32あなたが泣かしているの
「ハロルド」
エトムントの視線を追い、セレイアは涙がまだ溢れ続けている双眸をそちらに向けた。
カーテンを左手で掴み、男が立っていた。
紺色の長衣姿で、黒髪を右側で纏め紐で緩く結んでいた。
右頬には白い布が貼り付けてあり、右腕は包帯が巻かれていた。
見知った男だったけれど、セレイアの記憶の中にある彼よりも、痩せこけているし、青白い顔をしていた。
男は黒曜石の瞳にセレイアを映すなり、眉を寄せ、大きく体を傾けた。
セレイアは慌てて立ち上がり、彼の体を支える。
触れると一瞬、体が強張ったのが伝わってきた。
けれど立っているだけで辛いのだろう。ハロルドは掴んでいたカーテンを放し、左手をセレイアの背に回し、寄りかかってきた。
「……起きて……大丈夫、なの?」
「……君の声が聞こえたから……夢かと思ったが……」
「横になって……寝ていないと、駄目よ」
カーテンの向こう側に寝台があった。
セレイアは彼をそこへ座らせる。
もう、支える必要はなくなったのだから、離れてもよかった。けれど……離れたくない。
生きていることを。彼が自分の傍にいることを、確かめたかった。
セレイアは指先で黒髪に触れた。
俯いているので涙の粒がぽつ、ぽつ、と彼の肩に落ち、紺の布地に染みをつくる。
「外に出ている……二人で話し合うといい」
エトムントの声に、セレイアは顔をあげた。
「お待ち下さい。王女様の話がまだ……っ」
終わっていないと言い掛けると、セレイアの腕をハロルドが軽く掴んだ。
「頼むから、やめてくれ。王女の顔は見たくない。怪我が悪化する」
「でも」
「セレイア嬢。コルネリアには知らせていないが、この婚約破棄はもともとハロルドが望んだことなんだ。ようやく望みが叶ったというのに、コルネリアを連れてきて心変わりでもしたら、あまりにハロルドが哀れだ。しかし――」
エトムントは自嘲するように笑む。
「あなたの言う通りだ。ハロルドがこのような怪我を負ったのは、私を含めた王家のせいだ。ハロルドだけではない。多くの者の嘆きを、私は耳にしていたというのに……」
「殿下」
ハロルドの呼びかけに、エトムントは小さく頷いた。
エトムントはこの時、彼自身だけでなくロラント王国にとっても、重大な決断をしていたのだが――セレイアがそのことに気づくことはなかった。
「ハロルド、すまなかった。……セレイア嬢も。償いになるかはわからないが、あなたが心安らかに暮らせるよう、出来うる限り手伝いたいと思っている。……私はセレイア嬢の望みを優先するが、それでいいな?」
「構わない」
ハロルドの答えを聞くと、エトムントは部屋を出て行った。
二人きりになった部屋は静かで、セレイアのぐすぐすと鼻をすする音がやけに大きく響いていた。
「……君に、泣かれると困る」
しばらくして、ハロルドが呟くように言った。
「あなたが、心配をかけるからよ」
セレイアはハロルドの肩……自身の涙で染みになったところを指でなぞりながら、涙声で詰った。
「……そうだな。……セレイア、殿下が君に頼んでいたことは、忘れてくれ」
「頼んでいたこと?」
「ああ。俺とやり直すように言っていただろう?婚約をして、結婚できるようにすると……」
「……コルネリア様とやり直すの?」
「なぜ、そんな話になる。殿下も言っていたが、王女との婚約破棄は、俺の望みだ……ただ、だからといって、君とやり直せると、そんな都合のよい考えは抱いていない。……俺のことは心配するな。気にしなくていい」
どこか突き放すような物言いに、セレイアは苛立ち、ハロルドの肩をぎゅっと掴んだ。
「気にするなって……?心配するに決まってるじゃない!だって……あなたのことが好きなのにっ!こんなに、こんなに大好きなのに、気にするなって!無理に決まってるでしょ!」
一度はおさまりかけていた涙が、また溢れ始める。
「……っ、君は……俺とやり直したくないのだろう?」
「そんなこと言っていないわよ!みんな勝手よ!人のもの、勝手にとって、捨てて!私のものよ!私のものなんだから、大事にしてよ!」
蛇の置き物を勝手に処分したアンネとディルクの顔が浮かぶ。
セレイアが一番大切にしていたものを奪った挙句、簡単に捨て去ったコルネリアの顔が浮かんだ。その後、セレイアの一番大事なものを大切に扱わず傷をつけた――目の前の男に怒りがわいてくる。
「セレイア。頼むから、もう、泣くな」
ハロルドは焦ったように言い、セレイアの手を取って優しく握った。
「あなたが、泣かせているのよ!」
「そうだな……。セレイア、確認したいのだが……君は、ディルク・ヘルトル辺境伯のことが好きなのか?」
「は?あなたを好きだって、言ったでしょ!聞いてなかったの?」
「いや……聞いていたが……彼とはもういいのか?彼との結婚を望んではいないのか?」
「いいも悪いも……ディルク様との婚約は、押し付けられたものだったし。ディルク様は悪い方ではないけれど……友人のような関係よ。ディルク様も私のことをそういう……好きとかいう目では見ていないわ」
ディルクがセレイアに抱いているのは恋愛感情ではない。
彼の変態趣味を満たしてくれる――そういう期待的な想いだ。
「そうか……だが、俺は……顔に傷を負った。君はそれでも、いいのか?」
「もっと酷いの想像してたのよ。片方の頬だけじゃない」
布地の下がどうなっているかはわからないが、女避けになるほど酷い傷には思えなかった。
コルネリア王女は少しの傷さえ、許せなかったのだろうけれど。
「利き手の骨が折れている。後遺症が少しでも残れば、騎士に戻ることは出来ないだろう」
「騎士のままだったら、また紛争地へ行かされるのでしょう?よかったわ。引退ね」
もう傷ついた彼を見るのは嫌だった。
「生活に困るだろう」
セレイアは、さきほどのエトムントの言葉を思い出す。
「国のために働いて、そのせいで怪我をしたのよ?国から補償金や支援金が出るわ。それに私が心安らかに暮らせるよう手伝うって、さっき殿下も仰っていたのだし、きっと何とかしてくれる」
「……そうか」
「そうよ。もしお金に困ったとしても、私が働くわ」
「……君が?」
「ええ。一応貴族令嬢としての教養もあるし、侍女とかで雇ってもらえるわよ」
料理の腕には自信があったし、辺境領へ行ってから掃除が苦ではないことを知った。
「大丈夫よ、ハロルド。足だって、訓練をしっかりすれば、少しは歩けるようになるわ。私も手伝うから!」
麻痺が残ると聞かされ、弱気になり、将来を不安に思っているのだろう。
気分が沈み、食事すらも取れなくなっていて……だから痩せ細ってしまったのだろうか。
病は気から、ともいう。セレイアは声を弾ませ、ハロルドを元気づけた。




