第68話 一歩前進。そして……二歩後退 ACT7
浩太さんの額に大粒の汗が流れ出て来た。
手が震えている。
「す、すまん」浩太さんはテーブルに千円を置いて立ち上がり、口を抑え、そのまま店を飛び出していった。
「浩太さん!」
「すみません」とマネジャーに一言言って、私は浩太さんの後を追いかけた。
アパートのすぐそばの電柱にもたれかかるようにして、胃の中にある物をはきだそうとしているけど、何も出ていない。
背中をさすりながら
「大丈夫?」と声をかけたが何の言葉もなかった。
浩太さんを支えるようにして、なんとかアパートの前に来た。浩太さんのカバンから、部屋の鍵を取り出しドアを開ける。
引きずる様にして、なんとか浩太さんをベッドに寝かせた。
「お水持ってくるね」
グラスに冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを注ごうとするが、私の手も振るえていた。
「今は何も考えない。今はなにも訊かない」
考えるな! 思うな!
そう自分に何度も言い聞かせていた。
浩太さんに水を持って行くと、彼はゆっくりとその水を飲み始めた。
「少しは落ち着いた?」
ゆっくりと浩太さんの頭がたてに動く。
でも、顔色はまだ悪い。
あの時と同じ症状。……じっと浩太さんの姿を見つめている。
考えるなって、でも頭の中は先生と浩太さんのことで一杯だった。
今にでもこの口から「どうして?」と言う言葉が漏れ出しそうだった。
その時ドアをノックする音が聞こえてきた。
ドアは空いたままだった。三和土の前に立っていたのはマネジャーの杜木村さんだった。
「ごめん、ドア空いていたから……」
「マネジャー」
「彼、大丈夫そう?」
「ええ、少し落ち着いたみたいです」
「そう、よかったら少し彼と話がしたいんだけど。大丈夫そう?」
私は杜木村さんを部屋に上げた。
体をおこし、ゆっくりと彼女の姿を目にする浩太さん。
「すみません。いきなりあんなことを言ってしまって」
杜木村さんは深々と浩太さんに頭を下げた。
「いいや……」浩太さんはそう返すのが精いっぱいだった。
「お店、大丈夫ですか?」
私は何気なく杜木村さんに訊いた。
「多分ね、阿久津がいれば何とかなるから」
杜木村さんは浩太さんを見つめられるところで、ゆっくりと床に腰を下ろした。
グラスに麦茶を入れ、トレーにグラス3つを載せ、杜木村さんが座る床の上に置いた。
そして、私も杜木村さんの横に座った。
「梨積さんって浩太君の所で一緒に住んでいるの?」
「え、どうしてですか?」
「なんだか物凄く手馴れているんだもの。まるで奥さんみたいだよ。ううん……、なんだかあの時の二人の様な感じがする」
フローリングの溝を見つめながら、しみじみとと杜木村さんは言った。
「ふぅ―、あの時かぁ」
浩太さんがため息交じりに言葉を吐き出す。
「思い出すと懐かしいね」
浩太さんはそれには何も返さなかった。
「ごめんね、最低男なんて言っちゃって」
「あ、もういいんです。僕は何を言われても」
「うん、でもさぁ。友香の気持ちもあなた察してやるべきだった。あの時、一番支えてほしい時にあなたは友香の前から姿を消した。事情を知っているのなら何で友香を放してしまったのよ」
「……事情って?」
浩太さんは何のことか分からい。そんな顔をしていた。
「あなたも知っていたんでしょう。友香の病気の事」
「病気? いったい何の事なんだ」
「え、嘘。まさか知らなかったとでもいうの?」
「知るも知らないも、彼奴からいきなり別れると言ってきて、それっきり俺とは会おうともしなかったし、連絡も一切受け付けてくれなかった。あんなに親しく接してくれた友香も親も、俺を跳ねのけるように追い払った。俺には何が何だか分からないことだらけだったんだ……。だけど、ある日友香から来た手紙に一言だけ書かれていた手紙を読んだ時、納得なんかいかなかったけど、それを受け入れるしかないんだと俺は思ったんだ。『好きな人が出来ました』と書かれた一言に」
「馬鹿、馬鹿よ……友香は」
そう言いながら杜木村さんは涙をこぼした。
「ああああ、ほんと大馬鹿な親友を私は持っていたんだぁ」
ボロボロと杜木村さんの瞼から涙が溢れだしていた。
ここまでの話を訊いて私はあの時、先生と話した別れた彼の事を思い出した。やっぱり、何となく感じていたことは当たってしまった。先生の彼の面影、浩太さんにぴったりだったと思っていたから。
先生は自分のことを『馬鹿』だと言っていた。その時は何でそんなことを言うんだろうと思っていた。
だけど、先生のあの表情を思い出すと、どうしても避けられない事情があったのかもしれないと思った。
「友香はねぇ、あなたと別れてから誰とも付き合ってなんかいないのよ。ううん、ずっとあなたを愛し続けていた。……多分、今も友香はあなたの事を愛しているんだと思う。それを必死に自分で隠して、その気持ちを押しつぶして今、残り少ない時間を過ごそうとしている」
「残り少ない時間って……、一体何なんだ、友香に何があったんだ」
「本当に知らないみたいだね。そっかぁ、友香あなたには知られたくないんだ。自分があなたを不幸せにしてしまうから、わざと……何も言わずに。だから、あなたの前から自分を消し去ったんだ……馬鹿だなぁ、友香も。そして私も。本当に大馬鹿だよね」
「お、教えてくれ……友香に起きていることを。友香の病気っていったい何なんだ」
杜木村さんは顔を上げすっと、鼻を啜って
「私からは言わない。友香の親友として、彼女の事を一番わかっているつもりでいる私だから、あえてあなたには言わない。……もし、浩太君がまだ、友香の事を本当に思ってくれているのなら、あなたは自分から、友香の気持ちを解放してほしい。多分それはあなたにとっても、友香にとってもとてつもなく苦しいことだと思うけど、多分、このままで終わってはいけないんだと思う」
杜木村さんは紙と鉛筆を貸してほしいと言った。
メモ用紙を渡すと
「友香は今ここにいる。そして……多分、もうここから出ることはないだろう」
そこに書かれていたのは、病院名と部屋の番号だった。
そして杜木村さんは私を見つめ
「梨積さん。ううん、繭ちゃん。あなたは友香にとって一番大切な生徒だった。友香はねぇ、あんな体でもあなたを見ているといつも勇気を貰っていたみたいだよ。あんな体だったからこそかもしれないけど、あなたが立ち直っていくその姿を見ながら、自分もまだ頑張んないとっていつも思っていたんだ。だからあなたも友香にちゃんと向き合ってほしい。そして自分の過去にも」
そして杜木村さんは、こう言った。
「浩太と繭ちゃん。あなた達二人は似た者同士だよ。自分の過去に翻弄されながら、それから逃げようとばかりしている。でも、それでは何も前には進めない。例え二歩戻ったって、また前に進めることが出来るんだったら、そんなのなんでもない。二歩くらいなんかあっという間に過ぎ去ってしまう。だから今は、二人はお互いに自分の過去を見つめなおしなさい。それは多分友香のためにでもあると思うから」
杜木村さんは立ち上がり
「ごめんね、いきなり来てこんな話をしちゃって。繭ちゃん、もう少し浩太君の傍にいてあげて。それからでいいよお店に戻るのは」
それじゃと言い残し、杜木村さんはお店に戻った。
この部屋に残った私と浩太さん。
二人の間には……重い空気が漂ったままだった。
だけど……私たちの時計の秒針は。
ようやく動き出した。




