妻の手~優子~3
四十九日も済んだ日、和男は風呂場で転んだ。
「あちちちち」
あまりの痛みに転げ回る事もできずに、ひたすら唸る。
「優子! 優子!」
和男の声に異常を察したのか、優子も慌てた声で走ってくる。
「どうしたの!? 和男さん!」
和男の様子を見た優子はすぐに救急車を呼んだ。もう長い期間、和男との生活で色々な感情を学習したせいか、人間らしい動揺をしている。看護用にも使えるはずのアンドロイドがそれでいいのかと思わず苦笑したくなったが、痛みでそれどころじゃなかった。
大腿骨骨折。幸いそれは完治したが、少し歩くのにびっこを引くようになった。ただそれだけじゃなく、あらゆる事をするのに緩慢で不器用になったと感じるようになった。
「和男さん、いつでもわたしを呼んで」
立ち上がる動作一つにも苦戦していると、優子が心配そうに寄ってきてそう言う。介助する腕力だけは、さすがに機械だと思えた。
優子は風呂場での事故を防げなかった事を気に病んでいる……と思えるのは気のせいか。機械が気に病むなんて事があるのか。和男はそう思いながら風呂場に向かう。
医者には訪問介護などを利用するように勧められたが、優子がいるので必要ないと思った。こういう時のために優子を買ったんだ。ここで有効活用しないでどうする。
和男が風呂に入る時は、もう優子は一時たりとも和男から目を離さなくなった。そう広くはない風呂場の中でエプロンや服が濡れるのも構わず、和男を支え続ける。手を離すのは椅子に座った時だけだ。
最初は機械とはいえ、優子に裸を見られるのには少し抵抗があった。どうしても「恥ずかしい」という気がするのだ。妻の優子には見られても抵抗なくなっていたのに。
人間の羞恥心という感情を理解しているのか、優子は必要以上に視線を動かさないし、触れようともしてこない。
でも和男は湯船に体を落ち着けた時、ふいに思った。
「おまえ、服を脱いだらどうだ。毎回濡らしていては洗濯も大変だろう」
優子は和男に視線を合わせた。
「いいの?」
「何を遠慮する事がある? たまにはおまえも人間のように風呂に浸かってみてはどうだ。案外気持ちいいかもしれないぞ」
和男は深い考えは何もなくそれを口にした。優子はなぜかちょっと視線をずらして頬を染める。そう言えば顔色を変える機能もあるのだななんて事を今さら思いながら、和男は優子が脱衣所に下がったのを見送っていた。
優子はきれいだった。顔は五十代のおばさんだ。だがそれでも本物の優子と違って整っていて、きれいなおばさんと言える。いつも後ろで括っている長く黒い髪は、くるっと巻いてアップで留めている。
ある程度のしみとしわを再現した顔と違い、首から下は恐ろしく透き通った白さだった。大きすぎず小さすぎもしない乳房はふっくら膨らんでいる。腰はモデルの女の子のようにくびれ、もちろん下っ腹など出ていない。太ももも程よい太さで、ラインが美しい。
和男は瞬時に販売店で展示されているサンプルを見た時を思い出した。スリムなモデル体型のタイプ。胸が大きなふくよかなタイプ。幼女のような細身のタイプ。もちろん裸のまま展示されていた訳ではない。だが体は精巧に作られていて、そういう事にも使えるのだと、営業マンは言っていた。
営業マンは決して嫌らしい顔などしていなかったし、和男もそういう機能には興味がなかったから、適当に指差して決めた。
和男はかっと血が上った。
「服を着ろ! 服を着るんだ!」
優子は驚いた顔をし、「ごめんなさい」と言って、すぐに風呂場のドアを閉めた。いや、少しだけ開けていた。もちろん和男の様子を知れるようにだ。
「ここにいるから、出る時は声をかけてね」
服を着たらしい優子が半透明なガラスの向こうで跪いている。顔を出さないのは今の和男にはありがたかった。年甲斐もなく真っ赤になった顔を見られたくはなかった。
先ほどの優子の表情が頭から離れない。恥じらい。優子が頬を染めたのはそれが理由だったのだ。そんな感情プログラムを組んだ人間を呪いたくなった。
「悪趣味だ……!」
和男はそう呟いていた。
その頃から和男の態度が変わった。何かにつけて優子に当たり散らすようになった。
「この味噌汁、全然味がしないぞ!」
「ごめんね、和男さん。作り直すわ」
「そういう時は申し訳ありませんと言え!」
自分で直させたはずの口調にも怒鳴り散らした。まるで正和になったようだと思う。いや、ようやく正和の気持ちが理解できたと言った方がいいのか。和男は優子に当たるたびに情けないような苦しいような気分になった。
いっその事、廃棄してしまうか?
そんな事が頭によぎるようになる。だが決して安くはない大金を払って買ったものだ。それに今の体が不自由になってきている和男に、優子の介助は必要だった。
そんな日々が続いた日、和男は酒をあおっていた。普段は嗜む程度にしか飲まないが、その日はイライラが募っていた。
「和男さん、もうダメよ。体に悪いわ」
優子はそんな事を言って、どんなに怒鳴っても酒を出さなくなった。
「この……! たかが機械のくせに!」
和男は優子を叩きだした。
優子は大人しく叩かれている。イラついて組みかかると、優子は和男に衝撃にならないようにゆっくり倒れこんだ。和男はそのまま馬乗りになり、なおも優子を叩いた。
人工皮膚に覆われているとはいえ、軽量合金の骨格を持つ優子を叩けば和男の手も痛い。いちいち痛みに顔を歪ませながら、和男は怒鳴っていた。
「優子はなあ、そんなきれいに笑わないんだ! もっと大口を開けて笑う! 時には皮肉も言うし、おれをぞんざいに扱ったりもする! それにたまには温泉に旅行に連れてってよとおれを責めたりするんだ! 普段は一緒に買い物にも行かないっていうのにな!」
和男は「う、お、え」とまるでえずくように荒い呼吸をする。感情を吐き出すのすら辛い事に気づいた。
「和男さん、落ち着いて」
優子が体を起こして、背中をさすろうとしてくる。しかし和男はその手を振り払った。「ごへっ、ごふっ」と、情けない声と共に口から唾が吐き出される。
(これが老いか)
心の中で自嘲したが、笑みが漏れる代わりに嗚咽が零れた。