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廃屋の森

作者: くろ

廃屋の森

The day our WORLD ends.




「ずっと、こうしていたいね……」

 ふたつ。

 ふたつ、寄り添った体温が、ぬくもり、融けあい、ひとつになる。

 わたしたちの惑星の風が吹く。わたしたちは惑星とひとつになる。そして、わたしたちは、惑星としてほろんでいく。

「でもきみがいてくれる」

「二人なら何も怖くない」

 傍らの肩に頭をもたせかけ、瞼を閉じた。

 青い、青い、空の下、冷たい、うつくしい匂いのする惑星の風に晒されて、わたしたちの体温はひとつになる。この街も、建物も、樹も、風も、空も、惑星も、わたしになっていく。

 穏やかで優しくて、少し、さみしい。

「ずっと、こうしていたいね……」

 そうして、深い、眠りについた。




 セ界の崩解が始まってxxヶ月、人類の居場所は刻々と剥離する。

 我々はすでに惑星を追われた。崩解の速度は日毎に進んでいる。安寧に見えたここも、もう……実際は時間の問題だろう。

 終末が近づいている。人類の半数は惑星を棄てた。もう半数は惑星に固執した。我々は後者だった。人類が開拓し、我が物とした惑星は今、終には、我々の墓場となろうとしている。棄てられるはずなどなかった。安穏とした揺籠のようなものだった。

「何ものうなってしまったな」

 ハクさんがそう言って笑った。

 この場所、最上階の展望室からは、ばらけほどけ、紐解かれて崩解していくセ界がよく見える。黒いノイズになって、青と緑と赤を吐き散らしながら進んでくる崩解前線が地平線に視認できる。あとは、黒い海。茫漠とした黒い海が無尽蔵に広がっている。

 あの先にあった文明は、人類の軌跡は、すべて失くなった。お似合いだ。黒海に没す人類の記憶。溺れて消えてしまう。溺死なんて人類に相応しいのだ。

「はい、何もかもなくなりました。ここらのヒトももうみんないなくなりました。あとはあなたとわたしだけ」

 わたしは空を見上げる。空はなおうつくしい。青色と、薄く紅色のかかった雲。変だが、見慣れた。もう散々見た景色だった。

「終末世界だ」

 ハクさんが小さく呟く。その響きをきっと永遠に忘れないことだろう。

 終末世界だ。

 わたしは今、惑星の終末に生きている。

 空は青い。雲は紅。ここにわたしがいて、隣にハクさんがいる。根城にしている空港の空調はx週間前にブッ壊れて、使い物にならなくなった。なのに格納庫の飛行機はいまだ空を夢見ている。

「ハクさん。ハクさん。いっぱいお話ししましょうね。もう、何も、やることもないから」

 割れた、大きなガラス窓から、やわらかい陽ざしといい匂いの風が入ってくる。窓辺に腰掛けて、わたしはハクさんの肩に頭をもたせかけた。いつも、毎日、この瞬間だけが、わたしにとっての心地よさだった。何度こうしていようと、何度こうやって瞼を閉じようと、これは慣れることも飽きることもなかった。わたしはこの時間が好きだった。

「ハクさん、メリーゴーラウンドは、何周したんですか」

「十万回と五千五百三十回」

「ハクさん、雨って、どうやって降りますか」

「ペトリコールといっしょに」

「ハクさん、オルゴールのねじが切れるのは、どうしてですか」

「歌いつづけるのに疲れてしまったから。すこし眠って、そうしたらまた歌えるよ」

 触れあう右の腕があたたかい。風がわたしの髪を揺らし、ハクさんの髪を揺らす。

 いつかの時代、少し前にはたくさんの人が往き来していたはずのここも、今は静かに眠っている。わたしも。わたしたちも、いつか静かな眠りにつく。その時を、待っている。

 わたしはハクさんにお話をせがみ、ハクさんはとつとつと、いつも通り落ち着いた声で言葉少なに、色々なお話を教えてくれた。そうやって寄り添っているうちに太陽が遠く山の端に沈んで、わたしたちは展望室を後にした。

 夜が空港を覆う。辛うじて生き残っている数個の電灯が、点滅を繰り返す。明滅。

 二階のメインロビーに戻って、立ち並ぶ待合のソファに身を横たえる。クッションはあまり効いていない。大きなガラス板のはまった窓から、満点の星空が見えた。こんなに綺麗に星々が見えるなら、明るい電灯などやっぱり人類には必要なかったはずだ。わたしは目を閉じた。

「ハクさん、おやすみなさい」

「うん。おやすみ」

 返事を聞き届けてから、ふっつりと眠りに落ちた。


 わたしとハクさんの朝は早い。

 時計は既に壊れていて時間はわからない。でもまだ明け方、東の空がサーモンピンクに染まり始めた頃、まだ空港の隅の大半に夜が残って溜まっている頃にわたしたちは起き出して、のろのろと動き始める。

 窓から見える山脈も地平線もまだ黒い。わたしはしばらく窓に張りついて外を眺めている。

 それからハクさんが先に三階のフロアに移動して、そこのフードコートで朝食のしたくをする。わたしのために朝ごはんを作ってくれる。ハクさんの料理が好き。いっぱい食べたい。

 半分駆け足で三階に向かう。わたしとハクさん二人だけにはあまりに広大なフードコート。広いけれど味気のないネイビーのラグが敷き詰められたフードコート。吹き抜けを覗くとメインロビーが見える。薄暗がりに膝を抱えている。フードコートも全面ガラス張りで、割れた箇所から冷たい強い風が押し寄せてくる。わたしは顔を洗うように風に顔を押しつける。

 冷たい。

 ダンダンダン、と音が聞こえ出す。

 ハクさんが料理を始めていた。わたしは長い、広いカウンター席に腰掛けてハクさんをじっと眺める。

 わたしだけのカウンター。わたしだけの朝ごはん。なんて素敵だろう。

「ハクさん、今日のメニューはなんですか」

「肉」

 毎日、決まりきったお祈りの言葉のような問答を繰り返す。それも好き。ハクさんが腕を振りかぶって包丁を叩きつける。ダンダンダン。強い音が鳴り響く。これは朝の音。

 外の滑走路を眺める。何も走っていない、穏やかな夜更けの滑走路だ。もったいないからわたしが走ろうか。ハクさんを連れて。

 やがて肉の焼ける匂いが鼻をくすぐった。電気は使えるところも使えないところもあるが、ガスはまだ来ているそうだ。地下にガス溜まりでも残っているのだろう。代わりに水道からは濁った、どぶみたいなのしか出てこなくなったが。

 ハクさんはグリドルでこんがり焼いたぶつ切りの肉を、業務用のやたらとでかい鍋に放り込み、水を入れて、強火で煮る。あぶくが立つ。わたしはスプーンでカウンターテーブルを叩いて、ご機嫌なリズムを取りながら待つ。ハクさんの長い髪の毛が忙しそうに揺れるのを眺める。

「ハクさんの料理が好きです。上手なんですね。いつもいっぱいいっぱい食べたくなる」

 ハクさんがゆっくり振り向いて、ふふん、と小さく笑った。昨日見せてくれたような満面の笑みではないが、まあまあ嬉しいといった時の笑顔だ。ハクさんが本気で笑顔を見せるのは、たいてい滅びゆくセ界を眺めている時。ハクさんは心から嘲ってセ界を笑うのだ。

「いい腕でしょう」

 ハクさんが珍しく自分から喋った。「はい。はい」わたしは勢いよく頷いた。

「私は私が嫌いだ。でも料理する私の手は好きなんだ」

「なんで?」

「なんでってそりゃあ、そんなことを聞くなよ」

「そうですか」

「ああ」

 ハクさんは心なしか上機嫌に鍋を揺すった。液体が少し飛び散る。白の壁パネルを汚す。

 最後に白い皿にとろりと盛られたそれは、わたしの前に差し出された。ツンと鼻をつく匂い。いい匂い。スプーンを握り直してすくって口に入れる。

「おいしい」

「うん、そうか」

「おいしい。おいしいや、これ……」

 なぜか泣きそうになった。本当、泣けるほどおいしい。ハクさんの隣にいるわたしはいつも情緒が不安定だ。知っている。わかっている。

 ハクさんは鍋にスプーンを突っ込み、そのまま億劫そうに食べていた。わたしは皿の中身を貪り食べた。調理場に入ってハクさんといっしょに鍋の中身も平らげようとも思ったが、なんとなくやめた。口を袖で拭った時に、皿の横に何か置いてあるのに気づいた。

「チョコレート」

 小さな四角形の包み紙。銀色でパリパリと音がする。尋ねるようにわたしはハクさんを見る。ハクさんが薄く微笑む。

「あげる」

「チョコレート、どこで? ここにありましたか」

 ハクさんは首を横に振る。持っていたスプーンを放り投げ、まくっていた袖を下げながら、調理場から出てくる。軽く顎をしゃくった。わたしはハクさんの隣に並んで歩いた。

 歩きながらチョコレートを半分に割って、ひとつ口に入れた。融けた。甘かった。肉以外を食べるのはずいぶんと久しぶりに思えた。もう半分はポケットにかくした。

 朝が来る。

 モノトーンの通路に、天井のガラスから朝陽が差し込んできた。眩しくて目を細めた。ふたり分の足音は並んで響いた。空港とわたしたちが迎えるxxx回目の朝だった。

「前線は何メートル進んだかな、ハクさん。今日かな、明日かな、明後日かな。わたしたちが飲み込まれるのは……」

「案外明日かもね」

 わたしよりいくらか大きなストライドで進みながら、ハクさんは無表情に言った。

「なあ。きみはなぜここに留まるの」

 わたしは瞬きした。

「わたしはここにいたいから、います。ここにはハクさんがいるから」

「多くの人類は、逃げたよ。それか崩解へ飲み込まれた」

「でもわたしは逃げない」

「私の存在が理由か?」

「はい。他のヒトとか正直どうでもいい。わたし、幸せです。今、いちばん」

 そう言えば、ハクさんがまた、笑った。

 眉根を寄せた、ひそやかな笑いだった。そうして大きなショッピングエリアに出た。

 たくさんの物が落ちていた。棚は倒れ、倒壊、崩壊、乱雑、雑多、入り混じって、洪水だった。だいたいの物は使えなくなっていた。だからもうゴミだ。もはやゴミみたいなゴミだった。

 ハクさんがしゃがんで何かを拾い上げた。

「暇潰しに見ていたら、食べられそうなものが少しあった」

 わたしの手に何かを落とす。チョコレートだった。さっきと同じものだ。包み紙を剥がして口に入れる。

「ぜんぶゴミかと思っていました」

「だろうね」

「ハクさん、すごい。なんでも気づくんですね」

「本もあった」

 ハクさんが棚の奥からひょいと本を取り出した。文字が嫌いなわたしは顔をしかめた。ハクさんは本を顔の前で振ってみせた。

「絵本。絵本は、きみでも読めると思う」

「ハクさん、読み聞かせしてください。そしたら、読めます」

「いいよ」

「ハクさん、わたし、でも滑走路を走りたい。誰も何も走らないから、もったいないです」

「外は危ないよ」

「危なくなんかないです。ハクさんがいるから」

 ハクさんは少し息をついた。まず、二人で窓際のソファに座って絵本を読んだ。

 ハクさんの声は低く、閑やかで、湿ったタオルにも似た悲しみを内包していた。何が彼女の胸中に詰まっているのかをわたしは知らなかった。絵本の言葉を語るハクさんは不思議と打ちひしがれて見えた。

 ハクさんの口元に顔を寄せて、ハクさんの声の響きを延々と聞いた。声はとてもよかった。それで結局、絵本の内容は頭に入ってこなかった。どうでもよかった。

「おしまい」

 ハクさんが絵本を床に雑に置いた。わたしは形ばかりの拍手をした。ハクさんがわたしの顔をじっと見つめた。

「きみの目は濁っているね」

 何を言われているかよくわからなかった。少し考えて、訊き返した。

「濁ってますか。そう見えるんですか」

「私もきみみたいな時期があった」ハクさんは答えずに続けた。

「あの頃はまるで、真鍮色の海に溺れているようだった。美しかった。先が見えなくてもよかった」

 真鍮色の海を、わたしは想像した。とろけるような淡い黄金の。自在な動きを絡めとる、融解した金属の波。溺れる。明るい反射光の中、深浅も認識できず、溺れているかもわからず、沈む。

 ハクさんとわたしは同じか。それはわたしにはわからない。

「わからない」

 わたしは偽らずに口にした。

「そうか」

 ハクさんもそれ以上何も言わなかった。次に一階まで降りて、死んだ自動ドアを蹴ってこじ開け、外に出た。ハクさんは遠慮していたが、わたしはいっしょに来てほしいと言ってきかなかった。数分で折れてついてきてくれた。

 外。外。

 胸いっぱいに空気を吸い込む。風の匂い。朝の風の匂いは、空腹のねずみに与えられたロックフォールみたいなものだ。そんなに濃いものではないが。

 勝手にわたしの足は軽くなり、勝手に走り出す。気づけば遠く後ろのハクさんに向かって手を振っている自分がいる。

「私は走れんよ」

 ハクさんが抑えた声で叫んだ。

「いいです、いいです。わたしひとりで走りますから。ハクさんは見てて。わたしが走るところを」

 ぐるりと空港を大回りして滑走路まで向かった。フェンスを、金網を、よじ登って飛び降りた。滑走路の終わりは地平線だ。滑走路は見たことないくらい広かった。

 白線を追いかけて走った。

 飛行機を誘導するためのそれを、わたしは執拗に追って駆けた。心臓が収縮する。拡張する。ドクドクと、血が全身にほとばしる。

 叫ぶ。

 獣が吼えるように、わたしは叫ぶ。セ界の終末よ、来るならさっさと来い。人類を跡形もなく消し去ってしまえ。願わくば全人類よ、死にたえろ。もう、惑星が苦しまずに済むように。

 このセ界はくそったれだ。

 くだらない世俗の世はもう消えた。次は界の番だ、豪快に痛快に崩解に飲まれて失せてしまえ。口を開けて笑った。

「きみは楽しそうに走るんだな」

 ちょうど日陰になっている格納庫まで戻ると、膝を抱えて座っていたハクさんがそう言った。

「きみも、このセ界が憎いか」

「いや、憎くはないです。ただ失せてほしいんです」

 きみ「も」と言った。

 わたしはハクさんの顔をまじまじと眺めた。今にも嘲笑を浮かべそうな、歪んだ口の端が見えた。

「セ界からいま世が消えて、次に界が消えて、そしたらここは『  』になる。真っ白の空白だ。そしたら  には何が残るかな」

 髪と、腕と、膝で慎重に隠されたその奥で、ハクさんが心からの笑顔を覗かせた。

 とても綺麗な笑い顔だった。

 その笑顔は切なかった。

 わたしはハクさんの腕を引いて、また空港の中に戻った。少し走ったせいか、帰ってきた頃にはハクさんの呼吸はだいぶ乱れていた。

 午後はだいたい、各々自由に過ごすというのがなんとなくのルーティンになっている。

 ハクさんはいつも窓辺に座りこんで本やら新聞やらを読んでいた。話しかけるとぞんざいに扱われるのはわかっているので、声はかけないことにしている。

 一方のわたしは空港をふらふら歩き回っていた。エアターミナル。空を経た終末点。セ界の最後には相応しい、上出来の舞台だ。広くて果てしない、夢みたいな場所。空に近く、空を眺められる場所。そうだ、思い出した。わたしは昔から空が好きだった。

 とはいえこの日は歩き回る気にならず、ただ座って外を眺めた。さっき走り回って疲労したからだと思う。四階にあるラウンジで、黄金色の光でぬくまりながら、外を、滑走路を、その先の街を、そのずっとずっと先の崩解前線を、ただじいっと見た。異音を立てるコーヒーメーカーをなんとか動かしてどぶ水で淹れて、熱いそれをすすった。

「うめえ」

 と、それっぽく呟いてみた。

 一瞬で怠くなった。

「苦くてまずい」

 と、小声で叫んだ。大人がなぜこんなものをもてはやしたのかとても知れない。苦くてまずい。事実はわたしにとってそれだけだった。

 ラウンジのソファは空港のどこのものよりも柔らかい。他人行儀でおとなしい。わたしはそれらの上に足をだらしなく投げ出し、工場の機械のように繰り返し繰り返し、何杯も何杯も、いまいち物足りない小さなカップでコーヒーをあおり続けた。真正面に広がる空には雲が滲んで、わたしを憐れむように見下していた。六杯目か十一杯目かに手が伸びてきて、カップを取り上げた。

「飲み過ぎ」

 ハクさんだった。

 普通の顔をして、普通に立っていた。わたしは動揺した。

「はい」

 何が、はい、なのか自分でも不明瞭だった。ハクさんはカップをテーブルに置き、くるりと踵を返した。そういえば陽の傾き具合を見るにもう、いつもの時間だ。ハクさんはわざわざ呼びにきたのだ。

「ここにいるって、よくわかりましたね。ハクさん」

 わたしは気まずさを誤魔化すために喋った。ハクさんは少しの間黙っていた。口を開いた。

「ラウンジ、居心地がいいから」

「はい」

「寝こけているかと思って」

「今はもう、とても、寝られそうにないですけど」わたしは肩をすくめたが、ハクさんはにこりともしなかった。

 空港の最上階にある展望室は狭い部屋で、やはりガラス張りの大きな窓が全方位に巡らされている。わたしとハクさんは必ず毎日ここに来て、夕暮れにふたり、寄り添う。

 割れた、大きなガラス窓から、やわらかい陽ざしといい匂いの風が入ってくる。窓辺に腰掛けて、わたしはハクさんの肩に頭をもたせかけた。

 セ界の動きが緩慢になる。

 あたたかい。

 わたしはこの居場所を求めていた。ずっと。ずっと。たとえ惑星から人類の居場所が剥離しようと、人類の軌跡が黒海に溺死しようと、わたしには、わたしにはここが。彼女の隣という居場所さえあればいい。それだけでいい。

「なぁんものうなってしまったな」

 ハクさんが気の抜けたように笑った。

 わたしはハクさんの視線の先を見つめた。黒いノイズの前線の、さらに向こう側。それは何もない、すべてが失われた  。まっさらで真っ白というより、まっくらで真っ黒に塗りつぶされた空間。

「ハクさん、鳥は死んだら、何になりますか」

「自身の羽の一枚になって、また空を飛ぶ」

「ハクさん、時計の針が止まったら、どうやって時間は進みますか」

「時計なしには時間も存在しないよ」

「ハクさん、セ界が崩解してすべてが  になったら、ハクさんは嬉しいですか」

「……」

 ハクさんは遥か彼方の黒海に、思いきり嘲笑を投げかけた。

「いいね。それはいいよ」

「あなたは、このセ界が憎いか」

 わたしは思いきって訊いた。

 ハクさんは口をつぐみ、そのまま黙りこんで座っていた。ふたりで寄り添って座っていた。

 陽が落ちて下階に降りる。

 再びさっきのラウンジに戻って、シャワーブースを使った。一口にシャワーブースと言っても、ここは空港内では一等のラウンジだったようなので、まるで上級のホテルのバスルームと見紛うような空間が用意されていた。無論出てくる水は汚い。そこまでとやかく言うつもりもない。

 水浴びはいつもハクさんが先だ。わたしはその間、備え付けのトイレの蓋の上で膝を抱えて座って待っているだけだ。

「ねえ、ハクさん」

「なに?」

 水の滴る音が部屋中に反響する。

「わたしのこと、怒ってる?」

 シャワーの雫がバスタブに打ちつけられる、サアサアという音が続く。わたしはやきもきしながら返事を待つ。シャワーが止まった。ブースのガラス板の向こうから、ハクさんがこっちを真っ直ぐに見据えていた。

「怒ってないよ」

「本当に?」

 わたしはおずおずと尋ねた。

「うん」

「本当の本当に? 絶対に?」

「怒ってない」

「ハクさんを外で連れ回したり、コーヒーいっぱい飲んだり、余計なことを訊いたりした悪い子だって、思っていない?」

「ないない。ないから」

 ハクさんがくしゃりと苦笑した。わたしは安堵した。ハクさんは弱めのシャワーを浴びながら、小さく首を振った。

「そんなことできみに怒らんよ。ずっと考えごとをしていただけ。第一、今までのきみは、私が少し黙っていたところでこんなふうに萎縮するような人間じゃなかった」

「今日は、怒られても仕方ないような心当たりが多かったんです。本当にハクさんを怒らせたかと思った」

 わたしはぶつぶつと呟いた。「コーヒーは実際飲み過ぎた。なんか頭がくらくらする」

「きみは危なっかしい」

 ハクさんにも釘を刺される。わたしはトイレの上で膝に顔を埋めた。居心地のいい、仄かにみじめな気分だった。

 部屋は水の匂いが漂い、明滅するライトに照らされてどこか異界めいていた。わたしの声も、ハクさんの声も、輪郭を失ってぼわぼわと響いた。わたしたちは雑談をした。ハクさんはたまに笑った。

「崩解なんて嘘っぱちでさ」

 わたしが言う。

「ぜんぶ、ぜんぶ嘘っぱちで、セ界はただの世界で、わたしたちはからかわれているだけで、どこかずっと遠くからわたしたちを観察しているヒトがいる、とか、あり得ますか」

「どうだろうね」

 ハクさんがブースのガラス扉を開けて、バスタブの縁をまたぎながら答えた。

「ないこともない。悲嘆に暮れる私たちを見て嘲笑っているかもね」

「それって……嫌じゃないですか」

「気持ち悪いね」

 ハクさんは言い退けた。わたしも少し口を閉じた。

 それから交代してわたしがシャワーブースに入った。微かな温度と水蒸気がまだ残っていた。シャワーヘッドにハクさんの髪が数本絡みついていた。

 濁った水が冷たいが、無視して頭から浴びる。背筋がぞくぞくした。どぶ水でゴミを洗うようなものだ。わたしは堪えきれずに笑った。粉末の石鹸で全身を適当に洗った。流した。

 びちょびちょのままシャワーブースを出てくると、ハクさんが泡の残ったわたしの背中を見て、シャワーヘッドを引っ張ってきて流してくれた。使い回しのタオルで水気を拭き取り、一回も替えていない衣服を着て、わたしたちはラウンジを出た。

 天井のごとく空港を覆う夜空の下、濡れそぼった髪が冷たく、手足が震える。このまま移動などせずにラウンジのソファで寝てしまえばいいのに、わたしもハクさんも、なぜか譲らず二階のメインロビーに戻ってしまう。

 戻るべき場所がある……そう考えるだけで救われるのは人類の性だろうか。わたしはそんな場所を持たない旅人のようでありたかった。でも、もう、絶対に手放せない居場所を見つけてしまった。後戻りはできない。

「なあ」

 ハクさんの声がした。

「見て。月が」

 ロビーのソファに腰掛けて、わたしはハクさんの指を目で追った。窓の外。夜空にぽつりと浮かんだ月は、わたしが今まで見たどの月よりも大きく、円満とした様子だった。単に満月と言葉で切り捨てるのは躊躇われるような、妙な存在感を持った月だった。

「不思議、ですね。目で追いたくなる」

 わたしたちしかいない空港に、静謐な夜がしんしんと降り積もる。窓から遠いロビーの奥には夜が山のように積み上がり、わだかまっている。

「おやすみ」

 ハクさんがやわらかく微笑んで、わたしの背を押した。わたしは頷いてソファに寝転んだ。

 あの月はいつかまた、こんなに輝くのだろうか。

 そもそもあの月が再び満ちる時に、この惑星はまだ生存しているだろうか。それとも崩解に飲み込まれて  となっているか。

「次」はないかもしれない……。わたしも、ハクさんも。

 ずっとつらつらとそんなことを考えていたら、目が冴えてきてしまった。全然眠気が来ない。こんなの初めてだった。

 それはそうだ。わたしはコーヒーを飲み過ぎた。欠伸をしながらそう思った。

 ソファから身を起こして、なんとなくそこらを歩き回って、ほとんど空が白み始める頃になって、ハクさんの寝ているソファまで歩いていった。ハクさんは無音で目を閉じていた。油断なさそうに片膝を立てて、腕を組み、背もたれに寄りかかっていた。寝ていながらなお、こんなに隙がない姿勢であることを知って微かに驚いた。静かに垂れ下がった髪の束が寝息でゆらゆら揺れていた。

 わたしはその傍らにうずくまり、目を閉じた。あたたかい温度を感じてすぐに、眠気がわたしを襲った。



「おはよう」

 ぼんやりとした頭で体を起こした。とてもあたたかいものが側にあるのを感じる。このままとろとろと微睡んでいたかった。

「朝だよ」

 その声を聞いた瞬間、わたしは急いで顔を上げた。すぐそこにハクさんが、膝に頬杖をついて座っていた。

 わたしは明け方、彼女の側で眠りについたのだった。

「おはようございます。ハクさん」

「ああ。おはよう」

 ハクさんは何も気にしていないようだった。わたしも靴を履いて、歩いていくハクさんの背中を追いかける。暗い空港を征く。

 いつもより空が少し明るい。わたしが起きるまで、ハクさんは待っていてくれたようだ。

 ハクさんがくるりと振り向いた。

「私がいたら、眠れただろう」

「はい」

 驚いて少し大きな声が出た。

「すごく、すぐに。ハクさんは、あったかくて」

「私、体温が高いんだ」

 ハクさんは無表情に言った。

「体温が高いと体が活発に動く。眠るのも容易だ」

「それってすごく便利ですね。わたしもそうだったらよかった」

「一朝一夕で会得できるものじゃないよ」

 努力すれば会得できるものなのか、と訊こうと思ってやめた。わたしたちはまた三階のフードコートへ向かう。

 わたしが窓から吹く風に顔をあてている間に、ハクさんはてきぱきと朝ごはんのしたくをする。まな板、包丁、鍋、肉。

 考えてみると肉は尽きたことがない。そろそろなくなりそうだと思っても、意外とまだある。冷蔵庫に入りきらない分が、足元に積み上がっているくらいなのだ。わたしはふと疑問に思った。

「ハクさん、冷蔵庫、電気来てますか」

「どうかな」

 ハクさんは冷蔵庫の取手を掴んで開き、手を突っ込んだ。

「ぬるいね」

 機能しているのかしていないのかは甚だ不明だった。ハクさんはその中から肉塊を引っ張り出してまな板の上に載せた。はみ出してしまうほど大きな肉だった。それは細長く、途中に関節があるのか少し折れ曲がっている。

 ダンダンダン、と包丁が叩きつけられる音が響き出した。朝の音だ。

「ハクさん、今日のメニューはなんですか」

「肉」

 わたしはカウンター席に腰掛け、目を閉じて朝の音を楽しんだ。ハクさんが肉をグリドルに載せて焼く。調味料を大量に振りかける。焼けた肉を鍋に入れて水と煮込む。また調味料を流しこむ。ツンとした匂いがする。

 ハクさんが暇を持て余したように調理場を歩き回る。わたしの皿に調味料で絵を描く。蝶。舞い飛ぶ蝶。ハクさんは器用だ。

「かわいい」

 わたしは素直に喜んだ。ハクさんが笑う。

 少ししてできあがった料理が皿に盛られた。とろみのあるそれに触れた調味料の蝶は溶け出し、赤黒い染みを残して料理の中へ消えていった。わたしは口いっぱいに肉を頬張った。ハクさんの料理は、いつでもいっぱい食べたい。

 黙々と食べた。おいしいと言う余裕もなく食べた。複雑だが濃くはない風味のずっと奥に、確かな酸味が居座っている。わたしは飲み込んだ。

 その瞬間、胃が蠕動するのをはっきり感じた。胃が蠢いた。不可逆的な何かが喉までせり上がってきてそのまま嘔吐した。吐瀉物が料理と混ざり合ったが、どちらもほとんど構成は変わらなかった。わたしはもう一度スプーンですくって口に運んだ。

「今、吐いた?」

 ハクさんが訊いた。わたしは頷く。

「一昨日ぶりに。吐くほどおいしいです」

 次々と頬張る。柔らかくなった肉が口の中でほどける。むしろ吐き戻した方が食べやすかった。

「そうかあ。吐くほどおいしいか」

 ハクさんはにこりと笑った。わたしも笑った。ハクさんは相変わらず鍋から直食いしていた。頼みこんで数口分分けてもらった。

 食事を終えてからは、ふたりでショッピングエリアをあてどなく歩いた。ハクさんは本や雑誌を拾い集めた。わたしは食べ物をポケットに押し込んだ。この日は服屋で色々な服を見繕いあうことにした。

 一度だけ、ナイトパーティーに来ていくような綺麗なドレスを、ハクさんに着てもらった。

「これきりだよ」

 と、ハクさんが念押しした。そう言われるとまるで、背徳的なことが始まるみたいで、自然と胸がわくわくした。ハクさんはドレスを持って試着室に消え、しばらくして姿を現した。

 息を呑む、という表現を、わたしはこの時初めて思い知った。

 うつくしかった。

 わたしはこの時の彼女の容貌を形容できるような言葉を知らなかった。ただ胸が詰まった。

 彼女の視線が、優美にわたしを舐めた。わたしは動けなかった。目で殺された。息ができなくなるのではないかと本気で心配した。

 わたしは、思わず言ってしまった。

「も、もういいです」

 彼女は少し眉を曇らせたように見えた。

 身を翻して試着室へ歩いていき、着替えて戻ってきた。それからハクさんはわたしの側にしゃがみこんだ。

「不快だったか」

「えっ。違います」

 わたしは慌てて否定した。首が取れそうになるほど首を振った。そうではなかったから。わたしは。

「ハクさんに殺されそうだったんです」

「どういうこと」

「わたしに言わせないでください。でも、不快じゃないです。不快なんかじゃない」

「そっか」

 ハクさんは口元を緩めた。

「それならよかった」

 そこからしばらく腰が抜けてしまったわたしに、ハクさんが様々な服をあてがった。甘いフリルのついたスカート。ニット生地のセーター。革製のジャケット。どれもかわいいから、どれも好きだ、と答えた。そんなことよりハクさんの姿が脳裏にこびりついて離れなかった。

 様子のおかしいわたしを見かねてか、ハクさんがお揃いのワンピースを選んでくれた。ハクさんが黒。わたしが白。いつもの色。着替えて、はしゃいで、たくさん笑った。

 こんなセ界なら、失くならないでいいよ。

 心の片隅でそんなことを思ってしまった。セ界が失くなってもどうか、ハクさんとわたしだけは生きて、いつまでもいっしょに……。

 なんて、途方もなく馬鹿なことも考えてしまうくらいに。わたしは。わたしは。

 昼頃までは、またハクさんが絵本の読み聞かせをしてくれた。聞く気はなかったがハクさんの声を聞きたくて、聴きたくて、内容にすごく興味のあるふりをした。ハクさんは嬉しそうだった。

 ハクさんの手がページをめくる。わたしは目で追いかける。

 ハクさんの口が動く。声が滑り出す。少し低くて心を撫でさするような、けれど紺碧の深海に沈んだ声音。わたしはハクさんの傍らに身を寄せる。

 ハクさん、あなたはどうしてこんなにも。

 わたしを変にさせてしまう。


「わたし、幸せです。今、いちばん。」


 昨日わたしはそんなことを言ってのけた。その時、ハクさんが何を思っていたのか、少し気になった。

「……おしまい」

 ハクさんが絵本を閉じた。少し目を細めた。

「きみ。内容、聞いてないでしょう」

 わたしは少し目を見開いた。ハクさんには隠し事ができない。きちんと見抜かれていた。

「本は面白くない」

 わたしは言った。ハクさんが絵本の表紙を撫でた。

「なぜ、そう思う」

「だって、本の中身なんて嘘っぱちだ。今、この惑星に生きているわたしには何も関係ない。そうじゃないですか、ハクさん」

「嘘が嫌いなの」

 わたしは曖昧に首を縦に振った。嘘が嫌いか。別に、どうでもいい。好きでも嫌いでもどっちでもいい、そんなこと、誰も気にしやしない。

「ハクさんは嫌いですか。嘘」

 わたしは尋ねた。ハクさんはゆっくりと瞬きをした。

「嫌いだ」

 聞いたことがないくらい、はっきりした声だった。わたしは不思議に思いながらさらに尋ねた。

「本は、でも、好きなんでしょう」

「本は許すよ。悪意のない嘘だから。ああでも、いや、嫌いじゃないだけで、好きではない」

「なのにハクさん、いつも本を読んでる」

 ハクさんは大きなガラス窓の向こうの青空を、眩しそうに見た。わたしも見た。太陽の白い光が目を灼いた。このまま直視し続ければ失明するだろう。目を逸らした。

 風が吹き抜ける音だけが、空港を走っていた。冷涼な空気が、だだっ広いモノトーンに満ちていた。

 午後はまたいつも通りに、自由行動をした。

 わたしはキーリングを振り回して様々な部屋の探検に明け暮れた。キーリングはこれまでの地道な探索の成果だ。空港中にあった鍵を見つけ出し、束ねたわたしの宝物。それを使って扉を開けたり、誰もいない税関や、空っぽの搭乗口付近をぶらぶらした。何の音もなかった。わたしの呼吸の掠れた音と、風の音だけがあった。それから砂埃を踏む音。

 ガラス窓の前に立って辺りを眺めると、青空の中に飛び出してしまったような心地になる。青い世界……。わたしは空の一部になる。わたしはそして惑星となり、いつか  そのものとなるのだ……。

 急に思い出した。わたしたちの身体は惑星からできていることを。かつての惑星を構成していた元素は今、わたしの血肉となりわたしを形造る。

 それなら、わたしという存在はわたしであると言えるのか。結局のところ、セ界が終わっても、惑星が崩解しても、その先にある宇宙は、終わりやしないのだろう。だから、わたしは不滅であり、わたしは宇宙であり、わたしは惑星であり、わたしがセ界である。

 わたしはわたしがくだらないと一蹴したセ界そのものなのだろう。

 ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。わたしは笑った。わたしは窓の前にへたりこんで泣いた。わたしは……。

 思考していると、太陽の動きは早くなる。空に滲む雲も太陽も、地べたでのたうち回るわたしを見下して、さっさといなくなってしまう。その面は覚えた。いつかお前たちもこの地べたに引きずりおろしてやる。わたしは立ち上がって三階のフードコートまで歩いて戻った。頰で乾いた涙の跡が冷たく感じた。

 ハクさんはフードコートに敷き詰められた、白いテーブルのひとつの上に仰向けに寝転んで本を読んでいた。分厚い文庫本だった。

 ハクさんはわたしに一瞥もくれなかった。微動だにせず文庫本を読み耽っていた。あのお行儀よく並んだ、小さな活字の列のどこに惹かれるのだろう、と考える。嘘っぱちを寄せ集めて丁寧に整列させただけの、紙と文字の集合体。反吐が出る。

 読書の邪魔をしないよう細心の注意を払ってハクさんの元に近寄り、そっとしゃがんで、下から文庫本の中身を眺めてみた。想像した通りの羅列にいらいらした。静かにその場を離れようとした時にふと気づいた。ハクさんは泣いていた。

 絶えずその瞳がぼやけ、滲んでいた。やや赤みのある下瞼の縁から透明な雫が滑り落ちていた。そんな風に泣いてほしくないのに。ただの本ごときで。

 ハクさんは最後のページを見終えて、たっぷり間を置いて、やがておもむろに本を閉じた。放り投げるように横に置いた。わたしの方を見ずに呟いた。

「嘘だとしても、私は泣くよ」

 わたしは返事の代わりに瞬きをした。

 ハクさんは窓をなぞるように空で指を動かし、その手を自身の目元に持っていって、ゆっくりとあてがった。

「たとえまがいもののつくり話でもね」

 午後の光はわたしの足元まで差しこんできていた。わたしはラグの上で軽く足踏みした。

「ハクさん、わたしは真実に泣きたい」

 なんとなく、口に出した。

「わたしは、真実を嘆いて、わたしを憐れんでいたい。あり得ない嘘っぱちなどには心を動かされたくない」

「いいと思うよ」

 ハクさんの応えは淡白だった。あっさりとしていた。彼女の作る料理によく似ていた。

 そして、ふたり、連れ立って空港の最上階を目指した。もはや使い物にならないゴミと化したエレベーターを横目に、鉄扉に鍵を差して開いて、階段だけが上まで伸びる空間を、黙って歩いた。展望室に入ると、降り注ぐ陽ざしのせいかぬるかった。

 崩解前線は確かに進んでいる。

 昨日はまだ街より奥にあったのに、今日はもう、街を飲み込み始めていた。日毎に人類の居場所は剥離し、黒海が増殖する。あの街がすべて飲み込まれたら、次はわたしたちの番だ。最後にセ界に残るのは、この空港だ。

「残された時間がこうして目に見えると、感慨深いね」

 ハクさんが窓に手をあてた。わたしもそうですねと答えた。

「最後の日」

 わたしは空気に溶かすようにして喋り出した。

「ハクさん。惑星の、セ界の、わたしたちの最期の日。その日が来たら、何をして過ごしますか」

 使い古されたその質問が、今、ほかでもない現実となってわたしたちに迫り来る。それはこの上なく美しく感じた。

 ハクさんもそう思っただろうか。口の端を緩く持ち上げて、考えて、わたしの隣に腰を下ろした。

「きっといつもと変わらない。きみと、普段通りの一日を過ごすよ」

 それこそがわたしの望んだ答えだった。

 理想的な完璧な答えだった。やわらかな陽ざしが床に溜まって陽だまりを作っていた。わたしとハクさんはその中に浸って、寄り添って座っていた。陽だまりはどんどんと大きくなり、とうとう展望室は真鍮色の光で満たされた。

 ここはあたかも海底のようだった。

 太陽の温度が融解した、光の海底にわたしたちは沈んだ。海底にふたり。ぬるくて、あたたかい。

 そうしてわたしは、傍らのハクさんにキスをした。

 それは、わたしが遠い昔に見た、大人のようなキスではなかった。ロマンチックでも酩酊するものでもなかった。それにわたしは途中で目を開けた。ハクさんも目を開けていた。視線が交わった。間近で視たその瞳のなかに、わたしは溺れてゆくような気がした。

 先に離れたのはわたしだった。離れられるより先に自分から離れたかった。わたしは何も言えずにハクさんをただ眺めていた。

 真鍮色の海で、わたしたちは見つめあった。

 展望室はアクアリウムだった。海藻も岩もない無機質な水槽に放された二匹の孤独な魚。空に浮かぶ雲が、今は水面の影にすら見えるようだった。

 肺の空気が漏れているような気分がした。心臓が駆けるようなリズムを刻んだ。真鍮色の波がわたしに押し寄せた。それでいて、アクアリウムは相変わらず、穏やかで優しかった。だからわたしは。

 わたしは。

 わたしは。

「ハクさん……好きだ」

 わたしは俯いて言葉をこぼした。

 命をねじって、搾り取った液体みたいな言葉を地面に吐いた。

「あなたが好き。わたしはあなたが好きだ」

 応えは長らくなかった。ここは音の失せた水中だった。わたしに正しい答えなど必要なかった。欲しくなかった。この海底に永遠に二匹。ふたり。沈んでいたかった。

 やがて、ハクさんが小さく身動ぎした。発声のために息を吸い込む、その途方もなくささやかな音さえわたしの耳に届いた。

 ハクさんはわたしを真っ直ぐに見ていた。

「きみの気持ちに応えることはできない」

 喉元に手をあてる。浅くなった呼吸が、いよいよ絶えて止まりそうだった。拍動の音。音。頭に響く音が響く。わかっていた。わたしは。

 キスってそんなに甘いものじゃないじゃない。

 知っている。わかっている。人が人に恋してしまったら、とても苦いということ。

「……私の態度が、悪かったね」

 真鍮色の光に包まれて、ハクさんは目を瞑った。

「ごめん。きみに、そんな気持ちを抱かせるつもりはなかったんだ」

「わたしはあなたが好き。ハクさん。わたしがそう思った。これはわたしが想っていること。あなたの態度は関係ない」

「いや」

「何も変じゃない。わたしは勝手にあなたを好きになった。ハクさん。わたしはあなたという人間に」

「やめてくれ」

 ハクさんが叫んだ。

 わたしは驚いて口をつぐんだ。ハクさんはうずくまって両の耳を塞いでいた。首を振った。わたしはずっと腰の表皮をつままれているような、地面に引っ張られていくような錯覚に苦しんでいた。夕暮れの青紫色の雲が太陽を覆い隠した。真鍮色の海は幻のごとく消えて失くなった。ここは展望室だった。

 わたしは立ち上がって、展望室の扉を開け放った。振り返ることなく部屋を出て、階段を駆け降りて、ラウンジまで走った。

 走るのは得意だった。昔から。

 昔から走ることだけが取り柄だった。どんなことがあっても走ることだけはできた。足を前へ前へと出す。地面を蹴る。そうして先に見ていた光景は後方へと流れ去るのだ。

 ラウンジに飛び込んですぐ、動かせる椅子やソファをぐちゃぐちゃとドアの前に積み上げた。バリケード。玩具のような。

 窓際のソファに足を投げ出して座った。空に滲む雲も太陽も、いつかぜんぶ、ぜんぶこの地べたに引きずりおろして、教えてやる。地べたに生み落とされた人類という生物が、どれほどの苦しみを飼いながら生きているのかを。

 そのまま目を閉じた。空が星の幕に閉ざされる頃になっても、まったく眠れなかった。初めてひとりで過ごす夜は、かたくて暗くて痛くて冷たくて鋭利で、惨めだった。



 次の朝起きると、空には高く、太陽が昇っていた。

 こんなに遅く起きたのは初めてだった。

 わたしはコーヒーメーカーを殴った。カップ一杯分のコーヒーをすすった。無性に苦さが染みた。誰かがコーヒーを好きになった日は、きっと甘い幻想をうしなった日だったのだ。だから、大人はコーヒーが好きなのだ。ようやくわかった気がした。

 起きてから、わたしはハクさんのことを考えないように努力していた。コーヒーを飲む。考えを逸らすために。一口。二口。飲み終えたらカップを指ではじいて気を逸らす。特に意味のない立ったり座ったりを繰り返す。記憶を逸らす。

 ぱっと立ち上がった。

 わたしは玩具みたいなバリケードを壊しにかかった。足で蹴って積み木の山を蹂躙した。

 ラウンジのドアを開けて、わざとゆっくり歩いて、ゆっくり、ゆっくり、わたしの足は三階に向かう。ゆっくり。ゆっくり。気が向かないと言わんばかりにゆっくり。フードコートに。

 歩きながら視線を地面から窓の方へ、順に動かしていった。

 ハクさんは、睫毛を伏せて、白いテーブルの席に座って、本を読んでいた。

 現れたわたしに気づいた素振りは見せなかった。だが、既に気づいているはずだ。いつもハクさんは背中に目でもあるかのように振る舞う。

 わたしは悪戯を叱られた子供みたいに、しばらく黙ってハクさんの後ろに突っ立っていた。ばつが悪かった。

「……昨日はすみませんでした」

 振り絞るような気持ちで言った。

 ハクさんが振り向いた。

「ううん」

 それだけだった。

 ハクさんは立ち上がって調理場まで歩いていって、普通に朝ごはんのしたくを始めた。わたしの胸の深いところがざわざわした。

 カウンター席に座る。わたしも、普通に。

 ハクさんが肉を切る。まな板は元の色がわからないほど黒ずんでいた。ハクさんの目の前のカウンターテーブルもひどく汚れていた。わたしは平然を装って訊く。

「ハクさん、今日のメニューはなんですか」

「肉」

 いたたまれない気持ちになった。

 皿に盛られた料理が差し出されても、わたしは居心地が悪かった。ハクさんの沈黙はいつも通りなのに、落ち着かなかった。料理をかきこんで食べた。繰り返し吐いた。嘔吐の合間に料理を食べた。背中が波打ちすぎて肋骨が飛び出そうだった。いつもより何もかもが酸っぱかった。

 業務用のでかい鍋の中には、もう一人分の料理はなかった。ハクさんはカウンターに肘をついて、わたしが食べ終わるのを待っていた。

「なあ」

 ハクさんの声を聞くと肩が飛び跳ねた。心臓が強い拍を打った。わたしは辛うじて続きを促した。

「ひとつ提案があるんだ」

 ハクさんは指先をいじりながら言った。

「私たちは、あまりいっしょに過ごすべきじゃないと思う」

「え……?」

 吐息のような声が喉から漏れた。ハクさんはいつもの無表情のまま、話を続けた。

「今日からは一日中、自由行動にしよう」

 別にルールがあるわけでもないから、とも。至って普通に。表情を変えることなく。

 わたしは頷かなかった。ハクさんはわたしのことを見なかった。既に決まったことのように、それだけ言って調理場を出ていった。

 自由行動ということは、いや、自由というだけで、ハクさんについていってはいけないとか、そういうわけではないが、わたしは一日中、たった独りで空港をさまよわなければいけないという通告ではなかったか。いや。いや。まさか。

 振り向くと、ハクさんはまた本を読んでいた。今日からずっとこれが続くのか。最後の日まで。

 なにか恐ろしいものを覗きこんだ感覚に痺れた。最後の日も。最期の日が来ても。わたしは昨日のわたしを思う。わたしは訳もわからず、真鍮色の海に溺れて。それがどんなに危うかったのかも理解せずに。

 フードコートに留まり続けるのは気が引けた。大きな後ろめたいものを背負って、わたしは逃げるように二階へ降りた。止まったエスカレーターを走って飛び降りた。深層へ潜るたびに空気は一段と温度を下げた。真っ暗なままの電光掲示板がわたしを出迎えた。

 いつもの午後のように、平静に、わたしは足を踏み出してみた。

 一歩、二歩。何気なく。誰もいない受付のカウンターに指を滑らせる。白くてざらざらする。無尽蔵に並ぶカウンターを行ったり来たりする。わたしを取り囲む、死にたえ、朽ちた白い木。彼らには同じ見目の仲間がいて、こうして朽ちているのだが、わたしは独りで朽ちるとしたらどうだろう。崩解のノイズの内にひとり。

 崩れていくのだろうか。解けていくのだろうか。

 わたしという存在が。

 その日わたしは、xxx日ぶりに空港の敷地を抜け出して、灰色の街へと出ていった。

 何かはっきりした事象を求めてではなかった。ただ、自分の目で確認したかったのだ。そこに崩解前線が確かにあることを。これは嘘っぱちでもまやかしでもなく、現実であるということを。

 午後の陽気がありながら、外の風は冷え冷えとしていた。わたしは指先を袖に隠し、歩いた。アスファルトの道路が伸びていた。死んだ街を歩いた。胸の奥底の隙間にも風が入って、冷たくて落ち着いた。街は密林のように濃い密度のコンクリートが生い茂る、冷えきった、大きな空間だった。

 道端に細長いガラスの破片が落ちていた。わたしはそれを拾って振り回した。

 ひとり、独り、行軍。いざ剣携え。お通り、お出まし。破片を振る。頭の中でわたしはわたしを何人も道端に並べて、ガラスのナイフでぜんぶ切って捨てた。わたしの通った後に、わたしの死体が積み上がっていった。

 全然知らない区画まで来て、やがて日が落ちた。彼女のいない一日の短さよ。わたしは知らない家の知らないリビングに入って、散らばったガラスを避けて、体を丸めた。足の裏が痛んだ。靴を脱いで、手のひらでさする。わたしの呼吸の音が聞こえる。それ以外は、何もない。

 眠れなかった。眠れる気がしなかった。ともすると、昨日よりも。

 体を起こした。靴を履き直して、森閑の夜の内に足を踏み入れた。柔らかい冷気がわたしを包みこむ。やや痩せてきた月がセ界に光を投げ落とす。下賤なわたしは、それを頼りに道を歩む。一歩、二歩。たゆたうように。

 今のわたしは、真なる旅人だった。居場所を失えば、人間は旅人たりうる。太古からそうだった。人類はなにかを失うことで進化していった。わたしは安心した。

 気が緩んだその瞬間、なぜか脳裏で、ハクさんが着ていたあのドレスの裾が翻った。ハクさんの歩く姿が思い浮かんだ。わたしは石ころを蹴った。

 死にたえたコンクリートの樹海をゆく。せめて、わたしはわたしを見失わないように。

「さよならと、言いに来た」

 気づくと前をハクさんが歩いていた。

 ハクさんは足を止めて振り向いた。

「私はきみといたくない」

 わたしはおもむろに頷いた。ハクさんの長い髪が夜風に揺れた。

「さよなら」

 離別。

 真っ黒い樹海の中に、その背は消えていく。わたしは立ち尽くしてそれを見送る。何もできずにいる。いつまでもそうして、彼女が遠のいていくのを見つめ続ける……。

 身体の硬直。後、急激な覚醒。

 わたしは首を振って上体を起こした。一瞬、記憶をよく思い出す必要があった。身体中が痛い。脚の筋肉が悲鳴を上げる。記憶の空白のページを丹念にめくった。わたしは知らない店の知らないホールに滑りこんで、凍死を免れていた。昼頃の光が差しこんでいた。

 自殺しにきたわけではない。死ぬわけにはいかない。わたしはきちんと崩壊前線に向かって進んでいる。胃から胸、喉にかけて気持ち悪さが残留している。唾液を飲む。乾いた喉は乾涸びたままだ。手についた砂埃を払い落として、ガラスのナイフを持って立つ。ホールを出る。

 そう、昨日は、空が白むまで、記憶が曖昧になるまで、歩いたのだった。つまりそれは、昨日ではない。今日だ。今日の早朝まで。一晩歩き明かしたのだ。

 また昼が来た。わたしはもう一度首を振った。

 ハクさんに会った気がする。

 あれは夢だったか。現だったか。わからないのが、どうしようもなく、怖い。「さよなら」と、そう放たれた言葉がまだ耳に残響を遺している。あれは。

 倒壊した電柱を跳び越える。もうそろそろのはずだった。崩壊前線。それを視界に収める。収めてやる。果敢に足を踏み出す。

 街は静かだった。風の音すらほとんどなかった。死したものは音を発さないらしい。ハクさん、なぜ死はこんなにも静かなのに、生は毒気に満ちているのか……ハクさん、空が青いのはどうしてなのか……ハクさん、もはや朽ちた人工物は朽ちた木と違うところはあるのか……とめどない疑問が頭を飛び交った。訊きたい。尋ねたい。もう帰れないのに? 息を飲み込む。

 体力には多少自信があっただけに、膝が震え、息が上がることの不快さを理解していなかった。わたしは歩き始めてまだほんの少ししか経っていない頃に立ち止まり、地面に座りこんだ。無駄に長くてでかいナイフを捨てた。

 疲弊が脳を炙り焼きにしている。まだだ。立ち止まるな。立ち止まるな立ち止まるな立ち止まるな。頬を殴りつける。立ち上がる。たった一日歩いた程度だ。立ち止まるな。

 わたしは足を引きずって歩いた。昼間の太陽光でわたしの背は焼けた。燃え上がった。悲鳴を押さえて手をあてると燃えてなどいなかった。つまずいて転んだ。手が擦りむけて血が出た。ぬるいアスファルトに手をついて立って、また歩き出した。

 やがてわたしは眠った。どうしようもない睡魔に襲われ、昼間から、その辺りの壁に寄りかかって目を閉じた。喉が熱かった。焼けつくような、焦げつくような、そんな感覚が内臓で暴れ回っていた。

 夢を見た。三千の夢を見た。

 xxx日。空港の窓が割れる。飛行機から月がぶら下がっている。数字が紙の上でくねりながら踊る。メリーゴーラウンドが回る。回る。回る。雲がちぎれる。チョコレートを水に入れる。滑走路が剥がれる。空を飛ぶ。魚の鱗を剥ぐ。ネイビーのラグに寝転がる。ハクさんと話す。美しい庭園を歩く。窓のない部屋で過ごす。エスカレーターが宇宙まで続く。湯気の立ちこめる風呂に浸かる。夢を見た。ありとあらゆる夢を見た。右脚がびくびくと痙攣した。わたしは目を覚ました。

 何かが変だった。

 わたしは困惑して後ろに下がろうとした。薄い紗をかけたようだった目の焦点が合った直後、今度こそわたしは悲鳴を上げた。

 崩壊前線がわたしの右脚を飲み込んでいた。

 青と緑と赤を吐き散らす、ノイズの黒い海。ない。ない。感覚が……ない。ノイズはとりついたわたしの右脚から、腰へ、腹へ、わたしを、飲み込もうとしている。“わたし”を。

「あ……! あ……!」

 わたしは腕と左脚で必死に前線から離れようとした。もがく。空はどっぷりと薄暮だった。寝過ぎた。わたしは失念していた、崩解が進行していることを。

 黒海から引き抜いた右脚を見て、わたしは再三ながら悲鳴を叫んだ。ない。ない。脚が失せた。何だこれは。悪夢の続きなのだ。子供のように這って逃げた。立てない。右脚の付け根からノイズが迫ってくる。

 偶然近くにあった車止めのポールを掴んで、一本脚を支えにして立ち上がった。無理だ。無駄だ。走るどころか、歩けすらしない。たった一本の脚で何ができる。

 死ぬのだ。

 わたしはお望みの死を。ひとりきりの死を、今、ここで。迎えるだけだ。

 お前が望んだ。

 わたしは死ぬ気はなかった。言い訳が脳内に溢れた。崩壊前線を見にきただけ。自殺の気などこれっぽっちもなかった。死ぬなんて、ひとりで、独りで死ぬなど、考えすらしなかったのだ。

 お前が望んだ。

 わたしはアスファルトに手をついて、左脚で地面を蹴って、無様に逃げ続けた。体力の限界が近い。かつてやったことのない動作が疲弊を倍増させる。逃げてどうなる。逃げても待つのはどうであれ死なのに、そんなに生きたいか。

 いざ死ぬとなったらこれだよ……。

 わたしはバランスを崩して肩から転んだ。地面に落ちていた鋭いもので頰がざっくり切れた。

「これ」

 わたしは目を見開いた。

 この暗い中、見落とすところだった。それは細長い、でかいガラスの破片だった。

 破片はそれなりに厚かった。地面に突いて数回衝撃を与えても、びくともしなかった。ガラスのくせに。わたしは破片を杖にして立った。きちんと立っていた。夜空に吼えた。

 無音で追ってくるセ界終末の前線との、鬼ごっこが始まった。

 ガラスの杖はわたしの右脚であったかのようにわたしを支えた。わたしは分相応に、みっともなく走った。走る、という動作からは程遠いものだったが、構わない。肺が爆発する。先に切った頰からあり得ないほど血がだらだらと流れた。拭って舐めたが、それが血の味なのか、異常な運動量による鉄の味なのか、もはや判別は不可能だった。わたしは走った。結局死から逃げた。しかしその事実に、なぜか晴れ晴れした。暴かれた本性と向き合うのは、案外、嫌な感触ではなかったということか。

「ハクさん!」

 走りながら呼んだ。

 助けてほしかったのではない。それは、決して。その名前を呼ぶことに意味があったのだから。

「ハクさぁん……」

 涙が溢れた。必要ない水分をこぼすなよ、と思っても流れた。呼ぶたびに情けないわたしが露呈した。でもわたしの中でうずくまっているわたしが、どうしてもハクさんの隣に帰りたがる。暴かれた本性が息巻く。帰れと。

 帰りたい。わたしは、帰りたい。

 夜を駆け抜けた。路地のあちこちに滞り、燻る夜を笑った。走るのが好きだ。たとえ脚が足りなくても、走って、息を吸って、鬼ごっこをする。楽しい。

 わたしはさながら子供だった。鬼ごっこをして、帰るべき場所へと舞い戻っていく。たとえその居場所に拒まれても? ならばわたしは何度でも言おう。どんなに言い募っても捕まえようとしても、彼女がのらりくらりと逃げてしまうなら。

 あなたが好き。

 わたしは確かに、美しい海にも溺れずに、そう言おう。セ界の終末が来る前に。


 夜通し走った。

 人工物の大自然の中を。悠々と立ち並ぶコンクリートの間を。背後から海がやってくる。黒い海が。わたしのガラスの片脚はボロボロになって元の半分ほどの長さになっていた。東の空から薄明が顔を覗かせる。微かに光を反射する大きな窓、あれは空港のものだ。全身が軋んで鳴いている。

 何万回と繰り返した動きを続けながら、右脚をちらりと見た。一丁前に、あの崩壊前線を小さくして、そっくり持ってきたように、わたしの右脚はボタボタとノイズを吐き散らしている。ゆっくりと上がってきている。右の腰もほとんどノイズに飲まれた。幸いなのは、怪我と違って痛覚を生じさせないことか。ただ無感覚に身体を飲んでいく。悪寒がする。うっかり触れてしまわないよう、気をつけながら空港を目指して走った。

 その時わたしは声を聞いた。

 思わず足が中途半端に止まって、転んだ。杖の先がまた割れた。わたしは動かずに耳を澄ませた。つんざくような叫びが明け方の、無色の街に響き渡った。

「どこにいる!」

 ハクさん。

 あなたはやっぱり……わたしを探していた。

 知っていた。わかっていた。あなたがそういう人であるということを。

「どこだ!」

 わたしは再び立ち上がる。

 ここで彼女の助けを待つなどという、舐め腐った態度でいたくない。わたしは走る。ハクさんの元へ。

「ハクさん! ハクさん!」

 わたしも叫んだ。

「帰るから! いま、帰るから!」

 わたしの掠れきった声が届いたかはわからない。だが、わたしはがむしゃらに走った。

 前方にある横道から、辺りを見回しながらハクさんが走り出てきた。わたしたちは互いに認識しあって、走り寄った。ぶつかった。転んだ。泣いた。

「ハクさん……」

 わたしはそれしか言えなかった。ハクさんはわたしの肩に顔をうずめていて、表情は見えなかった。

「まだきみの名前を聞いてない……」

 ハクさんはほとんどささやきに近い声で言った。

「教えてほしい。きみの名前」

 そうか。

 彼女は、わたしの名も知らず、わたしを探し回っていたのか。名前さえ知らない、わたしのことを……。

「コクです」

 わたしは泣き声にならないように、明るい声音を装った。「わたし、コクです。帰ってきました。ハクさん」

「コク……」

 ハクさんはようやく、わたしに顔を見せた。目は真っ赤で、髪も風でぼさぼさになった、それでもわたしの知っているハクさんだった。

「きみを……私は……」

 ハクさんはすぐに顔を歪めた。わたしは首を振って空港を指差した。

「帰りましょう、ハクさん。前線が」

 酸素が行き届いていないらしく、脳がズキズキと痛み始めた。脱力する。空港のいつものロビーまで着いたら少し休んで……。

 そう考えていた気がする。ただその時、わたしは既に気絶していたそうだ。

 次に意識を得たのは、もう空港の中に運びこまれた後だった。わたしはすぐに目を覚ました。ロビーのソファの上だった。ハクさんが隣に座っていた。

「休んでいた方がいい」

 落ち着いた、静かな、ハクさんの声だった。わたしはこくりと頷いた。

 ハクさんがわたしの脚を見る。ノイズを垂れ流す小さな黒海。

「崩解に飲まれたのか」

「触らないでください」

 わたしは慌てて言った。

「きっと、飲まれます。すごく危ない」

 ハクさんはわたしの服をめくって、侵食するノイズを見た。絶句した。それはわたしの胸近くまで上がってきていた。わたしは欠けていた。先からやたらと息苦しいのは、単に運動後だからというわけでは、なかったようだ。

 ハクさんは手で顔を覆って、大きく息を吐いた。いきなりノイズの中に手を突っ込んだ。何も起こらなかった。小さな黒海はハクさんを汚染しなかった。

「コク」

 ハクさんがわたしを呼ぶ。真っ直ぐにわたしを見る。

「謝らないといけなかったのは、私だよ」

 意外な言葉だった。わたしはうろたえて訊き返した。

「私はね」

 ハクさんが立ち上がる。大きな窓から降り注ぐ陽ざしの中、わたしに背を向けてゆっくりと歩く。

「昔、ある人間を愛していた」

 頷く。ハクさんの背が震えている。

「心から、愛していた」

 過去のことを聞くのは、初めてだった。彼女も語りたくなどなかったのだろう。わたしは瞼を閉じて話の続きを聞いた。

「あんなに傾倒すること、なかったのにね……私はまもなく、その人間から捨てられたよ」

 それも手酷く。

 ハクさんはぼそりと呟いた。何があったのか知らないが、少なくとも、ただの失恋と割り切ることは到底できないような出来事を経て、ハクさんは変わったのだと言った。

「いや、私は、当然あるべき状態になった」

 静かだ。

 陽光がロビーに溜まる。ロビーをあたためる。

「そして崩解が始まった。セ界が壊れていくのを目の当たりにして、私は嬉しかった」

 ハクさんの声に、自虐的なニュアンスが滲んでいた。すぐに消えた。

「コク、きみに出会った。私はまた変わった」

 ハクさんはわたしの隣に戻ってきて、座った。

「きみと話した。きみと過ごした。きみと。昔を忘れられるような気さえした。それでもわたしは、裏切られたくなかった。もう二度と。きみもいつか私を裏切るだろうって……思っていた」

「そんなことしない」

 わたしは口を挟んだ。

「裏切る意味なんてない。わたしはあなたが好きだから」

 わたしが言った瞬間、ハクさんの瞳に微かに、否、確かに、怯えた色が浮かんだ。

 わたしはあの日、真鍮色の海に溺れるばかりに、彼女のこんな表情すら、見落としていたのだ。わたしは馬鹿だった。

「怖いね……今でも……」

 今までになく、ハクさんが小さく見えた。この人もこんなに、脆い。わたしが思っていたよりも、ずっと。

「きみを信じたい」

 ハクさんはやがて顔を上げた。

「私は……欺瞞ばかりを捕らえようとしていたから。私の浅はかな自己愛がきみを、街へ追いやって、脚だって」

「やめてください、ハクさん。わたしは崩壊前線を見に行きたくて」

「それは理由づけだよ、コク」

 ハクさんはいつものように、淡々とわたしの虚偽を否定する。

「きみは私の言葉に傷ついた。わかっていたよ。わかっていたのに、私はきみの気持ちを無視した」

 ハクさんは頭を下げた。

「ごめん」

 わたしはハクさんの髪の筋を眺めながら、不思議な感慨に浸っていた。きっと人類は、この感慨を和解と呼ぶだろう。

「わたしもハクさんのこと、知らなかったから」

 わたしは笑った。目を細めて、口元を緩めて、ちゃんと、笑った。

「これからはわたしが、ハクさんのこと、守るから。わたしはずっと、ハクさんの味方でいるから」

 だから、わたしたちは、わたしたちらしくいましょう、と。

 そう言うと、ハクさんも涙をこぼしながら笑った。本を読んでいる時の、あの寂寥としたものは鳴りをひそめていた。

 それからハクさんはわたしを慎重にかかえ、三階まで連れていってくれた。昼なのに料理を作ってくれた。わたしは遠慮したが、丸一日何も口にしていないと言われて渋々スプーンを手にした。結局あまり食べられなかった。でも、ハクさんがわたしの食べるのをじっと見て、たまに笑うのが心地よかった。わたしはここにいていいんだと、そう言われているようで、ほっとした。淡白な味の硬い肉が、この上なくおいしかった。

 その後の午後は、ハクさんが普段読んでいる本を読み聞かせしてもらった。

 わたしは初めて真面目に聞いた。絵本ではなかったが、難しかったが、理解するようにして聞いた。それは短い恋愛小説だった。苦しい恋の話。ハクさんは表情ひとつ変えずに、読み聞かせを終えた。

「あの日の記憶を、克服したかった。封じこめるのではなく、えぐってこじ開けようと思っている」

 そしてさらりと言った。思い知らされた。彼女は強い……傷口を拡げてでも、過去を乗り越えようとしている。わたしは脱帽した気分だった。毎日毎日、同じような本を読み続けた心情は、いかほどだったのか。とてもわかりたくなかった。

 夕暮れには展望室で寄り添った。わたしのないはずの右脚が震えた。

「明日……」

 胸がいっぱいになった。見下ろした街。朽ちた樹海。そのほとんどすべてが、黒海と化していた。

「明日が、きっと、セ界最後の日ですね」

「ああ」

 明日が、わたしも、ハクさんも、いなくなる日。

 わたしは問いかけた。たくさん、たくさん問いかけた。

「ハクさん、なぜ死は静かなのに、生は毒気に満ちているんですか」

「それが生きるということ」

「ハクさん、空が青いのはどうしてですか」

「海原と見つめあっていたからだよ」

「ハクさん、もはや朽ちた人工物と、朽ちた木とは、違いはありますか」

「ないよ」

 ハクさんの答えは淡々と、静まり返った水面のようだった。「私たちは死んだ木々の内に生きて、そしてある日突然、失せるんだ。私たちだけは。このセ界に死体を晒すことなくね」

 ハクさんは、その存在が崩解に飲まれて消え去るその寸前まできっと、セ界を恨み憎み続けるのだろう。でも世界からくだらない世俗の世は消えて、あとはハクさんとわたしだけ。そういうセ界。

 風が吹きおろす。

 わたしたちを千々に砕く。

「明日」

 わたしは空気に溶かすようにして喋り出した。

「ハクさん。惑星の、セ界の、わたしたちの最期の日。明日が来たら、何をして過ごしますか」

 ハクさんは黙ってわたしに体重をあずけた。十分だった。あなたはそういう人だった。わかりきった言葉も、強がった言葉も、本当のハクさんは持っていなくて、本当は、本当のハクさんは、やわらかくて、縷々として、濡れた、透明な芯を守る人だ。

 やがて夜が来る頃にわたしたちはラウンジで、いつも通りのシャワーを浴びた。

 わたしはやはりトイレの上で、不器用に座ってハクさんを待っていた。ライトを反射して時折ちらちらと輝くハクさんの髪の毛を眺めた。ハクさんの口数は俄然減った。わたしが喋るのを、ハクさんはただ黙って聞いていた。頷いた。微笑んだ。けれど半端な笑いはしなかった。これがハクさんだった。人類の居場所と共に、ハクさんを覆っていた鎧は剥離した。そして少なくとも、その隣にいたのはわたしだった。

「雫は飴みたい……」

 わたしのとめどない呟きが、シャワーの水に溶けて流れる。乾いた排水溝に数本、髪の毛が落ちている。ハクさんが目を閉じて濁った水を浴びる。ハクさんはガラスケースに入れられたドールのコレクションのようだった。うっすらと割れた腹筋が目に入って、わたしは視線を逸らした。わたしはわたしがハクさんを守るなどと、錆びつくような言葉をよくもまあ言ってのけたものだ。ハクさんはわたしに守られるよりずっとずっと強い。強くいられる。失礼なことを言った。

「ハクさん」

 わたしが呼ぶとハクさんは、ん、というように首を傾げた。顎の先から雫が落ちた。

「わたし、ハクさんを守ります」

 バカな言葉をもう一度言った。ハクさんは少し目を開いて、そして笑った。このセ界で彼女だけだ。わたしの言葉をバカだとは思っていないのは。

 交代してシャワーを浴びた。伸び放題の髪が指に絡まった。擦りむいた手のひらの傷がしみた。冷たかったはずのどぶ水は少しぬるんでいた。惑星はけなげにも、地表をあたため始めたのだろうか。また一年をめぐらせるために。

 瑣末なことを考えながら、水浴び一つ取っても難儀した。わたしを侵食する崩解は湾岸を食い荒らす氷河より素早かった。わたしは腕をついて片足でバスタブに入って、ずっと片足で水を浴び続けた。ピンク色の鳥が頭に思い浮かぶ。フラミンゴ。声に出すとハクさんが笑う気配がした。

 それから衣服を着こんでラウンジを出ると、今日はいちだんと、夜空が夜めいていた。

 撒き散らした砂のような星だった。金平糖だった。色を数えた。月は半月へ移り変わろうとしていた。

「ハクさん、わたし」

 死んだエスカレーターを下りながら、メインロビーに向かいながら、わたしは言った。

「わたし崩解前線を見ました」

「うん」

 ハクさんはゆっくりと返事をした。

「わたし見ました。この目で。ちゃんと。セ界終末の前線を」

「どうだった」

 ハクさんはくるりと振り向き、上体を少し傾けながら、尋ねた。

「嘘っぱちじゃなかった」

 わたしも答えた。

「本物。ぜんぶ本物でした。セ界終末も崩解も我々の死も」

 ハクさんが瞬きした。

 わたしたちは並んでソファに座って、並んで空を見上げた。わたしたちの影だけが長く長く背後に延びた。注がれた月の光が白かった。

 ハクさんの体温が傍にあった。瞼を下ろす。ハクさんの手がわたしの頭に下ろされる。その夜は、泥のように眠った。



 長い長い鬼ごっこの終わりの日がやってきた。

 セ界の崩解が始まってxxヶ月、人類の居場所は剥離して失せた。

 我々はすでに惑星を追われた。崩解はここに辿り着いた。安寧は終わった。

 終末が来た。人類の半数は惑星を棄てて消えた。もう半数は惑星に固執して失せた。我々は惑星の最後の破片だった。人類が開拓し、我が物とした惑星は今、終には、我々の墓場となろうとしていた。棄てられるはずなどなかった。安穏とした揺籠のようなものだった。

「肉」

 ハクさんがそう言って指を舐めた。

 朝の問答をするのもそれで終わりだった。いつもがいつもではなくなった。わたしは広大なフードコートを歩き、サーモンピンクの空を眺め、風に顔を押しつけた。割れたガラスの端が輝いていた。わたしは息を吸い込んだ。微かに生の肉の匂いがした。

 わたしのためだけのカウンター席に座り、スプーンでリズムを取る。とびきりご機嫌なリズムを。

 ダンダンダン。肉をぶつ切りにする音。ハクさんの頰に肉片や液体が飛び散った。ハクさんの目の前の席は指で引っ掻いたような汚れが付着し、カウンターテーブルを伝って床に垂れていた。ハクさんが肉塊の先を切り落とす。薄くて平たい肉片が床に落ちる。ハクさんがそれを踏んで調味料を取る。振りかけながらグリドルで焼く。でかい鍋で煮る。

 終末の朝食はいつもより少し量が多かった。

 息を吹きかけて冷まし、スプーンで口に運んだ。ゴムのような食感の肉を噛みちぎった。そして驚くべきことに、ハクさんが差し出したのはコーヒーだった。

「今日はサービス」

 ハクさんは嬉しそうだった。わたしはカップを引き寄せた。

 苦いコーヒー。甘くないコーヒー。口を付けて、一気に飲み干す。舌を火傷した。わたしは頷いた。

「ハクさん、ハクさんはコーヒーが好きですか」

 気になっていたので訊いた。ハクさんは緩く肩をすくめた。

「うん。とてもね」

 朝食を終えて、次には滑走路へ向かった。今回は走らずに歩いた。ハクさんとふたりで歩んだ。とりとめもないことをつらつらと話した。わたしの言葉にハクさんは頷いたり、眉をひそめたり、照れ隠しの苦笑いをしたり、あるいは手を叩いて笑ったりした。ハクさんは表情豊かだ。言葉数は少なかったが、わたしがせがむと仕方なしというように色々な物語をしてくれた。どれも複雑怪奇で珍妙でグロテスクだった。初めて聞くようなものばかりだった。それはわたしを喜ばせた。

 それから空港の中を歩き回った。徘徊だった。ショッピングエリアも展望エリアも税関も搭乗口も、一緒くたにして徘徊した。ここは街よりも森林らしさがあった。街が息苦しいほどのコンクリートの密林ならば、空港は穏やかな鉄筋の森林。朽ちた木が溢れる、人けのない森だった。

 ラグの腐葉土を踏みしめる。鉄筋からの木漏れ日に目を細める。わたしたちは死の息づく森で生きている。

「なあきみ」

 ハクさんがふと、わたしの顔を覗きこんだ。

「変わったな。きみの瞳」

 わたしは首を傾げてみせた。ハクさんがわたしの目をまっすぐに見つめた。

「前に見たとき、きみの目は、濁った深海に溺れていた」

「はい」

「今は、今は何だろう。言葉にする方法がわからない」

 ハクさんが身を翻す。わたしはハクさんの後について、空港をさまよった。キーリングをハクさんに渡した。綺麗な場所も汚い場所も、余すことなく見て回った。

「人類の進化じゃないだろうか」

 ハクさんは不思議な話の続きでもするかのように、唐突に言い出した。遥か太古のことだよ、と。まるでわたしが話の内容を理解しているみたいに。

「砂粒より小さい生命でしょう」

 わたしは理解しているように振る舞った。

「それが海中で生まれて、地上を夢見て、水から這いずり出た……」

 何ともなくこそばゆい気持ちになった。口をつぐんだ。わたしたちはフードコートに戻って本を読んだ。ハクさんが読み聞かせをしてくれた。世界が終わる物語を。わたしは何度も笑った。ハクさんも笑っていた。

 本を床に置いた後に、窓に張り付いて外を見た。

 崩解前線が街をすべて飲み込んでいた。

 すべてだった。余すことなく。

 少し、圧倒された。本当に失われると知るまで、我々は終末の妄想を何度嘯くのか。

「ハクさん……」

 わたしは傍らの人の名前を呼んだ。

 ハクさんがわたしを見た。わたしは首を振った。

「そっか……終わりって、はやいんですね……」

 わたしはボソボソ喋った。ハクさんが小さく頷いて歩き出した。わたしはハクさんに続いて、閉ざされた鉄扉の先のアルミの階段をとつとつ上った。向かう先は展望室だった。わたしたちが最期を迎えるのは、どうしても、そこだった。

 あっけないほどすぐに着いた。繰り返したxxヶ月が足音と共に遠ざかっていった。

 わたしが展望室の扉を閉めた。すると溺れそうなほど、もう午後の光が溜まって波打った。

「何ものうなってしまったな」

 ハクさんが胸いっぱいになったように、言った。

 ぬるい。

 ラグの上に腰を下ろした。

 わたしはノイズと黒海に囲まれた、孤島の森林のてっぺんで。

 終末が来る。

「失礼」

 ハクさんが不意に、わたしの服のポケットに手を入れた。まどろむように瞼を瞑りかけていたせいで、ハクさんが何を取ったのかはよくわからなかった。

「コク」

 ハクさんがわたしを呼んだ。わたしは返事をしようと振り向いた。

 唇が触れた。

 なにもわからなかった。わたしが何か行動を起こす前に終わってしまうほど。

 瞬きひとつの、呼吸ひとつの間の、短い、短い、キス――。

「あ……」

 わたしは口を押さえた。

 甘かった。そして、何よりも、甘かった。

 ハクさんが微笑んでいた。真鍮色の太陽光に満ちた展望室の中で。わたしたちは。

「ちゃんと、甘かっただろう」

 小さな銀色の包み紙を、ハクさんは指に持っていた。それはわたしのポケットに入っていた……。

「チョコレート?」

「うん」

 ハクさんが唇を舐める。わたしももう一度唇を舌で舐めてみた。甘いものが舌の上で融けた。

「きみのことは何でもわかっている」

 ハクさんはうっすらと笑いながら言った。

「おいしいものは残しておくこと。大事なものはポケットに入れておくこと。ポケットに入れたものがあっても、すぐに忘れてしまうこと」

 なぜか涙が出てきた。ここは泣くところじゃないだろう。笑った。泣き笑いした。体が揺れるたびにわたしを蝕む崩解のノイズが垂れて床に染みた。わたしに空いた孔は腋から右腕まで広がっていた。もういい。もう好きにしてしまえ。

 笑い続けるわたしに、ハクさんが言う。

「そして、甘いキスを、きみは夢見ていたってことも」

「知ってたなら……」

 わたしは涙を拭った。

「知ってたなら、コーヒーの味なんて、覚えさせないでください」

 わたしは酸素を求めるように口をぱくぱくさせながら言った。咳き込んだ。

「わたし、やっぱり、コーヒーなんて嫌いだ」

「私も。苦い味はもう、十分だよ」

 ハクさんが笑った。わたしも笑った。わたしたちがいた。ここに、今。わたしたちが生きていた。

 わたしたちは、どちらからともなく寄り添って、空を見上げた。

「ずっと、こうしていたいね……」

 ふたつ。

 ふたつ、寄り添った体温が、ぬくもり、融けあい、ひとつになる。

 わたしたちの惑星の風が吹く。わたしたちは惑星とひとつになる。そして、わたしたちは、惑星としてほろんでいく。

 微かに身動ぎすると、ハクさんは視線を揺らした。「終末セ界だ」

 ハクさんがゆっくりと首を振った。

「でもきみがいてくれる」

「二人なら何も怖くない」

 わたしも言葉を漏らす。「おやすみなさい」

 傍らの肩に頭をもたせかけ、瞼を閉じた。

 青い、青い、空の下、冷たい、うつくしい匂いのする惑星の風に晒されて、わたしたちの体温はひとつになる。この街も、建物も、樹も、風も、空も、惑星も、わたしたちになっていく。

 穏やかで優しくて、少し、さみしい。

「ずっと、こうしていたいね……」

 そうして深い、眠りについた。

 崩解の黒海に根づく、真鍮色の光の降り注ぐ。

 廃屋の森のなかで。


よろしくお願いします。

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