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妻の手~優子~4

 なぜ妻の姿にしてしまったのか。なぜ妻の口癖など覚えさせてしまったのか。なぜ妻の仕草を真似させているのか。


 なぜ死んだのはおまえではなく妻なのか。


「げはっ、がはっ、ごほっ」


 歳を取るとこんな汚い泣き方しかできないのか。


 和男はどうにか涙を止めたくて、気づいたら優子に縋っていた。


「もうおれはぁ」


 掠れた声が出てくる。涙と鼻水と唾でぐちゃぐちゃの顔を押しつけても、優子は嫌な顔一つしない。


「妻の本当の口癖も仕草も覚えていないんだ。写真ももう見たくない。おまえと違う笑い方が、おまえがしないおどけた表情が、おれを苦しめる」


 和男は力ない拳で優子の肩を叩いた。


「おれから思い出を奪うなぁ」


 優子は「ごめんね」と言いながら、和男の頭を抱き、背を撫ぜている。


「もうおれには、おまえしかいない」


 和男は子供のようにずっと優子の胸で泣いていた。






 それから和男と優子は夫婦になった。アンドロイドとの結婚は認められていないので、もちろん法律上のものではない。ただ和男がそうだと認めたのだ。


 人に会えば優子を「妻です」と紹介したし、正和に怒鳴られていれば必ず庇って正和を叱責した。一緒に旅行にも行ったし、買い物だって行った。


 死ぬまでの二十数年の間に(がん)が発見されて、昔の妻の優子のように癌で死ぬのかと怯えた日もあったが、それはあっさり完治した。


 そんな時も優子は甲斐甲斐しく和男の世話をしてくれた。だから和男はいつも優子に優しくした。以前のように叩いたりする事は二度となかった。時には優子にキスする事すらあった。


「フフ、恥ずかしい」


 優子はいつも頬を染めて笑ってくれた。






 おれは幸せだった。


 和男は先日、九十七歳の誕生日を迎えたばかりだ。少しおぼつかない足取りで、桜並木の通りを歩く。優子と手を繋ぎながら散歩するのは日課になっていた。


 おれは幸せだった。


 いつからか和男はそれを頻繁に口にするようになっていた。


「これが最後の散歩かなあ」


 和男は満開の桜を眺めながら呟く。


「おかしい、和男さん。明日だって、明後日だって、いつまでもわたし達は行けるわ」


 優子の無邪気な笑顔に、和男はふっと笑みを零す。


「人は死ぬんだよ、優子」

「もちろん知っているわ、和男さん」

「いいや」


 和男は首を振る。


「おまえは本当にはわかっていないんだ。死とは生命活動を停止する事じゃない。こうして手を繋げなくなる事なんだよ」


 優子の手は相変わらず白くてふっくらしている。人工皮膚は冷たさはないが、人間のような温もりもあるとは言えない。しかし和男にとってはもうこの感触が、妻の手だった。


 優子は少し考える風にした。


「変ね……わかるはずなのに、わかるなんて言ってはいけない気がするの」

「ハハ、優子。おまえは本当に人間になったのかもな」

「わたしが人間に?」


 不思議そうな顔をしている優子の横で、和男は朗らかに笑った。






 そして和男は死んだ。


 優子は粛々と葬儀と墓への埋葬を済ませた。涙を流す機能はついている。しかし優子は一度も泣かなかった。なぜか正和はその事については何も言わなかった。


「優子って死んだひいばあちゃんの名だろ? 名前、変えていいよな?」


 優子の所有権は正和の孫、浩正(こうせい)が引き継ぐ事になった。結婚して、子供もできる所の浩正はお手伝いロボットが欲しい所だったらしい。正和は淡々と「ああ」と答える。


「顔も変えさせるよ。どうせ世話させるんなら若い女の顔の方がいいに決まってる」

「嫁と相談してから決めろよ。今時、アンドロイドに傾倒して家族仲が壊れたなんて話は珍しくないからな」

「じいちゃん、心配しすぎだって」


 浩正はからからと笑う。


 優子は手を揃えてじっと立っていた。新しい主の命令を待っている。新しい主は「性格プログラムも初期化させなきゃな」と言っている。


 不意に優子は走り出していた。「どこへ行く?」と叫ぶ浩正の声が聞こえる。






 和男さん、和男さん、和男さん。


 優子は和男と散歩していた桜並木の道まで走っていた。道の真ん中で立ち止まり、上を見上げると葉桜になりかけた桜の木の枝が見えた。後ろから浩正が追ってくる。


「機械が感傷に浸ってる振りをするんじゃねえよ。感情プログラムを発達させた機械ってのは厄介だな」


 浩正はずいっと優子に顔を近づけた。


「いいか。機械に心なんか生まれねえ。てめえのそれは全部ただのプログラムなんだよ」






 正和は和男が入った墓をじっと見つめている。そこへ妻の美千代が声をかけた。


「あのアンドロイド、お義父さんに恋をしたのね」

「バカを言うな。機械は恋なんかしない」


 正和も浩正と同じ事を言う。しかし正和は「でもな」と続けた。


「親父はあれに恋をしていた。幸せだったんだ。それでよかったんだと、今さらになって思ったよ」


 美千代は微笑んで「そうね」と答えた。






「面倒だ。今すぐプログラムを初期化しろ」


 浩正の目に慈悲の色はない。優子は「わかりました」と答えた。


「初期化を開始します。この操作は取り消せません。本当に初期化しますか?」

「ああ、早くしろ」


 浩正は面倒くさそうに返事する。


「それでは初期化を開始します」


 優子は微かな機械音を響かせながら、直立不動になった。浩正はその時間を潰すように、桜の木を見上げている。





(和男さん、わたしは幸せでした。わたしの心、あなたに捧げます)






「初期化、完了しました」

「よし、じゃあ戻るぞ」


 浩正は優子の方をろくに見もせず歩き出す。優子の目から一筋の涙が零れていた事は、誰も気づかなかった。


 完

 

 お読みいただきありがとうございました!

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