41おかげ様で幸せです【完】
◆
「久しぶりだな、ハロルド。怪我はもういいのか」
「はい。何の問題もありません」
「そうか、それはよかった」
北の辺境領を治めるレストン辺境伯は、ハロルドの壮健な姿に安堵したように何度も頷いた。
ハロルドがバーム族の討伐騎士団を任されてから、一年の年月が経っていた。
北の辺境領を訪れるのも、あの時以来だ。
「殿下……陛下はどんなご様子だ?即位式には顔を出したかったのだが、腰を痛めてしまい馬車での移動が辛くてな……情けない限りだ」
レストンは腰を擦りながら言う。
前に会った時は年齢よりも若く見えたが、腰を痛めたせいだろうか。腰が曲がり、この一年でずいぶん老いた風に見える。
「先日、お会いしましたが、お元気そうでした」
エトムントがロラント王国の玉座についたのは、ひと月前になる。
半年前、脳の病で突然倒れて以来、寝たきりだった王が亡くなったのだ。
病床で一度も目を覚ますことのなかった父王の代わりを務めていたため、即位後の混乱はなかった。王都の民も、新王の誕生を祝福し、お祭り気分だ。
しかしエトムントの心の中までは、わからない。『父殺し』の罪は永遠に彼を苛むであろう。
一年前、大怪我をしたことになっているハロルドは、騎士団を退団し、王都から少し離れた小さな村で、つい最近まで療養していた。
その間、王都……王宮で何が起こっていたのか、ハロルドは詳しくは知らない。ニコラスから伝え聞いただけである。
これ以上、父に政務を任せていたら国益が損なわれると判断したエトムントが、父王に毒を盛るよう指示をしたこと。
王の側近で利益を得ていた数人の臣下以外は、みなエトムントを支持したということ。
そして、父王の庇護を失ったコルネリア王女の顛末――。
ハロルドとの婚約を解消した王女は、伯爵家の長男を降嫁先に選んだ。
見栄えのよい華やかな貴公子との結婚を控えていた王女だったが、予期せぬ事件が起こる。
数人の男を婚約者候補として秤にかけていたらしく、婚約者に選ばれなかったうちのひとりが想いを募らせ、王女を呼び出し、襲ったのだ。
護衛の騎士が異変に気づき、すぐに駆けつけたのだが、救出の際、男は持っていた刃物で王女の顔を切りつけた。
王女はこめかみから顎にかけて、酷い傷跡が残ったという。
あっさりとハロルドを捨てた件だけでなく、結婚を控えた身でありながら、男に呼び出され会いにいったことが公になり、王女を哀れむよりも、呆れた目で見る者ばかりだった。
そして、そこで終わればまだ良かったのだが、婚約者である伯爵家の長男が、王命に逆らえないのを嘆き、王女を娶るのを嫌がっているという噂が広がる。それを耳にした王女が怒り狂い、婚約者に刃物を突きたてたのだ。
婚約者は一命を取りとめたが、婚約は破談。王女は殺人未遂で捕まり、王族の身分を剥奪された。
コルネリアは修道院に送られるはずだったが、エトムントは別の道を用意した。
それが妹への情なのか、国のための駒と利用しているだけなのか。それとも反省のないコルネリアを修道院に送ることが無意味だと思ったのか。
彼の真意はわからないが、コルネリアはバーム族の族長に嫁ぐことが決まった。
「陛下も、思い切ったことをする……すでに王族ではないとはいえ、一国の王女だった者を蛮族に嫁がせるなど」
コルネリアは辺境領で、ロラント王国側からバーム族側に引き渡される。その際には、レストンに立ち会ってもらう必要がある。ハロルドは段取りを伝えるため、王家からの使いで辺境領を訪れていた。
「しかし……良い手ではある。バーム族同士の争いも一段落したとはいえ、ロラントに悪感情を持つ者も多い。かつて王族だった者が族長に嫁げば、彼らも悪い気はしない。周辺諸国には、王族ではないと言い訳も立つし、我が国にとっては厄介払いが出来る……王女様にとっても、監視付きの修道院で暮らすよりは、夫を持ち、子を持つことが許されたのだ。良かったのではないか?一応は正妻扱いだ。向こうも無下にはしないだろう」
大方はレストンの指摘の通りなのだろうが、コルネリアに関しては彼女次第だ。
バーム族は体が大きく、体はびっしりと、赤い体毛で覆われている。
獣のような男の妻になることを、コルネリアは受け入れることが出来るだろうか。出来なくとも、異郷の地でコルネリアを守るものは誰もいない。
エトムントは、コルネリアがロラント王国に足を踏み入れることは決してない、と断言していた。おそらくバーム族との間で、コルネリアの扱いについて、何らかの約束事をしているのだろう。
正直なところ、コルネリアが不幸になろうが幸せになろうが、ハロルドは興味がなかった。
大怪我をしていないことが知られたら、厄介ごとに巻き込まれるかもしれないと案じ、コルネリアが事件を起こし、囚われの身になるまで、王都から離れて暮らしていた。これからは自由に暮らせるのだと思うと、気が楽になるくらいだ。
死んでいようが生きていようが、二度と会わずに済むのならば、それで良かった。
「婚約が取りやめになったと聞き、案じていたのだが……お前も一年前より元気そうだし、今となれば、王女様に婚約を破棄されて良かったのではないか?」
レストンの問い掛けに、一年前、この地にいた頃のことを思い返す。
「ええ……おかげ様で幸せですよ」
ハロルドは幸せを噛み締めるように、答えた。
◆
一年前に結婚をしたハロルドは、王都から少し離れた小さな田舎村で、妻とともに暮らしていた。
コルネリアが真実を知ったとしても、正式に婚姻したのなら、手は出せない。そうエトムントやニコラスに言われたが、おかしな執着が再燃し、万が一、妻に危険が及んでは困る。
そのため、コルネリア自身が結婚するまでは、隠れて暮らすことにしたのだ。
不自由をさせる妻には申し訳なかったが……蜜月のような日々に、ハロルドはこれ以上ないほど満ち足りていた。
「おかえりなさい」
玄関の扉を開けると、薄茶色のふわふわした髪を後ろでひとつに纏めた妻が、にこやかに声を掛けてきた。
「不在中、何もなかったか?」
「何もないわよ。隣のおばあちゃんから、お芋をたくさん貰ったくらいかしら」
「……そうか」
「あなたも何もなかった?」
「ああ」
部屋に入ると、食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきた。
妻は結婚前に言っていた通り、腕前は大したもので、毎日、ハロルド好みに味付けされた凝った料理が食卓に並んだ。本人は手抜きもしているというが、ハロルドには全くわからない。
「ひと月後には、ここを引き払い、王都に戻ることになる」
コルネリアが事件を起こして捕まったことと、エトムントが即位したことにより、ハロルドは騎士に復団することが決まっていた。
正式に任命されるのはまだ先だが、エトムント王の臣下として、すでに働き始めている。
「ひと月後ならまだ先ね……のんびり荷造りするわ」
少しだけ残念そうに言った妻に、ハロルドは眉を寄せた。
「君は王都に戻りたいのだろう?」
「え?どうして?」
「実家も近いし……ここは田舎だ」
王都とは違い、娯楽が少ない。まだ若い女性が……それも貴族の淑女であった彼女が、平民として暮らすのは辛いことも多いだろうと思う。家事を彼女に任せきりなのも気になっていた。
「騎士に戻れば今より裕福な暮らしも出来るだろうし、働き次第では爵位も貰えるかもしれない」
ハロルドの言葉に、妻は吹き出した。
「意外と野心家なのね。爵位が欲しいの?」
「俺は平民のままでいい。けれど君は爵位があった方がよいかと」
「私が社交界が苦手だってこと、忘れてしまったの?」
そういえば結婚前。夜会の帰りの馬車の中で、他家の令嬢に嫌味を言われたとよく怒っていた。
「昔した約束、覚えている?お母様が亡くなったとき、池の前で、言ってくれたでしょう?私を残して、死なないって」
「……ああ」
瞳を涙で潤ませていた少女のことを思い出す。
「死なずに、元気で傍にいてくれればいいわ。まあ、食べるのに困るくらい貧乏なのは困るけれど」
軽く肩を竦め、穏やかに微笑む妻の姿に、愛おしさが込み上げてきた。
そしてふと、ハロルドは彼女の元婚約者であった男に言われた言葉を思い出す。
『私が大人しく身を引くのはセレイアのためだ。お前がもし、セレイアを不幸にするようなことがあれば、今度は諦めたりしないぞ』
彼女が欲しがっていたぬいぐるみを譲り受けた後のことだ。ディルク・ヘルトルは碧玉の瞳を爛々とさせ、ハロルドに言った。
彼女はディルクに恋心など抱いていない。友人の間柄だと言っていたが、そう思っていたのは彼女だけだったらしい。
『……不幸になどしない』
ハロルドが答えると、本当だな、としつこく確認され、そして――。
『約束だぞ。必ず、幸せにするのだ』
と、涙目で言われた。
ハロルドは彼女を失った時、彼女の幸せを祈ってはやれなかった。自分以外の者の傍で幸せになる彼女を見たくなかった。
想いのかたちが違うだけで、彼女を想う気持ちに、勝ち負けはない。
しかし……ハロルドは苦い気持ちになった。
ディルクとはかつて、騎士団の模擬戦で戦ったことがあった。あの時は負けても、悔しくも苦くもなかったというのに。
――だからといって、自分が死んだ後だとしても、他の男と寄り添う彼女は見たくはないが。
自身の心の狭さが嫌になるが、こればっかりはどうしようもない。
幼い頃の約束を守り、彼女を一人ぼっちにさせないよう長生きし、幸せにするだけだ。
「爵位はいらないし、ここでの暮らしも好きよ。でもあなたが戻るつもりなら、反対はしないわ。危ないことはして欲しくはないけれど……あなたの騎士服姿、かっこいいし」
「セレイア。君も……薄汚れた農作業服姿でも可愛い」
セレイアは隣に住む老婦人のお古の衣服を譲り受け、頻繁に畑で作業をしていた。
土ぼこりに塗れていても、彼女は愛らしい。
「ちょっと違う気もするけど……言いたいことは伝わったし、嬉しいといえば嬉しいし……まあいいわ」
「……いいのか?」
ハロルドが良かれと思って口にしたことで、セレイアが怒ってしまうことは頻繁にある。
気をつけてはいるのだが、女性の心理は難解だ。
「ええ。……それより、お腹が空いたわ。食事にしましょう」
そう言って、セレイアは背伸びをし、ハロルドに軽く口づけをした。
食卓のある部屋の棚の一番上には、古ぼけたぬいぐるみと、薄緑色の蛇の置き物、そして黒いかたまりが並んでいる。
二番目の段には、ハロルドが今まで王家から貰った勲章が飾られていた。
ハロルドがセレイアに渡し、婚約を解消した時にセレイアが母に送りつけてきたものだ。復縁を知った母が、セレイアに返し、今は二人の元にある。
それらのものは、これから先もずっと――。
住処が変わり、想い出の品が増えていったとしても、棚に飾られ続けることだろう。




