妻の手~優子~1
おれは幸せだった。
ニ〇八二年四月十一日午前五時二九分、太田川和男が自宅で最後の息を吐いた。
呼吸停止、心臓拍動停止、瞳孔反応停止。それらを確認し、看護用アンドロイド「優子」は死亡時刻を自身の電子頭脳内にあるカルテに記録する。死因は自然死――老衰。
九十七歳の大往生だ。だがそんな感慨もなく、優子は死亡診断書の交付の準備をする。かつて医者と一部の看護師にのみ許されていたそれが、時代を経て看護用アンドロイドにも許されるようになった。
それから時刻が六時を刻むのを待って、和男の一人息子、正和へ電話をかける。電話に出た正和は父親の訃報に慌てる事なく「そうか」と返事した。もう死期が近い事は分かっていたのだ。
「葬式の手配もしてくれるんだろう?」
正和の声色に感情はこもっていない。むしろおまえがやって当然だという響きを含んでいる。優子は「もちろんです」と答える。機械が喋っているとは思えない柔らかな抑揚のある声だ。
「生前の太田川和男様から、葬式のプラン、財産の処分方法を伺っております。法律上、わたくしが喪主とはなれませんので、喪主は正和様にお願いする事となりますが、葬儀社への手続き等はわたくしの方で行わせていただきます」
アンドロイドの進化に伴って、アンドロイドにさせていい事、させてはいけない事の法整備が整ってきている。電話の向こうからは返事の代わりに「ふんっ」と鼻を鳴らす音が聞こえる。
「和男『様』か。やっぱり貴様はただの機械だった」
正和がそう吐き捨てるように言ったのが聞こえた。優子の脳内のコンピューターは、「申し訳ありません」という返事をする事を選択した。しかしもうその時には電話は切れていた。
「優子」は和男が七十二歳の時に購入した人型アンドロイドだ。家事炊事が可能なもの、介護、看護の機能を備えたもので明らかにロボットだと分かる外見のものは一般に普及している。だがそれらの機能を複合的に備えたヒューマノイド型はようやく市場に出回り始めた頃だった。
「この顔にしてくれ」
顔は好きなものが作れると聞いたので、和男は妻の六十歳手前くらいの頃の写真を見せた。若すぎる外見は自分と並んで歩くと塩梅が悪い。かと言ってあまりにも老けてきた今の顔を選ぶのも気が引けた。
妻の「優子」は末期がんだった。病院でその痛みと戦い、残り少ない余命を宣告されている。和男は先刻まで妻の見舞いに行っていた所だ。
眠ったまま時々呻く妻の手をずっと撫ぜていた。骨が浮いた少し冷たい手。しみが多くて、皮が妙に柔らかく思えた。
(ああ、この人は死ぬのだ)
そう思った時、和男はその足でアンドロイドショップへ向かっていた。車の販売店に似た広い店内だ。そこで貯金をはたき、人型アンドロイドを買った。外見をほぼ完全に人に似せたそれは、ちょっとした家が一軒買えるくらいの値段だった。
七十の退職の時までそれなりの大企業に勤めていて、資産運用にもそこそこの手腕があった和男だったから、そこまで痛い出費ではなかった。余計な贅沢さえしなければ、その後の老後も充分暮らしていけるだろう。
注文したアンドロイドは二週間ほどで自宅に届いた。販売店の営業マンが、運搬用ロボットと一緒にやってきて「人」一人が入った専用ケースを客間まで運んでくる。
和男の家は和風モダンのスタイルだ。客間は畳の間となっている。そこに置いてあった座卓を端に寄せて、大層な量の緩衝材に包まれたそれが姿を現すのを待つ。
ケース内に寝ていたそれの顔を見た瞬間に抱いた思いは、「少し違うな」だ。確かに妻と似ているが、やはり本物とは違うと感じてしまう。
営業マンは型番、型式を読み上げ、「こちらでお間違いありませんか?」と問うてくる。
「ああ、間違いないよ」
自分でもわからないささいな違いで、妻の顔と違うと文句を言ってみても始まらない。営業マンは白い手袋をはめ、「少しお触りしてもよろしいですか?」と、殊更丁寧に断りながらアンドロイドを起こす。首の後ろの蓋を開け、起動スイッチは和男に入れさせた。
「電源オン。オペレーションシステム起動。初期設定を開始します」
アンドロイドは最初はいかにも機械らしい事を喋っていた。営業マンがいちいち和男に確認しながら、設定を行っていく。アンドロイドは和男の顔、体をスキャンし、和男を主だと認識した。
基本データはインストール済みで、その他にも教えれば、いや、教えられずとも自動学習する機能があるだのなんだのと営業マンは説明している。もちろん犯罪行為や人を傷つけるような事は、命令されてもできないようにプログラムされていると言う。和男はそれを上の空で聞きながら、じっとそのアンドロイドの顔を見つめていた。
まつげが長すぎる。もっとしみがあった。髪はそんなに艶がないし、声も違う。さっきまでわからなかった違和感がだんだん頭をもたげてくる。
「これからよろしくお願いします、和男様」
アンドロイドはひざまずいて頭を下げた。所作だけは本物の人間のようだった。
営業マンの長い説明が終わった後、和男は疲れて寝室のベッドで横になった。ドアをノックする音が聞こえる。
「和男様、失礼いたします。入ってもよろしいですか?」
「いいぞ」
和男は気だるいと思いながらも返事する。アンドロイドが入ってきたが起きる気にはなれず、寝たまま「なんだ?」と聞く。
「差し支えなければお夕食の準備をさせていただいても構いませんか?」
和男の家には自動調理を行ってくれる機械はない。妻の「優子」は自分で料理をするのが趣味だったからだ。和男自身はほとんど料理ができないので、専らフードデリバリーサービスを利用していた。
「材料は何もないぞ」
「決済情報を頂ければ宅配サービスに注文いたします」
和男は仕方なく起き上がり、電子決済用の情報をスキャンさせる。
「ここはもうおまえの家なんだ。敬語を使うのはよせ。そしておれの事は和男様ではなく、和男さんと呼べ」
「わかったわ、和男さん」
アンドロイドは気味の悪いほどきれいな笑みを見せる。和男はそれから目を逸らし、また横になりながら言った。
「それからおまえの名は『優子』だ」