手に残る生々しい女の感触
会社に着いても、俺の心の胸騒ぎは全く収まらなかった。
むしろざわざわと落ち着かない違和感がずっと体のあちこちに残っていた。
まだ両手にはしっかりと西山の柔らかくて弾力のある肌の感触がこびりついていて、更にはふとした瞬間に西山の甘いシャンプーが香水の匂いが鼻をかすめてくるような錯覚さえ覚えている。
デスクの上に無造作に山積みに重ねられた書類や冊子の山に埋もれると、なんとなく落ち着きを取り戻せそうに一瞬はなるが、次の瞬間には俺の脳裏に西山の汗ばんだ背中や険しくも悩ましい表情をする顔が思い出されて、俺は闇雲にデスクを殴った。
「くそっ」
なんだって言うんだ。
俺はただ取材をしに行っただけだぞ。
大きなネタなるはずだったアパートでの宗教まがいな話は、浮気を望む女性の斡旋をする場所だった。
さらに俺にも同じような体験をさせられ、俺はかつて恋心を抱いた女性と一夜を共にした。
それは完全に夢であり、疑似体験であるものの、現実に限りなく近い夢はさらに現実味を増して、さらに夢の自由な補正も施され、俺の中で最高の夢となって記憶に強く植え付けられた。
そのとき、携帯電話がジャケットの内ポケットで振動した。
「こんな時間に誰だ?」
俺は訝しがりながら画面に表示された文字に唖然した。
「…西山?」
それは、紛れもなく、“あの”西山だった。
数時間前、お互いの夢の中で、獣のように欲求と欲望にすべてを委ねて快楽を漁った仲間だった。
短いメッセージだった。
「松山くん、久しぶり。元気?なんか急に懐かしくなって、連絡しちやった。今はまだ東京にいるんだっけ?」
懐かしいなんて、全くの嘘だと分かっていた。
ナナミが疑似体験をさせたおかげで、それは相手の西山にも同じように体感させられて記憶となって残ったのだ。
駄目だ。
と、俺の中での警鐘が鳴る。
駄目だ、ここで西山への思いを高めてしまったら、もう取り返しがつかなくなる。
俺は一度気持ちを落ち着けるために、一度携帯電話の画面をオフにしてデスクの上に置いた。
「寄りにも寄って、なんで西山なんだよ」
俺はむしゃくしゃした気持ちを拳に託して、また強くデスクを殴った。
新宿の街の、こんなに騒がしく落ち着かない様子をありがたいと思ったのは、産まれてはじめてだった。
すれ違う人々のほとんどからお酒の臭いがして、千鳥足になる酔っぱらいの姿を見ると、なんだか少しだけ心が穏やかになる気がした。
しかし次の瞬間には、憎らしいくらいに西山の肌や髪の感触が蘇り、俺の頭は彼女の柔らかな曲線を描くお尻や小高い丘のような乳房だったり、海のように艶やかに濡れる秘部を鮮明に思い出してしまうのだ。
西山からの連絡は、返していなかった。
返してしまえば最後。
俺は二度と妻の元へは帰れない、そんな気がしていた。
心を落ち着かせるために、新宿の街に出たものの、夢の中で西山と出会った交差点を通るときには、どこかに彼女がいないかと必死に探している自分がいることに気がついた。
彼女がいなくてホット胸を撫で下ろす反面、彼女がもしかしたら上京してきているのかもしれないと期待する気持ちが複雑に心の中で絡み合っていた。
俺の妻は、同じ大学の一つ年下で、西山と同じ寮に住んでいたので、お互いに知り合いだった。
むしろ、西山から彼女を紹介されたのだ。「いい子がいるよ」と。
妻は大人しくて、引っ込み思案で、でも心が優しくて、声は小さいけれども、とても献身的で何よりも俺のことを好きになってくれた珍しい相手だった。
西山と違って、地味な部類に入ると思うが、読書が好きで物知りなところや、勉強が好きなところ、大人の関係のときは、胸をくすぐられるような色めかしい声を出すところなど、俺にしかわからない妻の魅力はたくさん感じていた。
俺等は三人でよく遊んだし、飲みにも行った。
俺は西山と違って相手を選べるほど異性に好かれてはいなかったので、妻からの交際の告白を断る理由も、結婚の申し出を拒否する理由も何一つなかった。
「松山くんが、いいの」
と、妻はそれだけを何回も言った。
俺のどこが好きかを尋ねると、「髪が癖っ毛なところ」「目尻が切れ長なところ」「肩幅があるところ」と容姿から始まり、「意外と無視や小さい子供に優しいところ」「なんでも美味しいと食べてくれるところ」と内面にまで事細かく俺のいいところを無限に挙げてくれる人物だった。
逆に俺は妻の好きなところは、「俺の事が好きなこと」くらいだったが、せっかくこんな俺を愛してくれたので、せめて人並み以上の生活はさせてやりたくて、いまは専業主婦だが不自由ない生活をさせていると思う。
俺等の間には、子供はまだいない。
しかし、仕事ばかりの俺も、ようやく妻に申し訳ないことをしてきたという詫びの気持ちが沸いてきて、出世を機に、仕事は一区切りつけて、子供のことや将来のことを二人でもっと話そうと思っていた。
その矢先だった。
かつて封印して、忘れようとしたことも忘れていた西山への下心が、名波によって再燃され、俺は妻がいながらにして疑似不倫をした。
妻に本当のことをいっても、「そうだったんだね。でもそれは夢だから、本物の浮気じゃないね」と言ってくれそうだが、いまそこまでの気分にもなれない。
だって俺は、1か月も家に帰っていないどころか、妻の顔さえ見ていない上に、連絡すら1通も入れていないのだから。
俺が訪れるべき場所は、一つしかない。
翌日、俺は名波がいるアパートの前に立っていた。
そして小一時間ほど経って、二階のあの部屋から誰かが出てくるのをずっと車の中で待っていた。
案の定、女性が一人部屋から出てきた。
今度の女性は、恐らく40代行半で、子供がいればいい年齢になっているだろうと思うほど、しっかりした顔つきの女性だった。
この女性も名波に誘われ、疑似体験という名の浮気をしてきたのだろうか。
顔は毒素が抜けたようにすっきりとして、晴れやかだった。
俺はその女性の姿が完全に見えなくなるまで見送り、そして例の部屋に向かった。
ガチャリ、とドアには鍵がかかっていなかったので、意図も簡単に部屋に入ることができた。
中からは日本茶の香ばしいいい匂いと、先程の女性のものと思われる鼻をつく香水の香りが混ざって俺の鼻孔を刺激した。
ワンルームの柔らかいオレンジ色の光が玄関をやんわりと照らしていた。
靴は、雪駄が一組だけ、きちんと揃えて並べられていた。
「いきなり訪問してすまない。いま、いいか?」
俺は玄関に半分体を入れて、家主に向かって話しかけた。
名波は俺の存在に気がつくと、一瞬驚いたような表情をして、すぐに凛とした、芯がある伏し目がちの表情に戻った。
「いつか、また、いらっしゃると思いました」
名波はこの間とは違う色の着物を着ており、今夜は辛子色の月のように輝く一子乱れぬ着付けをしていた。
「今晩はちょうど先程の方が最後になりますので、お話よいですよ。上がってください。お茶を入れますね」
名波に促されるまま、俺はあの座り心地が最高にいい椅子へと自然に足を運んだ。




