表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東方作家萃 ~Phantasm Novel Union~  作者: PNU
第一回企画<雛の部>
1/20

すうっと、滴る<作者:雨宮雪色>




「大丈夫よ。そのまま動かないでいて……」


 ふう、と甘い吐息が背中をくすぐる。

 その感触を極力意識しないようにしながら、霖之助は頭の中で必死に思考を巡らせていた。一体何が起こっているんだ、と。


 一体何がどうなれば、つい先ほど会ったばかりの少女に、背中にぴたりと寄り添われる(・・・・・・)事態になるのだろうか──。


 答えは未だ、得られない。











 ○




 肌寒い朝だった。二月の終わり、新しい季節に変わりゆく移ろいの中で、まだ去り切らない冬の気配が残っていた。

 その日霖之助は、黒と青が入り交じる愛用の着物の上に、更に二枚の羽織りを被せていた。ストーブの火を入れようとかと思うくらいには肌寒かったが、この程度ならまだ我慢が利く範囲で、明日はもしかすると今日より寒くなるかもしれない。そう思うと、残り少ない貴重なストーブの燃料を使うつもりにはなれなかった。

 もうすぐ三月なのだからもう少し暖かくなってくれてもいいような気がするが、一昔前には春の半ばになるまで豪々と雪が降り続けた年もあったくらいだ。そのあたりの常識を幻想郷にわけもなく期待するのは危険だと、霖之助は身を以て痛感している。


「……とは、言ったものの……」


 魔法の森の入り口に立つ小さな古道具屋、香霖堂。その奥にひっそりと存在するカウンターでいつも通りひっそりと店番をしながら、霖之助は苦い顔で独りごちた。

 普段であれば本をめくるなどして大きくゆったり動くその両手は、この日ばかりは小さく忙しなく動き回っている。手元にあるのは、一体の日本人形。一般的な名称は雛人形といい、より詳しく言えば女雛、皇后を表す雛人形になるのだが……。


「やれやれ。どうにも難しいね」


 霖之助は作業の手を一度人形から離し、天井を見上げて大きく息をついた。一道具屋として道具の修理ならばそれなりにできる自負はあるが、どうにも、この『人形の修理』というものは専門外であった。

 この雛人形は、先日無縁塚に行った時に拾ったものだ。男雛と女雛が一組、他に流れ着いた道具たちの中に埋もれて壊れているのを見つけて、ちょうど三月の『雛祭り』が近いことから、修理して店で飾ってみようかと思い立ったのがきっかけになる。


 雛祭りのルーツは、“厄払い”にある。現在の、いわゆる『飾って楽しむ』形式が成立したのは江戸時代に入ってのことで、それ以前では雛祭りではなく『雛遊(ひいなあそび)』という名で人々に親しまれていた。

 これは平安時代の貴族たちの間で流行った『ままごと遊び』なのだが、それとは別に、当時には『上巳(じょうみ)の節句』という厄払いの風習があった。それが雛遊と長い年月の中で合わさり、今の雛祭りが生まれたとされている。つまり雛祭りは、飾って楽しむ以外にも『厄を払う』という意味合いを持っているのだ。


 霖之助がこうやって雛人形を修理し飾ろうとしているのは、雛祭りのこういった効能に期待してのことだ。店の厄払いをすることができれば、客足も伸びるのではないか──と、そんなささやかで、微妙に方向性のおかしい野心故である。

 だから決して、客が来なくて時間を持て余しているからとか、その退屈凌ぎにだとか、そういう理由ではないのだ──そう、霖之助は内心で強く自分に言い聞かせていた。


「やっほー、香りーん! 遊びに来てやったぜ!」


 霖之助が手元の人形に意識を戻そうとした折、聞き馴染みのある少女の声と共に、店の戸が勢いよく開け放たれた。そうして遠慮なくズカズカと入り込んできた白黒の幼馴染を、霖之助はいつも通り、浅いため息を以て迎えた。


「おいおい香霖、客に向かっていきなりため息はないだろ」

「そもそも客じゃないだろう、君は」


 霧雨魔理沙。幼馴染のよしみでこの店を好き勝手に利用する、若い小さな魔法使いだ。


「客はそういう風に、開口一番に『遊びに来た』なんては言わないものだ」

「相変わらず細かいな香霖は……。そんなんだから客足が遠のくんだぜ?」

「まあ確かに、君に比べれば僕はずっと繊細だね」

「当たり前だ。私は自由に、かつ豪胆に生きる女だからな」


 こちらの皮肉にも気づく素振りなく、彼女はそれこそ豪胆に、ニカリと大きな笑みを見せつけてくる。霖之助は閉口した。この笑顔を見ると、彼女には何を言っても無駄なのだと思い知らされるような気がした。

 吐息一つを置いて手元の雛人形に意識を戻す。「お……?」魔理沙がすぐに、興味深げにその様子を覗き込んできた。鍔の広いその帽子のせいで手元が隠されて見えなくなる。作業を中断せざるを得なくなった霖之助は非難の意味を込めて魔理沙を見るが、すっかり雛人形に目を奪われた彼女は一向に気づかなかった。


「おー、首がもげてる」

「……」

「グロいな」

「修理している途中だよ」


 そう、この女雛は首がもげている。その他、髪がボロボロになっていたり着物が破けていたり肌が傷ついていたり、なかなか悲惨な有様だ。

 魔理沙は「へえー」と半分以上どうでも良さそうに相槌を打ち、すっかり興味を失したのか、小さく鼻を鳴らして覗き込むのをやめた。


「雛人形か。なんだ、独り寂しく雛祭りでもするのか?」

「……何も、飾って楽しむだけが雛祭りではないよ」


 忌憚のない物言いだった。霖之助は憮然と肩を落とし、


「雛祭りは、起源を辿れば『上巳の節句』という厄払いの行事に行き着く。つまり『飾って楽しむ』以外にも『厄を払う』という意味を持つ行事で──」

「あーはいはいわかってるわかってる。常識だな、だから説明は要らないぜ」


 魔理沙はヒラヒラと片手を振り、今度は本当にどうでも良さそうにこちらの言葉を遮った。本当に勝手なことだ。霖之助の口から鬱々と塞ぎ込んだため息が零れた。


「……まあそういうわけで、店の厄払いにと思ってね。こうやって修理しているわけさ」

「回りくどいな。厄なんて、適当に弾幕ぶっ放してぶっ飛ばしてやりゃあいい。なんなら請け負ってやろうか?」

「やめてくれ。そんなことされたらどっちが厄だかわからなくなる」

「ひどいぜ」


 からからと、魔理沙が笑う。こうやってこちらを困らせて楽しんでいる様が、ありありと見て取れた。

 霖之助はあえて何も言わず、話題を続けた。


「ところが、これがまた難しくてね。男雛の方は既に終わったんだが、こっちは破損がひどくて難航しているというわけさ。慣れないことをしているせいか疲れも溜ってきて、なかなか大変なんだ」

「なんだ、そんなことか」


 魔理沙はつまらなそうに小さく鼻を鳴らした。


「人形の修理なら、アリスに任せればいいじゃないか」


 実のところ、霖之助も彼女に助けを求めることは考えていた。人形に関する知識・実力であれば幻想郷に並ぶ者のない魔法使い。彼女なら、この程度の破損なら瞬く間に直してしまうことだろう。

 それを実行に移していなかったのは、単に道具屋としてのプライド故だ。古道具の販売に並行して道具の修理や作成も行っている手前、物の修理に関して誰かに助けを求めることを快しと思えなかったから。なんとか自分の力だけで修理してみせたいという、ちょっとだけ困り者な虚栄心なのだ。

 故に霖之助は、この魔理沙の問いに素直に頷くことができなかった。「それはそうなんだけどね……」そう渋って沈黙すると、魔理沙がすぐに苦笑を零しながら言った。


「お前も相変わらず頑固者だな。わからないなら素直に訊けばいいだろうに。少なくとも私は、魔法でわからないことがあったらそうしてるぜ。別に、わからないことは恥じることでもなんでもないだろ? 私にしてみりゃ、わからないことを隠してそうやってできるつもりになってる方がよっほど恥ずかしいぜ」

「……」


 そう、本当に──本当に時たまにだけれど、彼女はこうやってこちらの心中を全て見透かしているかのように的確な物言いをしてくることがある。霖之助は再度閉口した。高々十数年しか生きていない人間の少女に百年以上も生きている自分が悟されるというのは、なんともむず痒くて耐えがたい感覚のように思えた。


「なんだったら私が掛け合ってやるぜ。今なら安くしとく」

「……お金を取るのかい? 幼馴染からそうやってお金を取ろうとすることは、恥ずかしくないのかな」

「逆だぜ。幼馴染だから恥ずかしくないんだ。他人相手にはできないだろ」


 恐らく魔理沙にしてみれば、それは一種の友好表現なのだろう。だが、だからと言ってそんな無遠慮な提案に素直に頷くことなどできなかった。

 それに、彼女に任せてしまうとありもしない不都合な話をアリスに吹き込まれる恐れがある。例えば、「香霖がお前の力を借りたいけど恥ずかしくて言えないからなんとかしてくれって私に泣きついて来たんだぜ」と言った具合か。やはり手伝いを頼むなら、自分の足で直接言いに行った方がいい。

 霖之助は吐息交じりに、ゆっくりと首を横に振った。


「いや、遠慮しておくよ。雛祭りまではまだ時間があるし、もう少し頑張ってみるさ。自分で努力してみることも大事、だろう?」

「確かにな。けどほどほどにしておけよ、疲れてるんだろ?」

「そうだね。気遣いありがとう」

「……ま、幼馴染だしな。心配くらいするぜ」


 魔理沙が浮かべた笑顔は、今度は少しだけ照れくさそうだった。視線が不自然に横っちょの方に逸らされている。

 霖之助は、自分の心の中にあった鬱々とした気持ちがどこかに吹き飛んでいくのを感じた。さっきまでのような無遠慮な発言が多くても、それでも憎むことができないのは、こういう風に可愛らしいところもあるからなのだろう。

 もっとも、それを口に出せるほど殊勝な性格でもないのだが。


「そ、それにしても雛人形か。雛人形ってーと、あいつを思い出すな」


 逸らした視線をこちらに合わせようとしないまま、魔理沙がそう声を上げた。わかりやすい話題のすり替えに、霖之助は微笑を以て応じた。


「おや、一体誰かな」

「あー、妖怪の山にいる厄神でな。なんでも、流し雛から神様になったって。そういえば、流し雛って雛祭りと関係あるのか?」


 ほう、と霖之助は感心の相槌を一つ打った。

 流し雛。先に触れた『上巳の節句』という風習の中で行われていた行事だ。厄を肩代わりする人形を供物と共に川に流し無病息災を祈る、まさに雛祭りの原型といえるものである。

 人間たちの厄を肩代わりする流し雛が、厄神になる。なるほど、順当で納得が行く話だ。「それはいい質問だ、魔理沙」そう言って眼鏡を持ち上げ、霖之助はその場に頬杖をついた。


「流し雛と雛祭り、この二つは確かに大きなつながりを持っている。そもそも流し雛は、さっきも言った通り『上巳の節句』という──」

「あっ、あー! そういえばこのあとパチュリーと一緒に魔法の勉強をするんだった! じゃあまたな香霖っ!」

「あ、」


 霖之助が呼び止めようとした時、彼女は既に香霖堂から外に飛び出していた。開け放った戸を閉めることすらせず、まっすぐ紅魔館に向けて飛んで行ってしまう。ひゅう、と凍えた風が吹き込んできた。香霖堂の少し寂れた雰囲気が、ますます寂しくなったような気がした。

 残された霖之助は、(くう)に伸ばしたまま静止している右手をどうしようか一瞬迷い、結局何もせずにそのまま下ろした。

 呟く。


「なあ、魔理沙。君はそんなに、僕の雑学話を聞くのが嫌いかい……?」


 吹き込む風が、今日は一段と寒かった。











 ○




 結局霖之助は、最後までアリスに助けを求めることをしなかった。これは誰かに依頼されてやっているわけではなく、霖之助が個人的にやっていること。なので半ば意地になって、自分の力だけで完遂させた。

 完成させられた瞬間は、感動にも似た爽やかな達成感を得たものだった。……反面、体の疲労は倍以上にまで蓄積されることになったのだが。


「……よし、なかなかいい感じじゃないかな?」


 そして迎えた三月三日。霖之助は香霖堂の一角に専用の舞台を作り、そこに修理を終え元の姿を取り戻した二体の雛人形を並べた。それだけでは味気ないので、屏風や雪洞(せっとう)桜橘(さくらたちばな)などの小道具も全て手作りで製作し、並べている。やや簡素ではあるが、これは『飾って楽しむ』ための雛祭りではないので問題はないと思った。霖之助が雛祭りをする理由は、あくまで『厄祓い』である。


「さて。これで少しは、僕の身の回りにある厄も払われればいいのだけどね……」


 「特に……」その場で肩をグルリと回す。すると、関節が鳴る小気味良い音と共に、やや強い倦怠感が体中に襲いかかってきた。

 苦しさのにじんだ声で、呟く。


「……この疲労は、どうにかしたいね」


 断っておけば、ちゃんと休息は摂っていた。特に昨夜は普段よりもずっと長い睡眠を摂った。なのにこの疲れは一向に抜けることなく、巣食ってしまったかのように霖之助の体を蝕んでいるのだ。

 霖之助は半人半妖だから、体は人間よりもずっとずっと強い。その体がここまであからさまな悲鳴を上げるのは、己の長い人生の中でも相当に久し振りの出来事だった。ここまで調子が悪いと、何か変な病気でも患ったのではないかと邪推が働く。

 永遠亭で診てもらった方がいいかな、と霖之助は考えた。今月に入ってからは寒さもいくらか和らいだし、ここ数日引きこもっていたせいですっかり硬くなってしまった体を解す意味でもちょうどいいのではないか。

 更に言えば、最近は永遠亭にも顔を出していないからどこぞのお転婆なお姫様が機嫌を損ねているかもしれないし……。


「そうだな。そうしようか」


 霖之助は頷き、支度を整えるために一度店の奥へと戻ろうとする。

 それを呼び止めたのは、カラカラと控えめな様子で香霖堂の戸が開いた音だった。

 

「ごめんくださいな」

「ん……?」


 背中にかかった声は、霖之助の知らないもの。そして、振り返ってから見えた姿もまた、霖之助の記憶にはないものだった。

 赤い少女だった。鮮やかさはない、暗く沈んだ濃い赤のドレスと大きなリボンで身を包んでいる。反面、覗く肌は人形のように白く、髪はくすみのない澄んだエメラルドグリーンで、暗いドレスとのコントラストが彼女の姿をくっきりと浮き上がらせていた。

 初対面では失礼なことだろうが──思わず惹きつけられて目を逸らせなくなってしまう程度には、不思議な出で立ちの少女だった。数秒ほど呆然としてから、霖之助ははっと我に返った。


「──失礼。ようこそ、香霖堂へ」


 少女は気にした様子なく、やんわりと微笑んだ。


「こんにちは、古道具屋の店主さん」

「ああ、こんにちは。……何か探し物かな?」

「いいえ。申し訳ないけれど、お客さんというわけではないの。ただちょっと、気になる話を聞いたものだから」


 「気になる話……?」霖之助は眉をひそめた。同時に、彼女が客でなかったことに対する落胆の気持ちが起こる。特にここ数日、雛人形の修理をしている間はちっとも売上が出ていなかったので、表情に出さないようにするのに苦労した。不器用な片笑みで取り繕い、問うた。


「一体どんな話かな。悪い噂でなければいいけど」


 クスリ、と少女が小さな笑いを漏らした。


「そこは心配いらないわ。……あなたが、専門でもないのに意地になって雛人形の修理をしてるって、白黒の魔法使いから」

「……」


 どうやらあの幼馴染は、ここ数日ですっかり吹聴してくれたらしい。やれやれと思わず天を仰ぎそうになったが、


「せっかく会いに行ってもそればっかりでちっとも構ってくれないんだって、とても不満そうに言っていたわ」


 少女がそっと付け加えたその言葉を聞いて、やめた。少しだけ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたと思う。少女がまた、今度はおかしそうにクスクスと笑ったので、霖之助は咄嗟に表情を改めた。


「……それで、その雛人形の話を聞いて、どうしてここまで?」

「ふふふ……」


 話題を替えようとするが、少女はしばらくの間笑ったままだった。なんとなく気恥ずかしくなる。不意に居心地が悪くなったように感じて、霖之助は少女から視線を外していた。

 「ああ、ごめんなさい」少女は未だ笑いが尾を引いた声でそう謝罪して、グルリと店内を見渡した。


「その、あなたが修理したという雛人形を見てみたいと思って」

「……それだったら、そこに飾ってあるよ」


 霖之助は店内の一角を指差す。修理を終えた雛人形がひっそりと隠れるように飾られていて、それを確認した少女はゆったりとした動きでそこへ歩みを寄せた。

 霖之助は心の中で、少しだけこの少女のことを不審に思っていた。少女はどうやらあの雛人形を見に来ただけのようだが、それは一体どういうことを意味するのだろうか。もしかしたら彼女も壊れた雛人形を持っていて、腕が良さそうだったら修理を頼もうと下見にやって来たのか。

 しかし実際のところ、霖之助の腕前は──


「あらあら。これはまあ、『頑張ったで賞』と言ったところかしら」

「……返す言葉もないね」


 そう。初めてだから仕方ないと既に割り切ってはいるが、今の雛人形の様は、とても修理されたとは思えないくらいに稚拙な出来栄えだった。特に女雛の方は、まさに『壊れたままよりかはマシ』な状態とでも言おうか。


「多めに見てくれるとありがたいよ」

「これは“多め”でも足りない気がするけどねえ……。道具の修理も受け付けてるって話だったけど、看板に偽りあり、かしら」

「……どんな物でも修理する、と謳った覚えはないのだけどね」


 せめて一矢報いるつもりで言い返すと、少女はすまなそうに眉を下げて苦笑した。


「ごめんなさい、怒らせるつもりはなかったの。ただ、あの魔法使いや博麗の巫女が、あなたの道具を修理する腕前には一目置いていたようだったから」

「……」


 それはこちらの機嫌を取るための口実か、それとも紛れもない事実か。ただ、あの二人がこちらのことを褒めるなど、俄には信じられない話ではあった。

 「本当よ?」そう言って、少女は雛人形に視線を戻した。その背中に向けて、霖之助は言う。


「……まあこの通り、僕は人形の修理に関してはまだ門外漢でね。もし修理を依頼したいのだったら、他に専門の子がいるから紹介を──」

「ああ、違うの。私は本当に、ただこの雛人形を見に来ただけ」

「……じゃあ、その雛人形を買おうとしているのかな? それなら──」

「それも違うわよ。言ったでしょ、私はお客さんじゃないって」


 霖之助は沈黙した。この少女が何を考えているのか、いよいよわからなくなってしまった。押し黙るこちらを無視して、少女は呑気に雛人形を眺め続けていた。

 やがて、少女が小さな声で呟いた。


「……でも、そう。あなたたちも嬉しいのね。一度捨てられて、壊れてしまったのに、こうやって直してもらって、飾ってもらって」

「……?」

「ふふ、そうね。あなたたちの厄は、どうやら彼に全部渡ってしまったみたい。……ええ、任せておいて」

「……すまないが、誰と話しているのかな?」


 「なんでもないわ」少女がクルリと綺麗にこちらを振り返り、問うてきた。「ところで店主さん。最近不幸なことがあったり、体の具合が悪かったりすることはないかしら?」

 自分の心の中を見透かされたような気がして、霖之助は小さな寒気を感じた。だがすぐにそういう言動をしてくる者はこの幻想郷では決して少ないことに思い至り、気にしないようにすることにした。


「確かに、最近は妙に体の疲れが溜まっていてね。これから、永遠亭に行って診てもらおうと思っていたところだよ」

「ああ、そうなの。……ねえ、店主さん。ここのところ、ちょっと見てみてくれないかしら?」


 少女は体をこちらに対して斜めにして、不意に雛人形を指差しながら言った。指しているのは女雛の方だが、ここ、と言われても今の霖之助の位置からは遠すぎて確認できない。


「どこだい?」

「ほら、ここ……」


 霖之助は雛人形に近づき、やがて少女の左隣に立って、女雛を覗き込んだ。「どこだい?」再び問うと、後ろ髪のところ、と少女は短く答えた。

 言われた通りに、女雛の後ろ髪を確認してみる。とりあえず自分が拙いながらも頑張って修理した部分がありありと見えるが、それ以上の問題はないように思えた。


「……すまない、僕にはよくわからないな。どこかおかしいところが──?」


 右隣に目をやって、霖之助はふと気づいた。いつの間にか、隣にあったはずの少女の体がどこかに消えている。

 同時。すうっと、まるで初めからそうしていたかのように自然と、誰かがこちらの背後に寄り添ってきた。細い指で、撫でるように、滴るように(・・・・・)背中を触れられる。霖之助は驚いて振り返ろうとしたが、「大丈夫」と艶のある声が背中にかかって、ぴたりと動けなくなった。


「大丈夫よ。そのまま動かないでいて……」


 ふう、と甘い吐息が背中をくすぐる。

 その感触を極力意識しないようにしながら、霖之助は頭の中で必死に思考を巡らせていた。一体何が起こっているんだ、と。

 いや、何が起こっているのかはわかる。少女に背中に寄り添われているのだ。だから心中ですぐに問いを改めた。どうしてこんなことになっているんだ、と。

 背中の向こう側で、少女が囁いた。


「雛祭りの原型となった流し雛では、人を模した『形代』という人形を撫でたり(・・・・)息を吹きかけたり(・・・・・・・・)して、その人の厄を肩代わりさせて、川に流した……あなたも知っているでしょう?」

「まさか、君は……」

「そう。私は幻想郷の流し雛、詰まるところは厄神様。……あなたの体の具合が悪いのは、この雛人形たちが持っていた厄が、あなたに移ってしまったからよ」


 ほう、とまた少女がこちらの背中に息を吹きかけた。思わず身震いしてしまいそうなほどに、くすぐったかった。


「この雛人形はね、多くの厄を抱えた“曰くつき”だったのよ。だから外の世界で捨てられ、ここに流れ着いた。……でもこうしてあなたに見つけられて、拙い腕でも愛情を込めて直してもらって、飾ってもらえて……そのことにすごく感謝していて、だから自分たちの厄があなたに移ってしまったことをとても申し訳なく思ってるの」

「君は、雛人形の言葉がわかるのか……?」

「当たり前でしょ? 種族は違えど、仲間だもの。……だから私が、あなたの厄を全て受け取ってあげる。仲間を愛してくれたお礼に、ね」


 魔理沙があの時言っていた厄神とは、きっと彼女のことだったのだろう。彼女はそうやってぴったりとこちらの背に寄り添って、ずっと撫でたり息を吹きかけたりしていた。

 限界だった。くすぐったすぎる。霖之助はぶるりと身震いをして彼女から離れようとしたが、


「ダメよ。まだ厄を全て受け取っていないわ」


 そう言って、有無を言わさず抱き締められてしまった。「ちょ、ちょっと待ってくれ」霖之助は焦って、口早に少女へ問うた。


「な、何もここまでしなくてもいいんじゃないかな?」

「言ったでしょ? 形代は、撫でたり息を吹きかけたりして厄を受け取るのよ」

「だ、だからって抱き締めなくても」

「それはあなたが逃げようとしたからでしょうが。大人しくしてなさい、──それとも、あなたが私の体を撫でる(・・・)方がいいかしら?」


 ある種、誘うように放たれたその言葉に、霖之助は沈黙することしかできなかった。「それでいいのよ」少女は満足げに頷き、またこちらの背中に寄り添い始めた。


「それにしても贅沢な人。私みたいな女の子に寄り添ってもらえて、なのに逃げようとするなんて」

「中にはそういう人もいるだろうさ。だから、早く終わらせてもらえると嬉しいんだが」

「おまけに、私が善意であなたの厄をもらってあげてるというのに不遜な物言い。さあてどうしようかしら。そう言われると、逆にぐずぐずしたくなってしまうものよね」

「か、勘弁してくれないかな」


 霖之助だって、一応は男だ。異性からこういう風に寄り添われるというのは、例え会ったばかりの相手だったとしても、満更不愉快なわけではない。

 だから問題なのは、それとは別のこと。霖之助の今までの経験上、『こういう展開』になると必ず──


「やっほー、香りーん! 独り寂しく雛祭りしてるかー!?」


 ──こんな風に、面倒事が起こるのだ。

 香霖堂の戸を勢いよく開け飛び込んできた、闖入者・霧雨魔理沙。彼女は少女に寄り添われているこちらを見て、最初わけのわからないものを見ているかのように盛大に眉根を寄せて、それから、


「なっ、何をやってるんだお前はああああああああ!」


 案の定、爆発した。


「おまっ、雛か!? 香霖に一体何わけのわからないことしてるんだあああああ!」


 魔理沙に『雛』と呼ばれた少女は、顔を真っ赤にして掴みかかろうとした魔理沙を、クルリと身を回すことで回避する。スカートをふわふわと揺らしながらこちらの背中から離れ、ふっと茶化すように微笑んだ。


「あら残念。せっかくいいところだったのに」

「ちょ──」

「いいところだと!? 香霖、お前一体、あいつと何をしてたんだあああ!」


 ちょっと待て、と咄嗟に口を挟もうとするも、それは掴みかかる標的をこちらに変更した魔理沙によって遮られた。裾を取られ、ガクガクと前後に揺さぶられる。見れば、雛なる少女はいかにも楽しそうな含み笑いを零していた。

 「ま、待て魔理沙」霖之助は舌を噛みそうになるのを感じながら必死に魔理沙を宥めた。「落ち着いてくれ、こればかりは完全に誤解だ」

 魔理沙はそんなのどうだっていいと一蹴したが、揺さぶる力が弱まったので、霖之助はその隙に彼女の両手を掴み取り強引に裾から引き剥がした。


「っ、香霖!」

「だから誤解だって。僕自身よくわからないけど、どうやら僕の厄を引き取ってくれていたらしい。妙なことは──」


 いや、いかな理由があれ初対面の少女に寄り添われれば充分妙なことだろうが、ともかく──。


「──何もしていない。君も、魔理沙を茶化すのはやめてくれ。それで厄介を被るのはいつも僕なんだから」


 乱れた衣服を整えつつ、少女に非難の視線を向ける。そのはずなのに、少女は「ごめんなさい」と一層笑みを深めてきた。


「面白そうだったからつい。……魔理沙、私はこの人に取り憑いていた厄を引き取ってあげたのよ。むしろ感謝してほしいくらいね」

「厄だと? なんでそんなもん……」


 「あれよ」少女は雛人形を指差した。「あれに溜まっていた厄が彼に移ってしまったの。ほんとにすごい量だったんだから。あのまま放っておいたら悪い病気になっていたくらいにね」

 霖之助の隣で魔理沙が小さく怯んだ。霖之助たちに『厄』というものを見ることはできないが、それを司る彼女が言うのだ。タチの悪い冗談ということはないだろうし、そうだとすればあそこまで疲れが抜け切らなかった理由にも納得が行く。


「店主さん、体の具合はどうかしら? 少しは楽になったんじゃない?」

「……そう言えば」


 少女にそう言われて初めて、霖之助は気づいた。いつの間にか、肩の凝りがすっかりなくなっている。グルリと肩を回してみても、あの不快な倦怠感は襲ってこなかった。


「……大分楽になったようだ」

「ほら見なさい」


 少女が魔理沙に向けて得意そうに胸を張る。魔理沙はたじろぎ、それでもなお、少女に噛みつくことをやめなかった。


「だ、だからってなあ! あんな風にぴったり寄り添って……」

「だから、ああしないと厄を受け取れないんだってば。……でもまあ」


 少女は澄まし顔で魔理沙を一蹴し、それからこちらを見て不意に目を弓にしならせた。


「実のところ、彼に興味があったことは否定しないわ。呪われた雛人形を拾って、拙くても一生懸命に修理して飾ってくれる優しさ。……ふふ。私がもしあの女雛だったら、それだけであなたのことを好きになってしまいそう」

「なっ──」


 霖之助は仰天した。確かに一生懸命に修理したことは事実だがそれは半ば意地のようなもので、決して雛人形のためを思ったわけではないし、そもそも呪われていたなんて露も知らなかったのだ。それなのにそんなことを言われても困ってしまうだけだし、


「な、なんだとおおおおお!?」


 このように魔理沙が再び顔を真っ赤にして暴れてしまうので、時と場合を選ばない分だけ迷惑だと思えた。

 魔理沙が足を踏み鳴らして少女に掴みかかろうとするが、少女はやはり綺麗に体を回してそれを躱し、そのまま店の出入り口へ。魔理沙が開けっ放しにしていた戸を一歩向こうへ越えて、振り返った。


「私の名前は、鍵山雛。覚えておいてね。今度は、ちゃんとお客さんとして買い物に来るから」


 この時の霖之助は、何かを言おうとしていた。魔理沙をここまで茶化してくれたことに対する非難か、厄を引き取ってくれたことに対する礼か。だが彼女、雛の柔らかな破顔を見た瞬間にそれは喉の奥に引っ込み、思い出せなくなった。

 だから霖之助は、別の言葉を雛に返す。浅く吐息し、眼鏡を持ち上げながら、


「僕は森近霖之助。──またのご来店を」


 対し、雛は何も応えず、ただ満足げに笑みを深め、一息で空へ飛び立っていった。

 心なしか、少しだけ暖かい春の風が吹き込んできたような気がした。けれども、この幻想郷の住人には大体言えることなのだが、どうしてみんなちゃんと戸を閉めてから帰らないのだろうか。一瞬の春の風は(くう)に溶け、すぐに冬の名残り風がひゅうひゅうと吹き込んでくる。「まったく……」霖之助はもう一度だけ吐息して、足早に歩み寄って引き戸を閉めた。

 風が吹き込まなくなった香霖堂で、ひっそりと思う。厄払い目的で始めたこの雛祭り、ある意味では成功だったのかも知れない。体の疲れはすっかり取れ、元の調子を取り戻すことができたのだから。その点では、あの雛という少女には感謝しなければならないのだろうが──。


「香霖、香霖っ! せっかく香霖が一人で寂しがってると思って雛霰(ひなあられ)まで持ってやって来たってのに、やっぱり納得できん! 私がいない間に何があったのか洗いざらい話せ! じゃないと撃つ、容赦なく撃つ!」


 彼女はこちらの体から厄を引き取ってくれても、心の厄までは引き取ってくれなかったらしい。体の疲れはすっかり回復、されど心の疲れはすっかり倍増。やはり素直な気持ちで感謝することなどできず、霖之助はがっくり肩を落としながら、背後で魔力を迸らせている幼馴染をどうなって宥めようかと、また頭を悩ませるのだった。


 その日の香霖堂は、日がとっぷりと暮れるまで、割かし騒がしい雛祭りになったそうな──。





 はじめまして、もしくはおはようございます、あるいはこんにちは、はたまたこんばんは。このにじファンにて『銀の狐と幻想の少女たち』を執筆している似非物書き、雨宮雪色と申します。

 今回このように、同盟内の各作者さんがテーマに則って短編を書くなんて素晴らしい機会に巡り会えたものですから、せっかくなので一編書いてみました次第です。


 テーマは雛祭り、ということで雛霖、に見せかけた魔理霖でした。

 霖之助主人公の小説というのは個人的に思い入れがありまして、私が本格的に東方二次に入り込むきっかけになったのがそれなんですよね。ええ、『人』の字から始まる素晴らしいサイト様がありまして。


 そんな霖之助カプなお話。わたくしなんぞでどこまでできたかはわかりませんが、願はくは、皆さんの退屈をちょっとでも紛らわせることができればと思います。


 それでは、今回はこのあたりで筆を擱きます。

 機会があれば、またこの場所でお会いしましょう。雨宮でした。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ