第一章 アリーシャ
そこは、柱も床も壁紙ですら、どれをとっても一級品と分かる贅を尽くした一室だった。
そんな広い部屋の中で、一人の小さな少女が座っている。
静まり返った室内には、ぱらぱらと紙のこすれ合う微かな音が響いていた。ちんまりとした紅葉のような手がページをめくる度に、その物音はあがる。
小柄な体には余る豪奢な椅子に腰を下ろしていたアリーシャは、半ばまで読み進めた所でその本を閉じた。
「運命の出会いっていえば、確かにそうなんだろうけどね……」
手にしていた一冊を膝に置き、アリーシャはどんよりとした青色の目を宙に彷徨わせた。
幼い声は乾き切り、木枯らしのような寒々しさを漂わせているが、ここはアリーシャ以外誰もいない。多少感情を露にしても差し支えはないだろう。
というか、自分の部屋でくらいは常時被っている猫を外さないとやってられない。
何しろ、ここから一歩でも外に出ようものならアリーシャの私的な部分などないに等しいのだ。
王家の娘という己の身分を考えれば文句をつけられるわけもないのだが、一挙手一投足に注目される生活は息苦しいにも程がある。
(しかも、〈今〉の私は王族だけど、私の中身……というか〈前〉の私はごく普通の庶民なんだし)
とはいえ、そんなことを口に出しても頭がおかしくなったと思われるのが関の山なので、このことは誰にも話したことはないのだが。
アナトール国王太子の長女であるアリーシャには、生まれたときから抱えている一つの秘密がある。
それは、普通の人間であれば持ちえる筈のないものだ。アリーシャがアリーシャとして生まれる以前に生きていたときの記憶――いわゆる、前世と言われる過去。
そう、この世界に誕生する前のアリーシャは、こことは全く違った世界で別の人間として生きていた。
二十代で亡くなったかつての自身の死因は定かではないのだが、朦朧とした記憶の中でもやたらと体が熱く、息苦しかったことだけは覚えている。最後に見た体温計の温度は、多分三十九度台の後半だった。風邪をこじらせて肺炎になり、救急車に乗ったような覚えはあるが、その後のことは曖昧だ。
ぼんやりとしたまま周囲の物音が遠ざかり、そして視界が暗転したと思ったら、何故かアリーシャとしてここにいたのである。
(生まれ変わったと気づいたときは、そりゃショックだったけど……。でも、新たに人生をやり直せると思ったら、まさかこんなハンデ付きだなんて)
アリーシャは重い溜息を吐き、両膝の上にある本の表紙を指でなぞった。
これは十年以上前に、国内でベストセラーになった恋愛小説だ。タイトルは〈花嵐〉。当時売れっ子で有名だった小説家が執筆したことと、これを流行らせたかったとある者たちの思惑によって、飛ぶように売れたという。
内容はよくあるシンデレラストーリーで、主役は王子と下級貴族の令嬢だ。二人は偶然の出会いから恋に落ち、紆余曲折を経た後に結ばれる。
この本が、単なる流行りの一小説であるというだけであれば、別段何の問題もない。
ただここで看過できないのは、この物語が実際に過去にあった恋愛を題材にしたものであるということと、なおかつ他ならぬその主人公たちがこのアナトール国の現王太子夫妻だという、動かし難い現実である。
そしてアリーシャは、その二人の間に生まれた娘だったりした。
おとぎ話に出て来るような大恋愛で結ばれた両親なだけに、子供のアリーシャから見ても二人の仲は睦まじく、それ自体は家族として喜ばしいことだ。
ただし、彼らの恋物語が喜ばしいものであるかどうかは、全く別の話である。
大概のおとぎ話というものは、そうして二人はいつまでも幸せに暮らしましたという結びで幕を閉じるものだ。
しかし、だ。
物語であれば、話が終わればそこまでだ。それより先のことは何もなく、ただただ幸せなだけで全てを片付けることができる。
けれども、現実はそう上手くいくものではない。
不幸かあるいは幸いなのか、アリーシャは大人と同程度の理解力と判断力に加え、前世の――、それも一般市民の感覚を持ち合わせていた。
そうして己の置かれた現状を把握するや否や、アリーシャは頭を抱えた。
(やめて、勘弁して! 何!? 何なの、この無理ゲーはっ!)
本音を言えばその場で絶叫したいくらいだったが、アリーシャにそんな気力は残ってなかった。それほどに、アリーシャの立ち位置は面倒くさいものだったのである。
アリーシャの父であるアナトール国王太子アレクシスと、その妃であるエレインの〈運命の恋〉はこの国で知らない者は誰もいないといっていい程有名な話だ。
貧しい男爵家の令嬢が、王子に見初められたという夢のような物語が現実に起きたということで、二人の結婚の際には多くの人間が祝福したという。
だが、光があれば当然影もあるものだ。
城下で両親が初めて出会ったその当時、父には幼い頃より定められていた婚約者の存在があった。
彼女は歴史ある侯爵家の令嬢で、父との仲もそれなりに親しいものだったらしい。幼馴染でもあるその人は、父にとっては将来の結婚相手というより、友人であり同士のような間柄だったという。
しかし敬意と親愛により成り立っていたその関係は、父と母が出会ったことによって崩されることとなった。
いや、正確に言うとその表現は正しくない。二人の出会いが一度きりで済んでいれば、まだ良かったのだ。なのに、彼らはまたしても巡り合ってしまった。
両親が再会したのは、アナトール国の貴族の大半が卒業を義務付けられているルヴァス学園の薔薇園だったそうだ。
そこがごく限られた上位貴族のみ立ち入りが許される場所とは知らず、迷い込んでしまった母も母で問題はあるが、見覚えのあるその女子生徒が下級貴族であることに気づきながらも指摘することをしなかった父も父だ。
更にそんな場所で逢瀬を重ねるなど、一体どこまで迂闊な真似をしていたのか。
幾ら注意を払っていたとしても、何度もそんなことを繰り返していれば第三者が気づくのは当然である。
けれども、薔薇園での密会の話を聞かされた侯爵令嬢が、婚約者に事実を問い質そうとしたときにはあらゆることが遅すぎた。
恋人たちの想いはすでに当人たちにも押し止めようのないところまできており、おまけに二人の関係は学園中の人間が知るところとなっていたのだ。
だから、その事件は起こるべくして起きたものだったのだろう。
ある日の夕暮れのことだったという。その日、薔薇園を訪れた王子は階段の下で倒れている男爵令嬢の姿を発見した。完全に意識を失っていた彼女は、即医務室に運ばれたそうだが、その後もしばらく目覚めることはなかったのだという。
最愛の人に襲い掛かった不運を、当初王子は心から嘆くだけだった。
だがその彼に、こう告げた者がいたのだ。
――貴方の大切な方を害したのは、他ならぬ貴方の婚約者ではないのですか。
愛しい少女の意識が戻らないことに心をすり減らしていた王子は、愚直にその言葉を真実と思い込んだ。そして、侯爵令嬢に真偽を問うことなく、彼女との婚約破棄を実行したのだという。
……おい、こら、ちょっと待て。
教育係の一人からその話を聞かされた時、アリーシャは言葉を失った。
どう考えても、これはありえないだろう。
恋しい思い人が意識不明の重体になって、混乱していたというのはまだ分かる。けれど、どうしてそこで一足飛びに婚約破棄になるのだ。
やるべきことは、他に幾らでもあっただろうに。そもそも倒れた原因が病気なのか事件なのか事故なのか、何故調べようとしなかった。しかも、どんな理由があって、ほとんど面識のない人間から吹き込まれた話を鵜呑みにするのだ。おまけに、長い付き合いを続けて来た幼馴染でもあり婚約者である相手に一切問い質しもしないなど、安直というか怠惰にも程がある。
とはいえ、王家と侯爵家における約束事である婚約が、そんなに簡単に破棄できるものだろうか。
幼女と呼んでもおかしくない年齢のアリーシャが、無邪気を装って質問したところによると、返って来た答えは次のようなものだった。
教師曰く、その頃のアナトール国境付近はきな臭く、アリーシャの祖父であり国王は国内各地に頻繁に出かけていたそうだ。信の置ける優秀な人材もあちこちに駆り出されており、王都に王子を諌めることのできる者は不在だったのだという。
そんなタイミングの悪さと、完全に恋による盲目状態の王子の暴走、加えて思慮深い侯爵令嬢の潔い撤退が噛みあった結果、婚約破棄が成り立ってしまったということらしい。
(遠方でその話を知ったお祖父様は、寝耳に水どころじゃなかったでしょうね……)
本当に、当時の祖父の心情を思うとアリーシャも胸が痛い。
なんせ現国王でもある彼は、アリーシャが自身の教育に携わる者たちの入れ替えを申し出たときにも、その願いを無下にすることなく聞き届けてくれた唯一の血縁なのだ。
そんな恩人でもあり祖父でもある相手には、当然アリーシャの思い入れも深くなろうというものである。
(だから、お祖父様にご迷惑はおかけしたくないんだけども)
それは確かに本心なのではあるが、今の己を鑑みても、できることなどたかが知れている。
別にアリーシャ個人にしてみれば、多少生まれた先が悪かった、の一言で片付けられる話である。だが、諸々の問題ごとが、自分以外の誰かに降りかかって来るとなればまた別だ。
具体的な例を挙げれば、それは半年前に生まれたばかりの、アリーシャの五歳年下の弟なのであるが。
生まれて来る前は男女関係なく、元気でありさえすればいいと呑気に考えていたアリーシャだが、王子誕生後に起きた人々の様々な動きにその認識は改めざるを得なかった。
水面下で行われている王宮での――より正確に言えば上級貴族たちの――ひそかな手配りや遣り取りについて、両親が察したような気配はない。
幾らのほほんとしたあの二人でも、この事実に気づけばさすがにうろたえる筈だ。なのに、そんな素振りは見当たらない以上、まず間違いないだろう。
けれども、祖父を含めたこの国の重鎮たちが、王太子夫妻にそれを伝える様子は見えない。そして、それが彼らの判断ならばアリーシャに口を出す資格はないのだ。……まあ、そもそも幼い娘の言葉に耳を傾ける両親でもないのだが。
(とはいえ、親は自業自得でもアロイスはねえ……)
アリーシャの脳裏に、ゆりかごの中からこちらへと手を伸ばしてくる幼い弟の顔が思い浮かぶ。
無垢な笑顔でアリーシャの指を握る金の髪と緑の瞳の幼子を見ると、さすがにその将来を案じざるを得なかった。
はーっ、とアリーシャは深い溜め息を吐いた。
前途多難なのは目に見えている。しかし、弟には一切罪はない。いや、勿論アリーシャにもないのだが、自分については外見はさておき中身はれっきとした成人女性なので、本当にいざとなればどうとでもなる。
でも、この先弟に襲い掛かる艱難辛苦を思うと、とても放ってはおけなかった。人間生まれる先を自分で選ぶことはできないとはいえ、これはちょっとあんまりである。
(ハッピーエンドのおとぎ話なら、その続きも平穏無事にいけばいいのに)
とはいえ、世の中がそう上手く運ぶようなものではないと知っているくらいにはアリーシャも大人であるので、ここは腹を括るしかない。