第61話 遠からずも俺の傍にいろ ACT9
降り出した雨は止まなかった。
「何かあったら連絡ちょうだいね」と、新たに先生の携帯の電話番号とIDをスマホに登録させた。
「また来ます」
「うん、また……いつでもいいから」
先生はそう言ってくれた。
でも、何となくこの家で先生と会うのはこれが、最後になりそうな予感がする。それは何かを予知していたのかもしれない。
それでも私はまたこの家に来るだろう。
借りた傘を返さないといけないから。
なんでもいいからまた先生と会う口実が出来たことが、今の私は嬉しかった。
帰りの電車の車窓に移る街並みは、全てがしっとりと濡れていた。
その車窓に移る街並みをただ流れるようように目にしながら、浩太さんの事をずっと考えていた。
先生が大学時代に好きだった、付き合っていた彼氏。どう考えても、浩太さんがぴったりとはまる。
そんな偶然なんてある訳ないよね。
そんなことを考えている自分が何だか物凄く嫌になる。
どうしてだろう。
わかんないけど、何か嫌だ。
モヤモヤとした気持ちが私を包み込みそうになる。
私はどうして浩太さんが生身の女性を受け付けなくなったのか。その原因は分からない。
ただ、2次元の女性キャラが好きなだけで、あそこまで体が拒否反応を出すものなんだろうか?
私が自分の過去にあったことを浩太さんに話そうとした時、彼はそれを止めさせた。
私が本当に浩太さんに自分の過去を話してもいいという時が来た時、私が本当に落ち着いた時。ううん、多分。浩太さんは分かっているんだと思う。
私の受けたこの心の傷の深さを。あの人はそれを感じ取っていたんだろう。
だから、私に……自分自身にちゃんと向き合えるようになったら、それでも聞いてもらいたいと思うのなら、話せと言ってくれた。
それまでは、話したくなければ永遠に話さなくてもいいという事にもとれる。
でも、いずれ私は話すだろう。
浩太さんに私が受けた過去を。
もし、それで浩太さんが、私から離れて行ったとしても。
それでいいと思う。
私の体はもう汚れているから。
電車を降りて駅の外に出た。雨はいつの間にかに止んでいた。
いつも見慣れた街並み。
今私はこの街で暮らしている。ようやく馴染んできた街だ。
新たな生活を始めてもう2ヶ月近くが過ぎようとしていたんだ。
改めてその日々をこの街のざわめきの中で噛みしめていた。
もう夏なんだ。
雲の隙間から差し込む陽の光は、私がこの街に来たころとは違い力強く感じる。
もうじき夏休みだ。と、言っても何がある訳でもない。
長い時間何もすることなくただ過ごしているのもつまらなそうだ。
「アルバイトでもしようかなぁ」
今日行った洋菓子屋さんの店員さん。あの制服、可愛い制服が何だか頭から離れない。
あそこアルバイト募集しているかな?
ちょっと寄って見ようかな。
アルバイトなんて今までやつたことなんかないけど、働くっていう事には抵抗はなかった。
むしろ働きたい、そんな気持ちが次第に強くなっているのを感じている。
今までそんなことを考えることも思う事もなかったのに。
少しづつ何かが変わり始めている。
私自身も。そして私を取りかこむ環境も。
思ったら即行動。
もうあの洋菓子店が目に入っている。足は自然とお店に向かっていた。
店の自動扉が開くと「いらっしゃいませ」と店員さんの声が響いてくる。
ショーケース越しに見る店員さん。今朝対応してくれた人はいなかった。
「お持ち帰りになさいますか? それとも併設のカフェでお召し上がりになりますか?」と私に問いかけてくる。
併設のカフェ?
朝にはそんなこと聞かれなかったけど。
「あのぉ……」
「はい」にこやかな笑顔が可愛い。
「あのぉ、アルバイトって今募集していますか?」
「あ、えーと、アルバイトの募集ですか?」
「はい、そうです」
「ちょっとマネジャーに訊いてきますけど、よろしいでしょうか?」
「お願いします」
少しして出て来たのは、真っ白なカッティングシャツに黒のズボンを履き、長そうな髪を器用にまとめたスタイリッシュな女性だった。
すっと目線を私の方に向け
「アルバイト希望ってあなたですか?」
「はいそうです」
「高校生ですよね」
「はい、高校2年です」
「そっかぁ。履歴書とかもしかして持ってきているの?」
「すみません。持ってきていませんけど。募集しているかどうかを聞きたくて」
「ま、いいかぁ。今時間大丈夫? よかったら向こうのカフェの席で少し待っててくれる」
彼女が指さす方を見ると、朝来た時には気が付かなかったけど、このお店、店員さんが言ったようにお洒落なカフェが、ガラスの扉の向こうに見えた。
「はい」と返事をして、言われるままにガラス戸の向こう側にあるカフェに向かった。
ガラス戸を開けると店内に立ち込める、珈琲の香ばしく甘い香りが鼻をくすぐった。
午後の昼下がり、今の時間はお客さんの姿はまばらだった。
適当な席に座り、マネジャーと呼ばれてたあの人を待った。
少しして男性の店員さんが、私の所にやってきて
「マネジャーから聞きました。アイスコーヒーでいいかなぁ。それでよかったら少し待っててね」
「あ、はい。ありがとうございます」
にっこりとほほ笑んだ、くせっけの栗色の髪をした大学生? そんな感じがする彼。なんか人懐こそうでいて、柔らかい物腰がとても感じがいい。
こういう人もいるんだ。ちょっと興味津々。
あ、でもあの男の人に興味があるっていう事じゃなくて、この雰囲気がとてもいい感じだから。
そうだよ。この雰囲気。なんか惹かれるなぁ。
そんなことを考えていたら、マネジャーさんが書類を持って私の所にやって来た。
「ごめんねぇ、待たせちゃって。履歴書はいいから、このエントリーシートに必要事項記入してくれるかな」
渡された3枚の書類。
名前とか住所とか、連絡先とかと記入する欄がある書類だった。
「はいわかりました」
書類を受け取り、カバンからボールペンを出そうと探していると、マネジャーさんの胸ポケットに刺さっているボールペンを渡してくれた。
「ありがとうございます」
「ふ―ん、梨積さんて言うんだ。珍しい苗字だね」
「そうですか? ……そうですよね」
「へぇ―、住所意外と近くなんだぁ。あ、このアパート知ってるよ。ここから歩いてもそんな距離じゃないね」
書いていくところをチェックされているような感じがするけど、悪い気はしない。
このマネジャーさん、何となく先生と雰囲気が似ているような気がする。
さっき別れたばかりなのに、また先生とこうして勉強を教えてもらっているような、懐かしい感じがする。
「はいお待たせいたしました」
さっき私に話しかけて来た男性の店員さん。トレーに乗せたアイスコーヒー? ん? アイスコーヒーがパフェに化けていた。
「あのぉ、確かアイスコーヒーだったとお聞きしたんですけど」
「あ、いいのなんかアイスコーヒーよりパフェって言う雰囲気だったからパフェにしました」
「あのなぁ阿久津、お前は自分の気分でオーダーを変えるのかよ」
「別にいいじゃないですか。可愛い子にはお洒落なパフェがよく似合うなんてね。それじゃ」
パフェを私の前に置いて、早々と立ち去ってしまった。
「いいんですか?」
マネジャーさんはにっこりと笑って「いいわよ、それより早く書いちゃってパフェ溶けちゃうからね」
「あ、はい」急いで書類の欄を埋めた。
「はい出来ました」
書類を渡すと「どうぞお召し上がりください」と言ってくれた。
彼女は私の書類を見ながら「パフェ美味しい?」と聞いてきた。
「とっても美味しいです。今朝買っていったショートケーキもとっても美味しかったです。
「へぇ、ケーキも買ってくれていたんだ。ありがとうね」
にっこりとマネジャーさんは微笑んでいた。




