか分からない。元から分からないことばかりの奴だったけど。
「そうそう、言い忘れてたけど」
去り際、眉を寄せる私に藪医者は振り向くことなく語りかけた。
「貴女がこの前言ってた桃の節句。あれ、明日よ」
その不意打ちに、思わず心臓が潰れるかと思った。
桃の節句、つまり流し雛。人形の大量投棄の日なのか、それとも雛人形の晴れ舞台なのか。いずれにせよ私にとっては謎めいたイベントは、知らないうちに明日まで迫っていた。
「じゃあ、今度こそ私は失礼するわ」
本当に藪医者は去っていった。まるで、ただその事実を伝えるためだけの訪問のようであったが、ただそれだけの事実で私は酷く動揺していた。
分からない。
私はいったい何をすべきなのか。
私にいったい何ができるのか。
私はいったい何をしたいのか。
私はいったい何なのか。
日が沈むのもあっという間だった。日が登るのもあっという間だった。とうとう桃の節句はやってきた。
今日というは人形にとって喜ばしい日なのか悲しむべき日なのか、とうとう私は分からなかった。それでも1つだけ分かったのが、今日という日は私にとって蹴りをつける日なのだという事くらいだろう。雛から。流し雛から。そして、私から。迷いなどなかった。
「スーさん、私でかけてくるね!」
私は久々に丘を飛びだした。目指すは山麓、いつも雛がいた川辺。そこで何をすべきなのかは分からないけど、何もしないよりは、行かないよりはずっといいはずだ。桃の節句という改まった日のせいか、道中で見かけた奴はどいつもこいつも浮かれていた。いつも浮かれている妖精も、今日は輪をかけてお祭り騒ぎだ。暇人め。
飛んで、飛んで、飛んで。私はようやく山麓に辿りついた。スーさんからバトンタッチされたように咲き誇る梅の花が花弁を散らし、私の横を風に乗って通り過ぎていく。知らなかった、初めて雛と会ったあの日に私を笑っていたあの木々は、こんなに綺麗な花を咲かすことができるんだ。意地悪な奴らだから、もっと穢い花を咲かすと思っていたのに。もう少し見ていたかった気もするが、今日に限って言えばそういう時間はない。そして何より肝心な、雛もいない。
「雛! 来てやったわよ、どこにいるの!?」
大声を出しても雛は現れない。
「雛ー!」
いつまで焦らすつもりなんだ、心の中で毒づいた。1回目もここにいた、2回目もここにいた、ならば3回目もここで待っているべきだろう。増して奴が私を呼んだのだ。
何より、あいつはここ以外のどんな場所に現れるのか、私は知らない。焦りと不安に滲んだ自分の声にすら嫌悪感を覚えそうに奈なったそのとき
「厄神様を探してるの?」
横から聞き覚えのない声がして、その方を振り向くと、雛ではない誰かがいた。小柄な体で、頭頂部から犬みたいな垂れた耳が生えている。
「貴女は?」
「山の事なら何でも知ってる山彦軍団の一員よ。貴女、厄神様を探してるんでしょう?」
「ん、まあ」
素直にうんと言えなかった。なんだか、あいつに振りまわされているという事実を認めるのが嫌だったのかもしれない。
「厄神様なら山頂を挟んだ向こう側の川にいるよ。今日は桃の節句だから」
「そりゃどうも」
聞くや否や、私はすぐさま山の頂を目指して飛び始めた。後ろで山彦が「あ、でも──」なんて言いかけていたが、私は場所さえ聞ければ結構、これ以上長居するつもりはない。それにしても山彦って本当にいるんだな、なんて場違いな事を思わなかったこともない。
あれだけ春爛漫の良い天気だったというのに、頂きに向かって飛ぶに従い、徐々に空模様が怪しくなっていった。突き抜ける様に透き通った青い空に、鼠色の雲がワッと湧きだし、気がつけば今にも嫌な事が起こりそうな曇天。あれもこれも全部雛のせいだ、と文句を言いながら、それでもやっぱり私は引き返そうとは思わなかった。この先にいるであろう雛、彼女の口から全てを説明してもらわねば今日と言う日は終わらない、そんな気がした。もっとも、全てというのは一体何の範囲を指して全てと言っているのか分からなかったが。
やがて、嫌な予感は的中した。雪だ。もう春だというのに、下の方ではあんなに綺麗な梅の花が咲いていたというのに、此処に来て雪が降りはじめた。さらには風も吹き荒れ、雪は宛ら弾幕のように私を襲う。目を開けていられないほどの突風にも度々見舞われた。正直なところ、こんな山の奥まで来たのは初めてなので、もう方角も分からない。半ば遭難しかけていた。視界も悪い、天気も悪い、土地勘もない。最悪に近い状況下で、なおも私は馬鹿みたいに飛び続ける。今日ほど一生懸命になった日は、きっと無かったんじゃないだろうか。
飛び続けるのも疲れた、1度地に足をつこう。そして周りを見たら、もう少し何か分かるんじゃないだろうか。そう思って、私は下降し始めたが、そんな私を出迎えてくれたのは惜しくも大地ではなかった。川だ。しめた、とうとう川を見つけた。視界が悪くて、すぐ下に川がある事に気づけなかった。
たまたま下りようとした所に川があったのか、それとも実は川の上をなぞるように飛んでいたのか、それは分からないがもし前者なら私の日頃の行いの良さが巡り巡って幸運をもたらしてくれたのだろう。ならば幸運続きということで、この川が、あの山彦の言っていた「山頂を挟んだ向こう側の川」であることを祈りたい。でなければ、私はもうどうしようもない。上流か下流か、どちらに雛はいるのだろうか。流し雛というのだから下流に向かって移動しているはずだ。祈るような気持ちで、川を下流へ下流へと飛び続けた。お願いだから、他に我儘言わないから。雛、あんた神様ならそれくらいできるでしょ。あんたが呼んだんでしょ、何とかしてよ。これであんたに会えなかったら、私はどうすれば良いの?疲弊しつつあった心境を吐露するかのように、私は先の見えない川へ懇願した。
そして、もう駄目かもしれないと弱音が私の心に影を落とし始めたその時。霞みの向こうにセンスのないリボンが見えた、赤に黒という目に悪そうな配色の服が見えた、気にいらない緑色の髪が見えた、全然似合ってないブーツが見えた、二度と見たくないと思っていたはずだったのに、会いたくて仕方なかった後ろ姿が見えた!
「雛!」
何の考えもなしに、殆ど本能的に叫んでいた。しかし、その声に雛は振り向いてくれなかった。届いていなかったのかもしれない。「そんなんじゃ山彦にも笑われるわよ」と、あの日雛が私を笑ったシーンが脳裏をよぎる。ここまで来て、諦められる物か。
「雛!」
もう1度、今度こそ聞こえるように全力で声をあげた。これで駄目なら肩なり頭なり叩いて気づいてもらおうと思ったけれど、
「あら、来てくれたのね」
2回目の呼びかけで、ようやく雛は振り向いてくれた。私が今までどんなに苦労してここに来たのか知らないような笑顔だった。
「こんな悪天候だから、てっきり来てくれないかと思ってたわ」
「来てやったわよ、馬鹿!」
溢れた涙を、こぼれる前にさりげなくぬぐった。泣いているなんて姿を見せたら、また雛に笑われてしまう。まったく、これじゃどっちが馬鹿か分からないじゃないか。
「そう、ありがとう」
そう言って雛はにこっと笑った。だがその言葉に、私は酷い違和感を覚えた。なんだろう、何かが違う。よく分からないが、私が想定していた物とは決定的なずれがある。そうだ、その口から、その忌々しい口から「ありがとう」などという感謝の言葉が出るとは夢にも思っていなかった。
「よしてよ、気持ち悪い。あんたにはそんな「ありがとう」だなんて、似合ってないわよ」
「相変わらず失礼ね。これでも神様なのよ。ほら、私の足元を見てごらんなさい」
そう言われて雛の足元を見る。すると、そのお世辞にも瀟洒とは言えないブーツのすぐ傍に、水に浮かぶ人形が見えた。1つではない、10でも足りない、100で足りるはずがない、いくらいるのかも分からない人形が川の水面上に浮いている。こんな数の人形、私も見たことがなかった。そして、その中心にいる雛もブーツの底を少し水面につけていた。一応流されているうちにはいるのだろうか。
「どうしたの、この人形たち」
「幻想郷の外で流された雛人形が殆どよ。厄を背負って来れた子を、私が拾ってきたの。この、最後の流し雛に出てもらうためにね」
「何よ、最後の流し雛って」
「いずれ分かるわ。その終着点でね」
最後などという縁起でもない言葉に、私は掴みどころのない不安を抱いた。
「これ以上引っ張らないでよ! 私はあんたの都合に合わせてここまで来てやったって言うのに!」
「……そうね。これ以上引っ張ると、後で時間が足りなくなるかもしれないわね」
私が語気を強めると、雛は苦笑しながらそう言った。違う、こんなの私があの日会った雛じゃない。あの時の雛なら、「貴女って気が短いのね」ってせせら笑ってくれただろうに。なんでだろう、どうして今日の雛はこんなに張り合いがないのだろう。
「雛、どうかしたの? 今日のあんた、ちょっとおかしいわよ」
「メディスン」
急に改まった口調で、雛が私の名を呼んだ。思わず私は口をつぐんだ。こういうプレッシャーは苦手だ。でも何故だろう、雛の方も辛そうな表情に見える。あんな顔見たことない。見たくもなかった。
「……実はね、貴女、昔の私に似ているように見えたのよ。人間に一方的に使われるというあり方で、本当に私たち雛人形は良いのかって。厄とか穢れとか、そういう不都合な部分を全部押し付けられて川に放たれるという在り方に首をかしげなかった事なかったわけじゃないの。
でもそれとは別に、人間から厄を肩代わりすることで彼らを守るっていう自分の使命に満足感を抱いている私もいる。むしろこっちの方が強いかな。今こうして流し雛として流されることが、人々に平和と幸福をもたらすのなら私は喜んで厄を背負おう。そう思ってるわ、さっき言った気の迷いを封じ込めてね」
矛盾した2つの考えを淡々と話す雛は、私のことは見てくれず、ただ自分の手を見ながら話していた。
後者はともかく、前者は全然雛らしくない。あんなに誇りを抱いていたはずの流し雛に、そんな考えを持っていたなんて俄かには信じられない。
すると、雛はこちらを振り向いた。何をされたわけでもないのに、ただ目があっただけなのに、私は思わずひるんでしまった。
「だから、貴女に会って、貴女の素性を知った時、とても怖かった。私は、貴女がどうしようもなく怖かった。貴女の考えは、私の迷いにとても似通っていた。だから、あの時は大人げもなくムキになっちゃったのかもしれない。気の迷いを抱いたままじゃ、流し雛は決行できないもの。ごめんなさいね、貴女は少しも悪くないのに」
違う。そんなの絶対違う。確かにあの時あったあんたは酷い奴だったけど、それがあんたの本性だって信じたい。そっちの方が100倍似合ってる。少なくとも今よりはマシだ。
ねえ、雛、なんでそんな面してんのよ、なんでそんな辛そうな目でこっち見てんのよ。あの日、あんなに誇り一杯で、悔しいとも羨ましいとも思えたあの日のあんたはどこ行っちゃったのよ。例え虚勢だったとしても、あっちの方が断然良かった。
辛いのはこっちだ、泣きたいのもこっちだ。
「だったら、だったらなんで今こうしてそれ全部べらべら喋ってるのよ! 私が怖いんじゃなかったの!? そういう弱い所って見せちゃまずいんじゃないの!?」
私がまくし立てると、雛は静かに首を横に振った。
「本当の事を言うと、貴女は今日来てくれないと思ってた。少なくとも私が貴女の立場なら、間違いなく行かなかったわ。そんな自分の存在意義にいちいち文句を言う奴の所に、しかもこんな悪天候の中足を運ぶなんて、ね」
「そりゃ、あなたが来いって言ったから──」
「同じよ。貴女が来てくれた事に変わりはないし、私が貴女の立場なら行かなかった事にも変わりはない。とにかく、貴女が逃げずに来てくれたんだもの。もう私も逃げるのは止めよう、強がりや屁理屈で虚勢を張るのは止めよう、そう思えただけ」
「……」
「貴女という人形に会えて本当に良かった、ありがとう」
そう言って雛は、優しい微笑を浮かべた。
不思議と、懐かしい温かさを覚えた。こんな顔、今まで誰にもされたことがなかったはずなのに、そもそも数えられる程度の人としか出会ってないはずなのに、なんでこんな不思議な感覚がするのだろう。
なんで私はそれを、懐かしいと思っているのだろう。
もしかしたら、捨てられる前の私は、こんな風に思われたことがあったのかもしれない。
私がメディスンという名をかたりだす前、普通の人形だった頃は、こうして誰かに大切にされていた時もあったのかもしれない。
そうだ、私が求めていたのはこれだったのかもしれない。捨てられたあの時から、私は、この感覚を求めていたのかもしれない。
誰かに大切にされる、それが、少々悔しいが人形として生まれた私の性に最もあっているのだあろう。
「──さっき言ったじゃない、ありがとうなんてそんな台詞、あんたには似合わないって。おちょくって、けたけた笑って、そのくらいがちょうどいいのよ」
ただ、こういう場面で素直になれないのが私の悪いところだ。それは重々自覚している。
「そう、かもしれないわね。それにしても、せっかく人が感謝の言葉を述べてるんだから、そういうところくらいしっかり受け取りなさいよ」
「やなこった」
「まったく、本当に変な感性の持ち主なんだから」
「そりゃどうも」
雛がおどけてみせ、私も素っ気なく答えてやる。いつまでもむきになるのもそれはそれで悔しいので、ちょっと毒づいた答えを返してやることにした。
悔しいと言えば、そうだ、良い事を思いついた。たまには雛に丘へきてもらおう。よく考えてみれば、いつも私が山に来てばかりというのも癪だ。
「そうだ、雛。あんた、たまには私のいる丘に来てみなさいよ」
「丘に?」
「そう。あんたが来いって言ったから来てやったんでしょ。なら、私が来いと言えば来るわよね」
勿論来るだろうと思って言ってみたのだが、どうしたわけか雛の表情が一瞬曇った。
「まあ、流し雛が完遂したらいいわよ」
「よし、そうこなっきゃね。スーさんと歓迎の準備しているわ」
「……楽しみにしてるわ」
等と言っているうちに、下流の霞みが開けてきた。その先の光景に、思わず私は目を見張った。
生まれて初めて海という物を見た。果てしなく続く水平線、そしてその向こうで夕日が水面に落ちていく。もうそんな時間になっていたのか。
だが、綺麗だ。赤みがかった水面も、同じくらい夕日色に染まる雛も。不思議と、今ならそのまるでなっていないセンスの服も許せるような気がした。
むしろ次会ったら普通の服でした、なんて事態の方が困る。やっぱりその野暮ったい服のままでいてほしい。
「海? これが終着点なの?」
「これは海じゃないわ。三途の河。まあ、果てしなく広い川幅だから海と見間違えるのも無理はないわね」
なんだ、海かと思ったら大河だった。でも綺麗なことには変わりはない。
「でも、終着点はもう少し先。ここからが流し雛の正念場なの」
雛は三途の河の水面を眺めながらそう言ったが、その直後、私の方を向き直った。
「もう1度言わせて。貴女という人形に会えて本当に良かった、ありがとう」
「な、何言いだすのよ、突然」
「もうすぐお別れしなくちゃいけないから、最後くらいって思ってね」
「最後って?」
嫌な予感がする。
「答えてよ、雛。何が最後なのよ」
「もうすぐ分かるわ」
しかし、雛は答えてくれなかった。
そして妖怪の山から流れてきた川は、三途の河と合流する。
途端に私は、その異変に気がついた。
「雛、他の人形たちが!」
他の人形たちが、今まで何不自由なく水面を浮いていた人形たちが、少しずつ水の中へその体を沈め始めたのだ。まだ自我の宿っていない人形のはずなのに、どうしたわけか揃って徐々に水の中へ沈んでいく。
「三途の河に流れる水は、普通の水より比重が軽いの。だから、これまで水の上に浮いていた人形も、三途の河に来た途端沈んでしまう。厄や穢れで罪の重さが増した人形は、特にね」
雛は私でもなく、人形でもなく、ただ三途の河の奥底を眺めるかのような目をしていた。
その言葉に、私に嫌な考えが走った。もし厄にまみれた人形が沈むとしたら、もっと厄をかき集めた厄神は、雛は、どうなってしまうのだろうかと。
気が付いた時には既に遅かった。雛もまた、沈み始めていた。もう膝まで水に浸かっている。
「雛!」
「気にしないで、メディスン。流し雛の終着点は三途の河の奥底。音も光も届かぬ闇の中。集めた厄を底に埋める、それが流し雛軍団団長としての使命なの」
雛の目に、迷いはなかった。こんなにも私があたふたしているというのに。
「ちょっと待ってよ、そんなことしたら、雛が──」
「私は大丈夫。毎年のことだから。むしろ私に付いてきてくれた人形たちが少し不憫ね。この子たちはもう2度と日の光を見ることもできず、闇の冥府に鎮座することになるのだから」
そういった意味では貴女の言う通り悪しき風習と言えなくもないわね、と雛は言ってくれた。
ごめんね、雛、今なら分かる気がするよ。貴女が迷いを抱いた理由も、その迷いを払拭しなくちゃいけなかった理由も。
私なら怖いよ、こんな何がいるかも分からない奥底に沈んでいくなんて。
「雛、雛は怖くないの?」
私の問いに、もう腰まで沈んでしまった雛は、また静かに首を横に振った。
「勿論怖い。でも、怖いのは河の底が怖いんじゃない。私が底にいる間に、皆が私を忘れてしまわないか。それだけが怖いの。人間は、人形に厄をうつしてそれを水に流してはいおしまい、って思っているみたいだけど、本当はその後私たちの頑張りがある。この子たちが永久に水中で厄を封じ続けている、それを忘れてしまうんじゃないかと怖くて仕方ないの」
雛の顔が歪んで見えて、また涙がすぐそこまで込みあげているのが分かった。
やっぱり雛は強かった。私が思っているよりとても大きな物を背負っているように見えた。私ならできない、途中で逃げてしまうだろう。
少しでも何か力になりたい。なってあげたい。今ならどんな協力でもしてあげられるような、そんな気がした。
「ねえ、雛。私も連れてってよ。1人じゃ、つらいかもしれないでしょ」
「ううん、貴方は来ちゃ駄目。来たら、2度と浮かべないかもしれないんだから。それは私たち雛人形の役目。それにもう何も辛くないわ、貴女がこうして元気をくれたもの」
その雛人形は、全部水底に向かって沈んでしまった。雛も、もう胸より下は水の下。
なんとなく、雛とはこのままもう2度と会えないような気がする。秋に会った時も、冬に会った時も、二度と会いたくないと思っていたのに。
卑怯だ。もう会いたくないと思えば簡単に会えてしまうのに、もっと傍にいてほしいと思う時ばかり別れの日が来るだなんて。そんなの絶対おかしい。
卑怯だ。もうすぐ別れが来るって言うのに、雛の笑顔は綺麗だった。水面に映った私の顔はくしゃくしゃになっているというのに。そんなの絶対おかしい。
「メディスン、もし何か頼めるとしたら、もう沈んじゃった他の子の心配だけでもしてもらえると助かるわ。私の事は別にいい、また帰ってこれるもの」
何か口を開けば嗚咽まみれの言葉しか出てこない気がして、私は口をつぐんだ。
「雛……」
「──それと」
もう首のすぐそこまで水位が来ている。時間がない。雛の最後の言葉になるかもしれない。
「やっぱり最後にもう1回だけ。貴女という人形に会えて、本当に──」
「言うなッ」
思わず口を開いてしまった。そんな別れみたいな言葉、聞きたくない。そんな別れの言葉を雛との最後にしたくない。
「言うなッ、その言葉は後で聞く! 後で聞いてやるから──」
嗚咽が喉のすぐそこまで来ていたので、いったん言葉を区切って呑みこんだ。
それから潤んだ視界をぬぐって戻す。雛の顔を見ていたい、こんな歪んだ視界じゃなくて、もっと澄んだ目で。そんな綺麗な顔してるんだから、勿体ないじゃないか。
「──聞いてやるから、それまで待ってるから、だからスーさんの丘まで来い。絶対よ」
言葉が終わるや否や、雛は沈んでしまった。その翡翠みたいに綺麗な目を瞑って、その艶やかな長い髪を泳がせて。
最後に見た彼女の口元が、何か動いた気がした。ありがとうと聞こえた気がした。後で聞いてやるって言ったのに。言ったのに……。
……馬鹿。
春は過ぎ、夏が来た。
「おはようスーさん、今日も良い日になるといいわね」
私は相変わらず、あの丘を活動拠点としている。
かねてからの目標であった人形解放戦線についてだが、残念ながら一時断念している。全ての人形を人間から解放させることが初期目標であったこの戦線は、流し雛の件を受けて方針の変更を余儀なくされたからだ。未だ人間と共存し、かつそれを誇りとしている人形が分かった以上、そのような人形を人間から引き離すことはかえって誰のためにもならない。人形側に幸福をもたらさないのなら実行する意味などない。
勿論、私の夢である人形解放そのものを諦めたわけではない。ただ、今よりもっと良いやり方があるのではないかと模索するつもりだ。
ただあの日から今日まで、雛が姿を見せることはなかった。人形の先輩として、是非ともご教授願いたいことが山ほどあるのに、寂しいばかりである。
今の私が出来る事は、捨てられた人形を集めては、壊れた部分を直し、ちょっとアレンジを加えて、また人里に持っていくことくらいだ。雑貨屋にでも置いてもらい、また新しい人の手に渡れば、その人形も寂しくないだろう。私みたいに哀しい思いをする者は、出来る限り少ない方が良い。
結局、私は何のために作られたのか、何のために捨てられたのか、何のために妖怪となったのか、まったく分かっていない。ここ最近は考えることもなくなった。きっと、そういった由縁に託けて誰かとの繋がりを求めたかったのだろう。今思えば、ただその程度の事だったんだと思える。
何のために作られたのか、何のために捨てられたのか、何のために妖怪となったのか、そんなのは些細な問題だ。でも、何のためにここにいるのか、これだけは譲れない。それは──
「メディスン」
背中の方から誰かに呼ばれた。誰に呼ばれたか、そんな事は分かってる。噂をすれば影、と言ったところだろうか。
「言いに来てあげたわよ。貴女に会えて本当に良かった、ありがとうって。これが聞きたかったんでしょ」
私は何のためにここにいたのか。その声をずっと待っていたんだ。ずっと、貴女を。
「遅いわよ、どれだけ焦らせば気がすむの。今に始まったことじゃいけどさ」
「そういう気が短い所は未だ治ってないのね。まあ、嫌いじゃないけど」
けたけた笑う彼女の声に、私はもったいぶったように振り向いて、できる限り最高の笑顔を見せつけてやった。
「……おかえり」
「……ただいま」
厄神の雛様は元雛人形。
捨てられメディも今は付喪神。
はじめまして。曼珠沙華と申します。
この度は3月3日ということで、雛について書かせていただきました。
とは言ってもメディスン視点でしたが、いかがだったでしょうか。
このアカウントではこれが初作品となります。
(公開するために書いた東方二次作品もこれが初めてです)
前は別系統の作品を書いていたのですが、色々あった末に前アカウントごと削除してしまったので、これが事実上「曼珠沙華としての」初作品となります。
感想意見その他まで幅広くお待ちしております。
また、他の方の素晴らしいSSもありますので、是非そちらもお読みくださいませ。
それではこの辺りで失礼します。お読み頂きありがとうございました。