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佑樹は部屋を出て、ドアに鍵をかけた。部屋の中はカーテンを締め切っている為、光は殆ど入ってこない。なので廊下に出るだけで妙に明るく感じた。2階の廊下に光取りの窓は存在しないが、階下から漏れる光が2階の廊下をも明るくしていた。
光の差し込む少し急な階段をゆっくり降りて行くと、カレーの香ばしい薫りが鼻腔をくすぐった。1階の廊下を進み居間へと続くドアを開けると、その匂いは一気に増した。
「あら佑樹さん、おはようございます。・・・いえ、もうこんにちはですね」
キッチンはオープンキッチンになっていて、その流しの辺りから佑樹の母親がタオルで手を拭きながら顔を覗かせた。
「つげよ」
母親の顔を見るや否や、高圧的な態度で言葉を発した。母親は逡巡し、恐る恐る佑樹を見た。
「・・・あのですね、佑樹さん。私も今、片付けをしていて手が放せないんですよ。すみませんけど、自分で・・」
ビクビクしながらそこまで言うと、次の瞬間佑樹の拳が顔に飛んできた。鈍い音がして、母親の身体がのけぞる。
「うるせえよ、いいからつげ」
殴られた場所を手で押さえつつ、それでもしばらく佑樹に視線を向けていたが、やがて諦めたように食器棚へ向かった。
「あの・・、今日もお部屋で食べるんですか?」
困った顔をしてはいるが、もう半分以上諦めている雰囲気だった。
「ああ」
大きな皿ぎりぎりまで御飯とカレーをよそった皿を慎重に盆の上に載せる。そして付け合せの福神漬け、らっきょうをトッピングし、スプーンをカレーに差して佑樹に手渡した。何も言わずに佑樹はそれを受け取り、さっさと居間をあとにした。
後に残された母親はしばらくの間その後ろ姿をぼんやりと眺めていたが、突然弾かれた様に再び水仕事を再開した。
佑樹はカレーを下に置くことはせず、左手で盆を持って、もう片方の手で鍵とドアを開けた。ドアの中はやはり暗かったが、その中に僅かに光も見える。少女の虚ろな瞳から放たれる鈍い光が。
「おかえり、おにいちゃん」
言葉は限りなくソフトだが、それがそのまま表情に反映されてはいない。鋭い目付き、きつく結んだ口、吊り上った眉。顔には無数の痣や切り傷があった。その殆どは日奈子が幾度となく逃走を試みた際に刻み込まれた傷達である。当然これらの痣や傷は顔だけにある訳ではない。幾分汚れた服の上からはわからないが、裸になればきっと見るも無残な姿だろう。実際日奈子も、体を動かす度に「うぐぅ」とか「いたい」などとうめき声をあげていた。
「ただいま」
しかし佑樹は笑った。そして盆を床に置く。部屋はより一層汚さを増していたが、日奈子の定位置であるベッドの上は比較的奇麗だった。佑樹は足でゴミを蹴散らして日奈子の前に場所を作り、腰を下ろす。
「今日の昼食はカレーだぞ」
日奈子に反応はない。しかし佑樹が一瞥すると、
「わあ、うれしい」
本当に台詞をただ読んでいるかのようにその言葉を発した。
佑樹は山盛りのカレーのてっぺんにスプーンを突き刺し、それを崩していった。カレーを痛めつける様にかき混ぜるぐちゃぐちゃという嫌な音がしばらく鳴らされて、カレーとご飯は完全に一体化した。
そうした後にようやくそれを口に運んだ。佑樹の口からカレーをかき混ぜた時に似た不快な音が発せられる。日奈子は何も言わずにその様子を眺めている。いや、本当は見ていないのかもしれないが、少なくとも視線のみは佑樹の方を向いていた。
一心不乱にカレーを食べていた佑樹は、それが半分くらいなくなった頃にようやくカレーから目を離して日奈子を見た。
「そうだ。日奈子にも食べさせてあげないとね」
急に思い出したかのように言う。そして自分が使っていたスプーンを良く舐めて奇麗にし、改めてカレーをすくってそれを日奈子の口の辺りに持っていった。
「はい、あ〜ん・・・」
しかし日奈子は口を開かない。固く結んでいるという感じでもないが、口はきっちりと閉じていた。
「あ〜ん・・・」
始めから開かない事を知ってか知らずか佑樹は半ば強引に日奈子の口にカレーを載せたスプーンを押し込んだ。そんなやり方では殆ど口の中に入る筈はなく、行き場を失ったカレーたちはぼとぼとと床や日奈子の服の上に落ちて染みを作った。しかし佑樹はその動作をひたすら繰り返した。
残りのカレーが全て皿の上からなくなるまで・・・。
*
「それじゃあ、勝手にしなさい!」
そう言い残し、母は日奈子に背を向けた。日奈子は始めから母に対して背を向けていて、怒鳴り声が聞こえても振り向こうともせずに砂遊びに興じていた。
太陽は大分傾いていて、空は橙色に染まっている。秋の日はつるべ落としというくらいだから、幾らも経たない内に辺りは暗闇に包まれてしまう。それを考えて母は声をかけたが、遊びたい盛りの日奈子がそう簡単に納得する筈はなかった。
母がいなくなったことを確認して、しばらくはせいせいしたという感じで遊んでいた日奈子も、時間が経って暗さが深まってくるにつれて不安の方が大きくなってきた。家から近い公園とはいえ、普通に歩けば家まで5分はかかる。慌てて辺りを見回したが、気付けば公園には日奈子しか残っていなかった。
その事実を目の当たりにして不安が一気に大きくなり、みるみる内に大きな瞳にはこぼれんばかりの涙が溜まり始めた。つまらない意地を張ってしまったことを深く後悔しながら公園の出口までとぼとぼ歩いていくと、物陰から突然人影が。
「わっ!」
「きゃああああ!」
暗闇に響き渡る日奈子の叫び声。急いでその場から逃げようとすると、後ろから身体ごと抱えられてしまった。
日奈子が腕の中で叫びながらじたばた暴れると、
「お母さんよ」
という声が耳元で聞こえた。恐る恐る自分を抱き抱えた人を見てみると、確かに母だった。
「びっくりしたあ」
眼にはまだ涙が溜まっているが、安心したのか顔は少しほころんだ。
「お母さんを困らせたから、仕返しよ」
そう言って母は悪戯っぽく笑った。
「もう・・・」
日奈子は一瞬むくれたが、やはり母が居てくれたことへの感謝の気持ちの方が大きかった。母の腕から降ろされ、手を繋いで歩く帰り道、すごく小さな声で「ごめんなさい」と呟いた。
地面に映る二つの長い影はしばらくすると暗闇に溶け込み、遂には見えなくなってしまった。