第38話 一度くらいの過ちなら
『や、優しく、してくださいね……?』
ベッドの上に仰向けに倒れた小春が、涙目で、切なげな声で懇願するように呟いた。
小春の頬に手をやると、『んっ』と彼女の体が小さく震え、その柔らかく手触りの良い髪と、温かい頬に触れる。
『昴さん……』
軽くキスをすると、小春が物欲しげな様子で俺のことをジッと見つめてくるので、もう一度キスを交わした。
今度はじっくりと……濃厚に、お互いに舌を絡めて、お互いの全てを求め合うように……。
『ひゃっ……』
そして、俺は小春が着ていたセーラー服に手をかけ────。
◇◇◇
「んんんんんんんんんんんんんんんんんんんんんっ!」
首や腰をやってしまいそうな勢いで俺は飛び起きた。
「んん!?」
そして俺は部屋の中をキョロキョロと見回す。
あれ? どうして俺の部屋なんだ?
あれ? 小春はどこに?
そして段々と頭が覚めてきた俺は、大きく溜息をついた。
「んん…………」
俺はなんて罪深い夢を見てしまったのだろう。
とてつもない虚しさに襲われながら、俺はトイレへ向かったのだった。
「おい、湊」
『な~に~。こんなに朝っぱらからどーしたのさー』
俺はトイレで湊に電話をかけていた。いつも園芸部の活動で朝早く起きている湊だが、やはり早い内は眠そうにしている。
「今すぐ俺を罵ってくれないか」
『アホー』
「もっと」
『鬼畜変態アホー』
「もっとだ」
『ピーー』
「規制音が入らないやつで頼む」
『やーい、お前の前世サナダムシー』
「どんな経緯があって人間になったんだ俺は」
前世も来世も寄生虫にはなりたくないが、湊のおかげでより冷静さを取り戻せたような気がする。
「ありがとう湊、助かった」
『んー。何かあったの? 何だか夢の中で愛しの彼女にあんなことやこんなこと──』
「じゃあな」
俺は電話を切ってトイレを出る。
まだ朝早い時間で小春が訪ねてくるまで時間はあるが、かといって寝て時間を潰すとまた変な夢を見てしまいそうで恐ろしい。
『や、優しく、してくださいね……?』
……あぁ、ダメだ。今日これから小春が家に来るというのに、変な想像ばかりしてしまう。
こんなくだらないことにばかり頭が働いてしまうなんて、なんて悲しい性なのだろう……。
◇◇◇
「こんにちは、昴さん」
十時頃、ウチの家を訪ねてきた小春は、立派なバイオリンケースを手に持って現れた。
小春の私服姿は初めて見たが、俺がひとしきり褒めた後で「いつも褒めてくれるので嬉しいです」と彼女は笑っていた。いつもということは、これまでの十五回のタイムリープの中で俺は一応小春の私服姿を見ているはずなのか……。
「バイオリン弾いていくのか?」
「はい。昨日昴さんに披露できなかったので、せっかくと思いまして」
小春はピアノも少し習っていたらしいが、バイオリンの方が上手く弾けるという。昔、ピアノコンクールに出ていた頃にちらっとバイオリンの演奏を聞いたこともあるが、弦を使って音を出す楽器なのに音色の雰囲気は全くの別物だなぁと感じさせられる。
「じゃあ、飲み物とか準備しとくから先に上がっててくれ」
「あ、その前に少し良いですか?」
「どうした?」
小春は玄関に靴を綺麗に揃えた後、少し物悲しげな表情で口を開いた。
「その、昴さんのお姉さんの仏前にお参り出来ればと思いまして……」
……そこまで気を遣ってくれなくても良かったのだが、俺があんな話をしてしまった手前、手を合わせておきたかったのだろう。
「わかった。姉貴もきっと喜ぶと思う。こっちだ」
「は、はいっ」
俺は普段両親が寝室として使っている和室へ小春を案内し、仏壇の前に通した。今朝に俺と雫が供えた線香はもう消えてしまっているが、まだ独特の香りが残っている。
小春はまず仏壇に一礼して、線香と、わざわざ持ってきてくれたらしい和菓子を供えて、手を合わせた。
小春のそんな姿を見ていると、もしも姉貴が今も生きていたなら、俺のために何度もタイムリープを繰り返してくれている彼女にどんな言葉をかけるのだろうと、なんとなく考えてしまう。
「とても優しそうなお方ですね」
小春は顔を上げるとそう呟いた。
「勉強とピアノのことになるとありえないぐらい怖かったけどな」
「ふふっ、流石の昴さんでもお姉さんのことは怖かったんですね」
「まったくだ。でも、立派な姉貴だよ。今でも、な……」
遺影の向こうで姉貴は今も笑っているが、こころなしか今日はいつもより機嫌が良さそうに見えた。
仏前へのお参りを済ませた後、俺は一階の奥にある部屋へ小春を案内した。扉を開けると、幅の狭い部屋にギリギリ押し込められているグランドピアノが目に入る。
せっかく大きな窓があるのに大きな塀がすぐ目の前にあるし、部屋の中に置いてあるのはピアノの他に楽譜がしまってある本棚ぐらいなので、高級感も上品さの欠片もない簡素な空間だ。
「これ、結構高級なものじゃないですか?」
小春はグランドピアノの前に立ち、物珍しそうにじっくりとそれを眺めていた。
「母親が元々良い所の出のお嬢様だったんだ。地元じゃ有名な大地主って感じで。でも俺の父親と駆け落ちして実家と縁を切ったけど、このピアノだけ強奪してきたらしい」
「ま、まさか夜中に忍び込んで……?」
「いや、そんな大怪盗みたいなことをしたわけじゃない。実家で他に使う人がいなかったから、他所に持っていかれそうになっていたのを奪ったらしい」
「奪ったは奪ったんですか……?」
「本人はそう言ってる」
俺の両親は駆け落ちして結婚した経緯を笑い話のように話すが、実際はそんな笑いごとではなかったはずだ。でもそんな愉快な性格の二人だからこそ、忙しい毎日の中でも夫婦仲睦まじくやっているのだろう。
「せっかくだし弾いてみるか?」
「えぇ!? で、でも何かの拍子で壊してしまいそうで怖いです……」
「昔はあまり気にせず俺も使ってたんだがなぁ」
ウチの家にあるピアノはかなりの年代物だが、海外の有名なメーカーのグランドピアノで、これを売れば国公立の医学部の学費を軽く賄えるぐらいの値打ちになるらしい。
それを知ると、このピアノを使って練習できる環境はかなり贅沢なものだが……今、このピアノを使うのは雫ぐらいしかいない。
「あ、あのっ、せっかくバイオリンを持ってきたので、演奏しても良いですか?」
「あぁ、是非聞いてみたい。この部屋は少し防音も効くし気兼ねなく弾いてくれ」
小春はケースからバイオリンを取り出した。ピアノとバイオリンが揃っているのを見ると、物凄い格式が高く見える。
「そのバイオリンも結構高そうだな」
「あ、これですか? これはそんなに高くないですよ。確か三十万と少しぐらいだったはずです」
三十万円という金額がそんなに高くないという価格帯になるのだから、やはり楽器趣味や習い事というのは敷居が高いものだ。
だからこそ、俺は恵まれた環境にいたはずなのだが……。
「何かリクエストはありますか?」
「ヴィヴァルディの『春』とか弾けるか?」
「はい、お任せください」
軽くチューニングしてから、小春は『春』の演奏を始める。
ヴィヴァルディの『四季』より協奏曲第一番、『春』の第一楽章。ヴィヴァルディが生きた三百年前のイタリアの春と現在日本の春の季節感が同じとは思えないが、不思議と明るく軽やかな春の陽気を感じられる曲調だ。
時に、人は一生懸命になったり真剣になったりすると表情や雰囲気が変わるというが、俺の目の前でバイオリンを演奏している小春の姿もそうだった。
いつもは上品で可憐なお嬢様という雰囲気でちょっと変わったところもある小春だが、ここは俺の家の中なのにまるで劇場の舞台上でスポットライトを浴びながら演奏しているようで、その高貴なお嬢様然とした姿に見惚れてしまう。
……どっちにしろお嬢様だったわ。
ただ、春の陽気を感じる曲調にどこか寂しさや儚さを感じてしまうのは、偉大な作曲家ヴィヴァルディの賜物か、あるいは……何度も悲劇を味わってきた小春の心情を表したものなのか。
ふと、バイオリンを演奏中の小春と目が合った。すると小春は俺にニコッと微笑みかけて演奏を続ける。
たったそれだけの言葉のないやり取りでこんなにも幸せを感じてしまうのは、もう俺が小春の虜になってしまっているからだろう。
他の世界でもそうだったのだろうか。
俺にもその時の記憶が残っていれば、小春が感じた幸せも、そして悲しみもわかるはずなのに……。
その後も何曲か演奏してもらい、観客は俺一人という贅沢なコンサートをたっぷり堪能させて貰った後、俺がパチパチと拍手を送ると小春は照れくさそうに会釈していた。
「とても良かったよ。いや、もうそんな言葉で言い表せるレベルじゃない」
「いえいえ、そんなことないですよ」
謙遜しながらも小春は嬉しそうに笑いながらバイオリンをケースにしまう。気づけばもうお昼時で、そろそろ空腹も感じ始めた頃だ。
「もうお昼が近いので、ご飯の準備を始めましょうか」
「あぁ、卵焼きを作ってくれるんだったな。とても楽しみだ」
「琴乃さんに負けないよう頑張りますのでっ」
母親が残してくれた作り置きをそんなに消費するわけにもいかないので、休日のお昼は冷凍うどんで適当に済ませることも多かったのだが、このためにご飯も炊いて準備もバッチリだ。
小春もボリノに負けじと張り切っているようだったが、気持ちが先走ってしまったのか、何の段差もない床でいきなりつまずいてしまい──。
「きゃっ!?」
「こ、小春!」
つまずいてしまった小春の体を支えようと前に出ると、体勢を崩した小春が俺の体にボスッと抱きついてきた。
俺も思わず小春の体を掴んでしまったが、結果的に俺と小春はお互いの体がかなり密着した状況になり……。
「だ、大丈夫か?」
「は、はい。ありがとうございます……」
小春の柔らかく温かな体が密着し、思わず息が止まりそうになるぐらい鼓動が早くなる。
昨日、小春の家であんなことがあったばかりにこんな状態になってしまっては……しかし、俺も小春も、お互いの体を離そうとしなかった。
「昴さん……」
そして、小春は俺の体をギュッと抱きしめながら、切なげな声を出す。
「昨日、昴さんが帰ってからも、私は昴さんのことで頭が一杯で……」
俺は家に帰ってから邪念を振り払おうとしたが潜在意識には抗えなかったようで、あんな夢を見てしまった。
「やっぱり、一人ではさみしくて……」
昨日と同じように、俺はとてつもない胸の高鳴りに襲われていた。
「小春……」
時折、俺は後ろ向きなことを考えてしまう。
もしも、俺が今までと同じように月曜日に死んでしまうのなら。
残された時間が限りなく短いのなら。
一度や二度くらいの過ちなら、許されるのではないか────。
「──お兄ちゃん、いるの?」
「おわああああああああっ!?」
「きゃああああああああっ!?」
いきなりドアが開いて妹の雫の声が聞こえてきたので、俺と小春はびっくりしてお互いから離れてそのまま地面にずっこけていた。
「何してんの……」
朝からどこかに出かけていた雫が、なんとも絶妙なタイミングで帰宅したのであった。
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