第29話 余命僅かの恐怖
『──おはよっ、昴』
朝、一階に降りてダイニングに向かうと、朝食のトーストを頬張ろうとしていた長いストレートヘアーの女性が俺に柔らかな笑顔を見せてくれた。
『姉貴、今日は休みか?』
『ううん、これから出勤するけど』
『……いい加減、仕事着と普段着ぐらい分けたらどうなんだ』
『良いじゃん、これが一番楽なんだしー』
彼女はちゃんとしたドレスコードを身に纏えば、こんな庶民の家の出とは思えないぐらいの麗人へと変貌するぐらいのポテンシャルを持っているのに、白シャツという青いジーパンという格好を好む。
まぁ端的に言うと、彼女はファッションに無頓着なのだ。
『昴は今日も学校?』
『平日なんだから当たり前だろ』
『ちゃんと毎日行くなんて真面目だね昴は。コンクールも近いんだしサボっても良いんじゃない?』
『それはそれ、これはこれだろ。そんな不真面目なことやると罰が当たりそうだ』
俺は彼女の正面の椅子に座って朝食を食べ始める。そういえば今日も両親は仕事でいないのか。母親の作り置きがなくなったら大体俺が何か作っていたが、今日は彼女が用意してくれたらしい。
彼女が作ってくれたご飯を食べるのは一体いつぶりだろう……。
『そういえばさ、昴。来月のコンクール、私行けないかも」
『え? 日曜なのに?』
『普通の病院はお休みだけどね。その日、当番医になっちゃったから』
ごめんね、と彼女は申し訳なさそうに呟いて、トーストの最後の一口を頬張った。
一方で俺は、手に持ったトーストを中々口に運ぼうとしなかった。
どうして俺は、彼女がコンクールを見に来てくれないと聞いただけで、こんなにも胸が痛くなるのだろう?
『昴?』
『う、うん? 何?』
『いや、何だか悲しそうな顔してたからさ。昴はピアノ弾くの、嫌い?』
『嫌い……では、ない』
彼女にピアノが好きかどうかと聞かれ、まず『嫌い』という言葉が自分の口から出たことに自分でも驚いた。
ならどうして俺は今度のコンクールに出場しようとしている?
そもそもどうして、俺はピアノを嫌いになったんだ?
『じゃあ、姉貴はどうなんだよ』
『ん? まぁまぁかな』
『いや、ピアノじゃなくて医者の仕事』
コップに注がれたオレンジジュースを飲み干した後、彼女は口を開いた。
『好きとか嫌いとか、楽しいとか楽しくないとか、そういうのはないかな。好きの度合いで言えばピアノの方が好きだよ。昴と同じ』
そう言って彼女は笑って見せるが、俺はその答えに納得がいかなかった。
何故なら、彼女はピアノが好きだと言っているのにピアノをやめたからだ。
『じゃあ、どうして姉貴はピアノをやめたんだ?』
『んー、医者になるためにはやっぱり時間が惜しかったから』
『姉貴にとっては、それがピアノよりも大事なことだったのか?』
『夢は夢、理想は理想、現実は現実。私にとってはね、ピアニストより医者の方が向いてた。ただそれだけなんだよ』
どうして彼女が医者を志したのか、俺にはそれがまったく理解できなかった。
確かに彼女はとても聡明で成績もかなり良かった。頭が良いからという理由で誰だって医者になれるわけではないだろうし、たゆまぬ努力によって着実に自分の道を進んでいる彼女はとてつもなく出来た人間だろう。
しかし、頭が良いから医者を志すという方程式が成り立つこともないだろう、一般論として。
俺は、彼女がそれよりも優れた才能を思っていると信じて疑わなかったのだ。
『俺は、姉貴には夢を追ってほしかったよ』
どちらの言い分が正しいかと言えば、圧倒的に彼女の方だろう。幼い頃からどれだけ夢を追いかけようとしても、どれだけ素晴らしい理想を掲げていても、大抵の場合は、やがて自分の技量の限界を知り、現実を見なければならない時が来る。
彼女と違って、俺には現実が見えていなかったのだ。
『……昴は、私のことを応援してくれると思ってたのに』
『じゃあ、本当に医者になりたかったのかよ』
俺が語気を強めてそう問うとも、彼女は笑顔を崩さなかった。
『昴だけは、私のことをわかってくれると思ってたのになぁ』
彼女はそう言い残して席を立ち、そのまま家を出ようとしていた。
俺はまだ朝食に全然手を付けていなかったが、何故か急に胸騒ぎがして──彼女を追いかけなければと思って、席を立って彼女の元へと急ぐ。
が、足が思うように進まない。手を伸ばして彼女の手を掴もうとしても届かず、彼女の名前を呼ぼうとしても声が出ず──やがて、玄関の扉が開いて真っ白に光り輝く外の世界が映し出された。
そして、まるでその真っ白な光に包みこまれるように、彼女の姿が消えていったのだった。
届かなかった。
どうして俺は、彼女が消えてしまうと考えたのだろう?
その先に広がる世界は一体何なんだ?
『昴』
すると、外に出たはずの彼女の声が、俺の後ろから聞こえてきた。
そして、後ろを振り返ると──。
『どうして、昴はピアノをやめちゃったの?』
──彼女の笑顔がそこにあった。写真に収められた彼女の笑顔が。
どういうわけか、ここにあるはずのない仏壇が俺の背後にあった。そこに置かれている写真に、どうして彼女が映っているのだろう。
いや、彼女は誰だ?
俺がついさっきまで話していたあの女性は何者だ?
あぁ、そうか。彼女は────。
◇◇◇
──やっと眠れたと思ったら、なんとも嫌な夢を見せられたものだ。
ベッドから起き上がると、もう寝間着が寝汗でビショビショになってしまっていた。
時間を確認すると、夜中の二時。俺は神城を駅まで送った後に勉強でもしようと思ったのだがまったく手につかず、ベッドに寝転んでジッと天井を見つめていた。
寝ようとしても全く眠れず、余計にネガティブなことばかり頭の中を巡っていくのだ。もっとも、俺の枕に神城の残り香が残っているかもしれないだなんて低俗なことを考えていたからでもあるが……その微かな痕跡を頼りに妄想の世界に入り浸ることが出来たなら、どれだけ楽だっただろう。
一人になって、俺はようやく自分が置かれている状況を、その現実を理解してしまった。どうして人は、寝る前に限ってそういうことばかり考えてしまうのだろう。
今度の月曜に、俺は死ぬのか?
本当に死ぬのか?
本当にその未来を変えることが出来るのか?
今まで神城が十五回もタイムリープを繰り返しても変えられなかった運命が、今度こそ変わるのか?
俺は部屋を出て台所に水を飲みに向かう。水でも飲めば落ち着くかと思ったのだが、このなんともいえない吐き気が水すらも受け入れようとはしてくれない。
結局水もまともに飲めないまま、俺はそのまま自室へは戻らずに、リビングの隣にある和室へと入った。普段は両親が寝室として使っている部屋だが、今は二人とも家を空けているためちゃぶ台や座椅子が置かれているだけだ。
そしてそんな和室の一角に、立派な仏壇が置かれている。
部屋の電気も点けずに、仄かに月明かりに照らされる仏壇の前に俺は正座した。
仏壇には、春休みに温泉旅行に行った湊から貰ったお土産のお菓子が供えられている。花立ては基本的に母親が管理しているが、家族各々が好きな時に好きな花を差し込んでいくため、綺麗に整えるのが面倒だと母親がブチギレていたのを思い出す。
引き出しから線香とライターを取り出し、線香を供えて目を閉じ手を合わせた。
そして目を開いて顔を上げると……遺影に映る人物と目が合う。彼女が大学に入ってすぐに撮られた写真で、確か俺が予選を通過した時に────。
「お兄ちゃん」
「どおおおおおおおおおおっ!?」
静寂の空間に突然響いた声に俺は畳の上に転がってしまうほど驚いてしまい、状況が状況だっただけに霊的な現象でも起きたのかと思って心臓が止まりそうだった。
だが部屋の入口の方を見ると、そこには寝間着姿の雫が不機嫌そうな面持ちで佇んでいたのだった。
「な、なんだ雫か。ごめん、起こしてしまったか?」
雫の部屋は俺の部屋の向かいにあるから、ドアの開閉音や足音で目が覚めてしまったのかもしれない。ぐっすり寝ていた所を起こされて不機嫌そうな顔をしているし。
もっとも、雫がここに近づいていたことに気づかなかった俺は感覚が鈍すぎるが……。
「こんな時間に何してるの?」
「いや、ちょっと落ち着きたかっただけなんだ」
雫がこうして俺に声をかけてくるのは珍しいことだが、自分の兄が真夜中に仏壇の前で黙って正座していたら、そりゃ正気を疑いたくなるだろう。
俺は乱れてしまった座布団を仏壇の前に戻し、「じゃ、おやすみ」と雫に声をかけて自室へ戻ろうとしたのだが──突然、俺の寝間着の袖がグイッと後ろから引っ張られた。
「し、雫?」
振り返ると、相変わらず不機嫌そうな面持ちの雫が俺のことをジッと見つめていた。
「ねぇ、お兄ちゃん……」
「どうした?」
俺に何か聞きたくて引き止めたのかと思ったが、雫は唇をギュッと噛み締めて黙り込んでしまった。
一体どうしたのだろうと思っていると、やがて雫は俺の袖を離して口を開いた。
「ううん、なんでもない」
雫は素っ気ない口ぶりでそう言って、俺より先に階段を上って部屋へ戻ってしまった。
きっと、雫にも不安で眠れない夜があるだろう。
だが、俺は自分の妹の支えになってやることが出来ないのだ。
俺が、その原因だからだ……。
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