第35話 昴の姉、津々見郁
津々見郁。
俺の七つ年上の姉だった。
姉貴は俺の両親による不徳の行為によって生まれた長女だったが、自分達の犯した過ちで生まれた子どもを不幸にしてはいけないと、駆け落ちのような形での学生結婚で実家を離れ、そして日銭を稼ぐため休む間もなく働き続ける中でも、両親は彼女に愛を注ぐことを忘れなかった。
俺の父親はまぁとんでもないバカだが(デキ婚に関しては母親も一枚噛んでいるらしいが)、母親は元々良いところのお嬢様だったらしいから日々の忙しい中でも姉貴を熱心に教育したらしい。特に姉貴は母親が実家から強奪してきたピアノが好きだったみたいで、ピアノ教室には通えなかったが母親からピアノも教えてもらっていたんだ。
姉貴はコツコツと努力を積み重ねるのが好きなタイプだったからか、やがて姉貴は小学生の時からピアノの全国コンクールで金賞を取るぐらいの腕前になった。
俺の小さい頃の記憶にある姉貴との思い出は、怖いか優しいかの両極端だ。姉貴は長女として、仕事で忙しい両親の代わりに年の離れた俺にスパルタ的な教育をしていたが、それも俺の将来のためを思ってのことだったんだろう。怒らせるとメチャクチャ怖かったが、とても優しい人でもあった。
愛の力、なんて聞こえは良いが実体が伴っているかもわからないあやふやな言葉があるが、その愛の力でしか生きていない両親に育てられたからか、姉貴もそれを大事にしていたんだ。
姉貴は怒るとメチャクチャ怖かったが、決して理不尽な怒り方はしないし、俺がちゃんと頑張ったらメチャクチャ褒めてくれた。だから俺は姉貴に褒めてもらいたく鳴って頑張ることが出来たんだ。姉貴とは年の差もあったから、一緒に小学校に登校できないことを知った時に俺は信じられないくらいギャン泣きしていたらしい。
まぁそのぐらいにはシスコンだったんだ、俺は。
明確な時期こそ覚えていないが、俺は小さい頃から姉貴がピアノを弾いているのを見ていたから、俺もピアノに興味を持ったんだ。姉貴は小学校から帰ってきた後、いつも俺にピアノを教えてくれた。中学高校と、忙しい学校生活の中でも姉貴は俺の練習に付き合ってくれたんだ。
俺は姉貴と一緒にいる時間が好きだったから、中々上手く出来なくて姉貴に怒られても楽しい時間だったし、頑張ったら褒めてもらえるからいくらでも練習することが出来た。ゲームなんて殆ど買い与えられなかったから、それぐらいしか趣味がなかったんだ。
そして、気づいたら俺も姉貴と同じように、全国コンクールで色んな賞を貰えるようになっていた。なんなら姉貴よりも成績が良かったぐらいだ。
でも、そんな俺にピアノの楽しさを教えてくれた姉貴は、その道には進まなかった。
姉貴は高校に入ってからも全国コンクールで優秀な成績を残していたが、音大には進まずに難関国立大学の医学部に進学したんだ。
小学生の俺でも医学部に行けるなんてすげぇってことぐらいはわかったが、俺にピアノの楽しさを教えてくれた姉貴がその道を選ばなかったことがショックだった。将来はピアニストになりたいと、俺は姉貴の夢を何度も聞かされていたからだ。
確かに姉は特待で高校に入れるぐらいには頭も良かったし、全国模試の成績もトップクラスだったから、そういう選択肢もあったのかもしれない。
姉貴がピアノをやめても俺にとって自慢の姉貴だということに変わりはなかったが、俺には姉貴がどうして突然医学の道を進んだのかわからなかったんだ。本人が医学の道に興味があるだなんて話は聞いたことがなかったし、あんなにピアノが上手かったのにどうして、ていうショックがやっぱり大きかった。
でも段々と大人に近づいていく内に、姉貴がどうしてそんな道を選んだのかわかってきたんだ。
姉貴は、両親や俺達に気を遣ったんだ。姉貴は高校に入ってからもピアノのコンクールで優秀な成績を残していたが、それでもやっぱり上には上がいる。音大に入れたとしても、自分が音楽の世界で生きていけるか不安だったんだろう。
もし姉貴が学業の成績がそんなに飛び抜けていなかったら、音楽の道に進んでいたかもしれない。でも幸か不幸か、姉貴はずば抜けて頭が良い人でもあった。
俺が物心ついた頃には独立して起業した父親の事業が上手く行き始めていたから俺にはあまりわからなかったが、姉貴は長女として、両親が苦労していた時代を知っている。世間一般では良しとされない経緯で結婚し、大変な環境の中でも子どものために死に物狂いで戦ってきた両親の姿を姉貴は知っていた。だからこそ、親孝行のために自分が自慢の娘になろうという気持ちが強かったんだろう。
医学の道はかなりの金が必要だが、国公立なら特待こそあまりないものの私立に比べて学費が格段に抑えられるし、一足先に社会人になる姉貴は俺や雫の学費を稼ごうという気持ちもあったに違いない。姉貴ならストレートで卒業していただろうし、親切な人間でもあったから、社会貢献への気持ちも強かったのかもしれない。
つまり姉貴は、家族のために自分を犠牲にしたんだ。自分の夢を犠牲にしてまで、姉貴は両親にとっては自慢の娘であり、俺や雫にとっての自慢の姉であろうとしてくれたんだ。
姉貴が大学に入った頃、俺は小学校六年生だった。
姉貴は大学に入ってからさらに勉強が忙しくなったからか俺と一緒にピアノの練習をする機会も減っていったが、俺や雫が出場するピアノコンクールには欠かさず来てくれていた。
俺が頑張って良い結果を残せば姉貴が喜んでくれるから、俺は大舞台でもさほど緊張せずに頑張ることが出来た。
だから、年末に控える大きなコンクールの本選でも、俺はトップを取れる自信があったんだ……。
あれは、コンクールの本選の数日前のことだった。
久々に、俺は姉貴と一緒に出かけていた。姉貴が一人で街を歩いているとナンパされてしまうから、俺がついていくのはその対策だったんだ。俺も姉貴と一緒に出かけられるのは嬉しかったから喜んでついていった。
確か、姉貴は両親へのプレゼントをどうしようか考えていたんだ。クリスマスが俺達の両親の結婚記念日だったからだ。姉貴が子ども達を代表して渡す予定だったんだが、確かおしゃれなペアのコップを買ったと思う。
そしてその帰り、姉貴は俺が今度のコンクールで良い結果を残せたらプレゼントをくれると約束したんだ。
俺はその時、姉貴と一緒にピアノを弾きたいと答えた。姉貴はそんなのいつでもしてあげるのに、みたいなことを言っていたが、俺にとっては特別だったんだ。
だから、俺はその特別な時間を楽しみにしていたんだが────。
あの時のことは、鮮明に覚えている。
思い出したくもないのに、簡単に思い出せてしまうんだ。
俺は姉貴と一緒に駅前の歩道を歩いていた。後はもう家に帰るだけ、家に帰ったら姉貴が夕飯を作ってくれると言うので楽しみにしていた、のに……。
突然、けたたましい車のクラクションの音が辺りに鳴り響いた。
いきなりだったからびっくりしたが、駅前は交通量が多いからクラクションが鳴ることは珍しくない。
問題はその後、けたたましい車のエンジン音が聞こえてきたことだった。
クラクションの後、最初に聞こえたのは鈍い金属の衝突音だった。その次に聞こえてきたのは、甲高い金属の衝突音だった。
そんな嫌な音が連続して聞こえてきて、見ると……駅前の通りで多重事故が起きていて、他の車に衝突された車が進路を変えて、かなりのスピードで俺達の方へ突っ込んできていたんだ。
俺は、咄嗟に姉貴の手を引っ張ろうとした。
でもその前に、姉貴は俺を突き飛ばしたんだ。
車のスピードと位置から考えて、二人とも助かるという道がないことを、姉貴はわかっていたのかもしれない。
そこからのことは、あまり覚えていない。
大して怪我をしたわけではないのにどうして自分が病院にいるのかわからなかったが、駆けつけてきた通行人や救急隊に対してまともに口を利くことが出来なかったから連れてこられたらしい。
姉貴はというと、多重事故に巻き込まれた車にはねられて近くの建物との間に挟まれて、ほぼ即死だったという。
そもそもの事故が起きた原因は、道路に飛び出した子どもを咄嗟に避けようとした車が対向車に衝突して、そこから多重事故になってしまったらしい。
でも、俺にとってはそんなことどうでも良かったんだ。あの頃の俺の目には、姉貴が目の前で車に轢かれていく姿しか映っていなかったからだ。
俺が姉貴の死を受け入れられたのは、年が明けたころだったか。俺は自分の部屋に残っていた姉との思い出の品や痕跡を全て消し去って、自分の世界の中で生き続ける姉貴の存在感を薄めようとしたんだ。
俺は、忘れていくことで悲しみを乗り越えようとしたんだ。
結局ピアノコンクールの本選にも出場しなかったし、俺はピアノを弾くのをやめた。今はピアノを見ても平気でいられるようにはなったが、椅子に座るのは嫌だ。姉貴のことを思い出してしまう。
そして、姉貴もピアノも失った俺には、何も残されていなかった。
残っていた道は、俺が姉貴の代わりとして生きていくことだった。
俺は、家族の夢を奪ったんだ。
両親が愛情込めて育てた自慢の娘を、そして雫の自慢の姉を奪った。
姉貴は最期まで家族のために自分を犠牲にした。
ならば、姉貴が自分の命まで犠牲にして残された俺にも、相応の覚悟が必要だと考えた。
両親は俺のことを気遣ってか、難しいことは考えなくて良いと言っていたが、ピアノを弾く気にもなれなかった俺は勉強に打ち込むしかなかった。他に興味があることも大してなかったからだ。
一方で雫はというと、姉貴の死をきっかけに俺と話すことは殆どなくなってしまった。
雫も俺と同じように姉貴のことを慕っていて、姉貴からピアノを教わっていた。そんな雫は、大好きな姉貴が犠牲になったのに俺だけが生き残ったのが許せなかったんだ。
俺がピアノを続けていたならまだしも、やめてしまったから……きっと無責任に思えただろう。姉貴が死んでから、俺と雫の関係は冷え切ってしまった。
でも、俺は雫と仲直り出来なくても良いと思っている。雫が俺を嫌うことで、姉貴の死に対する悲しみを和らげることが出来るのなら、俺はいくらでも雫に嫌われたい。
雫はきっと俺のことは簡単に見捨ててくれるかもしれないが、もしあの時と同じような状況に陥ったら、俺は姉貴と同じように自分を犠牲にすることを厭わないだろう。
雫が俺の大切な妹であることに変わりはないからだ。
俺が医者の道を志しているのは、家族に対する償いのためなんだ。最近医師不足が深刻化する中で困っている人達のために貢献できるなら嬉しいことだし、その夢を目指せる位置にあるのなら目指してみたいという気持ちもある。
もし、今も自分がピアノを引き続けていたらどうなっていただろうって考えることもあるが……。
姉貴が褒めてくれないなら、もう意味がないように思えてしまうんだ……。
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