推しの神絵師の自宅にこっそり入ってきました()
「…違う。この人たちには、何も視えていない」
私、「†銀月ヴェルゴ†@紅オリ2期まだ?」はスマートフォンの冷たい画面を指先でなぞりながら、侮蔑の言葉を吐き捨てた。画面には、私が崇拝するイラストレーター「ねぽ王子」が投稿した、一枚のデジタルイラスト。繊細なタッチで描かれた、城塞都市の風景画だ。コメント欄は「神絵!」「背景うますぎ」といった、語彙力の欠如した猿たちの鳴き声で埋め尽くされている。
「…違う。これはSOSなのよ。これほどの才能を持つ彼が、ねぽ王子が、俗世のしがらみに囚われているという魂の悲鳴。そして…あの『ストーカー』に狙われているという絶望のサインが、この絵には込められているのに」
私にはわかる。だって私は、そこらの連中とは違うから。48歳?冗談。この前だって、コンビニで年齢確認された。私の精神は10代の瑞々しさを保っているし、見た目だってそうだ。くすんだ顔で毎日をやり過ごすだけの同年代とは、搭載されているOSのバージョンが違う。だから、私だけが王子の苦しみに気づける。ねぽ王子を救い出せる唯一の聖女なのだ。
この城塞の、一見ランダムに見える窓の明かりの配置。これは暗号だ。王子が囚われている場所を示す、緻密に計算された座標。私だけが、このメッセージを解読できる。
「まずは大まかなエリアからね。愚かな『ストーカー』は、まだ私が動いていることにすら気づいていない」
作戦の第一段階は、デジタル領域の掃討。ねぽ王子は用心深く、絶対に位置情報がわかるような写真は投稿しない。だが、数年前の投稿に、ほんの一瞬だけ映り込んだペットボトルのラベル。そこに記載されていた地域限定販売のミネラルウォーター。私はその商品名を特定し、販売エリアを割り出した。関東地方の、埼玉県。これが、王子が囚われている「戦場」の大まかな範囲だ。
「ふん、子供の遊びね。まるで『コスモリーパーズ・ゼロ』の薄っぺらい戦略パートみたい。あんな駄作が評価されるなんて世も末だわ。それに比べて『銀のテスタメンツ・セカンドシーズン』が描いた哲学の深淵さ…あれこそが本物の『戦い』よ」
途方もない達成感。私は着実に、彼へと続く道筋を照らし出している。
「次は、王子の息遣いが聞こえる距離まで近づく」
第二段階は、背景情報の徹底的なクロスレビュー。ねぽ王子のイラストの片隅に時折描かれる、特徴的な形の送電鉄塔。窓ガラスに反射して映り込む、特定のコンビニチェーンの看板の色。そして、王子が一度だけアップした作業中の短い動画。その動画に、微かに記録されていた電車の走行音。
私は、埼玉県の送電鉄塔の配置図を電力会社のウェブサイトから入手。コンビニの店舗分布と重ね合わせる。そして、電車の走行音から路線を割り出し、その沿線上にすべての情報をマッピングしていく。パズルのピースが一つ、また一つとはまっていく快感。
「やった…!このエリアよ!」
数日間の徹夜作業の末、ついに半径2キロメートル四方のエリアを特定した。王子の生活圏。私のヒロイズムが、熱い奔流となって全身を駆け巡る。待っていてください、ねぽ王子。私が必ず、あなたを救い出します。
「城は目前。あとは、王子の部屋を特定するだけ」
最終段階は、現地での物理的観測。私はそのエリアに何度も足を運び、安アパートの一室を借りた。そこを拠点に、双眼鏡で街を眺め、ねぽ王子のイラストに描かれていた風景と一致する建物を探し続けた。そして、見つけたのだ。特徴的な螺旋階段を持つ、古いアパートを。
「ビンゴ…!」
最後の一押しは、Wi-Fi電波の解析だった。私は指向性の高いアンテナを自作し、アパートの周囲を徘徊した。彼ほどのクリエイターなら、ネットワーク名にもこだわりがあるはず。そして、一つの電波を捉えた。SSIDは「nepooozi」。間違いない。電波強度から部屋の階層と位置を割り出し、ついに、王子の部屋「203号室」を特定した。
これで、城の設計図は完成した。あとは、城に巣食う悪魔…あの「ストーカー」を排除するだけ。
「お母さん、ちょっと包丁貸して」
「あら、よしえ、どうしたの急に。お料理?」
居間で時代遅れのドラマを見ている母に、私は平坦な声で言った。母は、私とは違う、老いることを受け入れた女だ。
「いや、違う。いや、最近、果物を使ったアートが流行ってるの。フルーツカービング。ん、その世界大会が近々あって、練習しないといけないから。あ、一番切れ味のいいやつ、お願い」
「フルーツ…?まあ、あなたがそういうのに興味を持つなんて珍しいわね。でも、気をつけなさいよ。最近なんだか、あなたの目、少し怖いもの」
母が心配そうに私の顔を覗き込む。その目に浮かぶ、凡庸な日常を生きる者特有の濁った光。私は心の中で見下した。
(この人にはわかるまい。旧世代のOSでは、私が今から成し遂げようとしている聖戦の崇高さは、永遠に理解不能なのだから)
私は母の手から、ずしりと重い文化包丁を受け取った。その冷たい感触が、私の使命を肯定してくれているようだった。
深夜。私は黒いパーカーのフードを目深にかぶり、例のアパートの前に立っていた。手にしたバッグの中には、母から「拝借」した聖剣が鈍い光を放っている。
203号室のドアの前に立つ。心臓は、英雄的な興奮で激しく波打っていた。ピッキングツールで、驚くほどあっさりと鍵が開く。私は、囚われの王子を救い出す救世主なのだ。
ドアを静かに開け、中に滑り込む。部屋は薄暗く、インクと紙の匂いがした。リビングの奥、パソコンのモニターの明かりだけが点いている。そこに人影が見えた。
「ストーカー」だ。私の、そして、ねぽ王子の敵。
私はバッグから包丁を抜き放ち、叫んだ。
「聖域を穢す悪魔め!私が、銀月ヴェルゴが、ねぽ様を解放しに来た!テスタメンツ!テスタメンツ!ファ!イ!ナ!ル!テスタメンツ!」
人影が驚いてこちらを振り返る。それは、部屋着姿の、小柄な女だった。恐怖に見開かれた目が、私を捉える。
「おんな?……キサマッ!王子から離れろッ!死ねえええええっ!……ホアッ!!!」
私は雄叫びを上げ、女に飛びかかった。抵抗しようとする細い腕を薙ぎ払い、叫びながら、その腹部に、聖剣を突き立てた。
「1番最初に見たのは私なのにィッ!6月15日にコンビニでスマホを見た時に最初に押したのはツクモリじゃないしユウコは興味あるふりしてるだけで興味あるのは入鹿原アキラだから!だから私が先なのに界隈のバカは私に対して態度が悪い!なんで!ねえ!あんたのせいでしょ!入鹿原もあんたと同じでビーガクのファイルをみ・せ・つ・け・るんでしょ!ユウコはなんで私の味方をしないの!もう!ねぽ王子!助けてよ!ねぽ王子ィィィッ!うわあああああ!!!王子ィィィィアッ!ホアッ!!!」
やがて、女は動かなくなった。
私は荒い息をつきながら、血まみれの包丁を握りしめ、勝利を確信した。
「…やりましたよ、ねぽ王子。これであなたは自由です」
私がそう呟いた時、ふと、壁に飾られた一枚の絵が目に入った。
サイン会で描かれたものだろうか。インクで描かれた、優しいタッチの自画像。
その下には、流麗な文字でサインが書かれていた。
『ねぽ』
そして、その自画像は、今、私の足元で血の海に沈んでいる、女の顔と瓜二つだった。