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33初めての口づけ

「セレイア……すまない」

 突然、ハロルドが溜め息を吐き、謝罪してくる。

 なぜ、何を謝っているのかわからず、首を傾げると、ハロルドは言いづらそうに口を開いた。


「……麻痺が残るという話は嘘だ」

「……嘘?」

「顔の傷は少しは痕が残るだろう。腕も多少の影響はあるが……剣が前のように扱いづらくなるだけで、日常生活に困ることはない。足の話は、全くの嘘だ」

「……は?」

 セレイアは唖然とする。

「王女の方から婚約破棄してもらうため、後遺症の残る大怪我だと、そう嘘を吐いた。知っているのは、殿下とニコラスと父と兄だ。母は口が軽く、顔にすぐ出るから教えていない……病院にも口止めをしている……」

「麻痺が残るっていうのは、嘘なの?」

「そうだ」

「心配したのに!」

 セレイアは声を荒げた。

「すまない。悪かった……」

「…………もういいわ。謝らないで……ちゃんと、治るのね……なら、よかった」

 騙されていたことは腹立たしい。けれど、彼の怪我がそれほど酷くなかったことの方が重要だった。


「セレイア」

 セレイアの手を握っているハロルドの指に力が篭った。

 見下ろすと、澄んだ黒曜石の瞳がセレイアを映していた。


「俺は君を泣かせたり、怒らせたり、困らせてばかりいる……幸せにできないかもしれない。だが……それでもよいなら、傍にいて欲しい」

 セレイアは彼を見下ろし、泣きながら、笑った。

「別に幸せにしようとしてくれなくたっていいわ。傍にいてくれれば、勝手に幸せになるから」


 今までも充分、幸せだったのだ。

 怒ることは頻繁で、心配も時々はした。コルネリア王女の存在に、苦しくもなった。

 けれど、ハロルドと一緒にいる時、いつも感じていた暖かで優しい気持ちは、『幸せ』だからこそ生まれる感情だった。

 婚約を解消され、ハロルドを失ってから、セレイアはその感情がとても尊いものだったことに、ようやく気づいた。


「セレイア。どうか……俺と結婚して欲しい。君を愛している」

 ハロルドが真摯な眼差しで言った。


 セレイアは何も言わず、彼の左側に座った。そして、彼の腕に額を押し当てた。

「……セレイア?」

「……そういうこと、言ったら駄目よ……」

「そういうこと?」

「あい……とか……。恥ずかしいじゃない……」

 ハロルドは朴念仁で。乙女心などかけらも理解できない男だ。

 まさか『愛してる』など、そんな甘い告白をするなんて、想像もしていなかった。

 居た堪れないくらい、恥ずかしくなった。

「君も、好きだと、言ってくれただろう?」

「好き、と愛は……ちょっと重さと甘さが違うわ……どうしよう。恥ずかしくて、にやけてしまうわ」

「泣いているよりいい」

 ハロルドは握ったセレイアの手を持ち上げて、手の甲に唇を落とした。


「っ……だから、そういうの、やめてったら……恥ずかしいの」

 文句を言いながら顔を上げると、視線が合った。


 涙で顔はぐちゃぐちゃになっている。薄く化粧もしているし、酷い状態になっているに違いない。

 そんな顔を至近距離で見られたくないし、こんな顔の時に、とも思った。

 けれどハロルドも片頬には白い布が貼り付けてあって、近くで見ると目の下はくまがくっきり浮かんでいる。

 肌もかさついて荒れていて、顔色も悪かった。


(お互い様だわ……)

 そんなことを思いながら、ハロルドの顔が近づいてきたので、目を閉じた。

 かさついた唇が触れて――少しして、離れた。


「……初めてね、口づけするの……」

「ああ……初めてだ」

「……ほんとうに、初めて?」

 コルネリア王女とはしなかったのだろうか。

 婚約解消中なのだから責めるつもりはないけれど、何となく気になったのでセレイアは訊いた。

「君が初めてだ」

 不快そうにハロルドは言う。

 セレイアは私もよ、と言いかけて、ふと思い出す。

 よく考えたら口づけは初めてではなかった。

「……どうした?」

「なんでもないわ」

 セレイアは笑って誤魔化そうとしたのだが――。

「君は……初めてではないのか?」

 乙女心に鈍感なはずなのに、なぜかセレイアの態度で察したようだ。

 嘘を吐こうかと思うけれど、嘘を吐かなくてはならないほど、疚しくはなかった。

「ディルク様にされたけれど、挑発?事故のようなものよ。ちゅ、って。ほんの少し触れ合うだけだったし」

 ディルクがあの時なぜ口づけをしてきたのか。セレイアにはわからない。股間を蹴らせるためではないとは思うが……。

 けれど、何にせよ、あの口づけに、深い意味はない。

 ハロルドとの口づけのような、甘いときめきはなかった。

「……ちゅ」

 だというのに、ハロルドは目を見開き、顔を強張らせていた。初めての口づけでなかったことに、衝撃を受けているようだ。

「ちょっと、されただけ。それ以上のことは、もちろんしてはいないわ。だから気にしなくていいわ」

「……気にするなと言われても……気になるだろう」

 ハロルドは沈んだ声で言い、セレイアから逃げるように、寝台へ上がった。

 ふてくされた幼子のように、掛布を被ろうとするのをセレイアは止めた。

「たかが口づけよ。そんなに怒らないでよ」

「……怒ってはいない。……君が悪くないのもわかっている。しかし口づけは、たかが、ではない」

 どこか拗ねたような口調だった。


(……嫉妬かしら)

 気づいたら、セレイアと視線を合わすまいと顔を背けている態度も、愛おしく見える。


「これから、数え切れないくらいするのだから、別にいいじゃない」

「……っ……しかし、初めての口づけは、一度きりだろう」

 二十歳を超えているくせに。冷たく酷薄そうなところが魅力的だ、と令嬢達から騒がれていたりするのに。

 名のある騎士として、皆から一目置かれるような男なのに、まるで思春期の少年のようなことを言う。


「でも……最期の口づけは、あなたとよ」

 初めてはあげられなかった。

 だからというわけでもないけど――、最期にする口づけは、この可愛い男でなければ嫌だと思った。


 コルネリア王女の件は放置でいいけれど、ディルクにはきちんと自分の気持ちを伝え、婚約解消しようと決める。

 どちらにしろ、ハロルドのことがなくとも、セレイアは彼の趣味に付き合えなかったのだ。丁寧に、そのことも含め、謝罪をして、彼が趣味の合う結婚相手と出会えるよう、祈りたい。

 社交界では、よりを戻したセレイア達を面白おかしく噂して、批難する者もいるかもしれない。

 けれど周りがどう思おうと構わない。

 多少の困難があろうとも、セレイアはようやく掴んだ奇跡のような幸福を決して離したくはなかった。


「大好きよ、ハロルド。これからも、よろしくね……あ、愛してるわ」

 諦めなければならなかった想いを口にできるのは、幸せなことだ。


 ハロルドがはっとしたように、セレイアを見た。

「確かに……、恥ずかしくて、にやけてしまうな……」

 セレイアは身を乗り出すようにして、ハロルドに近づく。

 そして、彼の綻んだ唇に、自身の唇を重ねた。

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