僕達は幻の自然の中でキスをした。
家紋武範様主宰の「夢幻企画」参加作品です。
「ねぇ、覚えてる?」
妻の声にうんと答える。
「夢みたいな世界だったわ、本当に。風を感じたら……、空気が甘く動いてた。世界がミストに包まれ、何もかもが濡れてるみたな……、桜の花が綺麗だったわ」
うっとりとする彼女の声。それに合わせて投影装置にインプットしていた、ハネムーンで訪れた場所の映像を引き出す。仮初めの世界が部屋全体に広がる。
「そうそう、黄色いたんぽぽがまだ開いてなかった。本当に日が暮れると蕾んでるのね。緑の草と。だけど桜の木の下にはあまり生えなかった、そして揃えた様にどの木も満開だったわ」
「クマリンさ。そういう成分を葉から大気中に揮発してるんだよ。この毒は、雨水により地面に落ち、撒き散らすのさ。他の植物の生育を阻害して育ち難くする為に」
「何それ、ひどいのね、綺麗な木なのに」
「あはは、綺麗な花には棘がある。クマリンには抗菌性があり、葉を守る役割を担っているんだ。それにこの桜はソメイヨシノ、接ぎ木で増やされた品種だ、クローンの一種だね。だから一斉に咲き誇るのかもしれない」
「へえ……、そうなの。こうしていると、あの時に戻った様」
気持ち良さそうな声に、香りを再現してみたよ、と応じる。少しばかり瓶から抜き取ったサンプルを分析し、その時の空気の香りをアロマオイルを組み合わせ、試行錯誤をし近づけてみた。加湿の量も増やす。
「フフ、こんな匂いだったかしら……、そうでもあり、そうでもないわ」
「うん、そうだね。自然の香りは難しいよ。とらえどころの無い幻の様だな」
「嘘みたいな世界だったわね、外で息が出来るなんて……」
「うん。そうだね。僕達がいる世界は、外は清浄すぎて人が生きるのには不適切になってしまった。魚が塩素で殺菌された水の中では生きていけないのと同じだ」
「ウフフ、上手い喩えね。なら、水槽で暮らしているのね私達は。あの日、鳥の声が聴こえた」
思い出したのか、音声なかった?と聞いてきた。
「ああ、そうだったね。チュピチュピと歌っていた、確かあったはず」
「あーあ、こうしていると、あっちで消えててもいいかなって思っちゃう」
僕が探しているとぼやく彼女。おいおい、僕達結婚したばかりだぜ。それにマシンに乗り遅れると……。
『ネック』が『反応』して『蒸発』、だったろ?
――、人類、生物が大気の中で生活を営んでいたその時代を選び、僕達はタイムマシンを使い時を遡ったんだ。時空を飛び越える旅の途中は、人工的な眠りについている。目を覚ますと……。
『到着シマシタ、滞在時間は10 ビョウデス、モドッテコレナイト、シ、アルノミ』
声が知らせる。起き上がり身支度を整えた僕達。
「おい、カメラは?」
「用意万端よ!貴方、瓶の用意は?」
「蓋を緩めてある」
華やぐ僕達。期待と不安が包んでいる。行こう!スイッチを押した。プシュゥゥとエアロックが解除。ドアが開く。ピ!首から起動音。一瞬、僕達は息を止め気を引き締めた。
外に出た。大きく深呼吸をする。空気がひんやり甘く、水を感じる。足元が柔らかい。ぬくもりがある様な……。初めての大地の感覚に驚く。
そして目の前に広がる圧倒的な空間に息を呑んだ。
『9』
選びに選んだ季節。満開の桜の木、柔らかな緑の草と黄色い色を内側に隠したたんぽぽ。太陽の光が薄く柔らかい夜明けの時。僕達の皮膚は日中のそれには、防護服やシールドが無いと耐えきれない。火傷を負ってしまう。目は失明をしてしまう。
『8』
カウントダウンの音声の中、妻が手にしていたカメラを空に放り投げた。設定高度にふわりと浮かぶ。
『7』
二人でソレを見上げてフォトを1枚。
『6』
しゃがみ込みたんぽぽの蕾を触った。
しゃがみ込み桜の花弁を手に載せた。
『5』
立ち上がりポケットから瓶を取り出すと、水をすくう様に空気を入れる。キュッキュと蓋を閉じた。この世界から持ち出す事が出来るのはこれだけ。
『4』
たんぽぽの蕾に別れを告げる。
白い桜の花弁に別れを告げる。
『3』
カシャカシャ、カシャカシャ!くるくる回る銀色。映像を記録する音。
『2』
ストン!妻の手にカメラが落ちてきた。手を繋ぎ急いでマシンに戻る。
『1』
二人で軽く手を振った。チュピチュピと囀る声が見送ってくれた。
プシュゥゥ……、ドアが閉まる。訪れた世界との断絶。
ピー!音がして首に掛けられている装置が止まった。
――、ボックスと呼ばれる一般的な住居空間。ひとつひとつ用途に応じて機能を備えた独立した部屋があり、積み木をつむ様に形造られている住まい。
過去の自然を再現しているリビングで寝転ぶ妻は、これで触感も再現出来たら完璧なのに、とクスクスと笑う。
「一応、床にはそれらしい人工芝を敷き詰めてるだろ?」
「そうだけど……、本物を知ったから、何かおかしいんだもん、でも綺麗よねぇ……」
カメラの画像を取り出し、二人であれでもないこれでもないと編集加工した映像がランダムに流れる。僕もごろりと横になる。
「本当に夢みたいだったわ、空気が生きてた」
「うん、吸い込むと食べてるみたいな気がしたよ」
並んで見上げる天井の空。そこには太陽光に近づけたライトの光があり僕達を照らす。音声装置に仕込んでいた小鳥の囀りの音が流れる。
「10秒しか時間が無いなんて……、」
「仕方ないよ、過去に干渉しちゃいけないんだから……、時間が有れば何かやらかしてしまうだろ、時代の人達に出逢ってもいけない。それに僕達の皮膚や身体は、それが限界とされてるよ」
「それは分かってるけど、もうちょっと見たかったの、触りたかったし……、吸い込みたかったな。一生に一度だけしか、時間旅行の許可は取れないのだから」
頬をふくらませる彼女。薄い茶色の瞳。可愛くて、透き通る様な白い手を軽く握った。
僕に顔を向け笑う妻。そして……、
僕達は投影された幻の自然の中で寄り添い、夢の様な過去の世界の自然を思い浮かべ、小鳥の様なキスをした。