35蛇の刺繍
「ねえ……食べさせてあげましょうか?」
右手は骨がくっつくまで添え木をしなくてはならないらしく、ハロルドは左手だけの生活をしていた。
スプーンとフォークを使い分け、食べにくそうにしている姿を見かねて言うと、ハロルドは食事をしていた手を止め、しばらくの間、考え込んだ。
「…………いや、いい……」
その間は何なのだろう、と不可思議に感じるくらいの沈黙の後、ハロルドが答える。
寝台の横には高さのあるテーブルが置かれていた。
テーブルに食器を置き、寝台を椅子代わりにして、ハロルドは食事をしている。
ハロルドの足に麻痺はなく、歩いても何ら問題はない。寝台ではなく、室内のカーテンで仕切られた応接間のようなところで食事をしてもよいのだが、テーブルが低く食事をするには不向きだった。
病院内には食堂もあったが、ハロルドは重傷だという設定だ。歩き回るわけにはいかず、ここに来てから一度も部屋から出ていないらしい。
ちなみに室内には入口以外の扉があり、そこは浴室なども完備されていた。
王家か、それに近い立場を持つ者しか使えない特別な病室だという。ハロルドは婚約を破棄されたので近しい立場ではなかったが、王太子権限で利用していた。
「君は食べなくていいのか?」
丸椅子に座り、彼の食事している姿を眺めていると、ハロルドが訊いてくる。
「家で食べてきたわ」
セレイアがハロルドと再会して丸二日が過ぎていた。
ハロルドと話し合い心を決めたセレイアは、再会した日に、エトムントに復縁することを伝えていた。
いずれ王家か、ランドール家から連絡がいくだろうが、その前に、復縁はセレイア自身の意志であると父に言っておいた方が良い。そう考えたセレイアは今朝、ファルマ家に顔を出した。
使用人たちはセレイアを歓迎してくれ、久しぶりに会う弟は、はしゃいでいた。
コルネリア王女の一方的な婚約破棄が、社交界では悪評として広まっているのか、義母はセレイアに対し、ばつが悪そうにしていた。
義母は噂話に乗せられやすく、セレイアに対し思い入れがないだけで、根っからの悪人というわけではない。父と再婚してからも、セレイアを可愛がりはしなかったが、いじめたりもしなかった。
義母なりに自身のセレイアへの態度に思うことがあったのだろう、帰り際、謝罪をされた。
セレイアは少し迷ったが、義母にハロルドと再婚約をすることを伝えた。
義母の口から社交界に広まる可能性もあったが、どちらにしろ早めに婚約する予定だった。
セレイア的にはディルクに許可をとって、ハロルドの怪我が完治し、落ち着いてからを希望していた。しかしエトムントから、王女が気まぐれを起こし、ハロルドとよりを戻そうとする可能性もなくはないので、急ぐように言われた。
セレイアと復縁したと王女が知ったら、嫉妬心が芽生え、ちょっかいをかけてこないか案じもするが、コルネリア王女は自身の希望でハロルドと婚約を破棄していた。大々的に婚約発表していたため、王都に住む者たちはその経緯を知っている。ただでさえ婚約破棄は外聞が悪いというのに、コルネリア王女の『尻拭い』をするようにした再婚約をまたもや解消させるなど……常識的にあり得ない。コルネリア王女がいくら我儘を通し、国王が我儘をきいてやろうとしても、以前とは違い、周囲の者達が許しはしない――とエトムントは言っていた。
セレイアの口から再婚約の話を聞いた義母は、王家もハロルドも勝手だ、と憤慨していた。
セレイア自身が望んだことなのだと言うと、渋々ながらも理解してくれた。
「クリスにあなたから貰った手紙を預けていたの。捨てなくて良かったわ」
弟には必ず受け取りに来るから、もうしばらく預かっていて欲しいとお願いしてきた。
「……そんなもの、大事に取っているのか」
「当たり前でしょう」
ハロルドはセレイアが送った手紙は捨ててしまったのだろうか。
訊ねようかと思うが、捨てた、と返されたら、少し悲しくなる気もしたので訊かないことにする。
ハロルドが食事を終えたので、食器を片付けようとしていると、ノック音がした。
ハロルドの病室の前には、王太子がいつも必ず、交代で騎士を立たせていた。護衛というよりは、ハロルドの怪我の秘密を守るためだろう。
セレイアは返事をしながら、ドアの方へ行く。
少しだけドアが開き、ハロルドの見舞いに若い騎士が来ている、と告げられる。
本来なら取り次ぎはしないのだが、『大事なものを預かっていて返したいので、それだけでも受け取って欲しい』と、言っているらしい。
「紛争地で怪我をされた際、一緒にいたイアンという名の騎士です。預かっても、よろしいですか?」
流石に危険物ではないと思うが、セレイアは念のため、ハロルドに確認をしに戻る。
「ハロルド。イアンっていう若い騎士の方が来られているみたいなんだけど」
「彼には世話になった……怪我は大したことはないと教えたいのだが……今はまだ無理だな」
軽はずみに教えてしまい、コルネリア王女の耳に入っては困る。いずれは知られてしまうにしても、まだ早い。
「なら私が会って、命には別状がないから、って説明してくるわ」
「彼も怪我をしていた……怪我の状態の確認と、感謝していることを伝えて欲しい」
セレイアは頷き、部屋を出た。
待っていたのは薄茶色のふわふわした髪をした、騎士にしては頼りなげな面立ちの若い騎士だった。
「えっと……あの」
「セレイア・ファルマと言います。ハロルドとは古い付き合いなので、怪我の世話をしています」
「……使用人の方ですか?」
「いえ……以前、婚約者だったので、それで」
嘘を吐くのもどうかと思い、正直に言う。
「え?ああ、そういえば!王女様と婚約する前に、婚約解消したって……」
イアンは言いかけて、セレイアの顔を凝視する。
「あ……似ているって…………そうか!良かった!王女様に婚約破棄されたってきいて、それってあんまりだって。酷過ぎるって思ってたんですけど……」
イアンはぶつぶつと独り言のように呟きながら、何度も頷く。そして――。
「ハロルド団長の大切な人って、あなたのことだったんですね!」
と朗らかに言った。
「……た、大切な人か、どうかはわからないけれど……。あなたも怪我をしたのでしょう?大丈夫なんですか?」
セレイアはあまりにキラキラした眼差しで言われて、何だか恥ずかしくなった。
話題を変えるように、彼の怪我の具合を訊ねる。
「怪我は血が出てたわりに浅かったんで。もうなんともないです」
「そう、良かった……ハロルド、あなたに感謝してるって、言っていました」
「とんでもない!オレのほうこそ!ハロルド団長がいなかったら、オレ、死んでいましたから。……団長の怪我は、どうなんでしょう?」
「多少時間はかかるかもしれませんが、命に別状はないし、大丈夫ですから……安心してください」
セレイアの言葉に、イアンは安堵したのか、長い息を吐いた。
「とりあえずは、ほっとしました……あ、それから、これ」
イアンは手にしていた紙袋を、セレイアに渡した。
「焼き菓子と、ハロルド団長から預かってたハンカチーフが入ってます」
「ハンカチーフ?」
「はい。魔よけの刺繍がしてあるそうです。大事にしているので、必ず返して欲しいと言われてたから。……傷の止血に貸してもらってたんです。ちょっと血がついて、洗っても取れなくて、申し訳ないんですけど」
「……魔よけ?」
「はい。蛇の刺繍の入った白いハンカチーフです」
昔の記憶がよみがえり、セレイアは頬を紅くさせた。
「よく、蛇だって……蛇だとわかりました?」
ハロルドの目がおかしかっただけで、見る人が見れば、蛇だったのかもしれない。
期待を込めイアンを見るが、彼は苦笑し首をふった。
「いえ、セレイアさんも見たことあるんですね。どこからどう見ても、うん……汚物ですよね!なのに、団長、とぐろを巻いている蛇以外の何ものでもないって。自信満々に言っていましたよ」
「……そう」
セレイアは短く相槌を打った。
イアンに礼を言って別れ、セレイアは部屋に戻る。
ハロルドはセレイアのいない間に、食器を重ね、テーブルのすみに置いていた。
食器はセレイアが食堂に返しに行く。けれど、その前に、先ほどの件を問い掛けねばならなかった。
「イアンはどうだった?」
「怪我は浅かったらしいわ。元気そうだった。焼き菓子もらったから後で食べましょう。……それより、ハンカチーフを返してもらったのだけど」
「ああ……彼の止血に使ったんだ。君からの贈り物だが……彼のために使った……すまない」
ハロルドは眉を寄せ、謝罪をする。
「謝らなくても、そんなことで怒ったりはしないわよ。もしかしたら捨てたのかなって思ってたから、今も大事にしてくれてて、嬉しいくらいなのに」
「君から貰ったものを俺は捨てたりはしない」
「ありがとう……ってそうじゃなくて」
セレイアはふわふわした暖かな気持ちになりかけていたのを、いったん止めた。
「とぐろを巻いている蛇以外の何ものでもない、って彼に言ったの?」
「……ああ」
「初めて見たとき、排泄物だって言ってたじゃない」
「……そうだが、君が蛇だというのだから、蛇なのだろう。今は、蛇だと認識している……なぜ、怒るんだ?」
「怒っていないわよ」
彼は悪くない。イアンも悪くはない。けれど数年ぶりに、自身の刺繍技術の酷さを思い知らされた気がして、少し落ち込む。
「刺繍の勉強をしようかしら」
「幼い頃から練習してきて身につかなかったのだろう。今更、やったところで無意味だと思うが……いや、君がしたいならすればよいと思う」
ぎろりと睨むと、ハロルドは視線を揺らし、口調を弱めた。
ハロルドの怪我は右頬の切り傷と、右腕の骨折だけだった。
しかし健康状態が酷かった。
紛争地で倒れたのも怪我が原因ではなく、健康状態のせいだ。
極度の栄養失調と不眠。
紛争地から戻ってきても、嘔吐が度々あり、不眠の症状は続いていた。そのため薬を投与されていたという。
ハロルドの健康状態を教えてもらったセレイアは、泊り込みで彼の看病をすることに決めた。
彼が眠るのを見届けたあと、セレイアはソファで睡眠をとっていた。
ソファはしっかりとしたつくりで、寝心地は思っていたより悪くない。
けれどハロルドはソファで眠るセレイアを案じていて、帰って眠るように、しつこく言ってきた。
帰らないなら、自分がソファを使うと、怪我人のくせにおかしなことを言い始めたので、『その寝台、二人くらいなら眠れそうよね』と返した。
するとハロルドはそれきり黙り、そのことについて何も言わなくなったのだが、寝泊りするようになって三日後。簡易の寝台が運ばれてきた。
王太子の計らいなのか、彼がセレイアがいないときに頼んだのかはわからない。
「ねえ……手伝ってあげましょうか?」
左手だけでは不自由だろう。浴室に向かおうとするハロルドにセレイアは声をかける。
「断る」
迷いのない、いつもとは違う強い口調で拒否された。
浴室から出てきたハロルドの濡れた包帯を巻きなおし、艶やかな長い黒髪を拭いてあげて、眠るまで手を繋いで、ときおり子守唄も口ずさんだ。
彼の看病をしながら、日々が過ぎていき――。
ハロルドの体調もよくなってきたので、セレイアはディルクに会いに行くことを決めた。




