21気をつけながら、思い出すのは
「あの、そろそろ離れに戻ってもいいでしょうか?」
離れから屋敷に移り、ひと月以上が経過していた。拗らせていた風邪もすっかり完治している。
相変わらず寝つきは悪いが、眠れないと医者に相談すると、薬を処方してくれた。依存性のない軽いもので、寝つくまでの時間は前とそう変わりはしなかったが、朝までぐっすり眠れるようになった。
「いや、もう少しここにいたまえ」
夕方。セレイアの部屋に訪れたディルクに体調が戻ったことを伝えた後、離れへ戻ることを提案したのだが、やんわりと却下された。
「ですが、もう元気になりましたし、離れに戻りたいです」
「こちらでの生活に不満があるなら改善するが」
「いえ、不満はありません」
ヘルトル家のメイドたちは、セレイアに好意的だった。
寝台の上でじっとしているのも退屈でしょうと、流行の恋愛小説を何冊も持ってきてくれ、おやつの時間です、と焼き菓子と紅茶を、運んでくれる。
シーツを替えてくれ、掃除もしてくれる。それどころか窓際には、切り花まで飾ってくれた。
まさに、至れり尽くせりで、不満など探しても見つからない。
けれど――そういう、不満のない環境だからこそ、窮屈で仕方がなかった。
「不満がないのであれば、ここにいればよい」
「ですが……」
「過去の私の発言を赦せないから、離れに帰ろうとしているのか?」
「いえ……そうではなくて」
離れに戻りたい理由を、うまくディルクに説明が出来ない。
セレイアが、どうやって彼を説得しようか考えていると、ディルクに手を取られた。
「セレイア。明日、私は休日でね。体調がよいのなら、領地の北にある湖に行ってみないか?この時期、とても美しいのだ。あなたをそこに案内したいと思っているのだが……どうだろう?」
「いえ……あの」
「私と過ごすのが嫌なのならば仕方がないが……」
「嫌というわけでは……」
「ならば私に付き合ってくれるね……友人として」
ディルクはそう言うと、碧玉の双眸でセレイアを見つめ、恭しい仕草で手の甲へと唇を落とした。
挨拶代わりに手の甲へ口づけされるのは、よくあることだ。
しかしやけに熱っぽく、何かを期待するかのように見つめてくるディルクに、セレイアは落ち着かなくなり、手を振り払いたくなる。
必死に我慢していると、あなたは本当に愛らしいな、の呟きとともに、手を離された。
「明日は朝から出掛けるのだ。早く寝たまえ」
ディルクは微笑みながら言い残し、部屋から出て行った。
「最近、距離感おかしくないです?ガツガツし過ぎですよね……」
ディルクが退出すると、部屋のすみで一部始終を見ていたアンネが呆れたように言った。
「心を入れ替えたのは評価しますけど、愛人とはまだ切れてないっぽいんですよね。二股ですよ。あのスケコマシ野郎」
「アンネってば……どこでそんな言葉を覚えてくるの?口が悪いわよ」
ゴミからスケコマシ野郎。
人間に進化したのは喜ばしいが、失礼な呼び名であることに変わりなかった。
「あの男、色気ぷんぷんさせてセレイア様に迫ってますけど、靡くならちゃんと、愛人とケジメをつけさせてからですよ」
「迫ってるって……違うわよ。そんなのじゃないわ」
「どう見ても、セレイア様のこと狙ってますって。スケコマシ野郎から謝罪をされたのでしょう?あれからです。あれからセレイア様を見る目が、獲物を狙うみたいにギラギラしてます」
熱弁をふるうアンネに、セレイアは心の中で溜め息を吐く。
彼女はディルクの態度を色恋に繋げているが、本当に違うのだ。
違う理由をアンネに説明したくなるけれど、ディルクの秘密の――本人が隠しているのかは知らないけれど――性癖を暴露してしまうことになる。
そもそもアンネが疑っていたのだから、話してもいいのかもしれない。しかしあの時した会話をあかすとなると、コルネリア王女のことにも触れるようになる。蟠りはあるけれど、自国の王女だ。変態だということは黙っていたほうがよいだろう。いずれ、彼女の夫になる彼のためにも。
それにディルクも、変態呼ばわりされるよりかは、スケコマシ野郎のほうがよいに違いない。
(さっきの、手の甲への口づけも、あれね……私を怒らせて、暴力をふるって欲しいのだわ)
ディルクはセレイアが乱暴なことが出来ない優しい人間だということを、心に刻み付けると言っていた。
けれど本人が意識していないところで、つい性癖が漏れ出すこともあるだろう。
セレイアを見ると、殴ってもらえるかもしれないと、つい期待してしまうのだ。期待されても困るのだけれど。
(ミアさんに相談してみようかしら)
彼女も変態仲間なのだろうか。
あの穏やかそうな人がディルクに鞭をふるっているなど、想像出来ない。
もしかすると金銭援助のため仕方なく付き合っていたのだが、変態行為に我慢できなくなり、セレイアに押し付けようとしていたのかもしれない。
「セレイア様?」
「え?ああ……そうね、気をつけるわ」
唇同士の口づけは許せないが、手の甲の口づけくらいは、我慢せねばならない。
ディルクに乱暴な真似をし、期待をさせてしまい、もっとしてくれ、と願われたら困る。
「本当、気をつけてくださいね」
「ええ」
どれだけ不快に感じても、穏やかに振り払おうと決め、セレイアは神妙な顔で頷いた。
◇
翌日。
セレイアは街より北。森の中にある湖へ行った。
ディルクと二人きりというわけではなく、セレイアはアンネを伴い、彼の方も騎士を三人連れていた。
テリーの姿はなかったが、以前街に降りた時、護衛をしてくれたもう一人の方。髭面の騎士が同行していた。
流石にディルクがいるので、アンネがセレイアの傍から離れることはなかったが、ちらちらと髭面の騎士に熱い視線を送っていた。
ディルクはことあるごとに、セレイアに手を差し出し、エスコートをした。
ひと月前の失礼な態度が嘘のように、セレイアに気を配り、話し掛けてくる。
そして挙動不審だったのは何だったのかと不思議に思うほど、ディルクの態度は淀みなかった。
女性の扱いに慣れているようだった。
――段差があったり、足元が悪い時、彼は手を差し出してくれただろうか。
セレイアから手を差し出したり、腕を掴んだりする方が多かった気がする。
――こんな風にじっと、見つめてくることはあっただろうか。
セレイアが見つめると、視線を逸らしてばかりだった気がする。
――流暢に話し掛け、ご機嫌を取ることなんてあっただろうか。
大抵セレイアが話してばかりだった。
よほど興味のない話題だったのか、セレイアのお喋りに、ああ、と相槌しか打たなくなって、怒ったこともあった。
ディルクが何かするたびに、なぜか――思い出すのは彼のことばかりだった。




