第二十四章 決断
ジュードとの話を終えた後、彼がいた獄舎を出たアリーシャは祖父の元へと向かった。
予定の時間まではまだ余裕があるが、なんせ広い王城だ。移動に時間をとられることは分かり切っているのでこころなし早い足取りで急ぐ。
その甲斐あって、約束していた面会時間よりもかなり前の到着となったが、控えの間があるので問題はないだろう。
(待ってる間に、ちょっと頭を整理しておこう)
けれどアリーシャのそんな段取りは、国王の侍従である男性の声掛けによって覆された。
「お待ちしておりました。どうぞお入りになってください」
柔らかく耳に心地よい低音はアリーシャも幼い頃から耳にしていたものだ。その彼の言葉を自分がそうそう聞き間違えるようなことはない――のだが。
「え?」
アリーシャはとっさに壁にある時計を振り仰いだ。時計の針が誤っていなければ、予定されていた時間はまだまだ先の筈である。
「先においでになられていた方とのお話が少し早めに終わりまして、丁度陛下の手が空かれたのです。ですから姫がいらっしゃいましたらすぐにお通しするようにと、仰せ付かっております」
アリーシャはにこやかに頷いた。
「そうでしたか、ありがとう」
努めて穏やかな表情と声音を取り繕い、先導してくれる侍従に従う。といっても、それはあくまで表面上だけの事で、アリーシャの心中は大荒れだった。
(も、もうちょっと、心の準備をしたかったんだけど……)
逃げ腰だといわば言え。
自覚しつつも、それでもアリーシャがそんな悪足掻きをしたくなるくらいには、この先に待っている話し合いが厄介なものだということは分かり切っていた。
……とはいえ、アリーシャのそんな覚悟は全く意味を為さなかったのだが。
なんせ祖父はアリーシャの顔を見たその直後、前置きもなくこう告げてきたのだ。
「近くおまえの立太子の儀を行う。急いで準備を済ませておけ」
開口一番の台詞がそれとは、ちょっとひどくないだろうか。
頭の隅でそんな感想を抱きつつ、アリーシャは淡々と言う。
「もう少し説明をお願いします」
傍から見れば、国王相手には不遜とも呼ぶべきこの態度は、アリーシャが落ち着き払っているからのように見えたかもしれない。だがこれは単に、アリーシャの余裕が皆無だったがゆえのことだった。
「説明が必要か? こうなることはおまえも分かっていただろう」
慌てふためいているアリーシャの内心を察してか、祖父の声は重々しかった。
「アレクシスをこのままにはしておけん。かつてのセーガン侯爵令嬢との婚約破棄をはじめとして、あれからは人が離れていく一方だ。しかも、根本的にその理由を理解できないときている。あれに寄って来るのは利用しようとする者だけで、本人には傀儡である自覚もない。挙句の果てに、己が身を投げうってでも守るべき国民や国土を、自分にとって不都合であるというだけで切り捨てるときた」
そう語る祖父の顔には怒りも嘆きも一切なく、ただただ事実を口にしているだけのようだ。
(否定はしないけど……、でも一応、そのひとは他ならぬ貴方の息子なんですが……?)
そして、不本意ながらアリーシャの父親でもある。
「ですが、こう言ってはなんですが、あの方の振る舞いは今に始まったことではないでしょう?」
「そうだな、確かに今更だ。けれども、あれの妻が動いたのが決定打となった」
「……………………………………」
やっぱり、とアリーシャは胸中で呟いた。
「おまえが学園に入学してから、ようやく気づいたらしいが……。おまえの結婚相手を探そうと学園に在籍している貴族たちの顔ぶれを調べているうちに、高位貴族のほとんどが婚約を整えているということを知ったらしい。それで自国がだめなら他国の貴族ならどうかと考えたようだな。だが、検討しようとしたのがオイヴァだったのは悪手だった。しかも、オイヴァの貴族との繋がりを得るために働きかけた先がソーウィン侯爵家だ」
無言で聞いていたアリーシャの眉間が寄って行く。
貴族間の均衡や力関係に疎いあの母らしいが、でもどうしてこう、狙いすましたようにろくでもない相手に手を伸ばそうとしたのだろう。
「それで、出てきたのがカストーリア公爵家との縁談というわけですね」
「あの公爵家はオイヴァの王家と縁戚だからな。家格だけで言えば問題ないが、おまえが嫁ごうものならいずれ産ませた子を名目にアナトール王位の継承権を主張してくるだろう」
「アナトール王家としても、私個人としても極力関わり合いにならないのがいい方々ですね」
それなのに、そんな考えの主に自ら接触しているのが他ならぬアリーシャの母親ときた挙句、そのひとは同時に国王の義理の娘でもあるのだから、本当にもうどうしようもない。
(まあ、だからこんなことになったんだけど)
そんなことを思いながら、アリーシャは軽く首を振る。
「では、二人ともに治療に専念してもらった方がいいですね。聞き及んだところによると、私がモラヴィアに行っていた間に、難治性の病に罹られた事実が発覚したということのようですが」
アリーシャが戻るなり知らされた話では、病を発症した両親はどうやら王城から離れた森の奥の離宮で療養ということになったらしい。
名目上は病が伝染する可能性を鑑みての対処だそうだが――。まあ、つまるところ態のいい監禁である。
(本音を言えば、これだけ事を起こしておきながら、穏便すぎる退場だとは思うけど……)
とはいえ、元王太子夫妻が国土を売る企みに関わっていたという事実が公になれば混乱は必至である。だったら茶番だろうが何だろうが素知らぬ顔で押し通すしかあるまい。
「ああ、療養期間は相当長くなるだろうな」
祖父はしれっとした顔で回答した。この分だと、彼らが『治る』日が実際に訪れるのかどうかは大いに疑わしいところである。
でも、アリーシャはそれ以上触れなかった。正直、目の前にはそれを遥かに上回る大問題が迫っているのだ。
「念のためお聞きしたいのですが、アロイスでは駄目なのでしょうか」
「あの子ではなくあの子の外見が、だがな。あの子はあまりにも、見た目が父親に似過ぎている。あれでは、間違いなく父と同一視されて潰されるだろう」
「顔はそっくりでも、中身は全く違う人間なんですけどね」
親子ではあっても別人なのに雛形扱いは失礼だろうと、自然アリーシャは苦い口調になった。
「そうだな。だが、それだけではない。何よりあの子はまだ幼い。王の後継として名指しされれば、必然的に様々な者たちが寄って来ることになる。成長途上の段階で、多種多様な思惑に晒され続けた子供が歪にならないと思えるか」
「……………………………………」
アリーシャは答えられなかった。確かに、まだ自我の完成しきっていない子供に背負わせるには、この荷物は重すぎるだろう。
「アロイスにはまだ早く、そしてアントナンもすでに継承権を放棄した。だったら、残っているのはおまえだけだ、アリーシャ」
アリーシャは唇を強く引き結んだ。
力をこめたのは、少しでも気を抜けば何を言ってしまうか分からなかったからだ。
――それでも、自分に返せる言葉は一つしかないと、そう分かってはいた。
アリーシャがモラヴィアから王都に帰還した、その翌日のこと。
アリーシャは随分と久しぶりに感じるルヴァス学園の庭園に佇んでいた。
今は二限目の授業の時間なので、周囲にアリーシャ以外の人の姿はない。耳に届くのは、揺れる梢と石畳を転がる枯葉の乾いた音だけだ。
アリーシャはそっと青の瞳を細め、人気のないその光景を眺めていた。
ひゅうっと鋭い風の音が鳴り、アリーシャの髪をさらう。
北方のモラヴィアから戻ってきたからか、冷えた秋の風だというのにあまり寒さは感じない。
「ここもこれで見納めかな」
ぽつりとした呟きは誰に聞かせるでもなく、唇から零れ落ちたものだった。
なので、不意打ちのように聞こえて来たその声に、アリーシャの心臓は大きく跳ね上がった。
「どういうことだ?」
「え……?」
アリーシャは慌てて振り向く。するとその先に、こちらに歩み寄って来る銀髪の少年が見えた。
(え、どうしてここに?)
だがそんな疑問を抱いているうちに、彼はさっさとアリーシャの前に来ていた。
常と変わらぬきちりとした制服姿に、アリーシャは首を傾げる。
「……授業中なんじゃないの?」
思わず口を衝いて出て来た台詞に、カーライルは藍色の目を眇めた。
「出席するのは次の授業からだと、俺は事前に届け出てるぞ。自分を棚上げにして何を言ってる」
確かに、ここが学園でアリーシャがその生徒であり、しかも今日は休日でも何でもない普通の日なのだから、彼の指摘は誤りではない。
(まあ、でもそれも、今日までの話なんだけどね)
アリーシャは肩を竦めた。
「別にさぼってるわけじゃないのよ。さっき学園長には話して来たもの」
怪訝な視線がアリーシャを向く。その鋭い目に続きを口にするべきかどうか少し迷ったが、別に隠すようなことではないと思い直した。
「今後、私が学園に授業を受けにくることは多分ないから」
「……それは、学園を辞めるってことか?」
「籍は置いておくわ。試験さえ通れば、学園を卒業するのに何の問題もないでしょう?」
実際学園に在籍している生徒の中には、そうしている者たちもいる。
体が丈夫でなかったり、ゆえあって王都から遠い場所にある領地を長く離れられないなどの特別な事情がある場合が多いが、授業に出席せずとも学園内で定期に行われる試験で及第点を取れれば進級や卒業資格が得られる措置があるのだ。
「学園の課程は入学前に全て履修しているしね。この学生生活は祖父が叶えてくれた猶予期間みたいなもので……。でも、もうそんな悠長な状況ではなくなったから」
学園での三年間は鳥かごの扉が完全に閉まり切る前に与えられた、束の間の自由だったのだ。
(正直、もう少しくらいは許されると思ってたんだけど)
王族の慣例どおりにいけば、せめて卒業まではその時間があった筈だった。
それが通用しないことになったのは、偏に両親の行動による結果だ。
けれども、被害者ぶる資格はアリーシャにはない。
自分だって、一度だって本気で彼らを諌めることはなかったのだから。
「……なら、おまえは」
珍しくカーライルが口ごもった。続ける言葉に迷っている。
でも、それはつまり彼がアリーシャの事情を察しているということだった。
アリーシャは俯く代わりに空を見上げた。高く澄んだ青を見つめたまま、うん、と軽い口調で言う。
「父がこうなってしまったら、立つのは私しかいなくって」
意識したつもりはないが、思った以上に明るい声が出た。
風は冷たく寒々しいけれど、頭上に広がる青空はいっそ嫌になるくらい晴れ渡っていた。……本当に、こんなに明るい陽射しの下では、落ち込むこともできやしない。
「順当に行けば、弟なんじゃないのか? おまえじゃなくて」
ある意味尤もなカーライルの指摘にアリーシャは苦笑し、首を振った。
「あの子はまだ十一歳よ? こんな重い物を背負わせるには早すぎるわ。いつかそのときが来たら、あの子に全てを譲るけど」
それをあの子が望むなら、とアリーシャは思っている。でも、今は駄目だ。
現国王が壮健であるうちはいいだろう。けれど、いつまでそれが続くかの保証はない。祖父がそれなりの年齢であるこの状況で、弟に重責を負わせるにはあまりにも不安要素が大きかった。
そして、かつてあった大叔父というアリーシャ以外の選択肢は、彼が一昨年心臓を悪くしたということから必然的に見送られている。
「……だから、どうしても中継ぎになる人間が必要なのよ。もうこうなったら腹を括るしかないでしょ」
ただ、そう話しつつも、この成り行きが最悪だと誰より思っているのは他ならぬアリーシャ自身だった。どこまでいっても自分は平々凡々な人間だ。生まれてからずっと王族として過ごしていたにも関わらず、正直未だに特権階級の意識に馴染めずにいるくらいである。
だから後はせいぜい、政略結婚の駒として役立てれば上出来だと考えていたのに――、それが次期国王の身分なんて分不相応にも程があるだろう。
(誰の言葉だったっけ? 『為せば成る』なんて、無茶言うなっての)
だが、もう泣き言を並べている場合ではない。無茶だろうが無謀だろうが、やるしかないのだ。
「でも、それはおまえが望んだことなのか」
言いにくい事をはっきりと口にされ、アリーシャは小さく笑う。
「それは、受け取る人間次第でどうとでもとれる質問ね」
今、静まり返ったこの庭にいるのは自分と彼の二人だけだ。だったらいいかとアリーシャはカーライルに向き合った。
「望んだのかと問われれば、答えは否よ。でも、それでも、捨てられないと思ったんだもの。なら、抱えていくわ」
だって、その重荷ですら己を形作っている一部なのだ。そう簡単に切り離せるものではない。
誰に強制されるのでなく、他ならぬ自分の心がそう言っているのなら、それは受け入れざるを得ないだろう。
たとえその先に待っているのが、自分が潰される未来であったとしても。
「まあ、力不足だろうと案じる声はすでにあがってるけどね」
国王の決定に渋い顔をしていた重臣たちを思い出す。この先にどんな騒動が待っているか、想像するだけで頭が痛くなりそうだ。
自嘲気味に呟くアリーシャに、カーライルは苛立った表情になった。
「誰だ、それは。護衛一人で王都を飛び出してくるような姫に、よくもまあそんな台詞が言えたもんだ」
「それ、褒めてるの? もしくは貶してる?」
「ただの事実だろうが。それと、俺は単に、世界の広さを理解している鳥に、玉座なんて鳥かごは息苦し過ぎるんじゃないかと思っただけだ。――俺の母親みたいにな」
付け加えられた一言に、アリーシャは察した。
「クレメンティーナ様から聞いたのね」
「ああ。トリスレードは勿論、母上の実家のセーガン侯爵家もおまえを支持すると明言した」
トリスレード伯爵家に加え、貴族の中でも勢力を持つセーガン侯爵家が後ろ盾としてついてくれるのは、とてつもなく有難い話ではある。それは間違いないのだが――。
「貴方は、いいわけ?」
アリーシャは思わずそう確認してしまった。そんな念押しをしたくなるくらいには、カーライルの顔は苦虫を噛み潰したようなものだったからだ。しかし意外にも、返ってきたのは小さな溜息だけだった。
「よくないが、反対する理由がないからな」
「…………………………………え?」
思いがけない言葉に、アリーシャは本気で目を丸くした。
「何なんだ、その顔は」
「え、いや、だって」
言葉が見つからず、アリーシャは視線を彷徨わせる。
「……だって、トリスレードが私の側につくってことは、それは必然的に貴方もそうなるってことでしょう?」
それは不本意極まりないことではないのかとアリーシャが躊躇いがちに続けると、カーライルは少しだけ沈黙し、それから口を開いた。
「……別に、おまえにつくのが嫌なわけじゃないからな」
そう言いつつも苦り切った表情に、思わずアリーシャの首が傾く。だが、彼がそれ以上を話すことはなかった。
アナトール国第十六代国王、アドルフ・ルーベル・ランセルが孫娘であるアリーシャ・エレネス・ランセルを己の後継に指名した話は、瞬く間に国内に広まった。
次期国王は一人息子である王子以外にないだろうと国民の多くが思っていたなかで、このことは驚愕とともに受け止められたようだ。だが、同時に公表された王子夫妻の病の報せに、人々は不承不承ながらも納得したらしい。
「多少の混乱はあったけど、それほど大きな騒動にはならなかったのは幸いだったわね……」
これまでとは一変して、急激に慌ただしくなった日々のなか、ようやくできたわずかな休憩時間でアリーシャはそんな感想を零す。
本当に、こうして一人でゆっくりお茶を飲めるのは一体いつぶりだろう。
ぼんやりとそう思いながらティーカップを傾けていると、続き部屋の方から控えめな声がした。
「アリーシャ様」
「レイチェル?」
アリーシャが呼ぶまで控えているようにと命じていた侍女が、静かな足取りで歩み寄ってくる。
そして、彼女は落ち着いた様子で言った。
「姫様とお会いしたいと、エリオット・ウィズリー様がおいでになられております。面会なされますか?」
ぱちりとアリーシャは瞬いた。
「エリーが?」
頭の中で本日の予定を一通り浮かべてみるが、幸いそれほど急ぎの用件はなかった。多少彼と話したとしても問題はないだろう。
「それなら、すぐに会うわ」
そう言うなりアリーシャは椅子から立ちあがり、彼のいる部屋へと向かった。
「エリー?」
室内へと足を踏み入れたアリーシャはちょっと視線を巡らせ、ベランダに面した大きな硝子戸の方向へと呼びかける。
「ごめんなさい、待たせた?」
歩み寄りながらそう話すアリーシャに、庭を背景に立っていた少年は軽く首を振って否定した。
「いや、むしろもっとかかると思ってた。今のおまえがとんでもなく多忙だってことくらいは知ってるからな」
エリオットの言葉が紛うことなき事実なだけに、アリーシャはつい苦笑いを浮かべてしまう。
「確かにね。実際こうして会いに来れたのは、今日はたまたま余裕があったからだもの。でも、相手が貴方ならどうとでも時間をやりくりするわよ? だってそれだけの理由があるんでしょう?」
次期国王に就く者として、アリーシャが現状怒濤の勢いで教育を詰めこまれていることは当然彼の耳にも届いていることだろう。
それを承知の上で話をしに来たのだから、彼の用件が単なる四方山話のわけがない。
そう思いつつ、アリーシャは半歩程の距離を取ってエリオットの横に並んだ。そのまま落ち葉の敷き詰められた寒々しい冬の庭を眺める。
本格的な冬が来るのはまだ少し先ではあるが、それでもこうしていると硝子越しの冷えた外気が伝わってきた。
「……報告が遅れて、すまなかった」
「モラヴィアのことなら、そんなに気にすることじゃないわ。直接貴方と会って話をすることはできなかったけど、でも、あれだけきちんとした文書を出してくれたんだもの。謝られるようなことは何もないでしょ」
互いに唇をほとんど動かさず、潜めた声での会話を交わす。この声量なら、隣室に控えている侍女の耳に聞こえることはない筈だ。
「むしろ、……あのとき、私一人先に王都に戻ってしまってごめんなさい。そのせいで、貴方にも後始末を任せることになってしまって」
アリーシャはそのまま、気掛かりだったことの謝罪を述べた。
「おまえというより、おまえと一緒に父が消えたことの方が大変だったな。おかげで代理として、山ほどの事務処理をあちらでこなすことになった」
とたんにうんざりとした顔になったエリオットに、アリーシャは小さく吹き出した。
「将軍が、書類仕事が嫌いなのは相変わらずなのね」
「やらなきゃいけないことは分かってるし、やろうと思えばできるんだぞ? なのに面倒がって俺に押し付けて来るんだから、仕事放棄だろ」
エリオットの意見にはアリーシャも概ね同感だった。だが、今回の帰還に関しては自分も付いて行った身である。それだけにあまり大きな声では言えず、アリーシャはさりげなく視線を逃がした。
「だから、俺が報告をあげなくても、父からの話で概要が伝わってることは分かってるんだがな。まあ、正直口実だな」
そこで、エリオットは更に小声で言った。
「――こんな用事でもなければ、おまえとはろくに話もできないからな」
「……そうね」
アリーシャは顔を動かすことなく、目前の硝子に映り込んだエリオットを見つめたまま短くそう返した。
「こうして会って話す機会は、今後はあまりないかも」
かも、という曖昧な言葉に留めたのは、少しだけアリーシャの逃げの気持ちがあってのことだ。
こんな風に自分たちが気の置けない言葉を交わせるのは、次はいつとなることだろう。……いや、正直、次があるのかどうかも分からない。
「それで、エリーはどうしてここへ? 何を話しに来たの?」
ひそやかな問いかけに、エリオットはちょっと黙りこんだ。
そのまま静かにアリーシャが待っていると、ごく小さな声が落ちる。
「おまえ、ちゃんと眠れてるのか。明らかに顔色が良くないぞ」
「――まあ、必要最低限度はね。睡眠時間を削ってでも取り組まないと、とてもついて行けそうにないの。元々私が受けていた教育は、あくまで王族の一員って意味でのものだったから……。王に必要とされるような内容まで、深く教わってないのよ。それでも、のんびり学んでいる余裕はないしね」
勉強と実務、更にはその合間に多くの人間との顔合わせが入るのだ。まさしく息を吐く間もない忙しさである。
「それはそうかもしれないが、明らかに根を詰め過ぎだ。父も心配してた、おまえこのままじゃ倒れるぞ」
低く言われ、アリーシャは瞬いた。思わず苦笑する。
「それで、会いに来てくれたの?」
「父から聞いただけでも明らかにやり過ぎだろ、おまえの周囲の人間は何を考えてるんだ。いくらおまえが優秀だからって、限度ってものがある。短期間で王太子として必要な教育を履修するなんて、どんな無理難題だ」
「あー……」
エリオットの言っていることは尤もだと、アリーシャも思う。
だがもう、状況がそれを許さないし、足りない部分が多ければ多いほどこの先苦労するのはアリーシャ自身なのだ。
だったら、正面から取り組んだ方がまだましである。
(というよりも、単にここで非行に走れるような若さとか熱意とかの持ち合わせがないだけなんだけど)
なんせ外見が十代半ばでも、中身はその倍の精神年齢なのだ。無駄に足掻くよりは冷静に損得で対処する方が早いだろうと考えてしまうくらいには、内面がすれている自覚はある。
(そういう意味ではあんまり認めたくないけど……、私に『前』の記憶と知識があるのはまだましだったのかしらね)
十代の少女がいきなり次期国王の座に立たされるのだ。しかも、すでに表舞台から退場させられているとはいえ、厄介の種である両親といつ荒れるともしれない国内外の情勢。頼みとする祖父はまだ壮健ではあるものの高齢だ。そんな状況下で弟を守りつつ切り抜けるなど、無茶振りにも程があるだろう。
「三年、いや後二年か。たったそれくらいの学園生活ですら、おまえから奪うのかよ」
エリオットの声音には静かな怒りが見えた。
それが本来であれば三年間だけ許されただろう、アリーシャの仮初めの自由だったと知るからこその憤りに、アリーシャは小さく笑う。
「うん、私にはそんな贅沢はできないから」
有り得た筈のその時間を、惜しいと思わないわけがない。ただ、それでも諦めてしまえるのはアリーシャにとっては別の生でそれを過ごした記憶があるからだ。
(あの学園で三年を送れたら、それはそれで面白かっただろうとは思うけどね。でもなあ……)
「それに、エリーには本音を言うけどね、多分私は学園にいない方がいいと思うの。学業という意味で私があそこで学ぶことはもうないもの。なら、これ以上他の生徒たちに影響を与えたくない」
そう思ったのは、やはり自分の存在はどこまでもイレギュラーだからだろう。正直なところ、自分がここにいることは様々な意味でフェアではないと、そう感じてしまう。
しかし、アリーシャがそこまで言ってもエリオットは渋い顔のままだった。
理解しつつも受け入れがたい、そんな雰囲気を漂わせている。
(微笑ましいなんて、私が思ってるとばれたら怒られそうね)
それでも、ある意味では間違いなく自分よりも遥かに年下の彼や彼らは、やはりアリーシャが守るべき存在なのだ。
だからきっと、守ろうと思える相手を増やせたこの一年足らずの学生生活は、決して無駄ではなかったのだろう。




