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ワゴンの中は異常に気温が上がっていた。佑樹の頬をつうっと一筋汗が伝う。冷房機器などは点いていなかったが、それでも窓を開けようとはしなかった。視線を少し横に転じるとそこはもう緑の世界。彼は叢の中にその車体と身体とを隠してした。
どのくらいそうしていただろう。長い間微動だにしなかった彼の双眸が、突然異様な輝きを放った。無意識にハンドルを握っていた手が震える。それは緊張から来るものなのか、それとも一種の武者震いの様なものかわからないが、とにかく視線の先には少女の姿があった。
年の頃は10を数える位だろう。ランドセルから寄生した植物の様に伸びる白いリコーダーが印象的に映る。プラスチックで出来た人工的な向日葵が付いたゴムで左右に縛り分けられた長い黒髪、不釣合いな大きい瞳、化粧をせずとも自然と赤みがかった頬、まだろくに発育していない胸。そんな少女の全てを舐める様に見つめ、佑樹はゆっくりと車のドアを開けた。
正面からいきなり出て行くのはさすがにまずいと思い、少女が目の前を通り過ぎるのを叢に身を潜めたままで待ち、幾分離れた所で動き出した。しかし何の物音も立てずに出ることは出来ず、がさごそという草の触れ合う音が鳴る。だが、それすらも計算の内だった。
案の定少女が何事かと思い、後ろを振り返る。
「やあ、こんにちは」
佑樹はしたり顔で快活な挨拶をした。少女は一瞬訝しげな表情を見せたものの、すぐに満面の笑みを浮かべる。それは比較的恵まれた佑樹の容姿のお陰かもしれない。
「こんにちわ〜。おにいちゃん、だれ?」
その目は純粋な好奇心に満ち満ちている。最早どうして声を掛けられたのかなどという疑問は、少女にとって取るに足らない事となっていた。体はきちんと佑樹の方に向き、視線も外さない。
佑樹の笑みに多少勝ち誇った感情が加わった。少女には笑みの変化は読み取れたものの、その変化が何を意味するのかという所にまで考えは及ばなかった様だ。
「僕は、小畑佑樹っていうんだ。君をナンパしようと思って声を掛けたんだよ」
冗談とも本気とも取れる様な口振りで言う。
「ナンパって・・・・、あのナンパ?」
詳しい言葉の意味はわからないのかもしれないが、少なくとも何かで見聞きした事はあるらしく、少女は「あの」という表現を使って訊き返した。
「そのナンパだよ。僕と一緒に何処かに遊びに行かないかい?というお誘いさ」
佑樹はそう言って手を差し出した。少女の目は正にキラキラと輝いていた。
大人の響きを感じさせる「ナンパ」、かっこいいお兄さん、何処か遊びに・・・。もう、充分過ぎる程だった。
「でも・・・」
ふと母親の言葉が頭をもたげる。「知らない人について行っちゃダメよ」月並みな言葉だが、少女はその純粋さで大人の言う事を殆ど信じて行動してきた。そんな特有の生真面目な感情が警鐘を鳴らす。
「どうだい?お嬢さん」
しかし佑樹はそれらを見透かしているかの様に会心の笑みを浮かべた。
「いいよー!あたしはねー、辰巳日奈子。9さい。3年生だよ」
「うん、へいき。このお兄ちゃんはいい人だよ」満面の笑みで佑樹の手を握り返す少女の中で、根拠のない自信と単純な感情が生まれている事が容易に推測できる。まだ見ぬ未知なる経験への期待に胸が一杯の日奈子に、佑樹の手が異常に濡れていた事を不信に思う余地はなかった。
*
「良くやったぞ」
父が狭い部屋いっぱいに聞こえるような歓声をあげた。
喜びを露わにして、勢い良く母に抱きつく。
「あなた、痛いわよ」
口では不平を述べながらも満更ではないようで、顔にはしっかりと笑みが刻まれていた。
「おっと、ごめんごめん」
父も笑顔のまま、あまり悪びれた様子もなく手を放す。
「そうか・・・、二人目か・・・」
誰にともなく呟いた後で、父は不意に少女を振り返った。
「留美。お前はもうすぐお姉ちゃんになるんだぞ」
漸く歩けるようになったばかりの少女にその意味はよく掴めず、
「おねえちゃん?」
と、目を丸くして尋ねる。
「留美にもうすぐ、妹か弟ができるんだよ」
父は軽々と留美を持ち上げ、胸にかき抱いた。
「いもおと・・・」
それでもまだよくわからなかったが、留美の中には沸々と喜びの感情が湧き上がっていた。
その意味が、頭の何処かでは朧げにわかっていたのかもしれない。




