第40話 死んじゃえば良かったのに
「何を弾きたいんですか?」
先程、昴さんに通してもらったピアノが置いてあるお部屋に雫さんと二人で入って、ピアノ椅子に並んで腰掛けた。
「え、えっと……しょ、ショパンの曲を」
まさかこうもすんなりと雫さんと二人でピアノを弾けることになるなんて思ってなかったから、そんなアバウトな答え方をした私を雫さんはジトーという目で見てきた。
「……ショパンの曲って二百以上はありますよ」
「じゃ、じゃあっ、有名なものをっ」
「それでもまだ絞りきれませんけど」
「えっと、えっとぉ……」
そうだよね。一発屋じゃないんだからたくさん代表曲があるもんね。
昴さんがショパンにお詳しいみたいだからもしかしてと思っていたけれど、やっぱり雫さんも相当ショパンに造詣が深いらしい。雫さんが他の曲を弾いていたのを聞いたこともあるけれど、多分何かこだわりがあるはず。
「じゃあ、前奏曲第7番イ長調はどうでしょうか?」
「な、なんですかそれは?」
「聞けばわかると思いますよ」
雫さんはそう言うと楽譜も無いままいきなり演奏を始めた。
すると、確かに聞き覚えのある、耳触りの良いメロディーが流れ始める。
これは、何だか食べ過ぎや胃もたれに良い効果のありそうな音楽……不思議と胃腸の調子が良くなりそう。
ハッ!? イ長調だけに胃腸ということ!?
「どうですか? そんなに難しくないと思いますし」
「で、ではこれを」
「じゃあ、ちょっと楽譜を持ってきますね」
雫さんは一旦部屋を出ていくと、一時してから分厚いファイルをいくつか持ってきて、その中から楽譜を一つ取り出した。
少し年季が入っているみたいで、見ると色々とメモ書きがされていた。『ココ落ち着いて!』とか『気持ちゆっくり!』というちゃんとしたメモだけじゃなくて、『姉ちゃんのアホ』だとか『お兄ちゃんのバカ』というメモが目に入っただけで、私は思わず涙を流しそうになってしまう。
楽譜をまじまじと見つめる私を見て、雫さんは不思議そうな表情で言う。
「どうかしました?」
「あぁいえ、色々書いてあるなぁと思いまして」
「あぁ、お姉ちゃんやお兄ちゃんが色々と好き勝手書いてたので……私もですけど」
私もバイオリンを弾く時に楽譜にいくらばかりのメモを残すことはあるけれど、こんなに余白が残らないほどじゃない。
多分、雫さんと昴さん、そしてお姉さんの郁さんの三人分のメモ書きが残っているから、こんなにびっしりと埋まっているんだろう。
『姉ちゃんのアホ』
『お兄ちゃんのバカ』
この二つの文言だけで、郁さんが昴さんにピアノを教え、そして郁さんに教わった昴さんが雫さんに教えていたのだろうということがわかるし、その時の情景も何となく浮かんでくる。
昴さんは郁さんのことを厳しくて怖かったと言っていたけれど、多分昴さんも中々だったんだと思う。
そこから数十分ほど、雫さんにピアノを教えてもらうとショパンの前奏曲第7番イ長調をそれなりに弾けるようになった。雫さんの演奏には遠く及ばないけれど。
「凄いですね、神城先輩。結構ピアノ弾かれてたんですか?」
「いえ、そんなでもないですよ。私はコンクールで賞を取ったことがないないので。これも、雫さんが私に優しく丁寧に教えてくれたおかげです」
「そ、そんなでもないですよ」
雫さんはちょっと照れくさそうにしていたけれど、まんざらでもなさそうに笑っていた。
私が思っていた人物像とは全然違って、私一人と接している時の雫さんは普通にかわいらしい妹さんだ。昴さんとの仲が険悪だなんて信じられないぐらいに。
「次もまたショパンの曲を教えていただけませんか?」
革命のエチュードや幻想即興曲も弾いてみたいけれど、私の腕ではそんな一朝一夕で演奏できるような気がしない。
すると、雫さんは大量の楽譜が入っているファイルをパラパラとめくりながら呟いた。
「神城先輩は、私にピアノを教わりに来たんですか?」
「へ?」
「それが目的ではないでしょう」
そう言って、先程までにこやかに笑っていた雫さんの表情が堅くなった。
まるで、私の本当の目的をわかっているみたいだ。
そして雫さんは私の方を向くと、不敵な笑みを浮かべて言う。
「神城先輩は人が良さそうなので、大方、私とお兄ちゃんの仲を取り持とうと考えられているのでは?」
図星。
確かに、私の行動はおかしい。せっかく昴さんのお家にお邪魔しているのに、彼氏である昴さんを放置して妹の雫さんに構っているのだから。
でも、それがバレるのは想定内。問題は、これが昴さんが仕組んだことだと勘違いさせないことだ。
「では、単刀直入に。雫さんは、昴さんのことがお嫌いですか?」
回りくどい言い方をしても無駄だと思って、私は雫さんにそう問いかけた。
すると雫さんは私から目を逸らして、手に持っていたファイルを見ながら言う。
「嫌いです」
迷いのない、冷淡な声。
昴さんと雫さんとの間に何があったのかは、昴さんから話は聞いている。でもあれが全てだとは思えない。昴さんが気づけていない、雫さんの気持ちがあるはず。
「どうして、昴さんのことがお嫌いなんですか?」
私は雫さんから拒絶されるかもしれないなんていうことは恐れずに聞いた。
だが、雫さんは黙ったままファイルをパラパラと捲るだけ。流石にそこまで心は開いてくれないのだろうか。
でも、私の目的を知っていながらこうして隣にいてくれるということは──。
「お姉ちゃんのせいにして、ピアノをやめたからです」
若干手を震わせながら、涙混じりの声で雫さんはそう答えたのだった。
「私にとって、お兄ちゃんは憧れであり、目標でした。勿論お姉ちゃんもピアノを弾くのが上手かったですけど、私はお兄ちゃんの演奏の方が好きでした。お兄ちゃんもピアノのことになるととてもうるさいので何度も練習から逃げ出しましたけど……でも、お兄ちゃんがいてくれたから私は頑張ることが出来たんです」
ピアノのことになると厳しくなるというのは、昴さんも郁さんも変わらないみたいだ。雫さんが私に優しく丁寧にピアノを教えてくれたのは、そんな二人を見ていたからだろうか。
「神城先輩は、お兄ちゃんからお姉ちゃんのことを聞いたんですよね?」
「はい」
「あの事故をきっかけに、お兄ちゃんがピアノをやめたことも?」
「はい」
昴さんの気持ちはとても分かる。きっとピアノに触れるだけで郁さんのことを思い出してしまうから、ピアノから離れてしまったのだろう。もしかしたらその時は一時的に、というつもりだったのかもしれないけれど……でも、郁さんに代わって医者という道に進むために、ピアノの道を捨てるつもりだったのかもしれない。
「私は許せなかったんです。お兄ちゃんがお姉ちゃんのことを理由にしてピアノをやめたことを……そんなの、お姉ちゃんも、私やお母さん達も喜ぶはずがないのに」
昴さんはそれを、償いという風に言っていた。
自分が家族の夢を奪ってしまったのだから、自分がその代わりになろうと。
でも……ピアノの世界に生きていた昴さんも、ご家族にとっての夢だったのでは……。
「もしもお兄ちゃんがピアノしか取り柄がなくて頭が悪かったなら、そのままピアノを続けていたかもしれないのに……お兄ちゃんは良くも悪くも頭が良かったんです。私は、ピアノしか弾けないバカなのに……」
昴さんは基本的に塾に通わずに今の成績を維持しているという。それはお姉さんである郁さんの勉強の教え方が良かったのかもしれないけれど、きっと昴さん本人のたゆまぬ努力の賜物だろう。
「神城先輩も頭が良いんですか?」
「え? ま、まぁそれなりには良いかもしれませんが」
「塾とか通ってらっしゃるんですか?」
「い、いえ、行ってませんが」
「はぁ……どうして皆塾に通わずに勉強できるんでしょう」
……すみません雫さん。私、昴さんと雫さんに嘘をついているんです。
本当は塾に通ってるんです。でも今は昴さんのことに忙しくてサボってるんです。でもサボってるだなんて言えないから通ってないことにしているだけなんです。
「それにお兄ちゃんは、お姉ちゃんとの思い出を忘れようとしてるんです。お兄ちゃんの部屋にはお姉ちゃんが使ってた楽譜とか教本がたくさんあったのに、それを全部お姉ちゃんの部屋にしまったんです。あの事故以来、我が家ではお姉ちゃんのことについて触れるのはタブーみたいになってますし……」
昴さんの気持ちもわからなくはない。その悲しみを忘れることが出来るのなら忘れたい。
でも、大切な人のことなんて忘れたくない……。
「もう、雫さんは昴さんと仲直りするつもりはないのですか?」
「あれからもう六年も経ってるんですよ。今更……お兄ちゃんとどういう風に接したらいいのかなんてわかりません」
六年もの間、どちらかが折れることなく仲直りが出来なかったのは、昴さんも雫さんも譲れないものがあったから。奇しくも、どちらも郁さんのことが原因だった。
でも、六年という時間はあまりにも長過ぎる。
「それに、お兄ちゃんが私のことを許してくれるとは思えません」
「え? で、でも、昴さんは雫さんと仲直りしたいとおっしゃってましたよ」
「それは多分、神城先輩の前だからそう言ったんです。多分、私のことを許してません」
「ど、どうしてですか?」
すると雫さんは体を震わせながら唇を噛み締める。まるで、お兄さんである昴さんに対してではなく、自分自身に怒っているかのように──。
「お姉ちゃんが死んで、お兄ちゃんがピアノをやめると言った時……私はお兄ちゃんと大喧嘩して、言ったんです。ピアノ弾かないお兄ちゃんなんて大っ嫌いだって。お姉ちゃんじゃなくて、お兄ちゃんが死んじゃえば良かったのに、って……」
今から六年前となると、当時の昴さんは十二歳、雫さんは十歳の頃。まだ大人の階段を登る途中、それどころかまだ登り始めてもいない頃だ。口論がヒートアップして、そんな言葉を口にしてしまうこともある。
『俺が姉貴を殺したと思われているだけさ』
以前、昴さんはそんなことを言っていた。
きっと、当時の雫さんはそう思っていたのかもしれない。もしも郁さんが昴さんのことを庇わなかったら、郁さんは生き残っていたかもしれないと。
「雫さんは、それを後悔されてるんですね?」
雫さんは黙って頷いた。
多分、昴さんもそれを覚えているのかもしれない。それを根に持っているとは思えないけれど……。
「大丈夫ですよ。昴さんと仲直りできますから」
そう言って私が雫さんの背中をさすってあげると、彼女はゆっくりと私の方を向いて、今にも溢れ出してしまいそうな涙をためながら口を開いた。
「私、知ってるんですよ」
「へ?」
そして、雫さんの涙がとうとう溢れ出す。
「お兄ちゃん、死んじゃうんでしょ……?」
あけましておめでとうございます。
今年も細々と投稿を続けてまいりたいと思います。




