ひとまずの逃走と告白
魔女ヴァレリア。
その名前だけなら恐らく大抵の人間は知っている。
しかし実際にその姿を見た者の話は一切聞いた事がなかった。
それは例えば、変幻自在に姿を変えるからだとか、姿を見て生きて帰った者はいないからだとか――常々物騒な噂が取り巻いていたからに他ならないのだが。
実在する魔女だと言われても、既に何百年も前の御伽噺の中の話でしかその名を聞かなかったならば、実在するという事実を実感する事もなかっただろう。
そんな伝承の中でしか生きていなかったような魔女が、今、僕たちの目の前にいた――
ワイバーンでもって壁をぶち破って開けた穴から登場という、初っ端から力技全開で登場かましてくれたのは、まぎれもなく魔女ヴァレリアなのだろう。レオンとカインの反応を見る限りでは。
フリルとかレースがこれでもかと言わんばかりにふんだんに使われているドレスは、日常生活においては不便極まりなさそうだという感想しか僕には浮かばない。洗濯するにしても色々と気を付けないといけなさそうだし、とにかく面倒そう、これに尽きる。
着ている服とお揃いのつもりか、レースがゴテゴテとついたパラソルを手に悠然とワイバーンの背から城内の床へと降り立ったその人は、開口一番にこうのたまいました。
「死になさい、虫けら共」
……少なくとも笑顔で言うべき事ではないと思います。
「ふざけるのも大概にして下さいねー。修理費請求しちゃいますよー」
ついさっきまで自分は非戦闘員ですと宣言していたレオンが、物怖じもせずに一歩前へと進み出る。
銀色の髪と青い目を持つ魔女と、全体的に白っぽい魔族の睨み合いが開始される。バチバチと火花を散らす音さえ聞こえてきそうなその中で、一体どうすればいいのかわからずオロオロとする僕とは違い、カインは無言のまま鞘から刀を抜いた。
幸いというべきか、僕がいる場所はレオンやカインと比べるとちょっとだけドアに近い。メトセラの手を引いて巻き込まれる前にこの部屋から逃げ出せるようにしておこう。
「修理費? はッ、そんな事が言えた義理かしら? だったらこっちは盗られた秘宝の損害賠償を請求するわ」
「はぁ? 馬鹿言わないで下さい。あれは正当な報酬です。ったく、年とると耄碌してイヤですねー。見た目の若さだけが自慢の老婆はこれだから。頭の中まで若くいられないんだから、そろそろ介護の世話にでもなったらいかがですかぁ?」
「あらあらあら、年齢だけなら貴方だって同じようなものでしょう。自分の事は棚に上げるだなんて図々しい」
「そりゃぁボクは魔族ですし? 魔族の平均寿命どんだけ長いと思ってるんですか。種族が違うっていう点さえ考慮できないなんて何て愚かなんでしょう」
正直関わりたくない空間が形成されているような気もするが、ある意味でこれはチャンスなんだと思いたい。気付かれないようにじりじりと後退しつつドアへと距離を詰める。
「……あら? あらあらあら」
余計な物音を立てた覚えはないが、それでも何かを察知したのだろう。魔女の視線がこちらへと向けられた。いきなり即死レベルの魔術なんてものを放ってきたりはしないだろうけれど、油断はできない。とりあえずメトセラを背に庇うようにしてはみたが、プレッシャーが……ものすっごいです……
「まさかこんな所で会うなんてねぇ……案外世間は狭いのね。
ねぇ? お 人 形 さ ん ?」
くすくすと笑うヴァレリアとは対称的に、僕の背後にいるメトセラはその言葉に反応して震えていた。繋いだ手にかすかに力がこめられる。
……え? 知り合い?
「……出来る事なら、金輪際会いたくもなかったがな……」
小さいけれども確かにそう吐き捨てたメトセラの声が、果たして聞こえていたかどうかはわからない。
けれども、そいつは確かに心底楽しそうに口許だけを吊り上げて笑っていた。
繋がれた手からは、かすかな震えが伝わってくる。
状況把握がいまいちだけど、とりあえず簡単に逃げ出せる状況じゃないって事だけは把握できた。
「あぁ、やっぱり目障りだわ何もかも……消すしかないのかしら」
忌々しげに呟かれた言葉。それと同時に手にしていたパラソルを開くのかと思いきや、魔女は力一杯スイングしやがりました。手からすっぽ抜けるんじゃないかと思える程のフルスイングに、一体何がしたいんですかと突っ込みそうになる。
行動に対しての結果はすぐに出た。
彼女の真正面、暖炉のあった辺りの壁に、ぴしりと不吉な音と共に亀裂が走る。
「うわ、カ……カイン!?」
「わかっている」
焦ったように呼ぶレオンに、舌打ちしつつも応えるカイン。抜いていた刀で斬りかかる直前、僕たちに向けて一言「行け」とだけ告げられる。
迷っているヒマはなかった。とにかくメトセラの手を引いて、振り返る事なく部屋を飛び出した。
――と、まぁ、勢いだけで突っ走ったわけですが。
初めて来た場所、しかも無駄に広いという折紙付きで、迷わないわけがない。
争うような物音が聞こえない場所までやって来たのはいいものの、さてこれからどうするべきだろうか?
「……えぇと……大丈夫?」
一先ずは安全だと思える場所まで来たからだろうか、力なくメトセラが座り込んだ。なおも繋いでいる手からはやはり僅かな震えが伝わってくる。手を離した方がいいのだろうかと思ったが、離そうとするとメトセラが力一杯手を握ってきた。痛い。
「えーと……何か色々と聞いた方がいい? それとも何も聞かないでおく?」
聞いたところで僕に何かができるわけでもない。話してメトセラがスッキリさせたいなら聞くけれど。
ぎゅうううぅっと音が聞こえてきそうなくらい力強く手を握り締められながらも、空いてる方の手であやすように背中を軽くさする。
「……逃げて……来たんです」
少しだけ落ち着いたのだろうか。掴まれた手の力は相変わらず最大ですよと言わんばかりだけれど、出てきた言葉は小さく、だがしかしそれでもしっかりとしたものだった。
聞き出していいのか、それともただ聞くだけに徹するべきなのか悩んで、「うん」とだけ相づちを打つ。
「わた……私の他にもいたんです。でも、皆いなくなって……」
どこから話せばいいのかわからない。そんな感じだった。
僕にもわかるようにと何度か言い直したりしつつも、全てを語り終えた時にようやく気付いたのか、握り締められていた手が離れる。最後に、小さくすみませんと付け加えられた。
手がくっきりと目に見えてわかりやすい程に赤くなっていたが、そんな事は些細な事だ。
メトセラはどうやら子供のころにあの魔女ヴァレリアに誘拐されたらしい。
御伽噺や伝承で伝えられている姿を変えて生きているとか、姿を見た者は例外なく生きてはいないだとか、不死の魔女と呼ばれているという部分は、ある意味で事実だった。
ヴァレリアはどうやら自分と似た外見の少女を連れ去っては、自分の身代わりにしていたそうだ。
僕が覚えている伝承の中に、捕らえられた魔女ヴァレリアが処刑されるが、後日処刑に関わった者たちが変死したという話がある。
何の事はない、処刑されたのは身代わりのよく似た少女で、後日変死した人たちはヴァレリア直々に寝首をかいたという事らしいのだが。
そんな事をもうずっと昔から繰り返していたらしい。
身代わりにされた人たちの事を誰も気付かなかったのかと思ったが、どうやらそれは魔法で洗脳という一言で片付いた。
メトセラの目の色とヴァレリアの目の色は違うが、紫と青の違いなど、余程親しい間柄でなければ気にも留めないだろう。
……まさかもう何年も前から頻繁に起こっていた少女誘拐事件の犯人を、こんな所で聞かされる事になろうとは……連れ去られた少女の特徴が銀色の髪に碧眼、もしくはそれに近い色の目というのは僕も聞いてはいた。そりゃあねぇ……犯人は魔女ですなんて言えないわな。
僕が生まれる前からあった事件だが、攫われるのが皆美少女、という点でそういうのが趣味の人の犯行だと思ってか、手当たり次第に人身売買組織を捜査していた人たちの努力は、そういう意味では無駄だったのか……
メトセラが逃げ出す事ができたのは、ある意味運が良かったとも言えるが、考え無しに喜べる事でもなく。
メトセラのお父さんが、それなりに腕の立つ人だったらしい。攫われたメトセラの無事を信じて何年も探し回ってくれたそうだ。
しかし再会するもヴァレリアとの闘いで命を落とし……父親の最期の言葉を聞いて必死に逃げ出し――最終的に師匠の所に転がり込んで現在に至る、と。
メトセラが師匠の元へとやってきて弟子となったのは、魔女と名のつく存在と関わりたくなくとも万一関わってしまった時のための、自衛手段を学ぶため……らしい。
対策練る前に因縁の相手と遭遇するハメになりましたけどね。知識があったとしても実力が伴ってないとかいうオチもありますけどね。
師匠の所に来て一年という期間が長かったか短かったか……それはメトセラ本人にしかわからないが、それでもその間一人で抱え込んでいた事を暴露したためだろうか。怯えの色はいくらか消え失せていた。
辛かっただろうし、大変だっただろうとは思う。
けれど、それは僕が掛けていい言葉かはわからなかった。
そんな気安い言葉を掛けられても何の気休めにもならないだろうし、それならば何も言わない方がいいのかもしれない。そんな風に考えているうちに、結局は何も言えなくなってしまった。
正直何か力になってあげたいと思ったところで、僕に出来る事など無いと断言してもいい。
キャベツ一玉千切りにするのに20秒あれば余裕です、とかいうスキルはまず間違いなく今求められているものではない。
僕に出来る事は、一先ず安全な場所へとメトセラを連れて逃げる事くらいだ。
……それはそうと、安全な場所ってどこだろう?
――前途多難な状況は尚も現在進行中だった。